20××年4月某日。午前8時半、千葉駅にて。俺、比企谷八幡はある人物を待っていた。集合時刻は9時なのだが、少し早く着きすぎてしまった。
駅近くのベンチに腰掛け、マックスコーヒー片手に待ち人の登場に備える。うむ、やはり朝のスタートダッシュはマックスコーヒーに限る。昼には午後からの活力のために、マックスコーヒーは欠かせない。夜には気持ちよく寝るために、マックスコーヒー一本は必須だろう。…さて俺は今の数秒の間に何回マックスコーヒーと口にしたでしょうか?
一人そんな思考で時間をつぶす。駅前は土曜日の朝だというのになかなか人が多い。家族連れの姿も多いが、それ以上にカップルの姿が目立つ。いや、バカップルの姿が。先ほど通り過ぎた男女のペアは、頭から足元まですべて同じ服でそろえていた。同じニット帽、同じパーカー、同じジーンズに同じスニーカー。それが許されるのは小学校に上がるまでの双子くらいだろう。そう毒づくが、どうもその先の言葉が出てこない。あっれれー、いつもならこのネタであと数分は時間がつぶれるくらいの思考ができるはずなん…
高2病の調子の悪さを嘆いていると、突然視界が暗転し、俺の目を冷たく柔らかい感触が覆う。
「だーれだ?」
「どなた様でしょうか?」
ノータイムでそう返す。声の主はぶー、と口をとがらせ、同時に俺の視界が開ける。
「もう、ノリが悪いなぁ比企谷君は。こーんな綺麗なお姉さんが、せっかく朝から話しかけてあげてるっていうのにぃ」
雪ノ下陽乃はそう言って俺の頬を2、3度つついた。
「…どなた様でしょうか?」
もう一度同じセリフをつっけんどんに繰り返す。いつもならばもう少し彼女の遊びに付き合ってもよいところだが、あいにく今日は余裕と時間がない。
そんな俺に彼女は違和感を覚えたのか、首をひねる。
「んん?なーんか比企谷君今日はいつもより一層かわいげがないね。…なんか悩みでもあるの?お姉さんに話してみなさい?」
雪ノ下陽乃は俺の目をのぞき込む。疑問形だったもののその目はどこか冷たく、有無を言わせない。
「べつに、何でもありませんよ。それに俺に可愛げがある方が気持ち悪いでしょう」
そう返してそっぽを向く。
ふーん…。彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、顎に手を当てる。
「まあいいや。ところで比企谷君、こんな朝早くにこんなところで何をしているのかな?」
う…。聞いてほしくないことを的確に聞いてくる。
「別に…。俺が休日の朝に自発的に出かけるのはそんなに珍しいですかね」
「んー、自然ではないよねー」
抵抗もむなしく即座にやんわりと否定される。
納得できない様子の彼女はうーん、と腕組みをし考え込む。…しつけえ。
一通り思案すると、突然あっと彼女はわざとらしく手をたたく。
「もしかして、雪乃ちゃんとデートとか!」
「そんなわけないでしょう」
はっきりと否定する。重ねて言うが、雪ノ下姉と遊んでいる余裕は、今の俺にはない。
彼女はいよいよ怪しく思い始めたのか、俺の横に腰を掛ける。ちょ、近い近い近い。なにこの人、こんなはっきりと拒否姿勢出してる相手に、なんで距離詰められるんだよ。
「じゃ、私と遊びにいこっか」
「無理です」
なんなのこの人?俺のこと好きなの?
小さくため息をつき、また口をとがらせる彼女に続ける。
「大体、雪ノ下さんも何か用事があったからここにいたんでしょう。油売ってないでさっさと行ったらどうですか」
目を合わせずにそう突き放す。しかし彼女にはそんな拒否も大した意味はなさないらしい。からからと笑う。
「大学の男の先輩から呼び出しくらったんだけどねー。まあどうでもいいし、待たせる分には問題ないでしょ」
それ日本語おかしくないですかね。相変わらずの彼女の傍若無人ぶりに、俺はあきれる。待たせる分には問題ないって、つまり…どういうことだってばよ。
ただでさえ頭の回らないところに、理解不能の言葉で俺の思考は止まりかける。その時。
ふわり。
小さく風が吹き、俺の背中に柔らかい感触が当たる。ちょっと、いい加減に…
雪ノ下姉にはっきりと文句を言おうとするが、彼女は横でぽかんと口を開け俺の後ろを見ている。
彼女を驚かせるとは。俺は後ろを見る。
「おはよ、八幡。ごめんね遅くなって。待った?」
海老名姫菜はそう笑い、俺の肩に顎を乗せた。
「へー、じゃあ君たちはこれからデスティニーシーに行くんだね」
「はい。そうなんですよ。とっても楽しみで」
どこか冷たい目で尋ねる雪ノ下陽乃相手に、海老名姫菜の笑顔は全くブレない。大したものだ。あの目で見られたら、俺ならば速攻で求められてもいない謝罪を繰り返し、土下座して許しを請うまである。いや、何やらかしたんだよ、俺。
「そうなの?比企谷君」
なぜか雪ノ下姉は俺にも同じ問いを繰り返す。いや、俺は今初めて聞いたんですけど…
「だよね、比企谷君」
言いよどむ俺に海老名さんは上目づかいで同意を求める。う、その目で見られては。
「はい、そうです」
俺は何とか一言絞り出した。
「ふーん、ずいぶんと仲がいいんだねー」
彼女は満面の笑みで俺たち二人を交互に見て、にやりと口の端を持ち上げる。
「じゃ、暇だしお姉さんもお邪魔していいかな?」
何を言ってるんだこの魔王は。
「いや、さっき男友達と待ち合わせしてるって…」
「黙っててくれるかな?比企谷君。お姉さんはこの娘に聞いてるんだから」
はいごめんなさい。
海老名さんを横目で見る。彼女の額に一筋の汗が流れる。しかしそれでも表情は変わらない。よかった、傍若無人な雪ノ下姉に苛立ってはいないよう…
「えー、駄目ですよ。だって雪ノ下さんが来たら、邪魔じゃないですか。ねえ、比企谷君」
…いらついてましたね、さすがに。
流石の彼女でも本当についてくる気はないだろう。イラつかせ、余裕をなくすことが目的のように思える。雪ノ下姉は案の定余裕のなくなった彼女を一瞥し、にやりと笑う。
「えー、ひどーい。そんなこと言う女の子よりお姉さんのほうがよくない?比企谷君」
「比企谷君困ってるので、あまりくっつかないでくれますか?雪ノ下さん」
必要以上に距離の近い雪ノ下姉に、彼女の表情が消える。…はぁ。
俺はため息をつき、雪ノ下姉に一言告げる。
「すいません、今から姫菜とデートなので、今日のところは勘弁してください」
雪ノ下陽乃の間抜け面を二度も見られた今日は、いい日かもしれない。
雪ノ下陽乃は興がそがれたのか、興味なさげに「ふーん、そうなんだ」とつぶやくと、男と待ち合わせのカフェへ行くと言って去っていった。…何しに来たのあの人。
「で、比企谷君」
「…はい」
俺は笑顔で俺の横に座っている海老名姫菜を見られない。
「今更君の女性との交友の広さに驚きはしないけれど、初デートの当日にほかの女の人と親しげにくっついているのは、どうなのかな?」
そう。今日は彼女とデートに行く約束をし、千葉駅前まで土曜の朝早くから来た。少なからず緊張して口数は少なくなっていたが、彼女の今の言葉は聞き捨てならない。
「ちょ、別に俺は女子との交友関係なんかほぼ皆無だぞ。なんなら男との交遊もないまで…」
「比企谷君」
彼女は笑顔で俺を遮る。
「人として、どうなのかな?」
「すいませんでした」
こ、こわいよぅ…。
ふう、と彼女は一息つく。
「じゃ、いこっか。比企谷君」
「え、どこに?」
戸惑う俺に、彼女はあきれた様子でため息をつく。
「さっきの話聞いてなかったの?」
「いや、聞いてはいたが、その…ほんとに行くのか?」
デスティニー。彼女がその場所を選ぶとは思わなかった。彼女にデートに誘われた時、俺は反射的に池袋、秋葉原といった場所を連想していた。
「…比企谷君、なーんか失礼なこと考えてないかな?」
ジト目で彼女は俺を見る。
「い、いや、そんなことはないが。ただ少し意外だったからな」
つい言葉に出てしまった。彼女は視線を落とす。
「うん、わかってる。私らしくない、よね…。でも、比企谷君」
彼女は顔をあげ俺を見る。
「私、今日は思いっきり楽しむつもりだから!」
彼女はいつもの海老名姫菜とは違い、屈託なく笑う。その笑顔とらしくない発言に違和感を覚え、俺はもう一度彼女を見る。
今日の彼女の装いは、ベレー帽に長めのデニムシャツ、足元はベージュのショートブーツ。そしてボトムスには…その、かなり短いフレアスカート。
一見彼女らしからぬ装いだが、メガネがないためかそんな格好もよく似合っている。そしてすらりと伸びた生足が目にまぶ…
「…比企谷君?」
気づくと彼女は顔を赤くしていた。…しまった。
「その、そんな見られると恥ずかしいんだけど…」
うっ…。とっさに顔をそらす。
「ど、どうかな?」
彼女はデニムシャツの裾を両手で握り、横目で俺に問う。ど、どうといわれましても…
「あー、よく似合ってる、と思う。…少なくとも目のやり場には困るな」
チラリと横眼で見ると、彼女と目が合う。い、いや、別にやらしい気持ちはなくても自然と目がですね…
彼女は顔を赤くし、小さくつぶやく。
「えへへ…勇気出してよかった…」
しかしそのつぶやきはあまりにも小さく、俺の耳には届かなかった。
「キターーーーーーー!」
海老名さんは入り口前にある巨大パンさんマスコットを前に、両手をあげて叫ぶ。
「ちょ、海老名さん、テンションおかしくないか?」
周りの視線が痛い。しかし彼女は俺の制止も気にしない。
「えー、せっかくデスティニーまで来たのに、比企谷君のテンションが低すぎるんじゃないの?」
ウキウキとした様子で園内パンフレットを眺めながら、彼女は言う。
「…まあ、楽しそうなら何よりなんだが」
「最初どれから行く?あ、もしかしてお腹すいた?実は結衣からデスティニーのおいしいものとかも聞いてきたんだー」
…人の話、ちゃんと聞こうね。
しかし、彼女はこんなにデスティニーが好きだっただろうか。前にもクリスマスイベントの際に彼女とは一緒にデスティニーに行ったが、あの時はそんなそぶりを見せなかったが…。団体行動だったからか、それともランドではなくシーが好きだったのか。
俺の疑問を知る由もなく、彼女は俺に言う。
「じゃ、比企谷君、最初はこのアトラクションのパスとろう!」
パンフレットを指さし、彼女は俺の手を取る。ちょっと、柔らかい…じゃなくて、
「海老名さん、手…」
そう彼女に訴える。しかし彼女は返事もせず、つかつかと歩いていく。その顔が赤かったのは、気のせいではなかったと思う。
…春だというのに、もう暑い。
その後俺達は、海老名さんの気の向くままにアトラクションに乗りまくった。どのアトラクションに乗っても彼女のテンションは高く、本当に楽しそうで、俺もらしくもなく少しはしゃいでしまった。
「そろそろお昼にしよっか?」
タワーが落ちるアトラクションに乗り写真を選んだ後、海老名さんがそう俺に問いかけてくる。なんで俺はこういう時に絶対自分でも引くほどのキモイ顏してるんですかね…。海老名さんがそれをどうしても買えと言い張るので、一緒に買いはしたが。
時計を見るとすでに時刻は14時。
「そうだな、言われれば腹も減ったし。どっか店はいるか?それともなんか適当に食うか?」
「そっだね、どの店もまだ結構混んでるし…」
うーん、と海老名さんはあたりを見渡す。すると目の前にあった店の中の一つを指さした。
「こ、ここにしよう」
その店は少ししゃれたレストランだった。店先のメニューを見てもそこまで高くはなく、家族連れや学生らしいカップルも多い。それだけに中では何組か待っているようだった。
「別にいいが…少し待つかもしれんな」
「そんなにいないし、ここにしようよ」
彼女は譲らない。まあ、別にいいか。歩かなくていいし。
「お待たせいたしました。ご注文はお決まりでしょうか」
メイド服を着たお姉さんが、ニコニコと注文を取りに来る。店を見渡すとどの店員もかなり若い。まあこの服を平塚先生が着るのは少し無理があるだろう。…はっ、寒気が…。
「じゃあ俺はグリルハンバーグとエビフライのプレートで」
「えーっと、じゃあ私は白身魚のフライセットと、…これを」
昼食を注文した後、海老名さんはメニューを店員さんのほうに向けてメニューの中の一つを指さしながら、チラリと俺の方を見た気がした。
「…かしこまりました」
店員さんは優しい笑顔を海老名さんに向け、奥に下がる。…何か違和感がある。
「海老名さん、今何頼んだんだ?」
「え?あ、ほ、ほら、ジュースだよ。いろいろ歩いてのどかわいちゃったから」
その一言に俺はさらに疑念を深める。俺は普段彼女がジュースを口にしている姿を見たことがない。彼女はコーヒーはブラックで飲み、学校で弁当を食べるときはたいていお茶を飲んでいたと思う。
「そ、そんなことより、この後どこ行くか考えとこうよ」
もっともな提案ではある。効率よく回らなければ多くのアトラクションは回れないだろう。今日は土曜日で人も多い。…多くのアトラクションを回ろうとは、今日は俺も少しおかしいのかもしれない。
「なん、だと…」
それぞれに頼んだものが来て、俺は店を出ようとした。しかし店員のお姉さんが運んできたものに、俺はついそうこぼす。
運ばれてきたものは大きなカクテルグラスに、中にはメロンソーダ、コップの縁にはレモンとパンさんのイラスト。そしてメロンソーダの中には…ハート形に絡み合ったストローが、2本、刺さっていた。
これはいわゆる、そう、あれだ。
「お待たせいたしました。メロンソーダ・デスティニースペシャル…カップル用ですっ」
「注文してません」
速攻で店員のお姉さんに告げる。おおよそ俺と海老名さんから最も遠いものだろう。
「お客様、申し訳ありません。…ご注文されませんでしたか?」
店員は俺ではなく、うつむいている海老名さんに優しい笑顔でそう聞く。
「いえ…頼みました」
「…」
まじですか。
「ではごゆっくりどうぞ」
店員は普通のグラスよりも大きなそれを俺と海老名さんの間に置き、また奥に下がる。
「…た、頼んだんだし、飲もっか」
「…海老名さんが頼んだもんだ、俺が飲むのは悪いような…」
目を泳がせる俺に、海老名さんは涙目になる。
「比企谷君は、私に一人でこれを飲ませる気なの?」
「う…」
そ、そういうことか。海老名さんがなぜこの店を選んだのか、分かった。
まだ涙目で俺を見つめる海老名さんをみて、ため息をつく。
「…少しなら」
「…うん!」
彼女の顔がパァ、と明るくなる。…この顔を見れただけでも、いいか。
正直、メロンソーダの味などまるで分らなかった。
午後は海老名さんと話し合ったとおりに園内を動き、アトラクションに乗った。夕方に行ったお化け屋敷では、彼女の意外な一面も見れた。
「比、比企谷君…」
彼女はそう震え、ずっと俺の腕を自らの腕と絡ませていた。ちょっと、やめてください、その、膨らみが…
「いや、別にそこまで怖がらなくても…人間のほうがはるかに怖いだろ」
いつか由比ヶ浜に言ったセリフを口にする。その先の「だから人間が怖がらせるお化け屋敷が一番怖い」を言えばもっと怖がらせると思ったので、言わなかったが。
「そ、そうはいっても、それは腐ってる比企谷君だから…ひゃ!」
横から現れた女のゾンビに驚き、海老名さんは腕だけではなく体ごと俺にしがみ付ける。…や、やばい、理性が…。
結局本能を理性でねじ伏せたが、本気で、本当に危なかった。
そして時刻は20時。明るく、春の日差しが爽やかだった園内は、暗く、煌びやかな夜の世界となった。
「綺麗…」
次々と水上に上がる花火を見ながら、海老名さんはつぶやく。
「…そうだな」
以前、由比ヶ浜とみた花火を思い出す。…あの時と、こんなに違うのか。
横で俺の手を握る女の子を見て、俺は思う。そう簡単には変わらない。ずっとそう思っていた。自分も、そして他人も。変わることは過去の自分を否定することだとも思っていた。
しかし。俺はしっかりと絡ませた俺と彼女の手の熱を感じ、思う。変わることも悪いものじゃない。
俺の理屈はまた矛盾する。変わった俺と彼女を肯定し、俺と彼女のつながりは今後変わることは、離れることは、壊れることはないと、そう感じていた。
「…比企谷君」
「…なんだ」
彼女は俺の手をさらに強く握る。その手を俺は、離したくなかった。
彼女はゆっくりと微笑み、告げる。
「…今日は、帰りたくない、よ…」