海老名さん√がまちがっているわけがない。   作:あおだるま

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 お久しぶりです。最後の更新から一つどころか何なら二つ歳を取りそうです。あおだるまと申します。

 この作品を一年ぶりに読んでくださる方に注意点をいくつか。この文を書いているのは、私であって私ではありません。二年前、実家で暇を持て余し、初めて文章を書いたのがこの海老名さん√でした。しかし今では当時のように、毎日更新するような情熱はとてもありません。

 そのため、過去の私とは違う文章になっていると思います。それでもこの物語は今の私の手で終わらせたいと思い、このたび筆をとりました。残り二話、長くて三話と言ったところでしょうか。どうか、お付き合いいただければと思います。

 あ、あと流石に覚えている人はいないと思うので、前話以前から読み直していただけると幸いです(笑)


家庭訪問(後編)

 

 俺は他人の家にあがるのは経験がないから苦手だ、と言った。確かにそうだ。俺には親が在宅中の同級生の家にあがるという経験がほとんどない。経験がないことは無駄に疲れるし、気を遣う。その通りである。

 

 では、それが異性の部屋となるとどうだろう。雪ノ下の部屋には何度か邪魔したことはあるが、それも常に由比ヶ浜、雪ノ下姉と言った俺以外の存在があった。しかし、今は。

 

「お、邪魔します」

 

「は、はいはいどうぞどうぞ。散らかってますがごゆっくり」

 

 なぜか俺は今、同級生の女の子の部屋で二人きりになっていた。

 

まあ事の発端は言わずもがな、あの海老名さんを数段黒く…ごほん、大人っぽくした海老名さん母であった。時は海老名母との会話が終わったところまで戻る。

 

 海老名さん母といささかスリリングな会話をし、一息ついた。窓の外を見るとすでに陽は沈みかけており、近所の子供たちが笑いながら帰っていく様子も聞き取れる。あまり遅くまで他人の家に邪魔するのも悪い。適当に別れの挨拶をしようと腰を浮かすと、海老名さん母に制された。

 

「あらあら比企谷君、せっかく来てくれたのに彼女の部屋にもよらずに帰っちゃうの?」

 

「「…は?」」

 

 俺と海老名さんの口から擬音が重なる。触れてほしくないところに平気で触れるところは海老名さんにそっくりである。

横目で海老名さんの様子をうかがうと、顔が見る見るうちに赤くなり、手をぶんぶんと振っていた。今日は普段よりも随分と余裕のない海老名さんを見ている気がする。やはり身内がいる状態というのはやりづらいのだろう。俺も小町の前で他人に引かれないようにふるまうことは不可能な自信がある。そう、小町への愛ゆえにね!…うん、これは小町にも引かれるのは確定的に明らかですね。はい。

 

「だ、だから!比企谷君と私はまだそんなんじゃなくて!」

 

「へ~、『まだ』そんなんじゃないんだ~」

 

「うっ…ふう、お母さん、そういうのを揚げ足取りっていうの。わかるかな?」

 

「えー、わかんないわかんないー。お母さんにはなんで二人が付き合ってないのかわかんない―」

 

「ぐ…」

 

 深呼吸とともに、少し落ち着きを取り戻した海老名さんをつまらなそうに眺め、なぜか海老名さん母の視線がこちらに向く。彼女には俺たちが付き合っていない理由を先ほど長々と話したはずだ。二度手間は基本的に取りたくない。なぜなら無駄だから。恥ずかしいわけでは、断じてない。

 

「…はぁ、海老名さん」

 

「「なに?」」

 

 仕方なく口を開く俺に、二人が同時に返答する。…まって、いや確かにそうなるかもしれないが…流れでわかるだろ、普通。海老名さん母がまたニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。

 

「えー、比企谷君、『海老名さん』はこの部屋に二人いるんだけどー?」

 

 海老名さん母がそこ意地の悪い笑みを浮かべる横で、海老名さんがどこかくるくると髪の毛をいじり、ぼそぼそとつぶやく。

 

「そ、そうだよ比企谷君。いちいち名字で呼んでたら混乱しちゃうし、その…普段から名前で呼んだ方が効率的だよ、絶対」

 

 それに。海老名さんは顔を下に向けたまま小さくつぶやく。

 

「これからずっと、ずっと、ずっと、うちに来るんだし…八幡は」

 

 俺と海老名さん母の間に静寂が降りる。

 

「…比企谷君」

 

「…はい」

 

 何を妄想しているのか、一人明後日の方向を見続ける海老名さんを尻目に、海老名さん母が俺に笑いかけてくる。曇りひとつない満面の笑みに、逆に俺の顔はひきつる。

 

「こんなかわいい姫菜を…娘を、私は知らないわ。だから」

 

 海老名さん母は今度は真顔で俺を見る。

 

「泣かしたら、殺す」

 

「肝に銘じておきます」

 

 誓います。誓いますから、今にもかみついてきそうなその目はやめていただけるとありがたい。

 

 

 

 

 

 その後、俺と海老名さんは逃げるようにリビングを後にし、海老名さんの部屋で少しの時間を過ごした。と言っても何をするわけでもなく、最近の学校の話をしたり、ところどころ隠しきれていない海老名さんの趣味関連の話、特に俺と被る趣味の話をしただけだった。…いや、まあ、陽が落ちかけた夕刻。そういう雰囲気にならなかったわけではないが、考えても見てほしい。二人で黙り込むと決まって一階から海老名さん母の声が飛んでくるのだ。おちおちそんな雰囲気になるわけにもいかない。特に、先ほどのあの言葉。…下手を打てば本当に殺されかねない。底知れなさはやはり海老名さん以上である。

 

 そんな時間もあっという間に過ぎ、陽も完全に落ちたところで、お暇することにした。流石に夕食時まで他人の家に居座っているわけにもいかない。それに万が一にでも海老名さん父が帰ってきたときの身の振り方が俺にはまったくわからなかった。もし帰ってきたら小町がほかの男を家に連れ込んでいたら、即その男を亡き者にする自信がある。いやまじで。

 

 そして再三「夕食も食べていけ」と繰り返す海老名さん母を何とか振り切り、帰路に付いた。…あの笑顔、絶対もう少しで海老名さん父とドキドキの鉢合わせになるところだったことは容易に想像できた。…本当に油断も隙もない。

 

 そして現在。俺の家まで送ると譲らなかった海老名さんとともに、彼女の提案で最寄りのコンビニに寄っている。そういわれると思いのほか自分が空腹なことに気が付いた。そういえば今日は緊張して昼ごはんものどを通らなかったことを思い出す。

 

 思い出した瞬間にぐう、と鳴る腹をおさえ、コンビニで目当てのものを買い、海老名さんに手渡す。

 

「海老名さんは肉まん…でよかったよな」

 

「うん、ありがとう比企谷君。はい、これお金」

 

「いや、いい。…その、なんだ。池袋でも秋葉でもいいが、今度どっか行った時になんかおごってくれ」

 

 財布を出す海老名さんを片手で制すると、海老名さんは目を丸くして軽く笑う。…らしくないことを言っている自覚は確かにあるし、池袋なぞにいこうものなら彼女の暴走は火を見るより明らかだ。

 

 しかし、それでも。どこにでも行きたい。俺はそう思ってしまう。

 

 彼女と二人であれば。

 

「ふっふっふっ、じゃあヘタレ受けの比企谷君にふさわしい逸品を探しとくから、楽しみにしててね」

 

 …俺の純情を返せ。ひたすらぐ腐腐と笑う彼女に思わずため息が出る。

 

「やっぱり池袋じゃなくて秋葉で頼む」

 

「ひ、ひどい!ただの食わず嫌いだと思うんだけどなぁ。比企谷君なら絶対気に入ると思うよ」

 

「気に入ってたまるか…ま、今度な」

 

「うん、今度、ね」

 

 今度。普通であれば来るはずのない「今度」を、これ以上なく心待ちにしてしまう。そしてそんな自分に少し気恥ずかしくなり、とっさに口を開く。

 

「いや、でもあれだな。…正直、海老名さんがこういうもん食うイメージがなかった」

 

 思わず口を開いてから俺は思い直す。海老名さんが、と言うより、女子高生がこういうものを口にするとは思ってなかったというのが正解だろうか。はむはむと肉まんをかじりながら、海老名さんも困ったように眉尻を下げる。

 

「それは女の子に幻想を抱き過ぎじゃないかな?なんなら私一人でラーメン屋はいることもあるし…あ、そうだ。秋葉行くなら今度比企谷君おすすめのラーメン屋でも行こうよ」

 

「秋葉ならいくらでもあるし俺はいいが…」

 

「やった!じゃあ楽しみにしとくね。…ちょっと足を伸ばして池袋も」

 

「ちょっとって距離じゃないし、それは勘弁願いたい」

 

 またしてもぐ腐腐と笑う彼女に苦笑いで返し、俺は思う。海老名さんに女子らしからぬ所が多々あるのは普段の言動からも承知していたが、まさかラーメンを一人で食べるとは思いもよらなかった。

 

 俺の多少の戸惑いに気づいたのか、海老名さんは上目づかいで尋ねる。

 

「意外だったかな?私がそういうことするの」

 

「…まあ、正直にいえば。というか、女子とラーメン屋を結び付けてさえいなかったおれの問題かもしれん。さっき海老名さんも言ったが、まだ俺も女子に多少の幻想を…」

 

「比企谷君はさ」

 

 なぜか少し焦ってしまい早口になる俺を、彼女は下を向いて制する。

 

「…比企谷君はまだ私のこと、そんなに知らないよね」

 

 思わず言葉に詰まった。彼女と同じクラスになり、会話をして数カ月。まさか彼女を知っている、と言えるほど長い時間を過ごしたつもりはない。

それでも、俺と彼女はこの短い時間で薄くはない時間を共にしてきたと思う。必要以上に他者との関りを避けていた俺が、これほど感情を動かされることも奉仕部以外ではなかった気がする。

 

 そんな俺の思考を知ってか知らずか、海老名さんは今度は乾いた笑みを浮かべる。

 

「でも、あの二人のことは…奉仕部の二人のことは、知ってるんだ、比企谷君は」

 

 夕暮れも終わり、俺たち以外誰もいない駐車場。彼女の言葉はいく当てもなく虚空をさまよい、二人の間に沈黙が落ちる。

 

 それは時間の問題であり、気持ちや意志ではどうしようもないものだ。時間。それは残酷なまでに正確に刻まれていき、人はしばしばそれを基準に人間関係や「絆」と言ったものを語る。時間という基準がなまじ客観的であるが故、それは質が悪い。

 

 相対性理論。今日ほどそれを世に広めた彼の氏を疎んじた日もないかもしれない。

 

 また何も言えない俺に、海老名さんは少し慌てて付け足す。

 

「勘違いしてほしくないんだけど、別にだから私たちがどうだってわけじゃないんだ。比企谷君はあの二人と私の知らない時間を過ごしたのかもしれないけど、でも…私もそれは同じだから。私と比企谷君も、あの二人が知らない時間を過ごしてきたと思う」

 

「…そうだな」

 

 それも、紛れもない事実だ。軽い肯定しか俺は彼女に返すことができない。それも純然たる事実で、客観的な時間と、少しの主観的な感情に基づくもの。

 

 しかし、それを俺は積極的に肯定できないでいる。

 

「だから、私はね、比企谷君」

 

 彼女はうつむけていた視線を俺に向け、眼鏡を通さないそのまっすぐな瞳を俺に向ける。思えば彼女のこんな瞳も、少し前の俺では想像もつかなかったことだろう。彼女は俺が思っているよりもはるかに歪んでいて、ずるく、卑怯で、そして自分の気持ちに正直であった。

 

「比企谷君をもっと知る前に…比企谷君が、もっと私を知る前に。あの二人と、話さなきゃダメなんだと思う」

 

 そのまっすぐに俺を見る瞳から目をそらすことはできなかった。それは、俺の問題でもあった。俺も、話すことがあったはずだ。海老名さんにも、そして彼女たちにも。無意識下で俺はそれを先延ばしにしていた。

 

「ごめん、いきなりこんなこと言われても困るよね…実は私、比企谷君とお母さんが話してるの、ちょっと聞いちゃったんだ」

 

「…盗み聞きは趣味が悪い」

 

「だ、だから謝ってるんだよ!…私だって聞くつもりなんかなかったし、優美子から電話がかかってきたのだって本当だよ?でも電話が終わった後でもお母さんと比企谷君は話してて…あんなこと言われちゃったら、嫌でも耳に入っちゃうよ」

 

 消え入りそうな声でそうつぶやき、海老名さんの顔は耳まで赤くなる。この様子だと俺が海老名さん母に言ったことは、あらかた聞かれたのかもしれない。確かにどうも戻ってきてからの彼女は余裕がなさすぎるとは思ったが…。

 

 自分の頬も急速に熱くなるのを感じる。海老名さんはそんな俺の様子を横目で伺い、逆に余裕を取り戻したのか開き直ったのか、コンビニの明かりに照らされるままに頬を染め、続ける。

 

「私が聞いたのはちょっとだけど…比企谷君は向き合ってくれたんだ。私とだけじゃなくて、私の周りの人とも。…ううん、比企谷君は、好きって言ってくれた。お母さんの前でも、私のことを好きだって言ってくれた。

だから、私も向き合わないといけないんだよ」

 

「…小町だったら海老名さんのことも大歓迎だと思うぞ」

 

「あはは…比企谷君のおうちにもいつかはお邪魔しないといけないとは思うけど、その前に、だよ。比企谷君。

比企谷君は、その…うん、戸部君とも向き合ってくれた。お母さんとも向き合ってくれた。私の関わる人皆に向き合ってくれた。…だから、今度は私の番だよ」

 

「…そうか」

 

 それ以外に、彼女にかける言葉は見つからなかった。ディスティニーランドで彼女が吐いた弱音。彼女は「自信がない」と言った。彼女はあの修学旅行から見当違いの罪悪感を俺に対して…俺や、奉仕部の二人や、戸部に感じている。俺は彼女のその罪悪感に対して待つと言った。それは海老名姫菜にしかどうしようもないもので、どんな罪やビハインドも肩代わりできたとしても、罪悪感だけは彼女だけのものでしかない。だから俺は待つとしか言えなかった。

 

 そして今、彼女はそれと向き合おうとしている。

 

 そんな彼女にかけられる言葉を、俺は持ち合わせていなかった。

 

 だから、俺は。

 

「海老名さん」

 

「なに、かな」

 

 その瞳は危うげに揺らいでいた。瞳いっぱいにあふれ出したそれをためてなお、彼女は俺を見つめていた。

 

 彼女にかけられる言葉を、俺は持ち合わせてはいない。言葉は、所詮言葉でしかない。言えばわかるというわけではない。言わなくてもわかるというのは幻想。俺はあの日、そう確信したはずだった。

 

 しかし、今、俺は。

 

「…だから、なにかな、ひきがや、く、ん…ッッッ!?!?!?」

 

 言葉以外の回答を持ち合わせている気がした。

 

 海老名さんの肩に手を置く。さっきまでは分からなかったが、その小さな肩は小刻みに震えていた。その手を取る。その小さな手は寒いわけでもないのに、凍り付いてしまうのではないかと思うほど冷たい。

 

 そして、その唇は。

 

「ん…んっ…ちゅ…ちょ、ちょっと…」

 

 海老名さんは小さく身じろぎをするが、振り払うことはない。それからどのくらい時間が経っただろうか。いつの間にか俺の腕は彼女の背中に回されていた。その手を彼女の肩に置く。離れる瞬間、唇同士が名残惜しそうに吸い付き、その音に今更ながら顏が熱くなる。

 

「…その、なんだ。海老名さんのお母さんとの話を聞かれたなら、言葉はもういいと思ってな。それに、ほら、海老名さんも前にしてくれたから」

 

 迷う俺に、彼女は待つと言った。初めて人と唇が触れたあの瞬間。俺は一生忘れないだろう。

 

「俺から言えることは、何もない。その罪悪感も、劣等感も、他の何らかの気持ちも…海老名姫菜だけのものだ。共有はできない。できるようならそれは本物じゃないと俺は思う。

だから、その、なんだ…これが俺にできる精一杯の応援ってことで…だめか?」

 

 いまだに彼女の肩は震え、ますますその視線は地面に落ちる。…あの、ここで「いきなりキスするとかマジでキモイ」とか言われようものなら、八幡のHPはもうゼロを天元突破して地の底まで堕ちること請け合いだしなんなら闇落ちする可能性まであるため勘弁していただきたいのですが。

 

 無言でうつむく彼女にダラダラと嫌な汗が流れる。海老名さんは顔をあげるなりそんな俺をクスリと笑い、ゆっくりと、しかし確かにつぶやいた。

 

「ダメ、なわけないよ…八幡!」

 

 今度は彼女は腕を広げ、体ごとこちらに預ける。…やれやれ、これなら少なくとも嫌がられているということはなさそうだ。

 

 安堵する振りをしながら、俺はひたすらに腕の中の彼女の頭を撫でた。

 

 それ以外、俺にできることはなかった。

 


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