俺は家が好きだ。
それは相対的なものではなく、絶対的なもの。つまり、外が嫌いだから家が好きなわけではなく、単純に家が好きなのだ。
しかしこと他人の家となると、はた困る。なぜか。それも単純な理由だ。経験がないからである。俺には親がいる同級生の家に邪魔する、という経験が全くない。だから同級生の親とどういった距離感で接すればいいのかわからないし、他人の家でどういった振る舞いをすればいいのかもわからない。
テレビを見ながら世間話をして、彼女のアルバムなどを引っ張り出し、2時間ほどが経過した。ソファに座っていた俺たちは、お母さんが促したことによって現在、俺と海老名さんが隣、その向かいに海老名さんの母親、という風に座っている。…すでにあり得ないほど疲れているんだが、大丈夫だろうか。
俺はニコニコと値踏みするような視線を送る海老名さんの母親に、どこか落ち着かない気持ちになる。まるで海老名さんに、いや、ややこしいな。まるで、その、姫菜に見られているときのようだ。…名前呼びは心の中でもきつい。海老名さんと、海老名さん母と呼ぶことにしよう。
横目でチラリと海老名さんを見る。俺の横に座る彼女はいつもの底知れなさがナリを潜め、視線は泳ぎ、手はせわしなく髪を触ったり爪をいじったりと、どこか頼りない。
「比企谷君」
海老名さん母は笑顔を絶やさず、俺の名前を呼ぶ。
「はい」
「姫菜と同じクラスなんだよね?」
「はい」
「去年も同じクラスだった」
「はい」
「おうちはここからかなり近いんだって?」
「はい」
「妹さんも一人いらっしゃるとか」
「はい」
海老名さんから事前知識を得ていたのだろう。イエスとしか答えられない質問を重ね、固くなっている俺の口を軽くするのが狙いか。常套手段だ。
やはり。俺は思う。海老名さんの母親だけあって、油断できない。
「じゃあ姫菜と同じ自転車通学だ」
「はい」
「ふーん。今の時期は通学しやすそうだけど、冬だとずいぶん寒いよね?学校までそこそこ距離もあるし」
「はい、そうですね」
「で、毎朝姫菜と一緒に仲良く登校してるんだ」
「は…」
言いかけて口をつぐむ。顏が熱くなる。やはりそういう質問が来るか。警戒していたにもかかわらず、まったく変わらない様子の彼女につい反応してしまった。
横を見ると海老名さんも恥ずかし気にうつむいている。
「は、はい」
俺は何とか答える。
「ふーん」
ニヤニヤと彼女は俺を見て、続ける。
「でも去年の授業参観で見たときは、悪いけど比企谷君のことはあんまり記憶にないんだよね。金髪のイケメンくんと、茶髪でカチューシャの元気な子がいるなぁ、とは思ったけど」
「お、お母さん!」
海老名さんが慌てた様子で遮る。しかし俺は机の下で小さく彼女を制する。
そこを隠すことも、ごまかすことも今までの俺はしてこなかった。そしてそれを否定してしまったら、今までの俺すべてを否定することになる。
俺はいつものように口の端だけ持ち上げ、笑う。
「まあ、でしょうね。姫菜さんとは去年は特に親しくもありませんでしたし、俺はクラスに友人が一人しかいませんでしたから。今お母さんが言った、彼女が親しくしていた男子は、どうも俺とは相いれないようなタイプでしたしね。正直、今日ここにこうしてきたことに一番驚いてるのは、ほかでもない俺なんですよ」
事実をそのまま伝える。
「比、比企谷くん!」
海老名さんは今度はオロオロと俺を見る。だが、ここは引けない。ここをごまかすことは俺にはできない。たとえ海老名さんにふさわしくないと判断されようと、リア充のふりなど、到底無理である。
海老名さん母は俺をまっすぐに見る。そこに先ほどまでのニヤけ顔はない。ひたすら彼女は俺の瞳だけを見ていた。…さあ、どう来る。
殺伐とした空気が流れ、俺と海老名さん母はにらみ合う。海老名さんだけが間を取り持とうとしていたように思うが、その声は俺まで届かない。
どれくらいそうしていただろうか。腕の下に冷たい汗を感じ始め、その時。
海老名さん母は、盛大に破顔した。
「ぷ、あっはっは!姫菜、あんたほんと面倒な男の子を好きになったもんね!」
何やら彼女にとって俺の発言は相当おかしかったらしい。机をバンバンとたたき、目じりからは涙を浮かべる。…そんなにおかしいこと言いましたかね、俺。どこかこの展開には既視感を覚える。
「お、お母さん!何言ってるの!!」
海老名さんのセリフが、名前を呼ぶだけから一言増えた。彼女は顔を真っ赤にし、母に詰め寄る。
しかし、電話の鳴る音が彼女を止める。
鳴っているのは海老名さんの携帯電話だ。着信には「優美子」とある。海老名さんは俺と海老名さん母を不安げに見るが、止まない着信に諦めたのか、ため息をつく。
「…ちょっと外すね。待ってて。お母さん、余計なこと言わないでね」
そう言い残し、ドアの向こうへ姿を消す。
それと同時に海老名さん母はこちらに体を向ける。
「で、比企谷君」
「はい」
そこにあったのは先ほどまでの真剣な表情でも、ニヤけ顔でもなく、優しい微笑みだった。
「君は姫菜のことが好きなのかな?」
「はい」
俺は迷わずに答える。
いろんなことをさんざん考え、回り道をして踏み外しそうになっても、結局この気持ちは、この答えは揺るがなかった。
彼女は俺の即答に瞠目するが、すぐに微笑みを取り戻す。
「それで君は姫菜と付き合っているの?」
今度は少し言葉に詰まる。それでも、俺は答える。この人には、海老名さんを育てた人には、できる限り嘘をつきたくない。今日はそう思ってここに来た。
「…わかりません」
「それは、どうして?」
海老名さん母は俺に問う。
「先ほども少し話しましたが、俺は対人関係に自信がありません。加えて自意識過剰です。だから周りの人間からの好意を素直に受け取れません。悪意ばかりを感じ取ってしまいます。
そしてそんな俺の学校での評判は、あまりよくありません。俺と一緒にいたら彼女は、姫菜さんは傷ついてしまうのではないか。…俺はそれが怖い。だから、彼女と俺が付き合ってる、と俺は胸を張って言えない」
彼女の目を見て、何とか答える。
「じゃあ、君はなんで今日、ここに来たの?」
次こそ、俺はこの先を言うべきかどうか迷う。これを言ってしまった時、俺と彼女は一緒にいることができるだろうか。一緒にいることを、許されるだろうか。
視線が自然と下がる。自らの手を見る。いつからか海老名さんとつながっていることが普通になった。温かみを感じた。それが常温となった手を見る。
その手を固く握って、俺は前を向いた。
「彼女は、俺と一緒に傷ついてもいいと、傷つきたいといってくれました。そして俺が俺と彼女を信じられるまで、待つとも言いました。
でもそれは彼女の気持ちです。お母さんは、当然彼女に傷ついてほしくないと願っていると思います。でも俺は「彼女を傷つけない」なんてことは、到底言えません。さっき言った通り、俺はこんな人間ですから。 それでも俺は。一緒に傷つきたいと、待つといってくれた彼女を、俺に踏み込んでくれた彼女を好きになりました。傷つけるかもしれない。失望させるかもしれない。それでも一緒に居たいと、そう思いました。
だから今日、ここに来ました」
俺は心の中で自嘲する。まったく理屈なんて通っちゃいない。こんなものは説得材料としては0点もいいところだ。そこに論があるとすれば純度100%の感情論でしかない。彼女が俺と一緒にいることはデメリットしかないと、客観的に見ても思う。
それでも。俺は彼女を見る。理屈がなくても、デメリットしかなくても、拒絶されようと。俺は海老名さん母を見た。彼女に嘘はつきたくなかった。
「ふう」
彼女は小さく息を吐き、下を向く。その表情はどのようなものだろうか。俺にはわからない。
下を向いた彼女は、その頭をそのまま机まで下げる。手を両ひざに置く。
「姫菜のことを、よろしくお願いします」
彼女は座ったまま、そうお辞儀をした。
なぜか、目じりが熱くなった。
少し呆然とし、まだ頭を下げている海老名さん母に気づく。
「い、いえ、こちらこそよろしくお願いします」
俺はようやくそう口にし、頭を下げる。
しばらくの間頭を下げ合い、俺はちらりと海老名さん母を見る。
すると彼女は、先ほどの微笑みを俺に向けていた。
「でも、いいんですか?」
頭をあげ、俺はつい口にする。
「ん?なにが?」
そう聞き返す彼女は、先ほどまで俺たちをからかっていた彼女にはとても見えない。
「だって、俺と彼女が一緒にいて、冷静に考えれば彼女にはデメリットしかないです。もっと条件がいい奴はほかにいくらでもいるでしょう。彼女はモテるようですし」
彼女は今度こそ、声を出して笑った。その顔は元の笑いを取り戻していた。
「君、よくひねくれてるとか、面倒臭いとか、屁理屈言うなとか言われない?」
彼女は口に手を当て、そう尋ねる。ぐ…。大体それぞれ一日一回は言われる。
「あのね、比企谷君」
彼女は俺に呼びかける。
「一つだけ、覚えておきなさい。人を好きになるってね、そういうことじゃない。理屈とかメリットデメリットとか、君の好きそうなものと対極にあるの。君が姫菜と一緒にいる理由みたいにね」
彼女はそう言い切る。
…勝てねえな、これは。
それに、と彼女は続ける。
「姫菜、三年生になってから変わったわ。よく笑うようになったし、本当に楽しそうに学校に行くようになった。それは君と一緒にいるようになってからだと思う。安心しなさい、姫菜を生まれてからずっと見てきた私が言ってるんだから。
確かに君は格好良くない。格好つけようとしてない。たぶん君は意図して今日、そうしたんだと思う。自分に都合のいいことを一つだって言わなかった。だから、私には君がとても姫菜を大事にしていて、一緒に居たいんだってわかったわ。
だから…本当に、よろしくね」
「い、いえ、こちらこそ」
くそ、結局全部見透かされてるではないか。
やはりこの母、油断ならない。
「まあファミレスでこんなことしちゃうのはどうかと思うけどねー」
彼女は懐からスマホを取り出し、写真を開く。そこには、…その、俺と海老名さんがキスしている写真があった。
顏が熱い。な、なぜそれを。
「お母さん!」
ドアがバン、と開くと同時に、彼女のスマホは懐に戻る。目にもとまらぬ早業だった。
「…余計なこと、言ってないよね?」
「ええ、比企谷君と楽しくおしゃべりできたわ。ねえ、比企谷君」
彼女はニッコリと俺に微笑む。くそ、どの口が…
海老名さん母の笑顔は揺るがない。
「…はい」
俺は海老名家の笑顔に逆らえないらしい。
前途の多難を感じ、俺は聞こえないようにため息をついた。