その瞬間は突然やってきた。
運命的な、云わば人生を変えるような瞬間は、別段大仰な前振りの後にやってくるという訳ではないようだ。実際、地球の反対側で嵐を巻き起こすと言われる蝶の羽ばたきだって、日常にありふれていて、その前触れすら知覚し得ないだろう。
世の中には不思議なことが起こるものだ。身体の神秘というべきか、先端技術の生み出した不確定的事象というべきか。
とにもかくにも、神の見えざる手による乱数調整の結果、俺の脳は一つの奇跡を起こした。
即ち、前世の記憶が蘇ったのだ。
現在、俺は姓が変わり合歓結弦と名乗っているが、その頭脳に、旧・音無結弦の記憶が割り込んできたのだ。
前世の記憶が蘇るという事例は少なくはないとされる。アメリカには、地図上の都市を指差して、自分はここで死んだ、と言った少年がいたという話を聞いた。
俺の記憶が正しければ、小泉八雲ーー本名ラフカディオ=ハーンの書いた怪談小説にも似たような話があった。
実際、前世の記憶が蘇る、ということ自体それほど稀なことではないのかも知れない。皆、変人扱いされるのが嫌だから隠していて、その実、結構な人数が居るのかも。
前座が過ぎたな、つまりは俺が死後の世界で起きたことを思い出した、ってことだ。余すことなく。
SSSでの思い出も。ギルドでの冒険譚も。無茶苦茶なオペレーションも。直井との抗争も。皆を襲った影との戦いも。そして、かなでのことも。
未練を抱き、死んだ後、記憶の無きままに体験した、俺の胸の穴を埋めてくれた数々の記憶。それが今、再び生命を手にし、転生した俺の下に宿った。
おっと言い忘れていた。一体いつ俺の記憶が蘇ったかって?
ゲームの中でさ。
VR技術、というのは21世紀に入った時点である程度の研究がなされていたらしい。
特に2010年からは一挙にその技術が進展した。医療や航空機、列車操縦などの専門的職業に限らず、旅行やアトラクション体験などの娯楽方面での疑似シミュレーションにも用いられるようになった。
そして、2022年。《ナーヴギア》というVRマシンが誕生した。その用途は、ゲーム。最新技術をゲームに利用しようとする辺り、流石クールジャパンだ。
さらにそれのソフトウェアとして開発されたVRゲーム史上最大規模のMMORPGーー名を《ソード・アート・オンライン》。天才プログラマー茅場晶彦による最高傑作だ。
選考に選ばれたユーザーによるベータテストを終え、ついに同年2月31日、《SAO》は世に解き放たれた。
かくいう俺と言えば、見事志望大学の医学部入試を現役合格の栄光とともに乗り越え、反動で遊びに明け暮れようと画策していた最中にこの吉報。
ちょうど合格祝いをたんまり貰ったことだし、これは羽根を伸ばす良いチャンスと思い至り、発売日5日前から店頭に並び、苦心の末ようやく手に入れたのだ。
正式サービスまでの一週間までをまだかまだかと悶々たる思いで過ごし、ようやく来たるは3月7日。
取説とにらめっこしながらやっとセットアップ完了。あとは《ナーヴギア》を頭に被り、あの言葉を口にするだけ。
「ーーリンク・スタート」
直後、視界ーー正しくは《ナーヴギア》から送られる電気信号を脳が変換した映像がブラックアウトした。
僅かなウェイトの後、奥の方から極彩色の矩形オブジェクトが流れてきて、最後に全てが白に染められた。
この瞬間だった。俺の脳に高圧電流のような衝撃が走った。それは刹那的なものかもしれないし、ともすれば長時間に渡ったものかもしれなかった。
咄嗟に視界の右上の時計を確認し、ダイブ前に自室の時計で見た時間と分単位で同じことを確認する。
そして、脳裏に去来する或りし日の記憶。この時、俺、合歓結弦は死後の世界における音無結弦の記憶を継承したのだった。
突如として雪崩込んできた記憶に混乱する中、視界に到来したのは“Log in”という文字。
その後、曖昧とした意識の内に、ガイドの指示に従ってアバターの容姿を決定し、最後にアバター名を決めろ、との御達示。
そうだな。仮想世界における仮の名前とは言えど、デジタル上に半永久的に残るものだからなぁ。そう安直には決められまい。……よし、決めた。
《Otonashi》ーーと、入力欄にそう打ち込んだ。せめて俺だけでもあの日々の記憶を忘れないために。
幸い、既に同じ名のプレイヤーは居なかったようだ。《Otonashi01》とか、折角の感傷的な気分が台無しになっちゃうだろう?
視界に再び矩形の極彩色が流れる。今度は、手前から奥にだ。電瞬、白の世界をより白く染めるフラッシュが瞬いた。
視界に表示された単文が脳裏に刻まれたようににちらついた。“Welcome to Sword Art Online”と。
気付けば、街が広がっていた。文明レベルは中世ヨーロッパと言った感じだった。
しかしそれらも情報素子の集合体である3Dオブジェクトにより構成された仮初めの世界である。
「だとしても、いやにリアルだ……」
俺を360°景色を隈無く見渡し、両手をグッパした。
「どうみても現実そのものだし、身体動作にも違和感がない」
それもそのはずだった。そもそも現実空間においても仮想空間においても身体の動作に関する信号は脳から発せられる。つまり全くといって違いがないのだ。
俺は視界左上を見た。《はじまりの街》とマップ名が記されている。まさに此処こそがゲーム内における冒険の出発点なのだ。
今までSAOに先行して発売されていたソフトウェアもプレイしたが、いずれもパズルやミニゲーム的なものなど、VRの真価を発揮できないものが多かったので、このSAOというゲームの壮大さに俺の脳は若干オーバーフローを起こしかけていた。
ある程度の情報整理が終わったことにより、波濤のごとく押し寄せた継承された記憶。また、それに伴う感情。流石にこれには脳も処理に困難を極め、俺はそこらの地面に腰を下ろし、額を手で抑えた。
「あの……大丈夫ですか?」
声が掛けられた。声の主を見れば、それはそれは美少女。しかし、これはあくまで仮想空間における仮初めの容姿。現実世界じゃ如何な醜女かも分からん。
「ええ、大丈夫です」
反射的にそう答えた。
「そうですか……失礼。唐突に倒れ込まれたもので」「すみません、ご心配をお掛けして」
優しい人だ、とそう思った。俺なら見ず知らずの相手にいきなり声を掛けることなどできない。これも仮想空間という現実と隔離された世界だからこそ出来ることなのかもしれない。
「あの……」
少女がおずおずと口を開く。
「もし、ご迷惑でなければ色々とVRゲームに関して御指導御鞭撻頂ければ……」
マジか。俺ってば一体全体どこでフラグを立てたのだろうか。しかし、落ち着け。ここはあくまで仮想世界。現実とはまた常識を異にする、と。
「ええ、いいですよ。といっても俺自身VRゲームに関する見識は甘い方ですが」
「いえいえ、助かります」
少女は微笑んだ。何故だろう。背筋に灼け付くような感覚があった。
転瞬、街の様子がガラリと変わった。より正確に言えば、街の広場に唐突に大勢の人間が現れたのだ。
「な、何ですかこれ……」
少女は戸惑うように言った。
「焦る必要はないと思われますよ。恐らくこれからGMからのチュートリアルがあるのでは?ーーほら」
言うやいなや、アナウンスが鳴り響き、広場の一角にアラートウィンドウが出現した。
そこから現れたのは黒の外套を纏った巨人。恐らくあれがGMだろう。それを確認してか少女は安堵の息を吐いた。これからGMによるチュートリアルが始まるのだ。この場にいる誰もがそう確信していた。
しかし、その確信は最悪の形で外れることとなる。黒の外套の男はこう告げた。曰く、
「私の名前は茅場晶彦だ」
「君達プレイヤーをこのゲームに閉じ込めた」
「ゲーム内で死亡した場合、《ナーヴギア》に搭載されたマイクロ波照射装置が現実のプレイヤーの脳を灼き切る」
「ゲームにおける死は、現実における死」
「クリアするにはアインクラッド最上層の100層までを攻略せねばならない」
と。茅場晶彦が語り終えて尚、俺は現状をいまいち理解できていなかった。
だってそうだろう。ゲームと現実の死が直結するなんて誰も考えやしない。ちらと少女を見やると、彼女も口を開けて唖然としていた。
最後に茅場晶彦は左手でスライドさせて出したウィンドウを弄くると、プレイヤー全員にアイテムを与えた。
それは手鏡のようだった。次の瞬間、あちらこちらから悲鳴が上がっていた。何事かと周囲を見渡す。最初は何が起こったのかと把握しかねていたが、プレイヤーの喚き言から察するに、どうやらアバターが現実世界のプレイヤーの容姿と入れ替わったようだ。ってことは俺もなんだろうな。そういえば、セットアップ段階で身体のスキャニングをされた気がする。
まあいいだろう、実害はあまり無いし。しかし、こいつは辛いだろうな、主にネカマとかにとっては。
ということは俺の隣のこの美少女も現実世界の容姿になっているということだろう。しめしめ、そいつは是非拝んでみたいな。せめて醜女でなければいいが。しかし、そこにあったのは俺の予想を遥かに超えた容貌だった。
それは、如何にも阿呆で、間抜け面をした男だった。
というか日向だった。
この後も、もう少し投稿します。