俺は自分が男だということに誇りを持っている。今まで自らの性に疑問を抱いたことはないし、当然女だったらよかったなどと感じたことはない。…いや、戸塚は天使だから性別はない。よって俺が女だったら、戸塚が女だったらなどという仮定は意味がない。
話を戻そう。
だからこそおれはこの予想だにしていなかった状況にフリーズする。
由比ヶ浜は俺と戸部をあわあわと見比べるのみだし、雪ノ下に至っては同じ空間にいることも我慢できないのか、教室の端で体を丸めている。…こんな雪ノ下が見れただけでもラッキーだと思っておくべきか。
当の戸部はというと。彼はバカではあるが決して空気が読めないわけではなく、奉仕部3人の反応を総合してある程度今の状況を理解したようだ。ちぎれんばかりの勢いで両腕を振る。
「ちょ、まって!いやそういうことじゃなくて、ヒキタニ君を呼び出したのはただちょびっと話がしたかっただけ的な感じっていうか…と、とにかく、全然そういうあれじゃないんで!」
的な感じとかあれとかなんなの?否定したいのか肯定したいのかわからねぇ…。
雪ノ下も同じように感じたのか、眉間にしわが寄る。ああ、いらついてらっしゃる。気持ちはわからんでもない。
釈然としないボッチ二人を差し置き、由比ヶ浜は得心が言ったように手をたたく。
「なるほどっ、つまりヒッキーを呼び出しはしたけど、本当にそれだけでヒッキーに特別な感情は全然なかった、そーゆーこと?戸部っち」
「そ、そう、そんな感じで間違いないっしょ!!」
…エアマスターの由比ヶ浜がいて助かったな、戸部と俺。俺と雪ノ下ではおそらく話は一歩たりとも前に進まなかったどころか、後退していたまである。
「ふう。それならいいのだけれど」
雪ノ下はようやくいつもの席に戻る。この人そういう世界にちょっと偏見持ちすぎじゃないですかね…いや別に俺も積極的にかかわりたいわけではないが。こいつは海老名さんとは仲良くできないだろう。
あらぬ誤解を受けた戸部はほっと一息つく。だがまだ本題は終わっていない。
「で、なんでヒッキーを呼び出したりしたの?」
肝心なところで空気を読めない由比ヶ浜が問いかける。今のは「戸部の誤解が解けた話」として終わらせてほしいところだった。
今更思い出したのか。戸部はまた俺に神妙な面持ちを向ける。あまりいい予感はしない。
なにかいってごまかそうか、そう思ったがすでに遅い。
戸部は重そうな口を開く。
「ヒキタニ君…海老名さんと付き合ってたりする?」
…何を言ってるんだこいつは。
もう一度戸部を見る。「ヒキタニ君、何まじになってんのー?冗談に決まってるっしょ!」そんな風に彼が笑うことを期待していたのかもしれない。
しかし、そこにあるのは血がにじむほど歯を食いしばる戸部の顔。
ふと無言の雪ノ下と由比ヶ浜を見る。すると彼女らは戸部ではなく、俺を見ていた。じっと、すがるように見つめていた。見返しても目をそらさない由比ヶ浜。時折視線を左右に逸らす雪ノ下。
「戸部」
彼の名前を呼ぶ。できるだけいつものトーンを出すように心がける。
「ヒ、ヒキタニ君、どうしたん?」
…あまり効果はなかったらしい。自分でも驚くほど出た声のトーンは低かった。
「その話、ここで話す必要はないな?」
「もともと体育館裏に呼び出したのは俺っしょ。だけど書いたこと思い出したら時間も名前も書くの忘れてて、今日は部活も休みだったから…」
彼の言葉を引き取る。
「ここに来た、と」
「そう…っしょ」
なるほど。ここに来た理由には納得がいった。やはりこいつはバカだが、基本的にいいやつなのだろう。
「じゃあ、まあ場所変えるか」
「ねえ、戸部っち」
沈黙していた由比ヶ浜が唐突に口を開く。彼女の目に、迷いはない。
「戸部、行くぞ」
彼女の目から逃げるため、俺は戸部をせかす。
戸部は状況が呑み込めないのか、泡を食うのみ。俺は強引に彼の左手をつかみ、廊下に引きずり出す。
「まって」
由比ヶ浜が俺の右手をつかむ。その手は冷え切って、先ほどまでの彼女を置き去りにしていた。
「私も、一緒に聞いていいかな?」
まっすぐに、由比ヶ浜結衣は問いかける。
…まったく、彼女らしい。いくつもの言葉も、一つの理由も使わない。彼女は理屈を必要としない。そんないつも通りの彼女に思わず笑みがこぼれそうになる。
でも俺は。
「それはお前の勝手な要望で、俺と戸部にそれを聞く理由は一つもない。過度な詮索は迷惑だ。…それともお前が同席する理由があるのか?」
俺はいつも通り理屈と拒絶で返す。俺には理屈が必要であり、それがなければまともに立つこともできない。
たいがい、変わらない。そう思い、ふと在りし日の教員の笑みを思い浮かべる。…そう、簡単には、変わらないものだ。
明確に拒絶しても、彼女は引かない。
「それでも!」
「由比ヶ浜さん」
声を荒げる由比ヶ浜に、雪ノ下はいたって穏やかに呼びかける。
「やはりあなたには理由が必要なのね」
「誰にだって、何にだって理由はいるだろ。理由がなければ人は動けないし、理屈がなければ物事は回らない。…そんなこと、お前もわかりきってるはずだ」
「いいえ」
迷いのない否定に、俺は言葉を失う。
「私はそうは思わない。理屈通りに物事は進まなければならないとするなら…この部屋は、あの日に終わっていたはず。そうでしょう?」
それを言われるとどうにも弱い。
俺の沈黙をどうとらえたのか、彼女は息を吐く。
「それに」
彼女はにやりと笑い、続ける。しかしそのらしくない笑みは、どこか自嘲を含んでいるように見えた。
「比企谷君の大好きな理屈なら、あるじゃない。由比ヶ浜さん」
「え?」
由比ヶ浜は目を丸くする。
「戸部君、悪いけどすこし外してもらえるかしら。時間はとらせないわ」
雪ノ下のこれ以上ない笑顔に、戸部は逆らえない。
「え、いや、別にいいけど…」
自らドアに手をかけ、しぶしぶと教室を出る。これだけ好き勝手言われ、振り回されて文句の一つも言わず、理由の一つも求めないとは。やはり、戸部はいいやつだ。バカだけど。
「さて、比企谷君」
雪ノ下がこちらを向く。
「あなたと戸部君と海老名さん。…修学旅行の依頼の件、覚えているかしら?」
忘れるわけがない。由比ヶ浜結衣の叫び、雪ノ下雪乃の諦めたような表情。そして…自らを嫌いといった海老名姫菜。
「ああ」
彼女は深呼吸を一つ。さっきまでとは違い、確固たる意志を持った目で俺を見つめる。
「あの修学旅行の時、あなたのとった行動は奉仕部として正しいものだったかしら」
「ゆきのん!」
由比ヶ浜が怒気のはらんだ目で、雪ノ下をねめつける。
「私は」
雪ノ下は顎を引き、俺を見つめる。
「私は、彼にきいているの」
由比ヶ浜は言葉に詰まる。
「でも、それは…」
「あの時奉仕部が受けた依頼は」
もう彼女に由比ヶ浜の声は届いていない。
「戸部君の告白をサポートすることだったはず。そしてそれが成功しなくてもいいと戸部君は言っていた。それで間違いないわね?」
俺はうなずく。戸部は俺の再三の脅しにビビりながらも、失敗しようとも「告白を手伝ってほしい」という依頼をした。
「私たちが受けた依頼は、戸部君が振られることを防ぐことではなかったはずよ。それも間違いないわね?」
またも雪ノ下は俺に問う。当たり前のことをそれでも問う。
「そうだ」
「でもゆきのん!ヒッキーは私たちのグループのために、必死に悩んで…」
「そんなこと!」
雪ノ下の声が響く。
「そんなこと、わかってるわ。私たちが海老名さん、葉山君、そしてあなたたちのグループの問題に気づきもしない時に、比企谷君は一人で行動して、解決策を探していた。そして、私たちはそれにも気づかず…彼に、押し付けた」
自嘲気味に雪ノ下は笑う。由比ヶ浜の顔も下を向く。
それは違う。
俺は否定の言葉を口にしようとする。
「…それでも、それは道理には合わない」
雪ノ下は俺を見た。そこまで悲痛そうな彼女を、俺は見たことがなかった。
「由比ヶ浜さん、私は最初にあなたに会って、依頼を受けたときにあなたにこの部活についての忠告をしなかったかしら」
由比ヶ浜はうつむきつつも答える。
「…魚を捕ってあげるんじゃなくて、捕り方を教える」
「そう、ね」
彼女は目を伏せる。自らの理念に対して、いつもまっすぐな彼女が。
「そう、それが奉仕部の活動理念だったはずよ。加えて、私たちが受けていた依頼は戸部君の依頼告白のサポートの一件のみ」
「…ゆきのんは、いまさらそんなこと言ってどうしたいの?」
由比ヶ浜の声色が低くなる。
雪ノ下は由比ヶ浜の反応は予想していたのか、視線は俺に向けたまま答える。
「理屈の話をしたいのよ。どうやら彼はそういう話をしたいらしいから。
…さて、今言ったようにあなたのあの時の行動は奉仕部の部員としては適切じゃなかった。理屈から言えば、ね。そしてその道理に背いた行動を起こした結果、あの時の当時者である海老名さん、戸部君、そしてあなたの間にこうして何かしらのことが起きた」
彼女は言葉を切る。
「奉仕部として、その不祥事には責任を負う必要がある」
思わず目を背ける。
理屈か。まったく、肝心な時に役に立たない。俺にとっても、彼女にとっても。
去年の冬の部室を思い出し、俺は思う。本物を欲したあの日、それは理屈では届かない場所にあった。その時俺は、理屈をなげうってでもそれがほしかった。
そして今。俺は理屈抜きに、それとは違う観点から彼女の申し出を断りたいと思ってしまっている。…こう思った時点で彼女の思うつぼだろう。
彼女は俺に詰問する最中、何度も自嘲気味な笑みをこぼした。彼女も彼女自身が語った理屈が、実際には力を持たないことを知っていたのだ。
彼女は俺が海老名さんと葉山に、意味ありげな発言をされていることに、あの時気付きすらしなかった。そしてあの解消法は俺が勝手にやったものとなった。責任は奉仕部ではなく、俺1人のものになったはずだ。その彼女が今更、奉仕部で責任をとると発言する資格はない。
それでも彼女は理屈を振りかざした。力のない理屈を。
未だに理屈に寄りかかる俺に、彼女は理屈以外の答えを求めている。
正しくない理屈を掲げる彼女に、正しい理屈で返すのは簡単だ。しかし俺はそうしたくなかった。彼女はそれが間違っていると自分でわかっていても、由比ヶ浜に睨まれても、それでもやめなかった。その雪ノ下雪乃の気持ちを、願いを、俺は無視できなかった。
「来てほしくは、ない」
「…なぜかしら」
彼女は涙目で、笑う。それでも、俺は言わなくてはならない。
これは理屈ではない。
「…高校生の痴話げんかに首を突っ込むなんて、無粋だと思わないか?」
俺の前の席の男子は、戸部だった。
俺は彼の気持ちを知っていた。修学旅行の時には、それでありながら彼の告白を阻止した。だからこそ海老名さんと親しげに話すことに引け目を感じ、彼の椅子を海老名さんが独占していることを申し訳なく思った。
海老名さんはその席の主が誰かということに気づいていたと思う。彼女は鈍感ではない。おそらく、気づいていてあえてそうしていたのだ。それが彼女なりの、自らを嫌いと蔑む海老名姫菜なりの、戸部に向けた答えだったのかもしれない。
なぜ今更そんな形で彼に応える気になったのか、俺にはわからない。だが彼女は時折申し訳ない視線を戸部に送りながらも、そうした。
そして、戸部もだからこそ軽い気持ちで自分の席に、海老名さんの座る自分の席に戻ることができなかった。彼が席に戻ってくるのは、いつもチャイムが鳴り、海老名さんが自分の席に戻った後だった。そこにあるのは思慮深いはずの少女の、らしくもない図々しい姿。戸部はそこから何かを感じざるを得なかったのだ。自分の気持ちに気づいているのに、自分の席で後ろの男子と親しげに話しているのは、いったいどういう意味を持つだろう。軽い気持ちでその彼女に話しかけてかえってくるのは。拒絶か、それとも無視か。
そして戸部は、今日俺のもとへ来た。
雪ノ下と由比ヶ浜を見据える。きちんと言葉にできた自信はない。筋道立っているかもわからない。論理だって成立していないだろうし、支離滅裂だろう。
だから、俺は言わなければならなかった。
「そう。…行きなさい」
雪ノ下はそう小さくつぶやく。
初めてみたときと同じように腰掛ける少女は、とても儚く見えた。
由比ヶ浜は席を立ったままうつむき、その表情は茶髪に隠れて推しはかれない。
「悪い」
ドアをふさぐ由比ヶ浜に声をかける。顔をあげ、彼女はこちらを向く。その顔は。
笑っていた。