クィディッチほど魔法族に人気のスポーツはない。当然ホグワーツでもクィディッチは大人気で、魔法族の子供、特に男子に贔屓のクィディッチ・チームがあるのは普通だったし、校内がクィディッチシーズンに入ると、教師の機嫌が試合結果に左右されるのも割と普通のことだった。
だから、寮の談話室に「飛行訓練が木曜日に始まる」という掲示が貼られてから一年生が浮足立つのは当然のことといえた。例え、毛嫌いしているグリフィンドールとの合同授業でも、スリザリン生はあまり気にしていない様子だった。皆魔法族の出身なので、一度は箒に乗ったことがあるのが最大の要因だろう。スリザリン生内にはグリフィンドール生が飛べないことを嘲笑ってやろうという雰囲気が蔓延していた。
掲示があってから、ドラコはよくクィディッチの話をするようになった。一年生がクィディッチ・チームの寮代表選手になれないのは残念だと大きな声で不満を言い、子供の頃、箒で飛んでいる時にマグルの乗ったヘリコプターを危うく避けた話をしたが、その先どうなったかは語らなかった。パンジーはドラコの話を聞くたびに感心したが、怜奈はその話が誇張したものだと見破っていた。
あまりクィディッチが盛んでない日本出身の怜奈は、周囲ほどクィディッチ熱が高くなかった。叔父の泰明が日本のプロクィディッチ・チーム選手だったので、彼の影響でルールに詳しく、また箒で飛んでクィディッチをしたこともあったが、空を飛べる型の式神で移動する方が好きだし、朧車という妖怪に乗って飛ぶ方が優雅だと思っていた。
水曜日の夕方、授業を終えて図書館で怜奈が魔法薬学のレポートを書いていると、彼女の前に誰かが座った。顔を上げるとセドリックが爽やかな笑みを浮かべていた。
「やあ、レイナ。宿題かい?」
「こんばんは、セドリック。ええ、魔法薬学のね」
セドリックは怜奈のレポートを覗き、小さな字でびっしり書かれたそれに目を丸くした。
「随分詳しく書いてあるね。レイナは魔法薬学が得意なの?」
「そうよ、一番好きなの。だから、いつも書きすぎちゃって削るのが大変なのよね。セドリックは何がお得意?」
「僕は呪文学かな。魔法薬学は普通だから、君が羨ましいよ」
図書室では司書のマダム・ピンスが私語をする生徒に目を光らせているため、二人は小声で話した。いつもセドリックとリアンが一緒に行動しているのに、今日は彼一人なので怜奈が不思議に思って尋ねると、セドリックは苦笑して答えた。
「僕が魔法史の課題を仕上げるって言ったら逃げたんだ。あいつ、勉強はあんまり好きじゃないから」
「まあ、そうなの?今度会った時に注意しないといけないわね」
「よろしく頼むよ。レイナの言葉なら聞くと思うから。まったく、クィディッチにかける熱意をほんの少しでも勉強に向ければいいのに」
疲れた様子でセドリックが言った。きっと、リアンに勉強させるために苦労しているのだろう。
「そういえば、リアンもセドリックもハッフルパフの選手なんですってね」
先日リアンから聞いた内容を思い出した。リアンはビーターで、セドリックはシーカーだという。セドリックは頷き、爽やかな笑みを浮かべた。
「ああ、今年からね。試合の時は見に来てよ。君はスリザリンだから、大きな声で応援は出来ないだろうけど」
「そうね。あんまり大っぴらには出来ないでしょうけど、応援しているわ。時間が許せば対スリザリンじゃなくても応援に行くわね」
怜奈のそれはリップサービスも含まれていたが、セドリックがあんまり嬉しそうにするので、少々申し訳なく思った。そして、言葉通りに応援に行こうと思い直した。怜奈にとってセドリックは、ホグワーツ内で親戚を除き、対等に話せる現時点で唯一の友人と言っても過言でなかった。
木曜日の午後三時半、怜奈は他のスリザリンの一年生とともに校庭に立っていた。天気は快晴で、箒で飛ぶには打ってつけである。
「私なら平気なのに。芒ったら心配性なんだから」
「僕は怜奈を守るのが仕事なんだよ。万が一の場合があるだろう」
怜奈の授業中、芒は城内を気ままに歩き回っていることが多い。しかし、今日は珍しく怜奈の足元で、その長い二又の尾をゆらゆらと揺らしていた。彼の言葉通り、芒は怜奈の相棒であり護衛である。
怜奈は幼少から箒に乗ってきたため落ちない自信があったが、芒はもしも落下してしまったら、と気が気でないらしい。先程から地面に並べられた箒をちょんちょんと突いている。
遅れてグリフィンドール生が到着した後、白い短髪で厳しそうな魔女、マダム・フーチがやって来た。
「なにをボヤボヤしてるんですか。みんな箒のそばに立って。さあ、早く」
箒は一様に古く、怜奈の足もとにある箒は小枝が少なめだった。こんな古い箒を使ったことがない怜奈が眉を顰めてちらりとドラコを見ると、彼は肩を竦めた。ドラコも同じらしい。
「右手を箒の上に突き出して。そして、『上がれ!』と言う」
怜奈は言われた通りに手を出し、皆と同じタイミングで「上がれ」と叫んだ。箒に不安を持っていた怜奈だが、以前叔父の泰明に無理やり特訓されたことがあったので、一回で成功させた。隣のドラコも一度で箒を手に収めたが、成功させた生徒は少なかった。怜奈がグリフィンドールの方を見ると、ハリーだけが箒を手にしていた。何度かやって、殆どの生徒が成功したが、どうしても上がらない生徒は箒を拾い上げた。
次にマダム・フーチは箒に跨る方法をやってみせ、生徒達にもやるように指示した。怜奈も箒に跨ったが、やはり箒で飛ぶのを好きになれない気がした。マダムは生徒の間を縫って、箒の握り方を直した。彼女はドラコの握り方の間違いを指摘したので、ドラコは悔しそうに唇を噛んだ。グリフィンドール側でハリーとロンが嬉しそうに笑っているのを見て、怜奈は眉を顰めた。
「さあ、私が笛を吹いたら、地面を強く蹴ってください。箒はぐらつかないように押さえ、二メートルぐらい浮上して、それから少し前屈みになってすぐに降りてきてください。笛を吹いたらですよ。一、二の――」
マダムが首にかけた笛を持ち、吹こうとした時、グリフィンドール側から一人が勢いよく飛びあがった。ネビルだった。
「こら、戻ってきなさい!」
マダムが叫んでも、ネビルはぐんぐん上昇していった。彼は全く箒をコントロールできないようで、真っ青になって箒の進むままに任せている。怜奈は叫んでいないで、助けに行くか、呪文を唱えるかすればいいのにと思ったが、自分が助けに行く気は皆無だった。足元で「ああ、やっぱり箒のような無機物に乗るなんて危険だ」と芒が呟いた。
ついに箒は乗り手を振り落とし、ネビルは頭から真っ逆様に落ちた。彼は大きな音を立てて草の上にうつ伏せに墜落し、慌ててマダムが駆け寄った。
「手首が折れてるわ」
マダムは真っ青になって、泣いているネビルを抱き起した。そして、生徒の方を向いて厳しい口調で言った。
「私がこの子を医務室に連れていきますから、その間誰も動いてはいけません。箒もそのままにして置くように。さもないと、クィディッチの『ク』を言う前にホグワーツから出ていってもらいますよ」
マダムに肩を抱かれ、手首を押さえたネビルはよろよろと校舎へと歩いて行った。
「あいつの顔を見たか?あの大まぬけの」
二人が声の届かないほど遠くへ行ってから、ドラコが実に楽しそうに言った。他のスリザリン生も声を出して笑ったが、それにグリフィンドール生が声を上げる前に、怜奈は冷たい目をして口を開いた。
「やめなさい、ドラコ。みっともないわ。他の者もよ。スリザリンの品位を欠くような行為は慎んでちょうだい」
そう言うと、グリフィンドール生が目を剥いて怜奈を見た。スリザリン生も驚いた様子で視線を向けたが、怜奈が冷たい目で一瞥したため、慌てて俯いた。ドラコは顔を顰めたが、草の上に転がる何かを見つけて意地悪く笑った。
「見ろよ!ロングボトムのばあさんが送って来たバカ玉だ」
ドラコが高々と持ち上げると、それは日の光を受けてキラキラと輝いた。
「マルフォイ、こっちへ渡してもらおう」
怜奈が諌める前に、ハリーが静かな声で言った。二人に視線が集まる。
「それじゃ、ロングボトムが後で取りにこられる所に置いておくよ。そうだな――木の上なんてどうだい?」
「こっちに渡せったら!」
ハリーが怒鳴ると、ドラコはひらりと箒に跨り飛び上がった。
「ドラコ、やめなさい!」
「心配いらないさ」
怜奈が叫んでも、ドラコは余裕の笑みを見せて上昇し、樫の梢と同じ高さまで舞い上がって呼びかけた。
「ここまで取りにこいよ、ポッター」
ハリーが箒をつかんだ。それを見てハーマイオニーが叫んだ。
「ダメ!フーチ先生が仰ったでしょう、動いちゃいけないって。私達みんなが迷惑するのよ」
しかし、ハリーは無視して飛び上がった。怜奈が額に手をやって溜息をつく。芒が慰めるように「にゃあ」と一鳴きした。その間にハリーは上昇し、女子生徒が叫び、グリフィンドールの男子生徒が歓声を上げた。怜奈が顔を上げると、ハーマイオニーが口に手を当てて息を呑んでいた。
高さがあるため、二人が何を話しているのかは分からなかったが、ドラコの顔が引きつっているのはよく見えた。ハリーが前屈みになり、槍のようにドラコめがけて突っ込むと、ドラコがそれを危うくかわした。グリフィンドールの何人かは拍手をしている。スリザリン生が彼らを憎々しげに睨みつけた。
「取れるものなら取るがいい、ほら!」
ハリーが何事かを言った後、ドラコが叫んでガラス玉を空中高く放り投げ、稲妻のように地面に戻った。一方、ハリーは急降下してガラス玉を追いかけた。生徒達の悲鳴が響く。ハリーはガラス玉と並走すると、地面すれすれで玉をつかみ、間一髪で箒を引き上げて水平にし、転がるように地面に足をつけた。その瞬間、グリフィンドール側から歓声が上がったが、ハリーがそれに応えるより速くに絞り出すような声が聞こえた。
「ハリー・ポッター……!」
マクゴナガルが走って来た。
「まさか――こんなことはホグワーツで一度も……」
マクゴナガルの目はショックで揺れていた。ハリーは一気に青ざめ、全身を震わせた。
「よくもまあ、そんな大それたことを……首の骨を折ったかもしれないのに――」
「先生、ハリーが悪いんじゃないんです……」
「お黙りなさい。ミス・パチル――」
「でも、マルフォイが……」
「くどいですよ。ミスター・ウィーズリー。ポッター、さあ、一緒にいらっしゃい」
グリフィンドール生が口々に抗議しようとしたが、マクゴナガルは一切取り合わなかった。彼女が大股で城に向かって歩き出し、ハリーがその後を力なく付いて行った。
ドラコが勝ち誇った笑みを浮かべ、生徒の方を向いた。
「きっとポッターは退校処分だ!」
どっと笑うスリザリン生をグリフィンドール生が鋭く睨みつけた。グリフィンドールの女子生徒の中には涙ぐむ者までいる。ドラコは褒めてほしそうな顔で怜奈を見たが、彼女の表情に軽蔑の色が混じっているのに気付いてぎくりと固まった。
「情けない」
怜奈がそう言うと、賛同するように芒が足もとで鳴いた。氷を思わせる声音に、ドラコだけでなく周囲のスリザリン生も顔を強張らせる。怜奈は嘆かわしいといわんばかりに頭を左右に振った。
「実に情けない。ドラコ、あなたはそれでも狡猾なスリザリン生なの?こんな大勢の証人がいる前で、平気で教師の言いつけを破るなんて。あのままガラス玉を割っていてごらんなさい。グリフィンドール生に証言され、あなたは処罰されていたでしょうね。ミスター・ポッターと反りが合わないのは知っているけれど、もう少し後のことを考えて行動なさいよ」
「……あ、その――」
ドラコはもごもごと口を動かして何か言おうとしたが、いい言葉が思い浮かばずに目を伏せた。怜奈は呆れの溜息をついて目をそらし、芒を抱き上げて喉を擽った。
間もなくマダム・フーチが戻ってきて授業が再開された。授業の間中、何か言いたそうな視線を隣から感じたが、怜奈は一度も顔を向けなかった。
怜奈は箒で飛ぶのを好みません。今後、彼女が箒に乗る場面は極めて少ないと思われます。