闇鍋   作:OKAMEPON

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こちらはSteins;Gateの二次小説で、岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖のカップリングが含まれております。


『越鳥南枝のカプリッチオ』(オカクリ)

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どうしてこうなった。

 

 

 

目の前に転がった、物体“X”としか表現しようのない固形物を前にして。

紅莉栖は幾度目とも知れぬ問いを繰り返した。

 

本来ならば濃厚な甘い薫りが漂う筈なのに。

何故か強烈な生臭さと、何か傷んでいるかの様な独特のすえた臭いが紅莉栖の鼻を刺激する。

流石にこれを口に入れようとは思えない。

ましてや、これを贈るなどもっての他だ。

 

カレンダーの日付は既に2月も既に一週間以上が過ぎた事を指し示している。

輸送に掛かる時間を勘定に入れると時間の猶予は既にあまり無いのだ。

しかし現実は非情であり、時間を巻き戻す事など出来ず、物体“X”は目の前から無くなったりはしない。

 

 

2月14日。

世間一般には“バレンタインデー”と呼ばれる、ちょっとした祭日。

これまでの紅莉栖にとっては名前以上の意味もそれ以下の意味も無い、そんな日。

だけれども、今年は少しばかり事情が異なった。

 

故にこうして原型を最早留めていない、元:チョコレート、現:物体“X”を前にして深い深い溜め息を吐いている訳なのである。

 

 

何故バレンタインデーなのにチョコレートが関与するのか。

それには少しばかり時間を遡らなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それは年が明けて三週間程が経った頃の事であった。

紅莉栖は最近できた(……と言っても四ヶ月程前の事だ)生まれて初めてと言っても過言では無い友人と、メールのやり取りをしていた。

アメリカから遠く離れた日本に居る友人と触れ合える時間はそう多くは無い。

だけれども、メールなどを通して絶えずやり取りを出来るだけでも紅莉栖は十分に嬉しかったのだ。

研究者としての紅莉栖ではなく、素に近い紅莉栖として付き合える貴重な友人を紅莉栖は大切に想っているし、その友人もまた、ふんわりとした彼女の優しい気質が伝わってくる様な文面で紅莉栖の事を気遣ってくれていた。

 

さて、そうやって何時もの様にメールのやり取りをしていた訳なのだが、ふとその友人……椎名まゆりが紅莉栖に訊ねてきたのである。

曰く、『クリスちゃんはオカリンたちにチョコレートをわたすのかな?』と。

 

オカリン……岡部倫太郎については後で触れる事にしよう。

それより何より、チョコレートだ。

 

まゆりに問われた時、紅莉栖には全く意味が分からなかった。

 

唐突なその言葉。

前後の文脈から見ても、『チョコレート』なんて単語が出現した理由が皆目見当も付かぬ。

 

チョコレート? 渡す?

一体まゆりは何を言っているのだ?

 

有り体に言えば、紅莉栖は困惑した。

軽く混乱したと言っても良いのかもしれない。

 

ある種の文化的・社会的慣習を下敷きにした“常識”は、異なる文化圏に居る者に対しては通じない事がしばしば起こる。

まゆりと紅莉栖との間に起こったのも、まさしくそれであった。

前提として話している“知識”に齟齬があった為に生じたものだ。

 

まゆりは暫しして、紅莉栖が『一体何の為のチョコレートなのか』を分かっていなかったのだと気が付いたらしく、それの補足をしてくれた。

 

 

まゆりの補足の趣旨を総括すれば、『バレンタインデーは男性にチョコレートを贈るイベントである』との事であり、故に同じ未来ガジェット研究所のラボメンである岡部たちにチョコレートを贈るのか、とまゆりは訊ねていたのだった。

 

まゆりが言わんとしていた事は理解したが、それでもまだ紅莉栖にはよく分からない部分があった。

 

紅莉栖にとってはバレンタインデーはあまり自分に関係無い行事であったが、研究所の同僚が恋人に花束を贈っているのを横目で見る事は何度もあったし、ディナーを恋人と過ごす予定を立てている同僚もよく見掛けた。

アメリカではバレンタインデーとは、恋人などの相手に、主に男性が何かしらの贈り物をする日なのである。

贈り物はバラなどの花束であったり、チョコレートなどの菓子であったりと、それは贈る人各々であっただろうけれども。

基本的には、“好きな人”へ贈り物をする日であるのだ。

 

…………。

つまりまゆりは、『紅莉栖ちゃんはオカリンのことが好きなんだよね?』と言いたいのだろうか?

と言うか、何故こちらから贈る事が前提で、しかも贈り物がチョコレート限定なのか……。

 

まゆりの説明を聞いても完全にはしっくりとはこなかった紅莉栖は、困った時の@ちゃん頼みとばかりにネット掲示板で『バレンタインデー』と『チョコレート』について調べ回ったのだ。

紅莉栖はコテハンまで使用し時にはIDを真っ赤にしてしまう程の生粋の@ちゃんヘビーユーザー、所謂ネラーではあるが、全ての板に満遍なく出没している訳では無く、興味が無い板に関しては全くと言って良い程に目を向けた事が無かったのである。

故に、毎年の様に@ちゃんでうまい棒購入運動だの何も貰えない男性陣の怨嗟だのが渦巻く日本のバレンタインデー事情を知らなかったのだ。

 

過去スレ等に目を通し、比喩では無く半年分程のログをROMった紅莉栖は漸く理解した。

 

 

━━日本において魔改造されたバレンタインデーの姿を。

 

 

日本に於いてバレンタインデーとは、『女性が好きな相手にチョコレートを贈る日』であるとされているのだ。

 

 

尚、好きな相手に贈る『本命チョコ』以外にも、お世話になってる人や親しい人にも『義理チョコ』を贈る事もあるらしい。

近年では女性の友人間で贈る『友チョコ』やら、自分へのご褒美に購入する『自分チョコ』やら、男性から女性に渡す『逆チョコ』などもあるのだとか。

とにもかくにも、バレンタインデーの贈り物はチョコレートであると言うのが日本での定番で、しかもそれは基本的には女性から男性に贈る物であるのだった。

 

きっと岡部ならば製菓会社の陰謀論でも唱えているのではないだろうか。

実際、日本式バレンタインデーの風習はモロゾフ製菓だかメリーチョコレートカンパニーだかの製菓会社が仕掛人として考案したモノが発端に在って拡がったものであるらしいので、その主張の一部は正しいのだろう。

と言っても、考案してから一般に拡がるには随分と間があった事を考慮すると、製菓会社の陰謀とは言い切れない。

たとえ切欠を作ったのが製菓会社であるのだとしても、それを実行して広める人が居なくては、イベント事としては定着しないのだ。

日本社会に日本式バレンタインの風習を定着させたのは実際の所は主に学生であったとされている。

 

成る程、思春期の子女にとっては意中の相手に想いを伝えるのに“イベント事”であるとの後押しはあって嬉しいモノであるし、ある程度の様式を設定されてると益々気安くイベントとして乗れるものなのだろう。

そう言う観点で見るのなら、製菓業界のキャンペーンもあったとは言え、様式として花やケーキやカードを差し置いて“チョコレート”を贈答の品として選択したのも一応理解出来なくは無い。

高級品に目を向ければキリが無いのは同じだが、安価なチョコレートも多い。

手作りにすれば、時間と手間は多少は掛かるが原価として見れば安いモノだ。

その点で、お財布事情的にあまり金銭を割く事が出来ない学生には優しい。

花などは案外値が張る品なのだ。

それでいて、貰った方の感覚としても悪い気はしない品だろう。

 

そして何よりも、チョコレートは食品である。

基本的に日本においては食べ物は贈答品として好まれる傾向があるのだ。

日本にある御中元・御歳暮に関するアンケートでも飲食物が喜ばれる傾向にある、と言う結果が出ている。

日本で食品が贈答品として重視される背景には民俗学的理由があると考察されたりもしているが、背景的な部分はさておいて、基本的に食べ物を貰ったら悪い気はしないものなのだ。

 

つまり、食品と言う喜ばれ易い品であり、比較的手頃な価格帯に収める事が出来るチョコレートを贈るのは、理に叶っていると言えるのではないだろうか。

 

 

そこまで考察して、漸く紅莉栖は日本式バレンタインデーに納得したのであった。

 

 

 

納得のした所で、では自分どうするのか、と言う問題が頭を擡げてくる。

別に所謂“本命チョコ”でなくとも、お世話になったり親しい相手に“義理チョコ”を贈ったりするのであれば、紅莉栖がラボメン達にチョコを贈るのは何もおかしくは無い事であろう。

皆各々に曲者揃いなラボメン達であるが、それでも彼らと過ごしたあのラボはとても居心地が良い場所であったし、仲間だ友達だと素直に認める事が出来る貴重な相手だ。

特に、ラボのリーダーである岡部に対してなどは、世話になったなんて言葉で片付けられる様なモノではない。

 

岡部が居なくては、紅莉栖が今こうして生きている事は無かったのだ。

そう、彼は所謂命の恩人であり、それ以上の存在であった。

 

それについて語る為には、紅莉栖と岡部の出逢いにまで遡らなければならない。

 

二人が出逢ったのは、去年の夏。

秋葉原の一画にある、“ラジオ会館”と言う建物の中での事であった…………。

 

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

先の夏のとある日。

幾年振りかに帰った日本の秋葉原のとある場所で、紅莉栖は殺されかけた。

しかも、その相手は実の父親であった。

人目を忍ぶ様に人気の無い奥まった場所で、数年振りに対面した父親に、紅莉栖は殺されそうになったのだった。

そんな、誰かの助けなど期待出来ない状況下で、まるで前以てその事を知っていたかの如きタイミングで物陰から現れて紅莉栖を助けてくれたのが、岡部であった。

だが、紅莉栖が覚えているのはほぼそこまでだ。

 

紅莉栖を庇って岡部が腹を刺された所までは覚えている。

……?

……岡部がナイフを弾き飛ばしたのだったか……?

……いや、違うか。

紅莉栖を庇って岡部が刺された。

彼の体に父が手にしたナイフが突き刺さる瞬間を紅莉栖は確かに見たのだから、間違いはない。

……何で岡部がナイフを弾いたと思ったのだろう。

まあ、良い。

あの時はひどく混乱していたし半ば恐慌状態であったのだ。

記憶に一部乱れが生じていても、おかしくはない。

基本的に“記憶”とは“嘘”を吐きうるものなのだから。

 

ともかく、紅莉栖は岡部に庇われたのだ。

だがしかし、そこから先の記憶は途切れている。

それは極度の精神的負荷故に気を失ってしまったからなのかもしれない。

 

紅莉栖の意識が戻ったのは、それから少しの時間が経っての事であった。

慌てた救急隊員が呼び掛ける声で目を覚ましたそこは、まさしく“血の海”と表現すべき凄惨な事件現場と化していた。

その血の海の只中に紅莉栖は独り横たわっていた訳なのだが、自身には目立った傷など一つも見当たらず。

ならば、と。

この血が、自分を庇って父に刺された、“鳳凰院凶真”と名乗っていた男性のモノであろう事は想像に難く無かった。

だがしかし、周囲に父はおろか彼の姿も無かったのだ。

 

あの量の血を流せば、それは即刻命に関わるだろう。

直ぐにでも高度な医療処置を受ける必要があるのは明白であった。

だが、幾ら探しても、彼らしき人物が病院に搬送されたと言う事実は無かったのだ。

それが意味する所とは則ち、彼が既に命を落としたと言う可能性だった。

しかし、彼らしき遺体が発見されたとの情報も無い。

 

被害者も加害者も揃って行方不明と言う不可解な殺傷事件があった事を証明するのは、被害者に庇われた紅莉栖の証言と、現場に残された紅莉栖のモノではない何者かの大量の血痕……、それだけであった。

最初の内こそ警察から事情聴取を紅莉栖は何度か受けていたのだが、事件に何の進展も無い為か、行方不明になっている父を重要参考人として指定してからは全くと言って良い程に何も無く。

娘を心配した母からアメリカへ帰る様に何度か促されていたのだが、それを断って紅莉栖は秋葉原に留まり続けていた。

 

それは偏に、自分を助けてくれた彼を探す為に。

 

それはとても無謀な賭けの様なモノであった。

紅莉栖に残された彼への手懸かりは、自称していた“鳳凰院凶真”と言う名前と彼が白衣を羽織っていた事位だ。

しかし幾ら調べても“鳳凰院凶真”などという名前の人物などこの日本にはおらず、強いて言えば@ちゃんねるに出没していた痛々しい厨二病罹患者のコテハンがその様な名を名乗っていたのだが、何しろ匿名性の高いネット掲示板でのコテハンだ。

個人を特定してしかもその所在を探す手懸かりには成り得なかった。

確かに目を惹く格好ではあったが、白衣だってあの日偶々それを着ていただけなのかもしれないのだ。

詰まる所、紅莉栖の手に残された手懸かりは、あまり有力なモノでは無かった。

彼が紅莉栖を助けてくれたのは秋葉原での出来事であったが、だからと言って彼が秋葉原やその近郊に住まう人物であったのかは分からない。

普段は遠方に住んでいて、あの日偶々秋葉原のあの場所に居ただけなのかもしれない。

いや、常日頃から秋葉原に居る人物であったのだとしてもだ。

日々何十万もの人々が行き交うこの街で、たった一人の人間を、しかも本名も知らない上にその顔すらも何処か朧気になりつつある人間を探し出すなど極めて困難であろう事は、態々考えてみるまでも無く分かっていた。

それは宛ら砂漠の中に落とされた砂金を探すかの如き難行である。

 

それでも、紅莉栖は彼を探した。

 

行く宛も無く街を彷徨い、行き交う人々の中に彼が身に纏っていた白衣の幻影を求めて。

夏が過ぎ行き、秋の気配が街を包み込む様になっても、ずっと、ずっとずっと……。

 

彼に、あの日命を助けてくれたお礼を言う為に、あの日の父の凶行を謝罪する為に、そして、それと──

……ともかく、もう一度彼に会いたかった、その無事を確かめたかった、その声を聞きたかった。

その想いで……いや、その想いだけで。

紅莉栖はずっと彼を探し続けたのだ。

 

再会が叶ったのは9月も過ぎ去ろうとしていたとある日。

何時もの様に、秋葉原を彼を探しつつ彷徨っていた紅莉栖が偶然に通り過ぎようとしたラジオ会館前で。

行き交う人々に混じって同じく通り過ぎようとした彼を。

やっと見付ける事が出来たのだった。

 

その時の事は少し割愛しよう。

探し続けていた相手に漸く出会えたその感動と興奮と、色々な感情が相俟って、あの瞬間の自分を表現出来る言葉など、この世界の何処にも存在しないであろうから。

 

何はともあれ、紅莉栖は彼と再会した。

そして、ラボメンバッチを受け取った紅莉栖は彼に誘われるがままに、初めて訪れるのに何処か懐かしい『未来ガジェット研究所』の扉を叩いたのだ。

そこで、紅莉栖は彼の名前が岡部倫太郎である事を知った。

 

 

自称:“鳳凰院凶真”、本名:“岡部倫太郎”。

まゆりや橋田といったラボメンからは“オカリン”と呼ばれる彼は、何処に出しても恥ずかしいレベルの所謂厨二病であった。

尚、@ちゃんねるに出没していたクソコテと同一人物である。

……まあ、こんな痛々しい真名()を名乗る輩など、岡部位なモノであろうけれども。

 

『未来ガジェット研究所』なる大学のサークルモドキを秋葉原の一画の古びたビルの1室に構え、ラボメンNo.001を標榜する岡部は、何とも不思議な人物であった。

これ程に不可思議で、良くも悪くも紅莉栖を振り回す存在は、紅莉栖の人生に於ては初の存在と言えるのかもしれない。

命の恩人なのだから、と。

最初の内こそ遠慮していたのだが。

岡部や橋田などのHENTAIどもに揉まれる内にいつの間にか殊勝な態度は何処かに吹っ飛んでしまっていて。

あれよあれよと言う間にネラーである事までバレる始末。

それもこれも、何の躊躇いもなくネラー語全開で喋りまくる橋田と、厨二語で喋りまくる岡部が悪いのだ。

 

そんなラボの雰囲気に流されてはいたものの、紅莉栖は当初の目的を果たしていた。

あの日自分を助けてくれた岡部にもう一度出逢う事、そして感謝の言葉を伝える事と父の凶行を謝罪する事。

岡部は、「気にするな」だの「俺が勝手にやった事だ」などと宣っていたが、そう言う訳にもいかなかった。

どうやら紅莉栖と出逢う直前まで彼は入院していたらしいし、その原因は間違いなくあの日の傷であろう。

 

だがしかし、不可解な事があった。

 

紅莉栖はあの日、直ぐ様秋葉原中の、そして近隣の病院全てで彼の事を探したのだ。

だが、彼の様な怪我で搬送された患者は一人も居なかった。

それは警察が確認していたので確かであろう。

 

では、あの日とそれからの数日間。

最低でも警察が病院という病院で不可解な事件の被害者の姿を探していた間。

岡部は何処に居たと言うのだろうか。

 

その疑問と、そもそも何故あの日に自分を助けに来てくれたのか……。

初対面であった筈の自分と出逢った時に何故あんな態度を取って、そしてその直後に出逢った時にはまるで初対面の人物に出逢ったかの様な態度を取ったのか。

諸々の疑問を引っ括めて、紅莉栖は岡部に問うた。

 

全ての疑問は、岡部に収束している。

恐らく、紅莉栖の疑問の答えを、彼は知っている筈なのだから。

 

最初はまるで意味の分からない厨二ワードではぐらかしていた岡部であったが、紅莉栖が再三しつこく尋ね続けると、終には観念した様に話してくれた。

 

そして彼が語ったのは、あまりにも永い永い……幾つもの人生を足し合わせたよりも永い時を孤独の観測者が闘い続けたその物語。

岡部達が偶然にも作り上げてしまった未来ガジェット8号電話レンジ(仮)……否、タイムマシンの雛形を端に発してしまった、“時間”を巡る彼の旅路の軌跡。

Dメール、リーディングシュタイナー、タイムリープマシン、タイムマシン、ジョン・タイター、世界線、アトラクタフィールド、世界線変動率、SERN、IBN5100、ディストピア、第三次世界大戦…………。

まるで夢物語の様な…………、いや、彼が語った事を信じるのであれば、この世界線では“無かった事”になった岡部の旅路はまさしく夢物語……、彼の記憶の中にしか存在しない記録だ。

 

岡部の言葉が真実であると、確証がある訳では無い。

確かに、彼の話が事実であれば、紅莉栖が疑問に思っていた事のほぼ全てが解決するのであるが、それを証明する為の物的証拠やデータは存在しないのだ。

 

消えた被害者、空白の期間。

紅莉栖が経験した事、そして岡部の腹に刻まれた傷跡。

 

これが、たったこれだけが、彼が語った“無かった事”になった世界線の残滓であった。

 

有力な物的証拠である電話レンジ(仮)は既に破棄されている。

恐らくは、それを再現する事は可能なのだろう。

例え偶然の産物であったにしろ、一度は作れているのだ。

同じ様な条件を整えて作れば、タイムマシンの雛形は既に手が届く場所にある。

更に言えば、あの日父に見せる為に書いた……父に論文を盗む等と研究者としての矜持まで捨てさせてしまったあの論文の内容。

それを照らし合わせれば、恐らくはタイムマシンの完成も夢では無いのだろう。

 

だが、それを作ろうとは、紅莉栖は微塵も思えなかった。

 

紅莉栖の身体を満たし、先へ先へと進ませてきた好奇心が疼かない訳では勿論無い。

父が挑み、敗れてきたそれへと雪辱を果たしたくないのか、と問われるとそう言う訳でも無い。

 

しかし。

岡部が経験してきた無間地獄を思うと、彼が“無かった事”にしてきた数多の可能性を思うと。

タイムマシンは夢想の存在のままで留めた方が良いのは明白であった。

 

良くも悪くも、多かれ少なかれ後悔と言うモノが人生に付き物であるのなら、“過去を変える”と言うのは有史以来の大多数の人間が心の何処かで望んでいた事であるのだろう。

それは科学が発展し、過去を変える手段……タイムマシンの実現が僅かながらも現実味を帯びてきて、尚一層加速しているのかもしれない。

 

“過去を変えて自分に都合の良い現在にする”と言うのは、個人にとっても国家にとっても、あまりにも蠱惑的な可能性なのだ。

 

ある誰かは今は亡き己の大切な存在を取り戻したいと願うのかもしれない。

ある誰かは自らの過ちを清算したいと願うのかもしれない。

ある誰かは他者との競争に打ち克つ事を、またある誰かは純粋に過去に興味を持って。

そして、悪意ある者の中には、自分の支配を絶対とする為に。

皆がタイムマシンを求めている。

 

もし、タイムマシンが現実的に実現可能となれば、確実に熾烈なタイムマシン開発競争が繰り広げられてしまうだろう。

それこそ、岡部が語った様に、世界規模での戦争を辞さない程の。

 

タイムマシンの恐ろしい所は、“後戻りが出来なくなる”と言う事なのではないだろうか、と紅莉栖は感じている。

 

どんな悲劇も惨劇も、“無かった事”に出来る可能性を秘めているから。

開発競争とそれに附随する戦争で出た数多の犠牲も、タイムマシンを完成さえさせれば、無かった事に出来るのだ。

だからこそ争ってまでタイムマシンを作ろうとするのを止められない。

そこまで来てしまえば最早妄執の様なものだ。

積んだ骸の山が高くなる度に、タイムマシンは“絶対に”完成させなければならなくなっていく。

坂道を転がり落ちる石の如く、終局的な破滅へと突き進んでゆくしかなくなる。

 

それは正しく“プロメテウスの火”。

有りとあらゆるモノを焼き尽くして尚も止まらぬ、科学が魅せてしまった欲望の残骸だ。

 

結論的に、タイムマシンは作るべきではないのだ。

 

岡部がタイムマシンや電話レンジ(仮)などについて、具体的な部分で明言を避けている理由が紅莉栖にはよく分かってしまった。

 

岡部は、本当に偶然に……それこそ神や悪魔などの悪意ある悪戯とでも言うべき偶然の積み重ねの果てに、タイムマシンの雛形を作り上げてしまった、ただの学生だ。

国家などの強力な組織の後ろ楯などがある訳でも無く、偉業を世界中に轟かせる天才でも無く。

無数の人々が挑み敗れてきたその頂へ、本当に偶然に達してしまった、社会的な意味合いでの普通の人。

自らが作り出したそれが一体何であるのかを理解出来る程には賢くはあったが、それは岡部にとっての救いとは成り得なかったであろう。

そんな彼が、国家やそれに比するレベルでの組織的な権力を持つ存在を相手にすれば、ただ翻弄されるしか無かったであろう事は想像に難くない。

更には、彼が特異的な性質に依ってかは分からないが、世界線が変わっても記憶を保ち続ける事が出来る人物であった事も、彼の苦しみを深めてしまっていたのだろう。

世界線の収束や様々な組織の陰謀に正面切って抗しきれる程の力は無く、己の無力さを痛感して心を磨り減らしながらも。

岡部は諦めずに抗い続け、終には世界を騙しきってこの世界線へと導いたのだ。

 

恐らくはこの世の誰よりもタイムマシンの恐ろしさを知っている彼が、自分達を苦しめ続けたそれを忌避し、それを作り得る芽を出させまいとするのは必然であろう。

きっと、本来であればこうやって紅莉栖に世界線漂流の軌跡を語って聞かせる事ですら、岡部としては避けたかった事であるのかもしれない。

 

…………。

……岡部の話を聞きながら紅莉栖の脳裏に過ったのは父の姿であった。

 

……岡部の苦難の旅路はタイムマシンが発端であったが、タイムマシン無くしては成り立たないものであったのも確かだ。

タイムマシンがあったからあの日死ぬ筈であった紅莉栖と出逢い、タイムマシンの所為でまゆりを喪う運命に囚われ、タイムマシンを使って世界線を越えて本来の──紅莉栖が死ぬ世界線へと戻り、タイムマシンがあったからこそこの世界線へと辿り着いた。

彼に地獄の責め苦を与えたのはタイムマシンだが、同時に彼に大切な人を救う手段を与えたのもタイムマシンである。

 

………………。

父も、岡部の様に誰かを救いたくてタイムマシンを求めたのだろうか……。

タイムマシンがあれば、タイムマシンさえ作れれば、と。

過去へと目を向け続け、そこへ届かぬ己に心を引き裂きながら…………そして終には研究者としての矜持すらも捨ててしまう程に狂っていったのだろうか。

今となってはもうその問いの答えを知る術は無いであろう。

父を慕う気持ちが紅莉栖の中から完全に消えた訳ではない。

それでも、向けられた刃は決定的な断絶で。

11歳の誕生日のあの日の言葉以上に二人の関係を壊してしまった。

お互いに、最早歩み寄る為の理由が無くなってしまったのだ。

僅かに懐いた父への純粋な疑問は、きっと解消される事なくずっとそのままなのであろう。

 

 

 

 

「紅莉栖、俺は……」

 

 

一通り話終えた岡部は、そう言葉を詰まらせた。

 

語りたい想いはあれども、それをどう言語化すれば良いのか分からない。

どう言葉を続けるべきか、分からない。

 

……岡部は、そんな顔をしていた。

ただ、幾千万の言の葉よりも雄弁に。

その目は紅莉栖への溢るる想いに満ちていた。

 

岡部の語る話は、まるで幾度も同じ話をしてきたかの様にこなれたモノであり、岡部の主観を基にはしているが、岡部自身の感情の部分は極力排されていた。

だけれども、その声音、その眼差し……。

その全てが、あまりにも純粋な彼の“想い”を紅莉栖に訴えかけていた。

 

だが──

 

 

 

「……話してくれて、ありがとう。

これで大体の疑問は一応解決したわ」

 

 

紅莉栖には……少なくとも“その時の紅莉栖”には、岡部の“想い”を真正面から受け止める事が出来なかったのだ。

 

紅莉栖の心の何処かは、岡部のその“想い”を溢れんばかりの歓喜と共に受け入れて、彼の腕の中に飛び込みたいとすら訴えかけていた。

だが、その“心”は、果たして自身のモノであったのだろうか……?

今となっては、その疑問に答えなどは無いのは分かっている。

しかし、あの時の紅莉栖にはそうは思えなかったのだ。

 

自分では無い“自分”の感情。

訳も分からずに湧き上がってきたそれに紅莉栖は混乱し、そして一種の畏怖すら感じた。

それに身を委ねる事を怖れた。

 

故に、岡部の想いが自分に向かっている事を理解しながらも、紅莉栖はそれを見なかった振りをしたのだ。

ともすれば墓場まで持っていくつもりであっただろう話を、岡部は紅莉栖の為に胸襟を開いて語ってくれたと言うのに……。

 

それは卑怯な行為だ。

あの時の紅莉栖もそう感じ、一瞬後にはその行動を僅かながら後悔した。

だから、せめて何かを言おうと思ったのだ。

だが、喉元まで出掛かっていた言葉は、岡部のあまりにも寂し気な……それなのに慈しみを湛えたその目を見た瞬間に霧散して、小さな吐息となって消えた。

 

 

「……そうか、なら良い」

 

 

岡部はそうとだけ言ってそれ以上は何も言わず、その話はそこで断ち切られてしまった。

あの時紅莉栖が岡部に言いたかった言葉は、未だ言えてないままだ。

 

 

岡部とそんなやり取りがあって間も無くの事。

紅莉栖はアメリカに帰らなければならなくなった。

元々無理を通して延ばして貰っていた滞在期間だ。

当初の目的を果たした以上は、対外的にこれ以上の延期は不可能であった。

ラボメンの皆に見送られて後ろ髪を引かれながらもアメリカに帰った紅莉栖を出迎えたのは、溜まりに溜まった研究だった。

最先端の研究では僅かなブランクですら遅れを取り戻すのにはかなりの労力を要する。

況んや、紅莉栖にはほぼ二ヶ月のブランクがあった。

その遅れを取り戻すのと平行に実験と研究は進めなければならず、アメリカに帰ってからの紅莉栖は良くも悪くもそれにかかりっきりだったのだ。

 

まゆり達と連絡は取っていたし、岡部ともそう頻繁では無かったがメールのやり取りはしていた。

だが、忙しい紅莉栖を気遣う様にその内容の大半は他愛の無いものばかりで、ついついそれに甘えていた紅莉栖は終ぞ岡部に言うべきだった言葉を置き去りにしたままだったのだ。

 

そして年が明けてから来たまゆりからのメールに繋がるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

□□□□

 

 

 

 

 

岡部たちにチョコレートを贈ろうと紅莉栖が決意したのはそれから直ぐの事であった。

これを機にあの時何処かに置き去りにしてしまったモノを岡部に伝えたい、と言う下心があったのは否めない。

動機にどんなモノがあるにせよ、贈ると決めたのならばチョコレートを用意せねばならないのだが、そこでふと何を贈れば良いのか、とつい途方に暮れてしまった。

アメリカにも有名なチョコレート会社は幾つもあるし、日本人の口にも合うモノだってちゃんとある。

ちょっと高価なチョコレートを贈るのだって良いだろう。

実際まゆり達には普通に市販のモノを購入した。

 

だが、岡部に対してのチョコレートをどうしようかと考えた途端、どうするか迷いに迷ってしまったのだ。

市販のモノにした所でチョコレートであるのには変わらないのだしそれでも良かったのだろう。

変わり者であると主張する万年厨二病な岡部相手なのだから、何だったらちょっとばかり変わった趣向の市販のチョコにしたって良かったのかも知れない。

しかし…………。

何かトチ狂っていたのか、実験続きで慢性的に寝不足であったのか、紅莉栖の脳裏にチラリと……『手作りが良いかも』などと過ってしまったのが運の尽きであった。

徹夜明けテンションとは恐ろしいモノで、深くは考えずに勢いのまま元となるチョコを買い込んでしまったのだ。

 

 

 

 

そして、その結果がこの様だ。

 

 

異臭を放つその物質を恐々と己から離す様にして観察する。

 

見た目は……大体のチョコレートと同様に泥の様な色をした流動性を持つほぼ固形物だ。ここには問題はない。

だがしかし、やはり異彩を放つのがこの悪臭である。

味見をするべきなのかもしれないが、紅莉栖の味覚は極めて正常であり、これは人類が口にするべきモノでは無いと本能的な部分が全力で警鐘を鳴らしているのである。

鼻腔を擽る僅かな臭気だけでも、それを押し返そうとしてか吐き気すら感じるのだ。

到底口に含む事など出来よう筈がない。

 

 

「どうしよう、これ……」

 

 

どうしようも何も、自分でもこれは食べようとは思えないし、況してやこんな物を岡部に贈る事など出来ないのだから捨てるしかないのだが……。

 

紅莉栖はチラリと、キッチンのテーブルの上に散乱したここ数時間の格闘の残骸を見やる。

余裕を持って買い込んでいた筈のチョコレートは全てこの物体Xに使用され、後には空になったリキュールの小瓶やらボウルから溢れたチョコレートの染みなどが遺されるばかりである。

 

もう一度材料となるチョコレートを買ってきて、再び手作りに挑む余裕などあるのだろうか?

いっそ手作りなど諦めて、岡部の分もまゆり達用のモノと同様の市販品にした方が良いのでは、と弱気な考えが浮かんでくるが。

生来の負けず嫌いな性質が、ここで引き下がってたまるものかと、反発するのであった。

が、現実としてはもう時間が無い中で闇雲にもう一度作っても、再び物体Xを生成してしまうのが関の山であろう。

どうした事か……と紅莉栖は頭を抱えてしまった。

 

幾ら徹夜明けの勢いで決めた事とは言え、岡部に贈るモノなのだから『特別』なモノが良いのだ。

“手作り”は『特別』であるには十分過ぎるし、何よりも紅莉栖自身がそれを贈りたいと思ったのだ。

『手作り』を贈りたい気持ちと、物体Xと言う現実との板挟みに、悩むばかりで一向に解決策は思い浮かばずただ時間が過ぎるばかりである。

 

 

そんな折に、ポケットの中から振動を感じた。

携帯に電子メールの着信があった事を告げるモノだ。

開けて内容を確認すると、それはまゆりからのモノであった。

 

 

 

『【From:まゆり】

【To:クリスちゃん】

【Sub:とぅっとぅるー】

クリスちゃんはバレンタインデーはアメリカにいるんだよね?

まゆしぃたちからのチョコレートを贈るので、受け取ってくれたらうれしいな』

 

 

まゆりらしいホワホワとして優しい文面に心癒された紅莉栖は、感謝の言葉を返信しようとして、そこで端と手を止めた。

その視線はある一文に釘付けになる。

 

そうだ、チョコレートだ。

そもそもの事の発端であるまゆりならば、良いチョコレートの作り方を知っているのではないだろうか。

 

そんな考えを思い付いた紅莉栖は、これは良いとばかりに頷いた。

暗雲が立ち込めていた先行きに、一筋の光が射し込んできたかの様である。

善は急げとばかりに紅莉栖はチョコレートの作り方を教えて貰うべく、まゆりにメールを送るのであった。

 

 

……尤も、チョコレートの作り方などネットを駆使すれば幾らでも出てくるのだし、そもそもそれを見ながらでも大失敗している事や。

遠く海を隔てているまゆりよりも同じアメリカにいる母親に頼った方が良いという発想が、この時の紅莉栖の頭からスッポリと抜け落ちている辺り、徹夜明けのテンションが抜けきっていなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

□□□□■■■■

 

 

 

 

 

 

 

 

まゆりからのアドバイス(正確にはまゆりのアドバイスではなく、るかやフェイリス達からのアドバイスの方が主であった)によって、幾つかの失敗作を生み出してしまったものの、チョコレートとしては漸く『マシ』な状態のモノができた。

あくまでも『マシ』であると言うだけで、決して感動する程美味しいと言う訳ではない。

温度管理に不備があったのかチョコレートとしては硬めになってしまっているし、アクセントとして加えたオレンジピールなどの味とチョコレートの味とに若干の不協和音を奏でている。

それでも、口に含む事すらも出来ない様な劇物ではないし、そこまで美味しくはなくとも不味くもない味には収まっているのであった。

不満がない訳ではないが、それまでの凄惨たる過程を考えると、それなりに及第点の出来である。

 

紅莉栖は、ハート型に固めたチョコレートを、紙箱にしまってシンプルにラッピングを行う。

ラッピングも気合いを入れたモノにしようかと一瞬迷いはしたが。

それを橋田辺りに見られて冷やかされるのも癪だし、もしそうなったらあの存在自体が恥ずかしい中二病のくせに恥ずかしがり屋な岡部は、意地になったりしてチョコレートを受け取らないかもしれない事を考えると、外装は素っ気ない位の方が丁度良いだろうという結論に至った。

メッセージカードを挟み込めば完成だ。

 

漸く岡部へのチョコレートが完成し、既にそれを納めるだけとなっていた日本へ送る段ボール箱へと仕舞う。

輸送中にチョコレートが壊れたりしない様に厳重に緩衝材を詰めてから、紅莉栖は急いで荷物を日本へ送ったのであった。

 

 

 

 

 

 

□□□□□

 

 

 

 

 

 

そして迎えたバレンタインデー当日の早朝。

日本では既に澄み切った冬の夜空に星が輝いているであろうその時間に。

 

紅莉栖の自宅に届けられた段ボールから贈られてきたチョコレートを取り出して、ソワソワと逸る気持ちをどうにか抑えつつパソコンの前に座っていた。

チョコレートのお礼や感想を兼ねて、この日はSkypeで岡部達と話をしようと前々から決めていたのだ。

指定した時間的にも、日本でも紅莉栖が贈ったチョコレートが届いた頃だろう。

久方振りに画面越しとは言え岡部の顔を見て話が出来る事に、駆け足気味になった鼓動は中々治まってくれない。

落ち着きなく椅子に座り直そうとしたそのタイミングで、岡部達とSkypeが繋がった。

 

数ヵ月振りに見る岡部の顔は、相変わらず中二病ムーヴで無精髭を生やしていて。

ヨレヨレの白衣の襟は、そろそろ洗濯時である事を示す様に少し汚れていて。

そんな格好であるにも関わらず、懐かしいその姿に紅莉栖は一瞬息の仕方を忘れたかの様になる。

 

 

「は……ハロー岡部、相変わらず元気そうね」

 

『フゥーハハハッ! 無論だッ!

狂気のマッドサイエンティストたる者、風邪など引かんッ!

日本では機関の暗躍によりインフルエンザなどが流行っているが、日々奴等と闘い続けている我がラボメン達はその様なモノに倒れたりはしないのだッ!』

 

 

画面越しに派手に動きを付けながら岡部はポーズを取った。

日本で過ごした時と同様のその姿に、紅莉栖は呆れつつも何処かホッとする。

 

 

「はいはい、中二病乙。

まあ、何とかは風邪ひかないって言うしね。

まゆり達も元気そうで何よりよ」

 

 

画面の奥にいるまゆりに手を振ると、まゆりもまた嬉しそうに手を振り返してくれる。

 

 

『クリスちゃんも元気そうで、まゆしぃは安心したのです。

オカリンもね、クリスちゃんが忙しくって体を壊してないかなってずっと心配してて──『余計な事は言わんで良い!』

 

 

まゆりの言葉を遮った岡部に、まゆりは不満そうに頬を膨らませた。

それにわざとらしく咳払いをして話題を変える。

 

 

『んんっ!

世間は“機関”に踊らされてバレンタインデーだのチョコレートだのと騒ぎ立てているが──』

 

『オカリン、オカリン。

それ、牧瀬氏やまゆ氏からチョコ貰った僕らにもブーメランな発言だぜ。

ちゃんと素直に牧瀬氏に“ありがとう”って言うべきと思われ。

あ、牧瀬氏からのチョコレートちゃんと届いたお、ありがとう。

お返しは、僕のオススメの女性用エロゲ詰め合わせでおk?』

 

 

岡部の言葉を遮った橋田がぬっと画面に現れて、礼を言ったかと思えばそんな事を言い出してきた。

 

 

「おkな訳無かろーが!

何なのアンタ、馬鹿なの? 死ぬの?」

 

『うっは! ルイスちゃんの台詞キタコレ!

まあ流石にエロゲは冗談だお。

オススメの雷ネット同人誌にしとくんで、楽しみにしといてくれお』

 

 

そう言うと橋田は席を離れ、代わりにまゆりが画面にアップで映る。

 

 

『クリスちゃんからのチョコレート、ちゃんと届いたよー。

ありがとう、すっごくうれしいな!

大事に食べるからね!

あ、ルカくんやフェリスちゃんは今日忙しくて来れなかったから、後で渡しておくね。

萌郁さんは、後でお礼のメールを送るからって言ってたよ』

 

「分かったわ、ありがとう」

 

 

嬉しそうなまゆりの笑顔を見て、紅莉栖も釣られて笑顔を浮かべる。

 

まゆり達からの荷物には、何かが入った封筒と、まゆりとフェイリスと萌郁……それと、るかからのチョコレートが入っていた。

男性陣の中で唯一チョコレートを贈ってきたるかだが、彼ならば何の違和感も無い。

恐らくはまゆりたちとも“友チョコ”の交換をしたのだろう。

封筒の中身は、時間が押していた事もあってまだ確認していない。

 

まゆりと入れ替わりに岡部が再び画面に現れる。

 

 

『クリスティーナよっ!

我がラボへの貢献──『オカリン』

 

 

鳳凰院凶真の仮面を被り、何時もの様にポーズを取ろうとした岡部を制したのはまゆりであった。

にこにことしているが有無を言わせぬまゆりのその態度に、岡部は『あー』だの『う、うむ』だのと意味を成さない声を溢していたが。

 

ふと、意を決した様に一つ咳払いをしてから深く椅子に座り直し、画面の中の岡部は紅莉栖にしっかりと向き直った。

そして、鳳凰院凶真の仮面を外した、岡部そのままの表情で、画面の向こうにいる紅莉栖を見詰めてくる。

 

 

『研究で忙しかっただろうに、ラボメン全員分を用意してくれて……感謝している。

……ありがとう』

 

 

真面目な顔をしてそう礼を言ってくる岡部に、紅莉栖の胸は高鳴った。

鳳凰院凶真の仮面を外した素の岡部に、紅莉栖は滅法弱いのだ。

熱くなってくる頬を誤魔化す様に、紅莉栖は首を振って答える。

 

 

「その、丁度時間が取れたから……。

それに、その……。

チョコを選んだりするの楽しかったし、気にしないで」

 

 

岡部へのチョコレートを作るのにはかなり手間がかかったのだが、それも悪い経験では無かった。

何だかんだと、紅莉栖もこの日本式バレンタインデーと言うイベントを楽しんでいたのだ。

 

 

『……フッ、まあぼっちティーナがバレンタインデーのイベントに参加する事など、初めてだっただろうからなぁ!

それもそうだろう。

これからは@ちゃんでバレンタインデーの寂しさを紛らわす必要は無いぞ。

感謝するが良い!』

 

 

一瞬の内に鳳凰院凶真の仮面を被ってしまった岡部であったが、その耳が少し赤くなっているのに紅莉栖は気が付いた。

全く、素直では無い。

 

 

「ぼっちティーナって言うなっ!

大体バレンタインデーに@ちゃんで寂しさを紛らわせたりなんてした事ないから!」

 

 

岡部の照れ隠しなのだと分かっていながらもついつい言い返してしまい、何時もの様な言葉の応酬になってしまった。

そんなこんなで時間が過ぎて、Skypeを終了させる。

電源が落ちたPCの画面に映る紅莉栖の表情は、嬉しそうに頬の端が緩んでいた。

 

 

「全くもう、岡部のやつ、相変わらずなんだから……」

 

 

そう口では言いながらも、喜びは隠せない。

そんな気持ちを切り換える為にも、紅莉栖は届いたチョコレートと封筒を検分し始めた。

 

まゆりから届いたウーパーの形をしたチョコレート、フェイリスのは猫などの様々な形に固められた手作りチョコレートの詰め合わせ、萌郁からは大人びた高級感のあるチョコレート、るかからは手作りのチョコレートクッキー。

どれもこれも、見た瞬間に誰が贈ったのかよく分かる。

それらを大切にテーブルの上に置いてから、紅莉栖は残った封筒を開けた。

 

するとそこには。

手紙が……それも、岡部からの手紙が入っていた。

 

 

 

『ラボメンナンバー004、クリスティーナへ。

バレンタインデーおめでとう。

 

まゆりからアメリカでは男が女に贈り物をする日だと教えられてな……。

色々と迷ったが、これを贈る事にした。

次に日本に来る時までに、ちゃんと使える様になっておくといい。

 

PS.

次に日本に来る時は、早めに教えてくれ。

みんなでパーティをするのだと、まゆりが張り切っているからな。』

 

 

 

慌てて封筒を逆さにすると、中から一膳の箸が転がり出てくる。

飾り気の少ないシンプルな箸であるが、よく見ると上の方に『No.004』と小さく刻まれていた。

 

 

「これって……!」

 

 

岡部からの思いがけない贈り物に驚いていると、携帯が不意に着信音を響かせて、岡部からのメールがあった事を知らせる。

慌てて携帯を手に取り確認すると、それはチョコレートへのお礼のメールであった。

 

 

 

『【From:岡部】

【To:クリスティーナ】

【Title:No title】

 

少し硬かったが、美味かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どの世界線でも信じて助けてくれた紅莉栖がいたからこそ、俺はここに辿り着けた。

感謝したいのは俺の方だ。

 

ありがとう、紅莉栖。』

 

 

 

 

携帯をテーブルに置いて、紅莉栖は手で顔を覆う。

顔は火傷したかの様に熱を持っている。

 

メッセージが。

ずっと岡部に伝えたかった事が、ちゃんと伝わった事が、とても……とても嬉しい。

岡部の言葉が、その想いが、愛しい。

 

 

【私を助けてくれて、

生きていてくれて、

私を忘れないでくれて、ありがとう】

 

 

あの日伝えるべきだった、伝えたかった言葉を、漸く伝える事が出来たのだ。

 

 

何と返事をしよう。

彼に伝えたい言葉が、後から後から胸の内から溢れ落ちてゆくかの様だ。

さっき顔を合わせて話をしたばかりだと言うのに、また岡部の声を聞きたい、その顔を見たい、岡部に会いたい。

 

愛しい想いが溢れて、言葉にするのがもどかしい。

だけれど、どれ程時間がかかるのだとしても、少しずつでもこの胸を満たす想いを伝えていこう。

だから──

 

 

 

紅莉栖は携帯を手に取って、岡部への言の葉を紡いだ。

そこに何を認めたのかは、紅莉栖と岡部のみが知る所である。

 

 

 

 

 

 

 

 

【Fin】

 

 

 

 

 

□□□□


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