いったい、もう何度目になるだろうか。
降っては止んで降っては止んでを繰り返す氷矢の嵐。
世界が意志を持って才人たちを抹殺しようと目論んでいるかのように、決して終わることがない。
まるで神の怒りに触れてしまったかのような絶望的な状況。
才人の俊敏性とオスマンの精神力がなければ、とっくの昔に二人とも串刺しにされていた。
オスマンは身の丈ほどの節くれだった杖を地面に突き刺すように構えている。そしてその杖の下部を握りながら、自身は地面に肩膝をつき身をかがめる。それによって氷矢が被弾する可能性を低くすると共に、才人の視界を確保しやすくするのだ。
そのオスマンを囲うように円形の溝が地面に刻まれていた。
才人が移動した痕である。
溝の深さは既に五サントは超えている。その深さが、いかに才人がその円周上を目まぐるしく駆け巡っていたかを如実に物語っていた。
その円形の溝の周りには、さらに一回り大きな円ができている。
それは氷山。
いや、氷矢でできた剣山というべきか。
始めは才人に弾かれた氷矢が砕けて、ガラスが散乱したような状態だった。それが時間の経過と共に徐々に増えて行き、ついには矢がそのまま突き刺さって才人たちを取り囲むようになっていった。
地面に対して斜めに突き刺さった氷の矢。ぎっしりと地面に敷き詰められたそれは、鋭く尖った尖端を二人に向け威嚇するように睨んでいた。
その異様さは圧倒的だ。
見る者の精神を凍りつかせるように、身の毛がよだつ存在感を放っている。
「ぐぬぅぉぉぉ!」
老人の喉から搾り出された呻き。
オスマンの表情がいっそう険しくなった。刻み込まれた皺がさらに深く沈む。
もはや限界は近い。
(まずい! これは想像以上だ!)
才人は戦いが始まってから初めて焦りを見せた。
フーケがこれほどの力を秘めているとは予想外だった。
とどまることなく降り注ぐ弾丸のような氷雪の
その威力は決して弱まらない。それどころか矢の数も、威力も益々増している。
「そろそろ出てきたらどうかしら?」
まるで楽しんでいるかのように挑発するフーケ。
才人は思わず駆け出そうとする。
もうオスマンはもたない。一か八かの賭けに出るしかない。
「行ってはならぬ!」
皺枯れた声を絞り出して叫ぶオスマン。
「しかし、このままではッ!」
才人も叫び返す。だが、振り返ってオスマンの目を見たとき、才人は足を止めた。
その目は、まだ死んでいなかった。
「若いのう少年。焦るでない」
「しかしッ!」
オスマンはすでに満身創痍。気力だけで意識を保っているようなものだ。
下手をしたらもう既に精神力は底をついているかもしれない。
しかし目の前の老人はまだ言い知れぬ何かを秘めているような空気を纏っている。
「苦しいのは、あやつも同じ。これだけの大規模な魔法。維持するだけでも相当の精神力を消費しているじゃろう。もし、しくじれば再び同じ魔法は使えまい。後がないのはあヤツの方よ」
一理あった。
だがしかし、フーケの優位は変わらない。
それでもオスマンは平静を崩さない。それどころかその瞳からは妙な説得力を感じる。
これが何百年も生きてきた老人の成せる業か。まるでこんなことは飼い犬に噛まれたくらいの些細なことだと言わんばかりだ。
「それにじゃ」
「それに?」
才人は次の言葉を待った。
「それにじゃ。これくらいのこと、ガールフレンドとデート中に別の女性の臀部を触ってしまった時の彼女の怒りにくらべたら、屁でもないわ!」
突然そんなことを言い出す。
「……は?」
才人はあっ気に取られる。戦闘中にもかかわらず、一瞬、完全に脱力してしまった。
「人間、女性の臀部を愛でる為なら、何だってできることを教えてやるわい! ぬおぉおおおお!」
オスマンは雄叫びを上げる。声の振動に呼応するかのように闘気があふれ出る。
全身にオーラが満ちているようだ。魔法が使えない才人にもその力強い存在感がわかる。
「さて、根比べとゆくかのう?」
オスマンはフーケを挑発する。
「ちっ、老いぼれが!」
舌打ちするフーケ。
「まあいい。くっくっく――」
フーケの声に嗜虐的な色がのった。
「何か仕掛けてきますね」
「うむ。油断するな」
才人とオスマンは身構える。
突然、場に緊張が張り詰める。
オスマンのウインドウォールでできた、視界を確保できるドーム状の空間。その外側から、今までとは比べ物にならないほどの圧迫感が急速に膨れ上がる。
まるで今までの嵐がこれから訪れる大嵐の前触れでしかなかったかのように、才人たちの周りを背筋が凍りつくほどの濃厚な狂気が渦巻きはじめた。
((決めにきたか!!))
才人とオスマンは同時に理解した。
オスマンは今まで以上に精神力を杖に込め、才人は既に刃こぼれしてボロボロになった双短刀を油断なく構えた。
「くるッ!」
膨張しきった悪意の塊がついに弾け、降りしきる氷の弾丸となって襲い掛かった。
「ウインドウォール!」
すかさず暴風の壁が現れて弾丸となった氷矢を弾き飛ばす。
その風の守りを突き抜けて、一本の氷矢が風切り音を上げながら飛び込んでくる。
矢の軌道はまっすぐオスマンの眉間へと照準を合わせていた。
ここまでは予定調和。すでに何度も繰り返したやり取りだ。
だが――、
((速い!))
矢の速度は今までのおよそ倍。
その予想外の速さに、才人たちは大きく目を見開いた。
それでも才人は動じず、正確に右手ナイフの腹で防御面を作り、矢を受けた。
が、そのときだった。
(ッ!? しまッ――!?)
既に限界を超えていたナイフが、矢を受けた瞬間にその中ほどから折れたのだ。
折れたナイフの破片が宙を舞う。
氷矢は直進を許された。
その光景をオスマンの両眼が捉える。矢に焦点を合わせた瞳孔が急激に引き絞られた。
才人はそれを視界の端に捉えるや否や、
二本に分かれた氷矢はそのまま枝分かれするように直進し、オスマンの左右の頬を掠めながら通り過ぎた。
オスマンの背後から、氷が砕ける音が二つ同時に響く。
肝を冷やす才人。だが安堵している暇など無い。
既にもう一本の矢が、オスマンの背後に迫っていたのだ。
回転運動によって時間をロスした才人に、オスマンの背後に回り込む時間は無い。
とっさの判断で、もう半回転まわる。そして今度は左手に持っていたナイフを投げつけた。
推進力を得たナイフは寸分の狂いもなく飛来する氷矢を弾いた後、激しく地面に打ち付けられ、そのまま回転しながらバウンドし宙を泳いだ。
角度の変わった氷矢はオスマンの頭上を抜け、ナイフを投げて腕が伸びきったままの才人の頬を掠めた。
このとき才人の心臓は大きく跳ねた。
あと一歩判断が遅れていたら死んでいた。
これが本当の殺し合い。
死と隣り合わせの戦い。
そして
その軌道の先には才人の右目。
才人は素早く折れたナイフを手放し、腰のホルスターに右手を回してショートナイフを手に取る。
これが最後の一本だ。
そして自分の眼前へ突き出し、刃の腹を向けて構える。
その刹那、才人の脳裏によぎる不安。
ショートナイフは先ほどまで使っていたナイフよりも刀身が薄い。これで本当に防げるのか。
もしさっきのナイフのように折れたなら、自分は頭部を貫かれ即死する。
才人は本能に従った。
「うぁああああああああああああああああああ!」
制御できない咆哮。野生に返った人間の
猛り狂う才人は、そこで信じられない行動を取った。
ナイフを、寝かせた。
矢に対して腹を向けていたナイフを地面と水平に寝かせた。
つまり矢にナイフの背を向けたのだ。
ただでさえ面積の小さい刀身。それがさらに数十分の一にまで小さくなった。
常人の神経ではできようはずもない、狂気の沙汰。
失敗すれば、死!
まさに生きるか死ぬか、究極の分かれ道。
「うらぁああああああああああああああああ!」
才人は、全神経をほんの数ミリほどの刃の厚みに注ぎ込んだ。
――直後、
吸い寄せられるかのように氷矢はナイフの背に直撃。
当った瞬間火花が舞い、そのままナイフの背に沿って滑るように流れる。そして才人の右のこめかみを掠めて突き抜けた。
矢の通った後にできた風の渦に、火の粉が追いかけるように巻き込まれ、舞った。
その光景を右目に焼き付けると同時に、才人は自分の直感が正しかったことを確信した。
「うおぉぁああああああああああああああ!」
一歩間違えれば死。その極限状態の中、才人はついに覚醒する。己の中に眠っていた戦士の血が産声をあげたのだ。
左手のルーンが狂ったように輝く。
間近でみていたオスマンは思わず目を瞑った。
それほどに眩しかった。
肌を刺すような強い光が大気中の水分子に反射し、ドーム内は青白い光に包まれた。その様子は、今まさに雷を放電せんとする積乱雲のようであった。
一瞬オスマンが才人から目をそらした瞬間、そこにあった体が消えた。
いや、次の瞬間にはオスマンの背後へと移動していた。
才人は当たり前のようにショートナイフの背で氷矢を弾き、おもむろに左手を開いた。するとそこにもう一本のナイフが、まるで磁石に引き寄せられるように収まった。
先ほど投げたナイフが、地面をバウンドして戻ってきたのだ。
神がかっていた。
まるで世界が才人を選んだかのようだ。
才人はそのまま双短刀を握り締め、大気を切り裂く氷矢をことごとく撃ち落した。
覚醒した才人をもはや止められるものはいない。
機会のように正確無比なナイフの軌道。
魅入られたかのように氷矢はナイフの背へと誘われ、そしてその軌道を完全に支配された。
たった数ミリしかない刃の背が、まるで大盾のように広く長いようだと錯覚してしまう。
さらに恐ろしいことに、才人はナイフの耐久力を確保するため、毎回矢の当る場所をミリ単位でずらすほどの徹底ぶりだ。
もはや人ではない。
才人は人の領域を飛び越えてしまったのだ。
オスマンが視認できないほどの速度で、それはオスマンの周囲を回り続ける。
そのあまりの速度に人工的な竜巻が生まれた。
ドーム内で吹き荒れる風の螺旋。
――メイジではない少年は、誰よりも華麗に『風の魔法』を奏でた。
その光景をいつまでも見ていたい、とオスマンは思った。
しかしそれは叶わぬ願い。
やがて大嵐は活動力を失った。
それに呼応して、風の
◇
「ば、バカな!? 生きている……だと?」
フーケの握った杖は震えていた。
あたりを覆っていた深い霧が徐々に薄くなってゆき、双月の光が徐々にその明るさを取り戻してゆく。
フーケの魔力が弱まり始めたのだ。
しかし依然、視界は悪いままだ。
「ふぉっほっほ、観念するんじゃのう。お前さんの負けじゃ」
オスマンは悠然と立ち上がった。
ずっと屈み続けて腰が痛かったのか、左手を腰に回してさする。
才人はその姿を見てふと思った。
この老人はわざとこんな戦い方を選んだのではないのか、と。
今まで何事にも勝ち続けてきた才人は攻めることには慣れていても、こうやって相手の攻撃に対応して守ることには慣れていなかった。
才人は主人を守る盾として召喚された。求められるのは敵を倒すことではなく、主人を守り、主人の詠唱時間を稼ぐこと。
フーケは切り札を使って仕留め損なったに等しい。もう先程以上の攻撃はできないはずだ。形勢は逆転したといってもよい。才人たちの粘り勝ちだ。
才人は始めて攻めずに勝つことを覚えた。
守って勝つ。
これこそが、これから才人に求められるガンダールヴとしての戦い方だった。
オスマンは、それを才人に教えようとしていたのではないか。そう才人は感じざるをえなかった。
「くっくっく、あーっはっは」
だが、
この底知れぬ執念を持ったフーケが、潔く負けを認めるはずなどなかった。
「まさかこの『
フーケは馬鹿の一つ覚えのように氷の矢を放つ。
すかさず防御に備える才人とオスマン。
だが今回は今までと違った。
氷の矢は才人たちだけに向かって突き進まず、半分ほどがあらぬ方向へと射られた。
(何!?)
その瞬間才人の脳内に浮かぶ未来の光景。
学院本塔のベランダに出てくる生徒たち。
誰かが言う。
『おい、なんか広場に霧がでてるぞ?』
『そういえばさっき爆発みたいな音がしたな』
『おい! 一体なにが起こってるんだ?』
ざわめきだす生徒たち。
そんな中にルイズの姿を発見する。
『サイト、一体どこにいったのよ?』
そうルイズがつぶやいた瞬間、霧の中から飛び出す無数の氷矢。
そして、
全身を氷矢に貫かれて絶命するルイズの姿。
「しまった! ルイズぅうう!」
才人は既に走り出していた。
一瞬遅れてオスマンが状況を察する。
そしてフーケの冷酷な声が響いた。
「あなたの命と生徒の命、好きな方を選びなさい」
オスマンは躊躇なく決断した。
自分を守るはずだった風を全て、生徒たちを狙った氷矢の撃墜に使った。
しかし全ての撃墜は叶わなかった。およそ4割の撃墜に留まり、半数以上は依然として顕在。
そして、
「ぐぬぅううあ!」
風の防御を失った自身を守るすべも失われたのだった。
それでもオスマンは最後まで諦めない。
氷矢に貫かれる瞬間まで再詠唱を試みた。
圧縮された詠唱。搾り出された精神力。
「『硬化』!」
物質の耐久力を上げるコモンスペル。
オスマンはそれに全てを賭けた。
四肢は完全に捨てた。頭部と臓器だけ守る。
氷矢が手足を貫通する。胴にも突き刺さったが、魔法の効果で貫通だけは免れた。
肉を抉られ、骨を削られる最中。最後の詠唱を開始するオスマン。
「……ヒーリング」
最後の力を使いオスマンは自分にヒーリングをかける。
決して治療する為ではない。この程度の精神力では足りない。
では何ゆえか。
それは死ぬまでの時間を僅かに延ばすだけのものだった。
誰かがフーケを倒し、すぐにオスマンを治療する。
それだけが、オスマンが生還できる唯一の可能性だった。
膝を折り、そのまま前のめりに倒れるオスマン。
肩や腿、背中からは無数の氷の枝が生え、地面を鮮血で染めた。
(たのんだぞ、少年……)
消え行く意識の中、オスマンは才人の後姿をその双眸に焼き付けた。
◇
才人は背後の気配でオスマンが倒れたことを知った。
だが、走ることを止めるわけにはいかない。
自分の寿命を全て使い切る勢いで激走する。
「うおぉぉぉ!!」
ナイフが握られた左手のルーンが、顔を覆いたくなるほどに強く発光する。
激走につぐ激走。残像が見えるほどに猛然と駆ける。
一瞬、才人は音速を超えたかもしれない。
大気中の気体分子とぶつかり衝撃波が生まれる。
人間の限界を超えた速さで駆ける一筋の光。
だが、
(間に合わない!)
才人がルイズの元へ辿りつくより速く、氷矢は彼女を貫くだろう。
「うおぉあああああ!!」
もう二度と歩けなくなってもいい!
大気の摩擦熱で焼け死んでもいい!
激情のマグマに身を投げ、才人は持てる全ての力を脚に込め大地を踏みしめる。
右脚を大きく踏み込んだ瞬間、自重に耐え切れなくなった踵の骨が破裂骨折。
激痛が神経から脳へと伝うのをねじ伏せ、才人は全身のバネを使って跳躍。腿とふくらはぎの筋繊維を引き千切れさせながら、一気に二階のバルコニーへジャンプする。
(間に合えぇえええええ!!)
それでも、間に合わない。
(俺はルイズを守るんだ! ここで守れなかったら生きてる意味なんてない!!)
全てをかなぐり捨てた才人は、無意識のうちに無事な左脚に力をためる。空中で膝を弓のように引き絞り、一気に空気を蹴った。
「!!」
音速よりも速く振りぬかれた脚が大気中の気体分子を押し固める。それによって形成された足場を踏みしめ、才人は空中を
蹴られた瞬間、数メイル離れた真下の地面が圧力に耐え切れず陥没。遅れてやってくる衝撃波。
その間に才人は空中で加速し、氷矢よりも先にルイズの前に飛び出した。
一瞬、時が止まった。
目に映る景色がすべてスローモーションに見える。
まるで一秒を何千秒に引き伸ばしたかのような時間的錯覚の中、才人とルイズの目が合う。
ルイズの瞳の中に映ったのは、摩擦熱で赤く熱せられた大気の層を纏う自分の姿。左手は真夏の太陽のように光り輝いている。
まるで不死鳥『フェニックス』のようである。
(間に合った。もうこれは必要ない)
才人は両手に握っていたナイフを手放した。
もう……、必要ないのだ。
役目を終えたナイフが熱層に触れて火花を散らす。
急速に光を失う左手のルーン。
次いで、才人は最後の役目を果たす。
(俺は――、盾だ! ルイズを守る盾だ!!)
そう強く念じた瞬間、左手のルーンが今までにないくらい耀いた。
才人は体を大きく開き上昇の勢いを殺す。
そして、己の最後に備えた。
愛らしいご主人様の姿を瞳に焼き付けて。
最後に微笑む。
(さよなら、ルイズ)
その刹那、
――才人は、その背に死を受け入れた。