その人のことを知っている、と人は無意識のうちに思ってしまう。
自らの見聞きした情報で、感じた印象で、人のことを定義づける。その人は自分の知るものだけで構成されているわけがないのに、それを認めるのは怖いから。誰しも目に見えないものをそう簡単に信じられないから、自分で枠組みにはめ、「らしさ」を押し付けようとする。
それだけに一度その人とはかけ離れた印象を受けると、その記憶は強く残る。
「おーい、ヒキタニくーん、きいてるー?」
目の前に座る海老名さんによって意識は戻される。しまった。
「…おお、聞いてる聞いてる。戸塚ってかわいいよな」
「だよねだよね!でも戸塚君がかわいいだけじゃダメで、ヒキタニ君が受けることによってそこに一つの芸術が…って、ちがう!」
見事なノリツッコミ。ノリというか完全にガチだったから、雑にふったことを軽く後悔してしまった。
「ねえ、絶対話聞いてなかったよね、君」
笑顔が怖い。
「いや、そんなことはないぞ。ただ…」
「ただ?」
しまった。海老名さんの笑顔が怖くて、つい口走ってしまった。
海老名さんは無言の笑顔で先を続けるよう促す。事ここに至っては真実を言った方がよいだろう。下手にごまかしてもどうせばれて余計面倒になるだけだ。
「いや、いまだに裸眼の海老名さんを見慣れなくてな」
突然の来訪から5日。あの日の翌週から、海老名さんは眼鏡をかけなくなった。去年は三浦のグループに属していただけに、そこそこ名の知れていた海老名さんが突然眼鏡をかけてこなくなったということは、新クラスでは話題になった。どう話題になったかというと…まあ有り体に行ってしまえば、男子の注目を集めるように、だ。元々整った顔をしているが、腐女子趣味と眼鏡でそこまで大っぴらにモテる風ではなかった。しかし、三浦と由比ヶ浜の不在によって前者が、その、まあ俺によって後者が抜け落ちたことによってそうなったわけだ。正直、今もほかの男子の目線がうっとうしいことこの上ない。
はっとした様子の海老名さんは、髪の毛をいじりながらそっぽを向く。
「へ、変かなっ?」
「いや、別にそういうことではないが…」
「じゃ、じゃあ似合ってる!?」
「裸眼が似合うって何なんだよ…」
「う…」
自分が的外れなことを言っていると気づいたのか、ばつが悪そうに伏目がちになる。
「はぁ。…もしおかしかったら、こんなに男子から恨みがましく見られることもなくてよかったんだけどな」
海老名さんはあたりを見渡す。そして苦笑を浮かべ、申し訳なさそうに続ける。
「あちゃー…ごめんね。こうなるから嫌だったんだよね」
「ならまた眼鏡かければいいんじゃないか?」
少し間がある。俺はいま何か、間違ったことを言っただろうか。
深呼吸を一つ。
「…その要因になった張本人が、そういうことを普通言うかな?」
…そう、彼女は少し変わった。眼鏡のことだけではない。あの日から、教室では彼女は俺の近くにいることが多くなった。本人は「新しいクラスで知り合いあまり居なくてねー」と笑っていったが、おそらくそんなことはないだろう。女子と談笑しているところもよくみかけるし、男子はさっきの様子だ。だからこそ海老名さんは彼らを敬遠しているのかもしれないが。
今の発言にしても少し違和感を覚える。彼女はそこまではっきりとものをいうタイプではなかったはずだ。いつも自らの作ったキャラをかぶり、少なくともクラスで見ている分には彼女からは「腐女子の海老名姫菜」という上辺しか見えてこなかった。
さて彼女が変わったのか、それとも俺が見えていなかったのか。
考え込むうちに、始業のチャイムが鳴る。
「おっと、じゃ、ヒキタニくんまたね」
そう言い残し、いそいそと自分の席に戻る。さあ、次の授業は何だったか。
前の席の主の男子が俺に怪訝な視線を送ってくるのにも、いい加減慣れた。
四限の現国がおわり、昼休みになる。と同時に俺は席を立つ。いざ、ベストプレイスへ。
が、
「ああ、比企谷。少し話があるから、来てくれるか?」
平塚先生から呼び出しをくらった。
また俺は何かやらかしただろうか?今日の現国の授業を振り返るが、どうも思い当たらない。
そして先日の進路調査票に思い当たる。まじめに書きすぎて先生も心配してしまったのか?やはりあの伝言はフリだったのか。まあ俺はそういうノリがこの世で一番嫌いなので、問題はない。
廊下にいる平塚先生のもとへ昼飯をもって向かう。
「はい、なんでしょうか。とりあえずすいませんでした」
「何を言ってるんだ君は…別に叱りたいわけではない。ただ、な」
ちらりと教室を見る。
「すこし、驚いた」
「はい?」
平塚先生はその先を続けるか少し迷ったのか、ため息をつき手はポケットのたばこに伸びる。が、ここは廊下だ。無意識の行動だったのか、ばつが悪そうに手を引っ込める。
「…海老名のことだ。先週は自発的に君の家にプリントを届けにいき、翌週からは眼鏡をはずし、最近は何やら親しげに君と話している」
さすがによく見ている。
「はい、それが何か?」
平塚先生は目を見開いてこちらを見る。まるでこの世のものではないものを見るように。
「否定しないのか」
「散々俺は拒絶したつもりなんですがね…どうも調子が出なくて。はぐらかされたと思ったら、真をつかれる、というか」
平塚先生は今度はさも愉快そうに笑う。
「ふ、はっはっはっ!いや、変わったのは海老名だけではないようだな」
「俺が変わるなんてありえないですよ。人間そう簡単に変わるものじゃない。調子が出ない時は誰にだってあるでしょう?」
柄にもなくムキになってしまい、そう吐き捨てる。
「そうかな?」
しかし、即座の否定に二の句を継げない。
「人間、きっかけなんてどこにあるかわからないものだ。君も海老名も、確かにかたくなではある。だが、君はこの言い方は嫌うかもしれないが、君たちはまだ高校生だ。今からこれから数十年の生き方が決まっているとしたら、あまりに虚しいと思わないか?」
詭弁だ。そう思う。俺たちだったらわかりやすいものとして受験。高校時代にあるこの選択は人生の少なくはない部分を決定してしまう。そして彼ら教師も、受験を大切なものとして俺たちに語る。
そんなことを言おうとしたが、どうもうまく言葉にできない。
俺から何も返事がないことで、平塚先生は一層上機嫌になる。まったく、この人も性格がよくない。
「沈黙は肯定ととられるぞ。だれでも、自分の都合の良いように解釈したいものだからな」
ニッと笑う。その笑みは格好のよい教師のものではなかった。
その笑みで、一言返す余裕が生まれた。
「沈黙は金、ですよ」
つくづく、俺らしくない。
三年生になってもベストプレイスにはずいぶんとお世話になっている。そしてこの聖域はいまだに侵されず、俺だけのものである。
はず、だったのだが。
「あ、せんぱーい。今日もこんなところにいるんですかぁ?」
甘ったるい声が聞こえる。無視する。
「ひどーい、なんで無視するんですか?こんなにかわいい後輩がはなしかけてあげてるのにぃ」
「…先輩は俺以外にもいるし、俺じゃなかったら返事した時にいたたまれねえだろ。大体、俺の聖域をこんなところ呼ばわりする後輩を、俺はもった覚えがない。なんならこれまでの人生で後輩なんていなかったまである」
相変わらずあざとい一色に、俺はしっしっと手を振る。大体こいつはなんで俺のこと名前で呼ばないの?名前知らないの?
一色いろはは頬を膨らませる。
「なんですかその態度は。いいんですか?私が来なくなったらせんぱい一人ですよ?」
「あほ、俺は一人がデフォルトだよ。むしろお前が来ることの方が不自然だろうが。なに、教室に居場所がないの?」
「…せんぱいにだけは言われたくないんですけど」
そう、この一色いろは。去年の三月あたりに偶然昼休みここで会ってから、昼休みはたまに顔を出すようになったのだ。ジャグラー張りに男を手玉に取る代償に、女友達は少ないのだろう。かわいそうに。
そんな一色に少なからず同情している俺は追い返す気にもならず、まくし立てる一色を放っておいて黙って飯を食っている。ああ、友達がいないって哀しいね。…やめよう、そろそろダメージの蓄積が…。
「ま、まあいいです。おなかもすきましたし、お弁当にしましょう」
俺の横に腰掛け、膝に弁当を広げる。俺は毎日買ってきたパンだからいいが、ここで弁当を食べるのは厳しくないか?
「いただきます」
合掌をして弁当を食べ始める。俺よりよっぽど行儀がいい。
今日の一色の弁当は小さなハンバーグとエビフライを主菜に、副菜にブロッコリー、トマト、コーンなどを添えて主食はピラフのような混ぜご飯、といったオーソドックスなものだ。に、しても。
「いつも思うが、よくそれで足りるな。お母さんにもうちょい量増やしてもらうように言ったほうがいいんじゃないか?」
「なんですか、失礼な!わ、私そんな食べるイメージありますか?」
「いや、だってお前奉仕部で由比ヶ浜と一緒にいっつもバクバクお菓子食ってるじゃねえか…」
なぜか一色は顔を赤くする。
大体なんでこいつ気づけば奉仕部に入り浸ってるの?生徒会にも居場所がないの?…おれも百合百合してる二人相手に、奉仕部で居場所など皆無なわけだが。
「お、お菓子は別腹なんです!大体これ自分で作ってますから。この量で充分なんですー」
ほう。
「意外だな」
「なんですか、私が料理するのはそんなにせんぱいの中で不自然なことですかー?」
「いや、普通に親が作る弁当と遜色ないレベルだから、おまえお菓子作りだけじゃなくて料理もそこそこできるんだな、と」
彼女はハンバーグを箸で持ち上げたままフリーズした。
数秒たってはっと声をだし、思い出したように手をぶんぶんとふる。
「な、なんですか口説いてるんですかもう彼氏面して『俺にもおいしい弁当作ってくれ』とかほんと厚かましいにもほどがあるので、できればもう少しここで一緒にお弁当を食べて私のお弁当のレパートリーを見てからリクエストしてください。ごめんなさい」
「べつにんなこと頼んでねえよ…」
「な!?じゃあせんぱいは私のお弁当は食べたくないっていうんですか?」
「だからそんな話してn…」
俺の声は突然の闖入者によって遮られる。
「あっれれー、ヒキタニクーン?おっかしいなー?」
コナン君!?思わず振り返る。そこには
「はろはろー。こんなところで、なにしてるのかな?」
能面のような海老名姫菜がいた。
「せんぱーい、この人誰ですか?」
「ヒキタニ君、この子、なんでこんなところにいるの?」
俺の後輩と同級生が修羅場過ぎる件について。
ごめんなさい、一度言ってみたかっただけです。…ほんと、そんないいものじゃないし、修羅場云々ではなく、単純に犬猿の仲なのだろう。
ファーストインプレッションから最悪のこの二人。考えてみればこの二人が仲良くしているところは、上手く想像できない。なぜだろうか。
たぶん。俺は考察する。この二人は正反対なうえ、どこか似ている。徹底的に異性を遠ざける海老名姫菜。片や徹底的に異性を手玉に取る一色いろは。しかしどちらも発言、行動ともに仮面をかぶっていることに変わりはない。つまり、異なるものを受け入れられない気持ちと、同族嫌悪が入り混じっているのだ。あれ、これ詰んでないか?
険悪な雰囲気はそのまま、海老名さんは続ける。
「私はあなたのこと知ってるけどねー、生徒会長の一色いろはさん?」
「えー、私全然この人のこと知らないですー、せんぱい」
話しかける海老名さんを軽く無視し、俺のほうを見る一色。だから、この子はなんでナチュラルに同性を敵に回しちゃうの。
「これでわかるかな?」
普段の笑みを張り付けた海老名さんが、眼鏡をかける。一色はあっ、と声を出す。
「あっ、三浦先輩のお友達の…えーっと、何さんでしたっけ?」
…海老名さん、ここはこらえてくれ。
「…海老名姫菜です。よろしくね、一色いろはさん」
そこはさすがというべきか。笑顔には一ミリのブレもない。ふー、と一息漏らし、眼鏡をはずして俺の横に腰掛ける。
一色はそんな海老名さんに怪訝な視線を送る。あまりに自然に座ったから、俺も逆に驚いたが。
「…で、海老名先輩は何してるんですか?お弁当も持ってないみたいですけど」
「いやー、お弁当食べ終わってちょっと食後の散歩がてらぶらぶらしてたら、珍しいもの見ちゃったからね。つい足を止めちゃったんだよ」
「へー。あーでも、それならもう満足しましたよね?ただ一緒にお弁当食べてるだけなんで、わかったら教室に戻ったらどうですかー?」
「ううん、生徒会長の二年生とひねくれぼっちのヒキタニくんがどんな会話するかも気になるし、もう少し同席させてもらってもいいかな?」
「…っていうかー、さっきからヒキタニ君ヒキタニ君って、いったい誰の話してるんですかー?」
一色の声がなぜか低くなる。いや、君も俺の名前知らないんじゃなかったの?
一色の変化から何かを察したのか、一瞬表情に陰りが出るがすぐに元の笑顔に戻り、当然のように言う。
「え、八幡君のことだけど」
なん、だと…。
当の一色は信じられないものを見たような顔で海老名さんを見つめる。海老名さんは素知らぬ顔。
ちょっとまて。
「海老名さん」
二人の間を遮る。
「俺の名前、なんだっけ?」
「え、八幡でしょ?二人の時はいっつも八幡だよねー?」
ねー、有無を言わせない笑顔で俺に微笑みかける海老名さん。声を出せない俺を差し置き、一色は肩を震わせる。
「へ、へー、ずいぶんせんぱいと仲がいいんですね」
「別にそんなことはないと思うけど。っていうかさ」
海老名さんは言葉を切り、
「一色さんこそさっきからせんぱいせんぱいって、どこの先輩の話をしてるの?」
挑発的に笑う。ぐっ、と一色の言葉が詰まる。
「ひ、」
「ひ?」
またもや海老名さんは挑発的な笑みを浮かべる。
こんな好戦的な海老名さんは見たことがない。…水と油とはこの二人のことか。
うぅ、と涙目になる一色は、堰を切ったように叫ぶ。
「わ、私にとってせんぱいはせんぱいなんです!せんぱい一人なんです!!お、おかしいですか?」
一色はない胸を張って、鼻を鳴らす。いや、涙目で余裕のふりをされても…。それに何言ってるかわかんねえぞ。
だが、海老名さんはその言葉で何かを感じ取れたのか、納得したようにうなずく。
「うんうん、そうだねそうだね。…これはあれだね」
俺を横目で見る。な、なにか。
「ぜんぶ、ヒキタニ君が悪いね」
「そ、そうですよ!ぜんぶせんぱいがいけないんです!!」
目をごしごしとこすって、一色が同調する。
はぁ。ため息が出る。いわれのない濡れ衣も、場を収めるためには必要だろう。戦争には、戦犯が必要なのだ。
「ごめんなさい」
俺は深く頭を下げた。
地面には一匹のアリが大きな獲物をせっせと運んでいる。そのアリを見つめ、思う。
…人間も、大変だぞ。