海老名さん√がまちがっているわけがない。   作:あおだるま

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面倒な二人(前編)

 

 屋上での告白から1週間がたった。

 

 彼の家と私の家は近い。歩いて五分とかからないところだ。去年の冬に引っ越してきて、彼の登下校姿を何度か見かけて気づいた。

 …ご都合主義とか言わないで、本当に近かったんだからしょうがないでしょ!

 

 そんなわけで、私と彼の一日はここから始まる。

 

「おはよー、比企谷くん!」

 

 外から声をかける。

 

「…」

 

 へんじがない、ただのはちまんのようだ。

 

 宵っ張りなうえに低血圧な彼は、朝私より早く起きていることがない。しかし、妹の小町ちゃんはそんなこともなく、私が声をかけると小町ちゃんの怒鳴り声が中から聞こえてくる。

 

「ほらほら!ごみいちゃん、姫菜さん来たから早く起きなよ!…昨日遅かった?知らないよ、そんなの。どうせゲームでもやってたんでしょ!…あと五分?」

 

 ゴン!!、となにか鈍い音が聞こえてくる。い、生きてるよね?比企谷くん。

 

「すいません姫菜さん!」

 

 パンを咥えた小町ちゃんが勢いよく扉を開ける。

 

「はは…比企谷くん、だいじょぶ?」

 

「は、はい、一応生きてはいるんですけど…」

 

 チラリと家の方を見る。

 

「どうやら昨日夜更かししたようで、今日は小町の手に負えないんです。ないんですけど…小町今日は早めに学校に行かなければいけないので…」

 

 申し訳なさげに、上目づかいでこちらを見る。こんなふうに見られて、邪険にできる人類がこの世に存在するだろうか。いや、しない。

 

「わかった、比企谷君のことは私に任せて」

 

 胸をどんとたたく。…もうちょっと豊かなら、頼りがいもあるんだけどなぁ。

 

「ほ、ほんとですか!?ありがとうございます、姫菜さん!大好きです!」

 

 何の穢れもない目でそう言い、小町ちゃんは私に抱き着く。はうっ…この兄妹は正反対に見えるけどこういう唐突にデレるところはそっくりだ。

 

「ほ、ほら、小町ちゃん急いでるんじゃないの?」

 

 これ以上は私の身が危険なので、名残惜しいが無理やり引きはがす。

 

「はっそうでした。ではではよろしくお願いしまーす!」

 

 小町ちゃんは自転車にまたがり、猛スピードで学校に向かう。…今日も元気だなぁ。

 

 さて。

 

「お邪魔しまーす…」

 

 この時間に彼の両親がいないことは分かってる…っていうか、お会いしたことないけどね。…何してる人たちなんだろう。

 

「比企谷くーん!」

 

 寝ているだろうし、比較的大きな声で玄関から呼びかける。しかし、返事はない。なんなら生きている気配もない。

 

 はぁ。

 

 ため息が出る。まったく、朝くらい気持ちよく起きればいいのに。そう思いつつ、無意識に私の頬は少し緩む。…寝顔見れるかな。

 

 階段を上がり、彼の部屋を探す。窓の位置からどこが彼の部屋かはわかる。

 

 お目当ての部屋を見つける。一度部屋の前で深呼吸をし、そーっと部屋に入る。

 

「失礼しまーす…」

 

 そこには丸く盛り上がった布団が一つ。大方、小町ちゃんに引きはがされそうになったところを必死に抵抗し、くるまったのだろう。

 

 布団を下にずらし、彼の顔をのぞき込む。

 

「ん…」

 

 意外に長いまつげが揺れ、唇が震える。朝の光がまぶしいのか長めのクセっ毛をガシガシとかくが、彼の瞳はまだ開く気配はない。

 

 トクン。

 

 思わず胸が鳴る。こんなに近くで、こんなに無防備な彼の姿は今まで見たことはなかった。私の前にいる彼はいつでもひねくれていて、素直じゃなくて…そして私にとっては、一番格好良い男の子だ。

 

「…」

 

 ど、どうしよう。我慢できそうにない。彼の寝顔は思ったよりずっとあどけなくて、かわいくて、抱きしめられるととても大きく感じるその体もこう見ると意外にも細い。…思わず私が抱きしめたくなる。だ、だめよ姫菜!時間がないんだからここは心を鬼にして。

 

 布団をどかし、外気にさらされ、彼の瞳はゆっくりと開く。さっきまでのあどけない彼はどこへやら。すぐにいつもの少しひねくれた、寝ているときより眠そうな顔が現れる。

 

 そんなにじっと見つめられると。

 

 思わず顔が熱くなるが、見とれていたのは私のようだ。まだ目覚めきっておらず、状況を把握しきれていない彼はこちらに怪訝そうな視線を送る。

 そんな彼に私は笑顔で、言う。

 

「おはよう…はち、まん。」

 

「お、おう…」

 

 比企谷君は視線を泳がせる。まったく、この男は…

 

「比企谷君、朝のお迎えに来たっていうのに、その反応はどうだろう?私の名前、なんだっけ?」

 

「お、おはよう、…海老名さん」

 

 うん、ちがうよね。

 

「わたしのなまえ、なんだっけ?」

 

 さらに私は笑顔を深める。どうやら彼は私の笑顔には弱いらしい、と最近気が付いた。

 

 沈黙が下りる。

 

 はぁ。彼はため息を漏らし頭をガシガシと掻く。

 

「おはよう…姫菜」

 

 彼は照れ臭そうにそっぽを向く。…なんですかこのかわいい生物は。最終的に折れるなら、朝のあいさつの約束くらい守ればいいのに。

 

 そう、あの日屋上で私が彼に要求した。「一日の最初は、名前で呼ぶ」

 

 求めたのはこっちなのに、思わず頬が熱くなるのを感じる。だ、だって、あんなの私にはダメージが大きすぎるもん!

 

「う、うん」

 

 思いがけず朝から気まずくなる。

 

 壁にかけられた時計の秒針の進む音だけが部屋にこだます。

 

 …は!!

 

「比企谷君、時間!」

 

 私は時計を指さす。時刻は8時20分。

 

「…終わった」

 

 そう一言つぶやき、彼は布団を頭からかぶる。

 

「比企谷君、諦めたらそこで試合終了だよ!」

 

「…安西先生、僕は凡才ですから」

 

 逆桜木花道か。

 

「くだらないこと言ってないでさっさと準備しようよ」

 

 そういってかかっている制服をベッドに投げ込み、今日の授業の教科書を彼のカバンに放り込む。ん?何かおかしい。

 

「比企谷君、理数系の教科書もノートも一つも見当たらないんだけど…」

 

「…あー、買った時のまま学校に置いてあるわ」

 

 …彼らしいといえば彼らしいか。

 

「…まあいいや。教科書の準備できたから、ほら、歯磨いて顔洗って」

 

「だるい」

 

「…比企谷君、いい加減にしようね」

 

 彼に優しく微笑みかける。私の顔を見ると顔はひきつり、ベッドから飛び上がる。ねえ、好きな女の子の笑顔を見て「ひっ」っていう反応はおかしくないかな?

 

 ようやく準備ができたと思うと、時刻は8時半になろうとしていた。あーあ、遅刻確定だ。

 

「比企谷君、早く出るよ」

 

「ちょ、まだ朝飯くってねえ」

 

 妙なところで律義というか、細かいというか。

 

 私は小町ちゃんが用意したであろう机の上の食パンをそのまま彼の口に突っ込む。突っ込むって言っても、べ、別にやらしい意味じゃないからね!…ほんとだよ?

 

「ちょ、これ焼いてもなければバターも塗ってないんだけど。まじ、パン」

 

「うるさいなぁ。起きない自分がいけないんでしょう。…何のゲームしてたか知らないけど」

 

 彼はびくりと体を震わせる。…やっぱりそういうゲームかよ。机の上のpcの横に置いてあるパッケージを見ればわかる。まあ今はそれについて追及している暇はない。

 

「ほら、早くいくよ」

 

「…へいへい」

 

 

 

 学校についた時刻は8時50分。相当自転車を飛ばしてきたが、何度か寝ぼけた比企谷君がひかれそうになったのを私が必死に助け、ようやくここまでたどり着いた。無茶しやがって…。

 

 私と比企谷君は肩で息をする。下駄箱の前に立つが、まだゴールではない。教室まで走らなければいけない。教室につくまでが遠足です。…思ったより余裕だな、私。

 こう見えても私は学校を遅刻したことがない。もちろん風邪やイベントで欠席したことは何度かあるが、他の生徒が見ている中で一人教室に入るという経験はほとんどないのだ。 

 にもかかわらず私は緊張するどころか、妙に安心している。…彼が隣にいるだろうか。

 

 チラリと横を見る。すると、彼の目の腐り方がいくらか増している気がした。

 

「じゃ、先行っててくれ。朝はバタバタしてたし、俺はトイレ行ってから行くわ」

 

 …この男は。

 

「うん、わかった。じゃあ私先行くね。一限は現国だから急いだほうがいいと思うよ」

 

「まじかよ…。わかった、殴られない程度に急いでいくわ」

 

「じゃーねー」

 

「おう」

 

 

 

 

 

「…おい」

 

 彼とトイレの前で偶然会う。いやー、あのあと私も急にトイレに行きたくなったんですよね。

 

「お、奇遇だねー、比企谷君」

 

「…先に行ってくれといわなかったか?」

 

 比企谷君は深くため息をつく。その目には少しの諦念も浮かんでいる。

 

「トイレに行くから、っていう理由だったよね。私もトイレ行きたかったから、同じタイミングで教室に入っちゃうのはしょうがないよね」

 

「…はぁ」

 

「こと君のことに関して、私がわからないことでもあると思った?特に腐った思考で私にわからないことはないよ、比企谷君」

 

 彼は頭をガシガシとかく。だけど彼の顔に赤みがさしたのを私は見逃さなかった。

 

「どうせ、一緒に授業中の教室に入ったら、私に迷惑がかかるとでも思ったんでしょう?」

 

 なんで彼はすぐにそういう思考になってしまうのだろう。…迷惑だなんて思わないし、面倒ごとだって一緒に背負いたいのに。

 

「あー、いや、それだけじゃなくてだな」

 

 彼は横を向き、首を手に当てる。え、違うの?

 

 

「単純に、一緒に教室に入るのが恥ずかしかったってのもあるな。…同伴出勤みたいで」

 

 …はい?

 

 一瞬言葉の意味を考え、そして

 

「は、はぁ!????ちょ、比企谷君、何言ってるの!?」

 

 ほんとなんなの、この男は。ジゴロなの?タラシなの?…今度ぼっちとか口にしたら、とりあえず殴ろう。

 

「は、早く行こうよ、怒られちゃう」

 

「お、おう」

 

 彼もさすがに恥ずかしいことを言ったと思い当たったのか、顔は真っ赤だ。私の顔も熱いけど。…これで一緒に教室に入って大丈夫かな?

 

 

 

 

 教室に入る寸前、彼は私より半歩後ろに立つ。ふっふっふっ、そうはいかない。

 比企谷君を前に押しやり、ドアを開けさせる。彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。この期に及んで逃げようとは往生際が悪い。

 

 ドアが開かれる。

 

「「し、失礼しまーす」」

 

 二人の声が重なる。自分の教室に入るだけなのに、どうもひどい罪悪感を感じる。…遅刻はしないようにしよう。

 

 クラスメイト達は一斉にこちらに振り向く。当然だ。授業中はどんな小さな音でも気がまぎれたらそちらを向いてしまうものだ。

 そして彼らは私たち二人が一緒に登校してきたことに少なからず驚いた表情を浮かべた。クラス内には「え、なんで?」「まあ偶然でしょ」「いやいや、ありえねえし」「…調子乗んなよ」愉快とは言えない声が聞こえてくる。…全部聞こえてるんだけどなぁ。

 

 申し訳ない気持ちで比企谷君を見ると、彼はこんなことは慣れているという風でいつもと全く変わらない。濁った眼も、猫背でけだるげな歩き方にも変化はない。

 

 彼は本当にこんな周りの声なんてどうでもいいのかもしれない。私だってこれが自分に向けられたものだったら、なんとも思わなかっただろう。でも…大切な人が無言で、無自覚に傷ついているのを、私は見過ごすことなんてできない。

 

「じゃ、またあとでね!…八幡」

 

 気づけば彼に小さく手を振り、つかつかと自分の席に戻っていた。周りの様子を見る余裕などとてもなかった。

 

 教室のざわめきは大きくなり、それぞれの声は混ざり、喧騒となった。下を向いて自らの席へ向かった。一人一人の声なんて聞こえない中、ある男子の席の横を通り過ぎるとき、「かっこいいっしょ」という声が聞こえた気がした。…私なんかには、もったいないよ。

 

 教室の喧騒も、平塚先生からの「比企谷も席につくように」という声で収まった。彼女の声はとても静かで、顔つきはおだやかだった。なんというか、子供の成長を喜ぶ母親のようだった。…なんでこの人結婚できないんだろう。

 

 私も落ち着いて、慌てずに現国の準備をする。比企谷君のほうをちらりと見るが、彼はそれでも、いつもと変わらない様子だった。

 

 

 

 

 一限の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 

 私は何でもない風を装い、彼の席へ向かう。こうなったらヤケクソだ。今更何を取り繕いたいわけでもないし、何を取り戻したいわけでもない。それよりも、私には手に入れたいものがあるし、守りたいものがあった。

 

 

「八幡、今日の放課後なんだけど…」

 

 そう呼びなれない名前で彼に話しかける。やはりむず痒いが、ここは我慢だ。

 

 しかし私の声は続かず、彼は小さく顎で廊下を指すとさっさと出て行ってしまった。後ろからは「なんだよあの態度」「やっぱりな」「そんなわけないって」といった声が聞こえたが、無視した。なんとなく彼が私の思う通りに行動することがないと思っていた私は、妙に落ち着いた気持ちで彼の後を追った。

 

 

 

 

「で、だ。海老名」

 

 平塚先生は私に問いかける。授業終わりに比企谷君のもとへ彼女からの呼び出しがあったらしい。遅刻をしたことは明確に良くないことなのに、担任である彼女が直接私たちを呼び出さないところに、彼女の優しさを感じた。なかなかできることではないと思う。

 

「今日の遅刻の件だが、まさか…その、朝帰りというわけではあるまいな」

 

 彼女は少しためらったが、至って真剣に私たちに問う。ちょっと、比企谷君と同じ発想じゃないですか。

 

「何言ってるんですか…自分に経験がないからって、妄想を膨らませるのは良くな…うっ!?」

 

 彼の頬を平塚先生のこぶしがかすめる。み、見えなかった…平塚先生、何者!?

 

 ぶるぶるとうさぎのように震える彼のリアクションに満足したのか、彼女はゆっくりとこぶしを戻す。うん、平塚先生は怒らせないようにしよう。

 

「万が一のための確認だ。一応これでも教師だからな。…そのあたりのことはしっかりと把握しておかなければならない。君たちが本当にそういうことをしたとは思っていない」

 

 ふー、とため息をつく。

 

「だが、そうではなくても今日の遅刻はおかしかっただろう。そのあとのことも含めて。…なにかあったのか?」

 

 平塚先生は私ではなく、比企谷君にそう問いかける。私が考えていることなど彼女はお見通しなのだろう。おそらく、私の気持ちも。

 

「…べつに何もなかったし、何でもありませんよ。むしろ俺の人生何にもなさ過ぎるまであります。人間万事塞翁が馬とは言いますが、少しは何かあったほうがいいのかもしれませんね」

 

 そう吐き捨てるが、彼の目は平塚先生には向けられず、虚空をじっと見つめている。いつもの捻くれた発言はどこか空々しく、まるで台本を読んでいるように聞こえた。

 

 そうか、と平塚先生はどこか哀しげに笑った。

 

「だが最近の君たちはどうも仲が良い風に見えてな。私としても喜ばしい限りだったんだよ。だが、それは私にもとても意外なことだった。…何かあったではなく、何があったか、よければ聞かせてくれないか?」

 

 私たちは沈黙する。その顛末を話すには、行間休みは短すぎる。

 

 私たちの沈黙から答えられないことを察したのか、彼女は質問を変える。

 

「ではこれは教師としてではなく、一人の人間として、じょ、女子として聞こう。別に答えたくなければ答えなくてかまわない」

 

 女子、の部分で頬を赤らめる。かわいいなぁ、平塚先生。このかわいさが男の人に伝わらないのが疑問だ。…平塚先生の前でこんなことを口に出さないように気を付けよう。

 

「君たちは、付き合っているか?」

 

 彼を見る。彼も私を見てにやりと笑う。うん、当然のことだ。

 

 私はしっかりと平塚先生へ体を向きなおし、答える。

 

「もちろん付き合ってます――」「――いいえ、付き合っていません」

 

 …え?

 

 私の肯定と、彼の否定が入り混じる。

 

 彼と私は今一度顔を見合わせる。だが、彼の目はいつも通りの濁り具合で、そこには困惑しか見て取れなかった。

 

 …この男、本当に面倒くさい。

 

 

 

 


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