私は、いつかのように奉仕部の扉を開けた。
そこにはまた、いつかも見たように二人の女の子が座っていた。…いや、訂正。なんかちょっと二人の視線が痛い。雪ノ下さんの普段から冷たいその視線は絶対零度くらいにまでその温度を下げているし、結衣の困ったような優しい笑いは常より随分と固い。
「…で、海老名姫菜さん」
「ひゃ、ひゃいっ!」
思いっきり噛んだ。今度は二人の冷たい視線が残念なものを見るようなものに変わる。うぅ…。
思わず用意してあった言葉も飛び軽く放心してしまう私に、雪ノ下さんはため息交じりに続きを促し、結衣は今度こそいつものような苦笑いを浮かべる。
「…奉仕部に何か御用かしら。あいにく三年生になってからは受験もあって活動を控えているから、あまり表立ったお手伝いはできないと思うけれど」
「あ、あははー。姫菜が来るなんて久しぶりだね。…ヒッキーに用なら今日はいないよ?」
…間違えた。普段からは考えられないほど、結衣は攻撃的だった。先制パンチを打とうとしていた出鼻を見事にくじかれてしまう。つい逃げ出したくなるが、今日の私はいつものように、適当なことを言ってお茶を濁しに来たわけではない。
「違うよ。比企谷君じゃなくて、今日はあなたたち二人に話があってきたの」
話すことは、なんとなく決まっている。いくら考えても纏まりなんかしないことは分かっていた。だから、考えを伝えたいわけじゃない。なんとなくでも、話さなければいけない。
この気持ちを。
「…なにかしら」
「なに、姫菜」
大きく息を吸い、そして吐く。座る二人を見ると、二人の瞳は揺れていた。…違う。二人じゃない。揺れてるのは、震えてるのは私の方だ。
かまわず、もう一歩前に出た。
「まずは、ごめんなさい」
私は、二人に向かって深く、深く頭を下げる。
「な、何してるの姫菜!」
「それは何に対しての謝罪かしら」
慌てふためく結衣とは反対に、雪ノ下さんから冷たい言葉が降ってくる。頭をあげるべきか、少し迷った。やはり二人を見るのは怖い。でも、見なければならない。見なければ来た意味がない。少しの間逡巡する私を二人は何も言わずに待った。
どのくらい時間が経っただろうか。刻む秒針の音が痛いほどに教室に響くようになると、自然と覚悟は決まった。
「あの修学旅行のこと。私のせいで、あなたたちのこの部活を傷つけたのは事実だから。ごめんなさい。それと…」
「ふざけないで」
続く言葉は、雪ノ下さんに阻まれる。その声は常からは考えられないほどに感情が透けている。激情、とでも言った方が良いのかもしれない。蒼い炎のように、冷たげで熱い。
「そんなこと今更あなたに謝ってもらうようなことじゃないし、謝ってもらういわれもない。あれはあの男が勝手にやったことで…そして、なにより私たちの問題よ。私たちの問題は、私たちだけが話すべきで、考えること。部外者にとやかく言われる問題じゃない」
話過ぎた。早口に言い切った彼女はそんなような渋面を少し作り、落ち着けるように自らの肩を抱き、息を吐く。
そして、重々しくつぶやく。
「…あまり、思いあがらないでもらえるかしら」
正しい。そんなことは分かっている。彼女は、彼女たちは正しくて、私は一ミリだって正しくない。
だから私は、今日だけはその間違いを貫かなければならない。
黙って雪ノ下さんの言葉を聞く私に、今度は結衣の声が飛ぶ。
「ごめん、姫菜。私もそう思ってるよ。あの後…あの修学旅行の後、確かに私たち微妙だった。でもその後私たちにあったこと、姫菜は知らないよね。いろいろあった。本当に、いろいろ、あった。わかったり、わかんなかったり、わかるような気になったり…たぶん姫菜が考えてないようなこと、いろいろあったの。私たちは」
ああ、今日で終わるかもしれない。そう直感してしまう。それほどまでに、私はそんな由比ヶ浜結衣のかおをみたことがなかった。
「いなかった人に勝手に謝られたくない。私は」
部外者。いなかった人。当然だ。謝る権利すらないのは分かっていたことだ。謝れるのは、その問題に向き合った人間のみ。私は向き合うどころか、その問題から目をそむけた。ないものとした。すべて他人に押し付け、その上ダメだったら、壊れてしまうなら仕方ないとすら思っていた。
それでも、私は謝らなければならない。
「でも、ごめんなさい。赦してもらう以前の話なのは分かってる。でも、謝らないと私が前に進めない。…ずっとあなたたちに後ろめたい思いをしなくちゃいけない」
二人の目を見る。どちらも瞠目し、若干の呆れが見て取れる。それでいい。愚かなのも知っている。
「だから、勝手に謝る。ごめんなさい。私の問題を押し付けてごめんなさい。遠回しに気づかせようとしてごめんなさい。部活だからって依頼にもならない依頼を押し付けてごめんなさい。友達なのに相談しなくてごめんなさい。それなのにあなたたちの関係を壊しかけてごめんなさい。
それで、それで」
怖い。率直に私はそう感じていた。だから自然と早口になった。海老名姫菜の人生で、そんなことを思うことは今までなかった。私はそう感じる前に逃げてきたから。いや、逃げすらしなかった。私はあらゆる問題を見ないようにして、それですべてが壊れてもどうでもいいとすら思っていた。
だが私は今、二人の前に立つのを怖いと感じている。…ようやくわかった。怖いのは責められることじゃない。罵られることでもない。
ただ、私は。
「比企谷君をあなたたちから奪ってしまって、ごめんなさい」
見ない振りをしていたこの気持ちを、さらけ出すのが怖かった。
しかしもう言葉に出してしまった。一度出してしまった言葉を引っ込めることはできない。震える脚が、荒くなる呼吸が、瞳からこぼれてしまうものが煩わしくてたまらなかった。そんなものでこの気持ちを、この二人に対して誤魔化したくはなかった。
言葉とも言えない気持ちは、勝手にあふれてきた。
「私は比企谷君のことが好き。何をしたって私は比企谷君のそばにいたい。私は比企谷君のことなんてまだ全然知らない…二人に比べたら、全然知らない。それでもこの気持ちは負けてないと思う。
私は、比企谷君の隣で歩いていきたい」
あふれた気持ちは、自然と強い言葉となって紡がれた。それは自信のなさの表れなのかもしれない。彼女たち三人の間に割り込めるのか。割り込んでいいのか。
でも、言葉にした気持ちに偽りはない。
「そう」
「そっか」
二人は一つうなずき、何も言わない。何も言わない二人に、私も何も言うことができない。
なぜこの二人は何も言わないのだろう。私にはその理由がわかる気がした。傍から見ても奉仕部の三人が特別で、強く、固く、そして危うい関係であることはなんとなく感じ取れていた。部外者で、何も知らない私ですらそう感じた。
多分、怖いのだ。彼女たちは。今の関係が壊れるのが、隣にいる女の子を裏切るのが。…大切な彼を戸惑わせるのが。だから一歩も進めないし、戻ることもできない。彼女たちが選べる選択肢は停滞しかない。
その気持ちを、私は痛いほど理解できる気がした。私の場合はもっと打算的で、表面的だったかもしれない。しかし私は、確かに二年生の時のグループの関係を楽しいと、好ましいと思っていた。だからこそ壊れることを恐れた。停滞を彼らに、自分に強いた。
そして、だからこそ私にはわかる。
「…きつくないかな、そういうの」
言わずにはいられないのだ。その歪さを、指摘せずにはいられない。
「進むのが怖い。諦めるのが怖い。裏切るのが怖い。傷つけるのが怖い。失望されるのが怖い。だから、止まるしかない。
でも、止まってるのがほんとは一番きつい」
三人しかいない部室に静寂が降りる。
的外れなことは言っていないと思う。止まっていることは辛い。進むより、戻るより、そこにとどまって、その関係を壊さぬよう、荒立てぬよう、気を遣いながら日々を過ごす。きつくないわけがない。
「…あなたに、なにが――」「――そんなこと」
雪ノ下さんがなにか言いかける。しかしその言葉は、横でうつむく彼女に遮られた。
「そんなこと、姫菜に、言われたくない」
去年、私たちの「グループ」にも、奉仕部にもいた由比ヶ浜結衣は、静かに私を睨めつける。
「友達のあたしにも自分のこと何にも言ってくれなくて、いつも勝手に決めて、勝手に判断して勝手に諦めて…修学旅行の時だって」
彼女は少しためらうが、それでも続きを言う。
「…勝手に、全部壊して」
そう言われると実際弱い。少しひるみかけるが、何とか口を開き、ついでに口の端を持ち上げる。
「だから、結衣は止まっててもいいんだ。この部室で。…雪ノ下さんと二人で」
「…三人だけど」
ヒッキーと。そう小さく聞こえた気がした。
「ううん、二人だよ。さっき言ったじゃん」
そんな目で睨まれたことがなかった。そんなかおを、知る術もなかった。
一年以上の付き合いで、初めて、彼女と話をしている気がする。
「比企谷君をとっちゃってごめんねって」
ぶちん。確かにその音は聞こえた。
何かが、切れた。
「ヒッキー、どこ」
「いないよ。比企谷君には帰ってもらったから。…それに、怖くてなにも伝えられない結衣が彼に話すことなんて、なにもないんじゃないかな」
今度こそ、私はここに来た意味を、ここであるべき私の態度を思い出す。…今更格好がつくかな。少し不安になるが、私は精一杯の笑みを浮かべた。
「…姫菜、私が何言っても怒らないと思ってる?」
『そんなこと言う時点で本気で怒る気、ないよね』
ついそんな言葉が出てきそうになる。でも、それは普段の海老名姫菜だ。正しく、第三者であろうとして、どこまでも汚いだけの私だ。私は正論で自らを守りたいわけではない。知ったかぶって傷つくことから遠ざかりたいわけじゃない。
「違うよ。結衣は怒らないんじゃない。…怒れないんだよ。比企谷君と雪ノ下さんだけじゃない。結衣は、こんな碌でもない私ですら裏切れないの。知ってるよ、私は」
曲がりなりにも、一年間近くで彼女を見ていたからわかる。彼女は、由比ヶ浜結衣は。
この言葉で自らを定義されることを嫌うのだ。
「『優しい子』だもんね、結衣は」
その瞬間、彼女の手は無言でふり上げられていた。
思わず目を瞑る。
しかしその手は、雪ノ下さんによって止められる。その瞳は気丈に結衣を見つめながらも、不安げに揺れていた。
結衣も、自分がそんなことをするとは思っていなかったのだろう。誰よりも驚いたように、飛び上がるようにして私に向けた拳を引っ込める。しかしその口からは謝罪の言葉も誤魔化しの笑いも出てこない。
ただ、短く、しかし強く彼女は言葉を紡ぐ。
「姫菜なんかより」
その言葉は正しい。私は直感していた。
「姫菜なんかより、私の方がずっと先にヒッキーに逢ってた。私の方がずっと近くで見てきた。私の方が全然長く側にいた。姫菜なんかより、姫菜なんかより…」
ああ。また新しい彼女のかおを、私は見た。私が知らない、優美子が知らない、雪ノ下さんだって、比企谷君だって、多分知らない。知りようがない。
「私の方が、ずっと…」
そこには、確かに剥き身の、「女の子」の由比ヶ浜結衣がいるだけだった。
「ずっと…私の方が、ずっと、ずっと」
強く、確かに、彼女は言い切った。
「ヒッキーのこと、好きだったんだから――」「――邪魔するぞー」
ようやく、その言葉を聞けた。そう思った瞬間、
その来訪者は突然現れ、時間が停止した。
「あ…」
そこには見慣れた、元担任の教師がいた。「やっちまった…」そんな表情を滲ませ、誰かの手を引いていた。そしてその先に居たのは。
「…うす」
苦虫をかみつぶしたような、比企谷君だった。