月曜日。今まで何度も耳にしたことのある目覚まし時計の音で目を覚ます。もはや習慣になっているかのように手を伸ばして目覚まし時計を止める。まだ多少の眠気は残っているが、学校に遅刻するわけにはいかないので、モゾモゾと布団から這い出て、ベッドの木柵に背中を預ける。
意識が完全に覚醒していないために、ボーッと部屋を眺める。少しずつ意識がはっきりとしてきて、とりあえず動こうとベッドから降りる。体を伸ばすように大きく伸びをする。途中、机の上に置いてあるピンク色のフォトフレームに目が行く。
胸の内側から暖かい物がこみ上げるのを感じ、机に歩み寄りそれを手に取る。フレームの中には昨日、神宮君と一緒に水族館に行ったときの写真が飾られている。手をつないでいるわたしたちの背景として色々な魚が水中を泳いでいる。神宮君が少しぎこちない表情を作っているがご愛敬。
手に持ったフレームを眺めながら昨日のことを思い出していると、少し時間が押していることに気がついたので、フレームを机の上に戻す。
部屋を出る際に机の方を振り向き、もう一度フレームを視界に入れる。今日も楽しい一日になればいいな、と思いながら部屋を出た。
○
放課後になって、わたしは部室のソファーで小説を読んでいた。少し顔を上げて部室を見渡してみると、後輩の子たちがそれぞれ卓に座って対局を行っている。
わたしたち中心になったとはいえ、わたしたちだけが打つわけではない。団体戦を想定して「チーム虎姫」と他のチームとで対局を行う予定なのだが、菫が進路相談、淡が授業課題の未提出で遅れるそうなので、今はわたしたちが休憩時間で他のチーム、二軍の部員の子たち時間だ。
パチ、パチと聞こえる牌の音。その音に耳を傾けながら小説の続きに読みふける。尭深がお茶を入れてくれたようで、コトリ、とわたしの前に湯呑みが置かれる。ありがとう、と礼を言って時計を見る。そろそろ菫の進路相談が終わる予定の時間だ。読んでいたところが分かるように栞を挟み、本を閉じる。
尭深の入れてくれたお茶と『あまね』の和菓子を味わっていると、ガラリ、と部室の扉が開く音がする。牌の音が小さくなっていき、そのままいつものように挨拶が聞こえると思ったが、どうも聞こえない。どうしたのだろう、と思ったが、いつもより少し遅いタイミングでバラバラに挨拶が行われる。何かあったのかな、と部室の入り口を見てみると、菫ともう一人。菫の隣で部室を見渡している神宮君がいた。彼とわたしの目が合い、距離が遠いためか目で挨拶をされる。菫が「もう再開してもいいぞ」と他の部員の子たちに呼びかけ、こちらに近づいてくる。それに神宮君も続く。他の部員の子たちは菫の言葉に従って、それぞれの対局、作業を再開する。
菫が近づいてきたためにソファーに座っていた亦野と尭深が菫に挨拶をする。わたしも二人に続いて菫に挨拶を行い、隣にいる神宮君に目を向ける。
「えっと、神宮君、いらっしゃい……?」
わたしの言葉に彼は「おじゃまします、宮永さん」と返してくる。菫に「どうして彼が?」と聞くと答えを返してくれた。
「なに、進路相談が終わった後に教室を出たらたまたま会ってな。コイツもわたしと同じ用事だったようだ。で、まあちょうど良いから連れてきた。前に誘ったのに来てくれていなかったからな」
「大会が近いみたいだからちょっと気が引けてね、お邪魔じゃないかな」
そういった彼は少し申し訳なさそうにしている。菫が「問題ない」と言ってからわたしの隣に彼を誘導する。
「ほら、そこに座れ。尭深、悪いが茶を頼めるか?」
「はい、待ってて下さい」
尭深がお茶を入れに席を立ち、それと入れ替わるように神宮君が隣に腰を下ろす。
「亦野、知ってるかもしれないが神宮だ」
菫が亦野に彼のことを紹介する。
「二年の亦野誠子です。いつも菓子をありがとうございます」
亦野は席を立ち、彼に挨拶をする。それに対し彼は困った顔を浮かべてこう答える。
「三年の神宮湊です。宮永さんにあげてる物だからそんなに気にしなくてもいいよ」
そうして二人が挨拶をしていると、尭深がお茶を持って戻ってくる。
「粗茶ですが……」
持ってきたお茶を彼の前に置きながら尭深が言った。
「あ、ありがとう。えっと……」
尭深の事を知らないので、名前を呼べずに言葉を詰まらせる。そんな彼の様子に気がついた尭深が自己紹介を始める。
「二年、渋谷尭深、です。お菓子ありがとうございます」
「三年の神宮湊です。さっきも亦野さんに言ったけど気にしないでいいよ」
彼の言葉に「はい」と答えて尭深はソファーに腰を下ろす。それと同時にいつの間にかわたしの隣に腰を下ろしていた菫が口を開く。
「淡はまだ来てないのか、ずいぶんと時間かかってるな」
「大星の出してない課題、今年入ってきた国語の先生の課題らしいですよ」
亦野の言葉に菫がなるほどな、と得心したように頷く。
「ああ、あの先生か。だったら仕方ないな」
「そんなに厳しい先生なのかい?」
菫の言葉に神宮君が問いかける。
「ん? ああ、お前と照のクラスは違う先生か。課題を出さない奴には厳しいな、出せば出した分成績に色をつけてくれる先生だ」
答えを聞いた彼は、そういうタイプか、と納得する。
そんな彼を見ていると、勢いよく部室のドアが開かれた。
「ごめんテルー! 遅れちゃった!」
淡が部室に来て早々にそんなことを言ってくる。
「おい、淡。挨拶をしっかりとしろ」
「はーい、皆さんおつかれさまでーす」
菫の言葉に応えて、投げやりに部員へ挨拶をした淡はこちらに近づいてくる。そしてわたしの隣に座る神宮君を見て、ピタリと動きを止める。
「わるい人!」
「え?」
いきなり指をさされて悪人呼ばわりされた彼は気の抜けた声を上げる。
「人を指でさすな」
淡の手を菫が自分の手で押さえ付けて叱る。
「えっと、僕、彼女に何かしたかな? たぶん初対面だと思うんだけど」
そうわたしに聞いてきた神宮君だったが、わたしとしてはそれに答えることが出来ない。いつだったか、菫に「あいつはお前が神宮にとられたと思って嫉妬してるんだよ」と言われたが、それをこの場で言うのは勇気がいる。どうしようかと思っていると尭深が声を出した。
「気にしないで下さい、淡ちゃんが勝手に言ってるだけですから」
そう言ってから「淡ちゃんのお茶持ってきます」と言って席を立つ。
そんな尭深を見送りながら、神宮君が立ちあがった。
それを見た菫が彼に向かって口を開く。
「コイツは一年の大星淡だ。淡、いつも菓子をもらってるんだから挨拶くらいはしろ」
「……大星淡。いつもお菓子ありがとうございます」
プクッと頬を膨らませて、いじけたように口を開く。
「神宮湊です。えっと、まあ、よろしくね」
そういってから、神宮君はソファーに座る。そして、それにしても、と言ってから言葉を続ける。
「麻雀部の部室には初めて来たけど広いね、やっぱり全国いってると色々援助が来るのかな」
「うん、自動卓もいい物だし、ほかにも結構融通が利くみたい」
へえ、と呟いた彼をみて、ふと、こうして部室に来てくれているが、時間は大丈夫なのだろうかと心配になり質問してみる。
「そういえば、時間は大丈夫? 家の手伝いとかあると思うんだけど」
「もともと進路相談で遅れる予定だからまだ大丈夫だよ」
「ならいいんだけど」
迷惑かけてないようで良かった、と思っていると、対面に座っていた淡が立ち上がり、神宮君に向かって口を開く。
「神宮先輩! 勝負しよう!」
「だから指をさすなと言っている」
神宮君に向けていた指をまた菫に戻される。
いきなり勝負を仕掛けられた神宮君は苦笑してからこう告げる。
「麻雀はルールを軽く知ってるくらいで、役もほとんど覚えてないから勝負にならないと思うよ」
「ぶー、じゃあ、じゃあ――」
別の勝負事でも申し込もうとしているのか色々考えているのだろう、でもこれ以上は神宮君に迷惑になるだろう。
「淡、神宮君が困ってる。大丈夫、淡は大切な後輩だよ」
わたしの言葉の前半でムッとした淡だったが、続けて言った言葉に気をよくしたのか表情が戻る。
淡が少し悩んでから、こう口にする。
「むう、テルがそういうなら……。神宮先輩といるテル楽しそうだし……」
淡がそう言ったのを聞いた亦野が思いついたように口を開く。
「楽しそうと言えば、私昨日先輩たち見かけましたよ。手つないでましたよね」
その言葉に「え……」と動きが止まる。気のせいじゃなければ部室内の牌の音も小さくなっているような気がする。
菫が、ほう、と言ってから楽しそうに言う。
「土日に『あまね』に行くとは言ってたが、まさか一緒に出かけていたとはな」
ちなみにどこでだ? と菫が亦野に聞くとわたしたちが昨日行った水族館の名前出す。
「いや、久々の二連休だったので張り切って釣りしに行った帰りだったんですけど、先輩たち二人が水族館から手をつないで出てきてびっくりしましたよ」
あ、近くの釣り堀に行ってたんですけどね、と付け加える。
隣の彼を見てみると「見られちゃってたみたいだね」と苦笑いしている。
「じゃあ、テルと神宮先輩デートしたの!?」
淡がその言葉を言った瞬間、牌の音がさらに小さくなった。なんとなくだがみんなが聞き耳を立てているんだろうなと分かった。
「うん、まあ、そういうことになる」
チラリと神宮君の方を見ると、「仕方ないよ」と目で言われたのでそう返事をする。少しだけ顔が赤くなっているかもしれない。
その返事に淡や他の部員から「おお」という声が漏れる。
「じゃあ、じゃあ、誘ったのってどっちから?」
淡がそう言ってから、さらに矢継ぎ早に質問を重ねてくる。というより、さっきまで神宮君に不満げな応対してたのにそんな事は知らん顔だ。
逃げられない、と思ったために諦めて二人で質問に応じる。
いくつかの質問に答えた後に菫が口を開く。
「淡、ストップだ。突っ込みすぎも良くないだろう。な、照」
「もうちょっと早く止めて欲しかった」
「そう言うな、私も人並みに興味はある」
ところで、と菫が神宮君の方を向いて言葉を放つ。
「神宮、そろそろ時間じゃないか?」
「え、ああ、本当だ。さすがに帰ろうかな」
そういってソファーから立ち上がる。そして「渋谷さん、お茶おいしかったよ。ありがとう」と言ってから菫たちに挨拶をする。そして、最後にわたしの方を見る。
「それじゃあ宮永さん、また明日」
「うん、また明日」
言葉を交わした後に彼が部室から出て行く。ソファーに体を預け、ふう、と息を吐く。同時に部室の空気も少しずつ元に戻っていく。なんだか一気に疲れがきた。
ある意味元凶でもある亦野の方を見ると、申し訳なさそうにしながら言ってくる。
「いやぁ、なんか余計なこと言いましたかね、私」
「亦野」
「はいっ!」
名前を呼ぶと背筋を正して返事をする。
「空いてる卓で打とう、ドボンなしで」
「え!? いや、ドボンなしって何点削る気ですか!?」
「テル打つの? じゃあ私も入る!」
そう言ってきた淡をつれて適当な卓に行く。とりあえず削れるだけ削ろう。口が滑っただけなんですって! と言っている亦野を席に座らせる。
別に怒っているわけではない。
ただ、出来ることならもう少しだけ、昨日のことはわたしの中にとどめておきたかっただけだ。
昨日の楽しかった思い出を。昨日一緒に過ごして自覚したこの気持ちと一緒に――。