高校三年生になり、一学期が始まった。
これから一年間をともに過ごすであろうクラスメイトたちがクラス替えの結果に一喜一憂するのを尻目に、俺は舟をこぐこともなく速攻で顔を伏せて居眠りを始める。
無論、話しかけてくる人間は皆無。というか俺に話しかけてくる可能性のある人間といえば戸塚くらいしかいないが、その戸塚も今年は違うクラス。むしろ戸塚以外別に話す価値がないまである。よって俺がここで誰かとコミュニケーションを図る必要がない。
至極論理的な理由で、俺は居眠りという選択肢を選んだ。決して、居場所がないわけではない。決して。断じて。ちか、って…。
顔をあげると、あの喧騒が嘘のようにそこには誰もいない。時計の長針は最後に見てから半周ほど進んでいた。あのまま本格的に寝てしまい、誰にも起こされることもなかったのだろう。今クラスメイト達はおそらく、始業式の途中といったところか。
そう考えると、別にいいか、と思えてきた。点呼をとるわけでもない、壇上に表彰で呼ばれることもない、というかなんなら一度も呼ばれたことはない。居ても校長の長い話を聞くだけだ。
思い直した俺はもう一度寝ることにする。ぐー。ぐー。
「いやーやっぱりもう一回寝るんだね」
後ろから聞こえた声に驚き、振り返る。まさか俺に話しかける人間が戸塚以外に存在したとは。誰だ。声の主を見て、俺は渋面を作る。
「はろはろー。予想に違わない、いっやそうな顔だね」
「…うす」
相も変わらずどこの部族のものかよくわからないあいさつをする海老名姫奈に、短く返す。
「そこで迷わず二度寝を選択できるところが、ヒキタニくんだよね」
「一年間を一緒にしただけのクラスメイトに語られるほど、俺の自分は浅くはないが」
「いーや、一緒にしただけのクラスメイトよりかは、ちょっとは君を知ってる自信はあるけどな?」
俺は去年の修学旅行、彼女の問題を解決するために動いた。その時に問題は解決を見せたかに思え、俺自身問題の解消はできたと思いこんだ。しかし実際にはそれは解決ではなく、解消ですらなく、ただ問題を先延ばしにしただけだったが。
「だからそういうことを言うのはやめてくれといったはずだ。惚れて告白して迷惑するのはあんただぞ」
「相変わらず私みたいなのには素直だね。捻くれもなければデレもない。本当に私はどうでもいいんだね」
「捻くれとデレは共存しねえよ。…で、なんで海老名さんは始業式出てねえの?」
「いやー、執筆活動に熱中してたら、周りが見えなくなっちゃって、気づいたら誰もいなかったんだよね」
「俺はともかく、海老名さんなら誰かしら起こしてくれそうなもんだが」
ちなみに「起こす」は「目を覚まさせる」ないしは「現実世界に引き戻す」と読む。
「別に寝てたわけじゃないんだけどな。優美子も結衣もいないからね。クラス替えしたばっかだし、学校にはあの子たち以外にそんな友達もいないから、誰も教えてくれなかったんだよ」
「ほー。そりゃ災難だったな。じゃ、おやすみ」
「ちょっと待って」
にっこりと笑う。俺の貴重な睡眠時間を削らないでほしい。
「速攻で二度寝しようとする君を目にしたら、私も始業式出る気なくしちゃったよ。というわけで、責任とってこの小説呼んでくれない?で、できれば声に出して」
「断る」
即答し、寝る体勢に入る。
「ねえねえヒキタニ君」
なに、まだ何かあるのか?顔をあげる。目の前の海老名さんは髪に手をやり、俺を見下ろしている。そして。
なんの表情もない。
「君、今満足?」
「は?」
彼女が何を言っているかよくわからない。
「言葉通りの意味だよ。君は今の君の立ち位置に、人間関係に、行動の結果手にしたもの、失ったものに、満足してる?」
「…俺は俺のことが嫌いじゃない。だから俺は俺の今の立ち位置も、人間関係も、行動の結果も、すべて嫌いじゃない」
彼女が何を意図してこんなことを言うのかはわからなかったが、一応の答えを出す。この答えは一面の真実でもある。
「別に私は好き嫌いを聞いたわけじゃないよ。好きだけど不満足、嫌いだけど満足ということもあるでしょ。満足か不満足か、それを聞いたんだけど」
「俺の人生不満足しかないからな。無理やり満足だと思いこむしかない。そう言う意味では常に満たされてはいるな」
「はは、本当に素直だけど捻くれてるね、君」
「おい、思いっきり矛盾してるだろ、それ」
「いーや、矛盾してないよ。…受けのヒロインなんだから、ちょっとはひねくれてないと」
ちょっと待って、この人いま恐ろしいこと口走ったよ。小声だったけど、難聴系じゃない主人公の俺にはしっかりと聞こえたよ。
「まあいいや。じゃあそういうことだから、これから一年間、またクラスメイトとしてよろしくね」
「ああ。よろしく」
顏だけ上げて返す。
「うん、期待してるよ、比企谷君」
最後に名前を呼ばれた気がした。しかし彼女の声は扉の閉まる音とともに消え、もともと寝ぼけていたため追及する気もなかった俺の意識はすぐにまどろんでいった。
放課後の図書室というのは、基本的に静かだ。
普段なら図書室に足を運ぶことは少ない。それは言わずもがな放課後は奉仕部で過ごすことが多いからだ。
しかし今日は半日のため、奉仕部の活動はない。かといってこの時間から帰ってもあいにくすることがないうえ、俺ももう三年生。実験もかねて図書室で勉強するのも悪くないだろうと思い足を運んだ。
の、だが。
「はろはろー。図書室で勉強?精が出るねー。…は⁉出るのは精じゃなくて精s…ぶはー‼‼‼‼‼‼‼」
あほがいる。
「もう少し静かにしたほうがいいと思うぞ。図書室なんだから」
「そんなこと言ったって、ヒキタニ君と図書委員以外いないじゃない」
「その図書委員が騒いでるのが問題なんだよ」
なんで材木座こういう時に限っていねえんだよ。ほんと使えねえなあの剣豪将軍。
「まあまあ。で、ヒキタニ君、勉強は進んでる?」
「おかげさまで」
日本史の単語をひたすら書きなぐりつつ、答える。
「うん、よかったよかった」
何がそんなに面白いのか、というぐらい笑っている。まあ、いい。俺には関係ないことだ。
気を取り直し、勉強を続ける。
「ねーねー、ヒキタニ君」
「…」
「私のこと、ま、だ、好き?」
「⁉」
彼女を見る。しかし、そこにあったのはいつもと寸分変わらない笑み。
「…勉強の邪魔はしないでくれると助かる」
「もー、つれないなぁ」
彼女を見ていると、どうもどこかの魔王を思い出す。あんなのが何人もいたら身が持たない。
しかし。俺は思う。
彼女はこんな饒舌だっただろうか。自らの趣味の話や、由比ヶ浜や三浦といった親しい間柄の人間に対してはそうだったと思うが、少なくとも去年彼女は俺に話しかけることはなかった。しかしこうもコンタクトをとってくるということは、何かしらの意図があるのではなかろうか。
そう思い、彼女を見る。が、そこにいたのは薄い本をながめうすら笑いを浮かべている彼女だ。…やはりかかわりはもたないようにしよう。
大体学校で薄い本って、何考えてんだ。しかもそれが図書委員。世も末というか、この魔王が世を終わらせるまである。
「完全下校時刻です。校内に残っている生徒は速やかに下校してください」
下校のチャイムが鳴り、アナウンスが流れる。あれからは海老名さんも特に話しかけてくることもなく、図書室には新学期初日のためか来訪者もなく、穏やかだった。
時計を見ると、16時。本来半日の日だから、完全下校時刻も早い。家に帰ってもいいのだが、買いそびれていたラノベがあることを思い出した。異世界転生ものって、やっぱりいいよね。
「お、ヒキタニ君。帰る?」
「そりゃ帰る」
「そっか。じゃ、いこっか」
「は?」
思わず自然なクエスチョンが出てしまった。
「ほら、行こうよ。早くカギ閉めなきゃ」
そういってポケットからカギを取り出す。
「ああ。さっさと退散するよ」
「うん、そうしてくれると助かる」
帰る準備を整え、図書室を出る。海老名さんは施錠し終え、俺の横に並んでいる。
「じゃ、帰ろっか」
「ああ。じゃあな」
「待って」
鞄をつかまれる。
「ほら、ヒキタニ君、カギ返しに行かないと」
「まあ仕事だししょうがないな。頑張ってくれ。じゃあな」
「だから待ってって。確かに私は図書委員だけどさ、今日はほとんどヒキタニ君一人のために図書室を開けていたんだよ?そこには報いがあってしかるべきじゃないかな?」
「…チっ」
「あれ、今舌打ちした?」
「してません」
はぁ。仕方ない。
「なぜおもむろに財布を出すのかな?」
「500円で勘弁してくれ」
「お金で交渉なの!?…別にお金をとりたいわけじゃないよ。カギを返しに行ってくれればそれでいいよ」
そうする義理もないのだが、ふと以前の彼女の依頼を思い出す。…このくらいの仕事は引き受けて罰は当たらないだろう。
「まあそのくらいなら。貸してくれ」
そういってカギをとる、とろうとする、が、できない。
「…貸してくれないと返しに行けないんだが」
「いや、さっきはそうはいったけど、私も一応図書委員だからさ。仕事でやってるわけだし、いくら何でも君一人に任せるわけにはいかないよ。ということで、一緒に行こう」
「え、やだよ」
「即答とは、本当に予想を裏切らないね。旅は道連れ世は情け。ほら、行くよー」
「…はぁぁぁぁぁ」
ため息を一つ。
「ふんふんふーん♪」
聞こえてないのか、聞こえないふりなのか。
「いやーごめんね、ヒキタニ君。わざわざ付き合ってもらっちゃって」
ちなみに職員室に行く途中、万年独身の国語教師にでくわし、ブツブツと呪詛の念を送られつつ、カギを返しに行った。リア充死ねとか、比企谷、お前もかとか。いや、こえーよ。
「何が付き合ってもらっちゃってだよ」
「ん、なんか言った?」
「特に」
駐輪場につく。どうやら海老名さんも自転車通学らしい。駐輪場まで一緒にきたが、彼女も自転車を取りに行く。なに、駐輪場まで女の子と一緒に行くとかどこのリア充ですか。女の子どころか俺は男とも一緒に行くことはないんだが。
自転車をとり、校門まで自転車を押す。
「じゃあ、俺こっちだから」
ラノベ買いに駅に寄っていくことにする。
「うん。今日はありがとね。じゃあ」
彼女と校門で別れを告げ、駅に向かう。
にしても、今日の海老名さんは少しおかしかった。もしかしたら、また何か厄介ごとを持ち込んでくるかもしれない。
まあ俺から動くことはない。というか、仕事じゃなければ何もやらないまである。でもそれだと逆説的に考えて、仕事なら何でもやることになりませんかね。なに俺超社畜。
信号がぎりぎりで変わったので止まる。別にさして急いでいるわけでもない、むしろ時間をつぶしているので、無駄な時間は望むところだ。
「ありゃりゃ、いまいけたんじゃない?」
横には自転車にまたがる海老名姫菜がいた。
「…」
「ヒキタニ君、なんで無言なのかな?」
そのくらい察してくれ。
「学校の外で学校の人間にあったら気まずくなるだけだからな。他人の振りすることにしてるんだよ。」
「はは、君らしいね。その腐りっぷり」
「あんたほど腐ってるつもりはないが。じゃ、気を付けて」
信号が変わり、ペダルに足をかける。完璧なタイミングかつ、素早く去る…進まん。
横にはすっとぼけた顔の海老名さん。
「荷台をつかむのはやめてくれませんかね」
「ならどこならつかんでもいいの?」
「その返しおかしいだろ…。そもそもなんでつかんでんの?」
「だって比企谷君、家こっちじゃないよね?今からどこ行くの?」
「え、いや、駅だけど」
しまった。不意の質問につい答えてしまったが、答える必要はなかった。
…ん?なんでこの人俺の家知ってんだ。
「なんで俺の家…」
俺が聴き終える前に彼女はまくし立てる。
「そうなの?じゃ、私も今から駅の本屋行くから、一緒に行かない?」
「は?」
言葉に詰まる。この人は何言ってんだ。
「バカか。大体おれが女と二人っきりで一緒に出歩いて、勘違いしないわけねえだろ」
言外に気持ち悪さをにじませる。買い物は一人でしたい派なのだ。それに学校でのことを含め、今日一日の彼女はあまりに彼女らしくない。厄介ごとは御免である。
「別に勘違いしてくれてもいいんだけどな…」
「はい?」
「だ、だから、別にそんなこと気にしなくてもいいから。減るものでもないし、べつにいいでしょ」
「いや、俺が気にするって言ってるんだが…」
「私がいると、邪魔かな?」
上目遣いで聞いてくる。いや、おかしい。彼女はこんなキャラでもなければ、こんなかわいくもなかったはずだ。学校では、上位カーストの腐女子であり、俺にとってそれ以上でもそれ以下でもない。一度奉仕部で依頼を受けただけ。
海老名姫菜がこんなにかわいいわけがない。
「…は?」
「…え?」
恐る恐る横を見る。横の彼女は、頬は上気し、手は髪の毛をいじったり眼鏡を直したりとせわしない。
「か、かわ、かわ、かわいい…?」
彼女の顔は真っ赤になる。真っ赤っかで、今にも爆発しそう。
…やっちまったあああああああああああああああああ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。なんなの?心の声がつい出ちゃうとか俺どこのラノベの主人公なの?ご都合主義なの?いやでもあれはヒロインも主人公のことを好きだからご都合主義になるわけで、俺がやってもただの気持ち悪い奴…キモイのはデフォルトでしたね。てへっ☆
「ま、前から私のこと、そういう風に思ってたの?」
「い、いや今のは言葉のあやというやつで…」
「じゃあ不細工だと思ってたんだ」
「決してそういうわけではないんだが…」
「…」
「…」
沈黙が怖い。
2、3分そうしていただろうか。さすがにいたたまれなくなり顔をあげると、そこにはいつもの微笑をたたえた海老名姫菜がいた。
「買い物付き合って、くれるよね?」
「…はい」
女の笑顔は怖い。