海老名さん√がまちがっているわけがない。   作:あおだるま

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面倒な二人(後編)

 

 

「八幡、ちょっとツラ貸してくれるかな?」

 

 放課後。満面の笑顔の海老名姫菜が俺の席にやってきた。笑顔はいつもと変わらないが、口調と呼び方に違和感がある。というか一言で言って、怖い。あれ、なんで俺は女子に下の名前で笑顔で話しかけられて、この上ない恐怖を感じてるんですかね。

 

 平塚先生からの「付き合っているか」という質問の後、海老名さんは顔をうつむけ、なぜか俺を一にらみすると、教室に早足で戻っていってしまった。釈然としない様子の俺に、平塚先生は深く、長いため息をつく。

 

「…君は本当に、どうしようもないな」

 

 ちょっと、先生がさじを投げたら俺の将来は誰が面倒見てくれるんですか。

 

 

 

 そしてその後、彼女は放課後になるまで俺とは目も合わせなかった。とりあえず今日は平穏に過ごせそうだと安心していたが、どうやらまだそう判断するには早かったらしい。

 

「ねえ、八幡、聞いてる?私の話。…ぼーっとしてたとか言ったら、どうなるかわかるよね?」

 

 彼女は俺の顔をのぞき込む。

 

 …こ、こわいこわいこわい!なにこれくそ怖い。なんで一色といい、女子は一ミリも変化のない笑顔でそんな冷たい声出せるの?強化外骨格さんだけじゃなくて、女の子にはこの機能がデフォルト装備でついてるの?チートすぎワロタ。

 

 下の名前を呼んでいるのも、どうやら怒りが羞恥心を軽く凌駕しているのか、まったく違和感も淀みもない。

 

「い、いや、でも俺、ほ、放課後は部活もあるし…」

 

 逃げ出しそうになる気持ちを必死に抑え、何とか絞り出す。この状況で俺がキョドりながらでもなんとか声を出したことを、誰かほめてほしい。

 

「えー、そんなの私の呼び出しを断る理由になるわけないだr…ないよねっ、八幡君」

 

 表情はいつもと寸分変わらない彼女の顔に、青筋が立つ。ちょ、これおれ死なないよね?俺の青春ラブコメここの選択肢間違えたらバッドエンド確定とかないよね?

 

「ま、まあ落ち着けって、ほらマッ缶でも飲んで」

 

 机の上に置いてあったマッ缶を彼女に差し出す。やはり気分がよくない時はマッ缶を飲むに限る。コーヒーに含まれるカフェインなんかとは比にならないレベルの量の砂糖が、脳みそを癒してくれる。

 

「え…」

 

 彼女の頬に朱色がさし、突然視線は泳ぐ。窓の外には夕日はまだ姿を現していない。

 

 もう一度マッ缶を見ると、そのフタは、すでに開いていた。

 

 あ…ぼくの飲みかけでした。てへっ、飲みかけのモノを、八幡無邪気に人に差し出しちゃった☆

 

「わ、わるい」

 

 そう言ってマッ缶を急いでつかむ。何をやっているのだ。こんな初歩的なミスをしてしまうあたり、彼女と接するときの俺はやはり少しおかしい。

 

 だが、彼女はマッ缶をつかんだ俺の手首を強く握る。

 

「べ、別に…それでいい。それ、私飲ませてもらうから」

 

 そう頬をかき、眼鏡を直すしぐさをする。あの、裸眼なんですけどあなた。

 

「いや、とはいってもだな…」

 

 まだ渋る俺に、海老名姫菜は消え入りそうな声で問う。

 

「わたしじゃ、…いや?」

 

 ぐっ。そ、それは卑怯だ。そんな涙目で上目遣いを送られ、断れるわけがない。

 

「ど、どうぞ」

 

 俺はマッ缶を仰々しく差し出す。

 

「ど、どうも」

 

 それを彼女は両手で受け取る。

 

 彼女は受け取ったそれをしばし凝視する。いや、それの飲み口部分を食い入るように見る。

 ちょ、そんな見ないでくれませんか。

 

「い、いただきます」

 

 ゴクリ。彼女は両手でそれを飲む。

 

 あれ、そういえば海老名さん俺の家に来た時は、コーヒーをブラックで飲んでいたような…

 

「な、なにこれ!…あっま」

 

 ですよねー。

 

「別に無理して飲まなくていいぞ。俺は好きだから飲んでるんだしな」

 

「い、いい!」

 

 彼女は腰に手を当て、一気にそれを飲む。れ、練乳を一気飲みとは、やはりこやつやりよる。

 

「ねえ、比企谷君。これ」

 

 彼女はぶはー、と一息つき、俺に呼びかける。思い切り顔をしかめるか。そう思ったが彼女は、

 

「…すっごい甘い、ね」

 

 そう赤ら顔ではにかんだ。

 

 

 

 

「ねえ、比企谷君」

 

「…はい」

 

 俺と海老名さんは今、サイゼで向かい合っている。さっきの出来事、名づけるならば「放課後マッ缶事件」があった後、結局俺は彼女の「ついてきて、くれるよね、八幡君。」という笑顔に逆らうことはできなかった。…俺が悪いのか。

 

 彼女は一瞬ためらうが、唐突に問う。

 

「比企谷君、私のこと、好き?」

 

 その目はまっすぐに俺を見ている。

 

「…好きだ」

 

 はっきりと俺は口に出す。らしくない、そう思う。だが彼女に対して俺がらしくないことなど今さらだろう。言葉に出せば伝わるとは限らないが、言葉に出さなければ不安になることはある。

 

「じゃ、じゃあ!」

 

 彼女は思い切り身を乗り出し、俺を見つめる。俺は思わず顔を背ける。ちょ、そんなに乗り出されると、その、胸元が…。

 

 しかし俺の葛藤には気づかず、彼女は背けた俺の顔にまた目を合わせる。

 

「じゃあ、なんで平塚先生に『付き合ってないです』って、言ったの?」

 

 やはり。俺は、俺と彼女の関係に対する認識に、違いがあることを確信する。平塚先生の質問の時まで、彼女の困惑を見るまで、俺は、俺と彼女との関係に対する互いの認識のずれに気が付かなかった。…もしかしたら意図的に目を背けて、見ないようにしていたのかもしれない。

 

「…俺たちの間で、一言でも『付き合おう』という言葉が交わされたことがあったか?」

 

 これは、事実であるとともに建前でもある。

 

 実際に俺たちの間にそのような言葉が交わされたことはなかった。その事実を無意識に盾にし、俺は「付き合ってはいない」という一言を口にした。屋上で向かい合ったあの日、確かに気持ちは確かめ合った。しかしそれがその先の関係を望む保証になるとは限らないし、何より…望んでよいものか、俺にはわからなかったのだ。

 

 今日の朝二人で登校した時、その俺の考えは正しかったと感じた。

 

 彼女は変わった。それは間違いないと思う。笑顔は増え、表情は柔らかくなった。その笑顔も少なくとも俺にとっては…とてもまぶしいものになった。

 

 そんな彼女を慕う人間はこれからもどんどん増えていくだろう。俺と彼女が教室に入ったときに聞こえた声はほとんどが俺への悪意によるものだったが、その中には純粋に彼女を心配しているものもあった。…男子の多くは下心からだろうが。

 

 そして彼女の周りの人間は、俺の存在を快くは思っていない。それは今日の朝のことだけではなく、普段から感じていたことだ。彼女が俺に話しかけるたびに、そのような視線を男女問わずから受けた。

 

 だがそれも俺にとってはさして問題ではなかった。確かにうっとうしくはあったが、遠巻きに見られることくらいならば別に我慢できるし、彼女にとっても大した傷にはならない。彼女は「ぼっちにも分け隔てなく接する優しい女子」という風にクラスメイトの目には映っていただろう。だから別にこのままの関係である分には問題はなかった。

 

 彼女がクラス全員が見ている中で、あのような態度をとるまでは。

 

 あの発言によりクラスメイトの目には俺たちの関係はどう映っただろうか。「ぼっちにも優しい女子」は下の名前で、自らと対等に俺に呼びかけたことによって、クラスメイトの中で「ぼっちと一緒の女子」というレッテルを貼られたかもしれない。そして俺は…好きな女の子がそのように、自分のせいで悪意にさらされることは我慢できなかった。

 

 だから、俺と彼女は付き合っていない。

 

 もちろん優しい彼女にこんなことを告げるわけにはいかない。俺はそんなことを断片的に都合良くこぼし、短く「そうだろ」と終わらせ、下を向く。

 

「私は」

 

 彼女はうつむきながら、静かに、確かに、つぶやく。

 

「私は、比企谷君のことが好き。比企谷君と一緒にいたい。楽しい時には一緒に笑いたい。悲しい時にはそばにいてほしい。うれしいことがあれば分かち合いたい。何よりも…傷つくときには、一緒に傷つきたい」

 

 …彼女は、優しいのだ。

 

「別にほんとは形なんて何でもよかったんだ。言葉に出さなくたって、私と比企谷君はお互いを知ってるから。周りの人がどう思ってるかなんて、気にしなかった。

 でもね、私は君が一人で傷ついている姿を見て、自分が傷つくよりも何倍も、何十倍も痛くて、苦しくて。…悲しかった」

 

 彼女は下を向く。

 

「私にはあの部長さんみたいに、君を助ける解決策を探すことなんてできない。結衣みたいに優しく君の心を溶かすことだってできない。でもね、比企谷君。もう一回だけ、言うね」

 

 彼女は瞳いっぱいに雫をためる。

 

「私は君と一緒に傷ついて、傷物になりたい。傷なんて気にならないくらい、私には、君が必要なの。自分の傷なんてどうでもいいくらい…君の傷を遠くで見てるのは、痛いよ」

 

 …だから嫌だったのだ。

 

 彼女はそういうと思った。クラスメイトに向けた宣言。彼女は俺と傷を分かち合おうとしたのだ。

 

 そして俺があげつらった、俺が彼女を遠ざける理由。それはそのまま、彼女が俺と一緒に居たい理由になる。

 

『海老名姫菜を傷つけたくない』

 

『比企谷八幡と一緒に傷つきたい』

 

 俺にはこの問題の解が出せない。そもそも解があるのだろうか。何よりも近くにいるはずなのに、完璧にその二つは並行していて、交わりが見つからない。

 

 見つからない答えに、おれは口を開けない。結局、俺は怖いのだ。一緒にいることで彼女が傷つくのが。自分が彼女を傷つけてしまうことが。…いや、それも、違う。

 

 この期に及んで、多くの言葉を、多くの思いを交わしてきたのに、俺は彼女を信じていない。彼女の身を案じている風で、彼女が折れてしまい、そして自分の近くを離れてしまうのが怖い。大切なものがなくなってしまうのが怖い。それを本物だと、どうしても信じ切れない。…本物を欲したあの日から、俺は何一つ変わってなどいない。

 

 俺の沈黙をどうとらえたのだろう。うつむいた俺の視界に、海老名姫菜の顔は映らない。

 

「比企谷君」

 

「…なんだ」

 

 ふわりと柔らかい風を纏い、彼女は俺の横に腰を掛ける。俺の顔を、優しく見る。目を瞑る。俺と彼女の距離が縮まる。そして

 

「ん…」

 

 彼女と俺の唇が重なった。

 

 どのくらいそうしていたのか。1秒か。1分か。1時間か。時間の概念が壊れて、すべてが白色になる。

 その世界で一人の女の子の、優しい暖かさだけが確かに伝わった。

 

 彼女が唇をゆっくりと離し、世界はだんだんと元の色彩を取り戻す。

 

「私は、比企谷君の考えていることがなんとなくだけど、わかる。たぶん比企谷君は怖いんだ。怖くて怖くて、自分じゃなかなか動けないんだ」

 

「…かもな」

 

 彼女は臆病な俺に失望しただろうか。ちらりと彼女を見るが、そこにはいつもの彼女が。いつもの笑顔があった。

 

「だったら、私は待つよ」

 

 まっすぐと俺を見て、彼女は当然のことのように言った。

 

「だってそれは私には…ううん、比企谷くん自身にも、すぐにはどうしようもないことだから。だから私は比企谷君が私のことを、私と比企谷君のことを信じてくれるまで」

 

 言葉を切り、俺の頭をなでる。 

 

「私は、待つ」

 

 …本当に、俺でいいのだろうか。

 

「情けねえな、俺」

 

 今までで最も俺らしくない言葉だった。当たり前のことを、当たり前に口にしてしまうとは。

 

「ほんとね」

 

 彼女は当たり前のように肯定し、笑う。

 

「でも、そんな君を好きになっちゃったんだよ、私。だから、これからもよろしくね…比企谷君」

 

 頭をかく。まったく、俺にはもったいない。

 

「あと!」

 

 彼女は短く叫ぶ。

 

「私、ただ待ってるだけなんて言う聞き分けのいい女じゃないからね?」

 

 え?

 

 困惑した俺に、あきれたようにため息をつく。

 

「いや、あたりまえだよね、比企谷君。そーんな都合のいいことやっておいて、平穏な学校生活が送れるとでも思ってたの?」

 

 う。ぐうの音も出ないとはこのことか。

 

 言い返せない俺に、彼女は宣言する。

 

「ずーっと近くにいるし、教室でもどこでも話しかけるし、女の子と話してたら嫉妬するし、ガンガンくっつくし…どんどん、好きになるから、ね?」

 

 ぐは!!!…やっぱり、海老名姫菜は性格が悪い。

 

 顏の熱はもはや俺の手に負える熱量ではなかったが、上手く言葉にできるだろうか?

 少しの不安とともに口を開く。

 

「あー…もしかしたらすぐには決断できないかもしれないし、それがいつになるかもわからない。それでも…絶対に、言う。待っていてくれるか?…姫菜」

 

 彼女の顔に朱がさす。たまには俺からやり込めてみたいものだ。特に、女の子に格好の良いところばかりを見せられた後では。

 

 ゴホン、とひとつ咳ばらいをし、海老名姫菜は不敵に笑う。

 

「私の腐り方を、なめないでよ?…手に入れにくいものほど、欲しくなるの。好きだからね、八幡!」

 

 ぐ、流石にこの手の勝負で彼女に勝つのは無理があったか。

 

 ニヤニヤと笑う彼女に、俺も一言返す。

 

「いや…俺の方が好きだな、姫菜」

 

 彼女は机に顔を伏せる。俺も彼女のほうを見られない。

 

 …引き分けか、今日のところは。

 

 

 大量の野次馬の視線を感じつつ、比企谷八幡は一人ため息をついた。

 

 

 


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