Methuselah:Kaziklu Bey 【ヴィルヘルム×クラウディア】 ※イカベイ時期のエピソードのみ抜粋   作:桜月(Licht)

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2017/2/14
 
KKKまで延々続く、ヴィルクラ短編集のうちの一つ。バレンタインデーイベント記念&ヴィルクラ布教のため新作を持ってきました。
前提として、パーダーボルン逗留二ヶ月目中盤くらい。本編と齟齬がないように注意しつつ全力でいちゃいちゃさせていくスタイルです。
たぶんこれ以上はこの先ないと思われるくらい過去最高に素直にデレるヴィルヘルムなのでご注意ください。
 


夜を越えて

§Side Claudia

 

 

 揺らめく暖炉の炎が薄暗い室内を淡く橙色に染める。だいぶ前に建物の向こうに赤く輝いた夕日は沈んでしまって、訪れた静かな夜の帳。

 用事があると昨夜から出掛けたっきり、私を自分のものだと言い張る強気な彼は帰ってこない。だから今日は朝からずっとこの仮初めの家で一人きり。

 日が高く昇り切る前に二人分の洗濯をして、有り余った時間で家のあちこちを丁寧に掃除した。そうしたら疲れ果ててしまってつい気持ちよく居眠りしてしまった後に、いつまでも帰ってこない彼を残念に思いながら一人きりで取った夕食。明日の朝には戻ってきてくれるかもしれないからと二人分の朝ごはんの仕込みをして、いつもより少ない数の食器を洗ってからお風呂場へ。彼がいない日はたいがいこんな風に一人家に篭って過ごすことが多い。家事のために庭に出るくらいはともかくとして、勝手に出掛けないようにときつく言い含められているし、出掛けてしまったらたいそう彼が怒るので、――それでも気にせず買い物のために市場に行くのは必要だと敢行してしまうけれど、とにかく一応出来る限り彼の言いつけは守るようにしている。守ってないって、結局顰めっ面で怒られるんですけど。

 あちこち手入れをして包帯も綺麗に巻き直して。すっきりした寝間着姿で戻ってきた暖炉の炎が揺れるリビング。他にもうすることはないか、今日にやり残してしまったことはないかと、きょろきょろと辺りを見回した。

 そんなときにふと、物音。それは廊下の向こうから。

 夜が訪れてからそう遅くない時間に、珍しく玄関のドアががたがたと乱暴な音を立てた。それに続いて聞こえる乱暴な足音。大きな歩幅で進むから、あっという間にここまで辿り着いてしまう。

 

「何だ、まだ寝てねえのかよ」

 

 入り口からひょこりと覗いた、背の高い軍服姿。こっちをちらりと一瞥して、独り言じみた彼の声が暖炉の火が揺らめく橙色の空気に投げられた。それはどこか不思議そうな声音が混じった、浮かれたように熱っぽい声で。

 じっと帰ってきた彼の顔を見つめれば、白い頬がほんの少しだけ上気して赤く染まっているのに気付いた。それに、本当にほんの少しだけどどこか雰囲気が柔らかい。居合わせた人を射殺してしまいそうな鋭い気配を纏うのはまったく変わらないけれど、それがいつもより少しだけ緩んだような感じがして。どうも彼は酔っているらしい。きっと何処かでお酒を飲んできたんだろう。

 酔っ払った彼に感情が揺れる。嬉しいし、微笑ましい。そんな珍しい彼を見られたことも、彼がこんな時間なのに帰ってきてくれたことも。彼が帰ってきてくれると期待して明日の朝御飯の仕度もした甲斐があったなと機嫌のいい彼につられて私の気分も良い方へところりと転んだ。

 夜が明けはじめてきた頃にほんの微かにお酒の香りを漂わせて帰ってきたことは何度かあったけれど、そのときにはすっかり酔いも冷めていつもの調子。二人で食事を囲んだときに彼が少しだけお酒を飲むこともあるけれど、どうしてかつまらなそうにいつもへの字口。

 だから、こんな風にすっかり酔っぱらってこんなにも上機嫌の彼を見たのは初めてだった。そもそも機嫌がいいとき自体が少ない彼だから、珍しくてついじっと見つめてしまう。そうしたら、熱っぽい赤い瞳と目があった。とたん、愉快そうに破顔した彼の白い顔。

  

「クハッ、クハハッ。相変わらずぶっさいくな面してんなあてめえ」

 

 珍しく夜が更け切らないうちに帰ってきたと思ったら、私に向けた出会い頭の一言がそれなんてひどい。機嫌が良さそうに唇の端を緩めて、大股で近づいてくる。どすどすと床を踏み鳴らす乱暴な足音。それが私の目の前で止まったと思ったら、けらけらと笑いながら伸びてきた手袋を纏った掌が乱暴にぐしゃぐしゃと私の髪を乱した。まるで犬や猫でも可愛がるような素振り。濃ゆく消えない血の臭いに混じって近寄った彼の身体から香ったのは、くらりと眩みそうになるほどの強いアルコールの臭い。

 

「……っ、お酒臭い。ちょっと、飲み過ぎですよヴィルヘルム」

「うるせえ。俺に指図すんな、黙れよ」

 

 斜め上から鋭く睨みつけられる。ぎらりと光った赤い瞳に、びくりと身が竦んだ。掴んだままでいた私の髪の先を手袋越しに白い指先で弄びながら、にたりと唇の端を上げてヴィルヘルムが笑う。

 

「俺は今気分がいいんだよ。気持ちよく寝れそうなんだ、うるせえ小言はいらねえ。けどまあ、ああそりゃあ悪くねえかもな」

 

 機嫌がいいのはよく分かったけれど、最後の言葉の意味が分からない。不思議な告白をした彼に戸惑う。そんな私を気にすることもなく、高い位置にある赤い視線がきょろりと室内を彷徨った。次の瞬間には狙いを定めたような顔をして、薄い唇からぽつりと熱っぽく声が落ちてきた。

 

「まあ面倒くせえしここでいいか。――おら、こっちこい」

「ぇ? ちょっ、ちょっとヴィルヘルム?」

 

 腕を取られて、引き摺るように連れて行かれる。どこへ行くのかと疑問に思ったら、答えはすぐに明かされて。その足はたった数歩進んだだけでぴたりと止まってしまった。目の前にはよく二人で食事をするテーブルとソファーがあって、それがどうしたのかと思う暇もなくぐらりと傾いだ私の身体。

 

「きゃっ!」

 

 乱暴な手つきで硬めの布地のソファーにどさりと押し倒された。黒い軍服を纏った大きな身体が遠慮なしに真上からのしかかってくる。

 まさか、こんなことが起きるなんて。私に興味がある素振りなんて、ここまでいっしょにいてこれぽっちも見せなかったのに。興味がないって、あんなにはっきり言い切っていたのに。

 豹変した態度に驚いて我に返った私が覆い被さってくる身体を押しのけようとすると腕を突っ張る、よりも早くだらりと長身の身体から力が抜けた。そのまま私をソファーの背と彼の身体の間に閉じ込めるように大きな身体がごろりと横になる。これは、その、そういうことをする体勢とはちょっと違うように思う。

 抵抗なんてする間もなくあっさり想像と違う結果になって、ぽかんと呆気に取られてしまった。そんな私の隣に無造作に寝転ぶ、相変わらず自分勝手な唇が酔ったまま感想をつらつらと零して。

 

「アー、ぬくぃ。アァ、でもそうだな。もうちっと太れよ、もっとちゃんとメシ喰え。じゃねえと抱き心地悪ぃわ」

「…………むぅ」

 

 むくれてぷぅと頬を膨らませる。ちょっとだけとはいえ身構えて焦ってしまった私がみっともなく、馬鹿らしい。そんな反応を見せた私に、ヴィルヘルムがそれはもう楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。愉快だと隠さずに笑う彼に、好きにからかわれてしまったのだと気付く。

 ええ、よぉく理解しましたとも。これは色気のある展開では決してなく、さっき自ら宣言した通り彼はただ眠りたいだけ。暖を取るのにちょうどいい温もりを求めて犬や猫のような愛玩動物よろしく私を捕まえた。要は都合のいい抱きまくらにしたいだけだということ。眠るならもう少し歩いてベッドまでいけばいいのに面倒臭いと宣ってソファーで済ましてしまうところも相変わらず横暴で自分勝手。捕まえてしまったらもうどうでもいいとばかり、隣に寝転んだヴィルヘルムがぎゅっと目を閉じて大きなあくびをした。気持ち良さそうにぱかりと開いた口からちらりと尖った牙が覗く。そのまま薄い瞼が開くことはなく、眠りに落ちるために呼吸を整えようと胸板が規則正しく上下する。

 こんなにしっかりと押さえ込まれていたら抜け出せない。締めつけられてはいないから苦しくはないけれど、解けない強い力で閉じ込められているのが張った背中に回った腕の力強さから伝わる。本音としては眠るなら予定通り慣れている自分のベッドが良かったけれど、面倒臭いとさっき言っていたから場所を変えてくれる余地はきっとない。だってもう、すぐ側からぐぅぐぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。もう、眠るの早すぎですよヴィルヘルム。戸惑う私を放置してあっさりと先に眠ってしまった彼にちょっぴり呆れた。

 ああ、諦めるしかないのかも。幸い暖炉はついたままで、朝まで薪も持ちそうだった。ソファーの背凭れとヴィルヘルムに挟まれて前も後ろも暖かく、ぴったり引っ付いているから隙間風も防げている。あえて難をあげるとすれば狭いことだけど、こういう体勢に引きずり込んだのは彼なのだし狭さを理由にいくらひっついたところで怒りはしないでしょう。怒ったとしたらあまりにも不本意で、そうなったらきっちりと抗議しよう。

 そう決めて、私の首の下に無造作に転がっていた軍服の腕をまくらに仕返すべくぐっと頭を持ち上げた。そのままぽすんといい位置に頭を乗っけて、身体をころんと横向きにして眠りやすい体勢を取ってみる。眠っているのだから当然だけど、それに対して文句は飛んでこなかった。それどころか収まりが悪かったのか、唸りながら寝ぼけて動いたヴィルヘルムにちょうどいい位置にずらしてしっかと抱え直される始末。まったくもう。この人は、本当に私を体のいい抱きまくらにする気みたい。人のことを何だと思ってるんでしょうね。

 犬猫と変わらない私への扱いに拗ねて、小さく溜め息を溢す。それでも、彼にあからさまに嫌がられいるよりはずいぶんとましなのかもしれないと思い直して、ちらりと軍服の腕と肩の隙間からぼんやり天井を見上げた。

 予想できなかった突然の展開にびっくりした頭が、まだ眠れないとぼやいている。落ち着くまで、眠気が訪れるまでもう少しかかりそう。

 力強い腕の中に閉じ込められて、ぽっかりとあいてしまった一人の時間。ただぼんやりするのはもったいないと思って、少し考え事をすることにした。どうせなら、何か有意義なことを。そう、例えば目の前の彼についてとか。

 そっと瞼を閉じて、彼との出会いから今までの出来事、彼について知ったことを思い出し、振り返ってみる。

 彼は私と同じノアの子で、けれど私とは違う道を選んで進んでいる強い人。私の知らない強い生への渇望を抱いて生きている人。

 いくつもの戦場を駆けた屈強な体躯。纏う黒い軍服からは血の臭いがする。軍服を任されて洗う機会が数度あったのだけど、その濃い臭いは洗っても洗っても消えなかった。それどころか彼の身体そのものにすら命を奪ってきた臭いが濃く染み付いている。そんな臭いを纏わせて、彼は渇望(ねがい)を叶えるために異形の力を奮っている。

 彼は、強い人であると同時に、とても怖い人。彼と出会った戦場で、半分ながらもその怖さを知った。間近に目にしたことこそないけれど、彼が私の近くで他者の命を奪ったことは何度もあった。狂気に満ち、暴虐を好み、闇に生きると誓った人。

 本当なら彼はいつだって簡単に私を殺せる。興味が失せれば、果たすべき役目を失えば、この命は花を手折るような気安さで摘み取られる。それをあっさりと信じられるほどには乱暴な人だし、いつだって殺意に満ちてあちこちを睨み付けている危険な眼差しに晒されてときおり首を絞められているような気分になったこともあった。

 そんな怖くて強い彼には、私が必要なのだと言う。私の魂を奪いたいのだと言う。そう力強く言い切って、悲しみと血に濡れたあの赤い戦地から連れ出して私をこうして側に置いてくれれている。それだけでは終わらず、この命が果てる前に手に入れたい私の半分を見つけてくれると約束までしてくれた。

 こんなにも特定の誰かに必要とされたのは初めてだった。彼に救われた恩を返すためにこの魂を捧げようと私も自ら選んで決めた。命を失うことより、私の半分を手に入れることの方が大切だった。そんな私だから、半分でない私が欲しい、奪いたいと言ってくれる彼との出会いは本当に奇跡のようなもので。

 だってそれは、私の結末が約束されたということ。この生命が果てる最後の瞬間を、彼が看取ってくれるということだから。私の命を詰むのは彼で、結果として奪われるのだからその表現は可笑しいのかもしれない。

 だけど一人でその瞬間を迎えないと約束されていることは、先の短い私にとって何よりの祝福で。それに彼は私を自分のために使ってくれると言った。私は誰かの役に立ちたいとずっとそう願ってそうあれるように努めて生きてきたから、ありがたい。私が欲しいと力強く言い切ってくれる彼の役に立ってこの生命を使い終えるなら、きっと私は善き所に行ける。私の望みはきっと叶う。そう信じられる。

 ああ、やっぱりこれは奇跡。彼は私の運命だと、あの戦場で直感したのは間違いじゃなかった。

 出会ってまだそう日々も経っていないのに、私は彼にいろんな初めてを捧げたように思う。治療の為に触れたり抱き支えたりするのは別として、こうして異性に抱きしめられたのは彼が初めてだし、誰かとあんなに負けじと言い合いをしたのも初めて。彼ほど融通がきかない人も珍しいから、この二か月近くでずいぶん私も口うるさく喋るようになったなあと思う。こんなにもたった一人のためだけに食事を作り家事をしたのも初めてだし、さらにいえばあんなに馬鹿にされたり、叩かれたり蹴られたりしたのも初めての経験だった。それが人として良いか悪いかは別にして、私の人生がまさかこんな様相を呈して面白いなと思えたこと、それがとても楽しい。もちろん彼にまともな倫理観は望めないし、怖い人だし、我侭で自分勝手でいろいろと大変だけれど、この日々を苦痛に思ったことはなかった。むしろ、楽しいことが多かった。それだけでなく怒ったり、寂しい気持ちになったり、いつも穏やかで敬虔にいようと努める私の心を揺さぶる出来事も多くて、半分しかない感情が自分の感情に素直な彼につられて揺り動くのにわくわくした。私とは違う表現を持っている彼が羨ましいし、憧れた。

 そう、彼と過ごしたこの二ヶ月近く、本当に賑やかで楽しかった。たくさん叩かれて馬鹿にされて、怒ったり、拗ねたり、笑ったりした穏やかで温かい日々だった。彼と二人で過ごしたささやかな思い出をたくさん思い返せばやっぱりわくわくとした気持ちになって、逞しい腕の中でくすくすと肩を揺らして笑ってしまった。そうしたら酒気に微睡む気持ちいい眠りの邪魔をしてしまったみたい。揺れてしまった私の身体に起こされて、ソファーに寝転がった黒い身体がもぞりとむずがるように動いた。

 

「……んだよ、寝れねえのか?」

 

 薄く瞼が開いて、とろりと動いてこっちを見た赤い瞳。眠そうな顔に囁いたような低い声で問われる。素直にこくりと頷けば、あからさまに溜め息を吐かれて。溜め息といっしょに沈んだ肩の重みが伸し掛かってきて、近くにある彼の存在をより強く身近に感じさせた。

 

「ったく、さっさと寝ろや。普段なら俺を差し置いてぐーすか勝手に寝てるだろうが。っていうかよ、夜なのに俺が寝てててめえが起きてるとか腹立つんだよコラ」

 

 相変わらず自分勝手な理由を振りかざして、ヴィルヘルムが寝つけ寝つけと私をどやす。あやしているつもりなのか、乱暴な手つきでがさりと背中を撫でられた。少し痛いその手つきが私のよく知る乱暴者で我侭な彼らしくて、つい苦笑いが零れる。誰かを優しくあやすことに慣れていないところが微笑ましいなあと思えた。

 

「ガキみてえによ、抱き締めてやったらすぐ寝るじゃねえか。おい、今日はどうしたよ?」

 

 そう問われて、ふと洞窟の壁に凭れた彼の腕の中でいっしょに眠った夜のことを思い出す。結局あれ一度きりだったけれど、普通の人とは違う彼の不思議な体温に何故か安心してすぐに寝付いてしまったのは確かで。それによく覚えていないけれど、倒れて運ばれる最中に彼の腕で眠ってしまったこともあったように思う。

 あの洞窟の夜のことを私が覚えているのはもちろん彼も忘れることなく覚えていてくれたのだとこんなときに分かってしまって、なんだか照れて頬がじわりと熱くなった。

 

「分かってんなら寝ろ、馬鹿女。何のために飯炊き女から抱きまくらに格上げしてやったと思ってんだてめえ。また倒れたりされちゃ俺が迷惑なんだよ。もう運んでなんかやらねえぞ、面倒くせえ」

「あっ、あれはその、確かに私の不注意だったのでごめんなさい。でももう自己管理はちゃんとしますし、臥せる前に自分でちゃんとベッドまで行きますから――って、痛!」

 

 指摘された出来事は、あまり思い出したくない。それこそ顔から火が出るほど恥ずかしい。いつもなら体調を崩す前に自分からベッドに潜り込むのにその日は間に合わなくて、キッチンで倒れて蹲ってしまった。私にとって、光がもたらす痛みは祝福と同じ。だからそれに悲鳴を上げるなんて以ての外。光は尊いものだから、どんなに苦しくても、倒れたとしても、それを辛いとは言いたくないし、苦痛だとは認めない。絶対に認めない。光とは私を救うもの。それは誰の指摘でも、どんな痛みでも、決して揺るがない私の真実と理解している。だからあのときも、私はいつものようにこんな状況なんて何でもない、たいしたことではないしすぐに元気になる。そう証明したくて自分の足でベッドを目指そうと躍起になった。

 光は尊い、そう訴える私の意地を彼は汲んでくれた。この表現は彼からしたら語弊があるのだろうけれど、無条件にすぐさま手を差し伸べるのではなく、床をみっともなく這ってどうにか立ち上がろうと足掻く私の好きにさせてくれた。私の限界が訪れるまでただ耐えて見守ってくれた。それが私という存在の芯をきちんと理解して貰えているようで、あのとき本当に嬉しかった。けれどもう、あんな痴態を彼には見せない。もう大丈夫、きっと上手く凌いでみせる。

 だからそれを必死になって訴えれば、何故か明らかに苛立っていく彼の顔。訴えたい言葉すべてを言い終わる前にその苛立ちをぶつけられて、ごちんとぶつかった額と額。与えられた衝撃が痛くて、頭がぐわりとしてぎゅっと目を閉じる。頭の揺れがやっと収まった頃、ひりひりする額をさすって目を開ければ、熱で火照った呆れ顔で私を見ているヴィルヘルムがいて。

 

「バァカ、そもそも倒れるなって言ってんだよ。あのなあ、分かってんのか。おまえが馬鹿みてえに微笑ってないとこっちは調子狂うんだよ、ボケ」

「……っ!」

 

 びっくりした。びっくりしすぎて心臓が、止まるかと思った。だってそれは、私が言葉の上だけでなく名実ともに本当にあなたのものだと証明してくれる言葉だから。私の不調が、私の存在が、あなたの心を掻き乱すだけの価値があると認めてくれたということで。

 彼がそんなことを言うはずはない。私相手にそんなことを思うわけがない。本当にそれが彼の唇から出た言葉なら、それはきっとひどく酔っているから。

 いつもは顰めっ面を浮かべて怒って叫んでばかりなのに、今日はお酒の力にかいつも以上によく喋って表情がくるくる変わる。怒った顔とか、呆れ顔ばかりだけれど、いつも最初に見せる不機嫌そうな顰めっ面がなりを潜めて、それに阻まれない素直で真っ直ぐな感情を表に出してくれている気がする。

 彼がそんな風だから、私までおかしくなってしまったんだろうか。びっくりしすぎて止まりかけた心臓に、ぎゅっと締まった胸。それが解けていくのといっしょに身体の力がじわりと抜けてしまって、きつくきつく閉めておかなければいけない心の箍までつられて緩んでしまったんだろうか。

 ぽろりと溢れたもので、私の頬が濡れた。その水滴が最初はなんだか分からなかった。それが私の瞳から零れた涙だと気付くまで、本当の本当にずいぶんと時間がかかってしまって。

 

「……おい、糞女。何で泣くんだよ。わけわかんねぇぞ」

「ごめ、んなさい。私にも何がなんだか……、ぅ」

 

 押し殺した声に責められて、上擦った声で謝罪する。だけど言葉途中でそれ以上上手く喋れなくなってしまって。

 

「はぁー、何で女ってのはこんなほいほいすぐ泣くかねえ、うざってえ」

「ちが……っ。私はそんな、泣いてなんか」

 

 泣いてんじゃねえか、低く真面目な調子で言い返されてぐっと言葉に詰まる。違う、違うのヴィルヘルム。私は本当に、泣いてなんかいない。きっとこれは何かの間違いだから。

 私は泣かないし、泣けない。もっと正確に言えば、泣きたくない。

 泣くことは、私の決めた世界(ひかり)に反してしまうから。そんなことは認められない。そんな弱い自分は嫌、嫌なんです。

 灼ける肌に苦痛を感じて涙することは、憧れの祝福(ひかり)に対する冒涜だと感じたから。

 そうでなくとも尼僧として敬虔に行動するようにと厳しく躾けられてきたし、理想とする彼女みたいに誰かの役に立てるように強く在りたいから痛みや悲しみに心折れて涙を流すような弱さを表に出したくなかった。ただでさえ私は半分なのに。普通の人のように涙を流したところで、受け取っている感情は半分で正しい涙を流す感情の量には程遠い。

 だから、半分しかない感情の制御が上手く出来なかった物心つく前の幼い時分を除けば、私の意志で泣いたことなんてただの一度も経験がなくて。熱に浮かされて生理的な涙を流したことくらいはあったかもしれないけど、意識のある時は絶対に涙なんて流していない。そう、私は泣いたことがない。そんなことはしたことがない。だけどこうして、ここにきて彼の腕の中で泣いてしまった。何気ない彼の言葉が嬉しくて、泣いてしまった。心が我慢できずに涙を流すほど、激しく揺れ動かされてしまった。

 ああ、どうしよう。したことがないものだから止め方なんてさっぱり分からない。不本意な涙を流しながらどうしたらいいのかと途方に暮れる。

 そんな私を見られることが恥ずかしくて、困り果てて隠れたくて、咄嗟にヴィルヘルムの胸元にぽろぽろと溢れる涙に濡れた頬を押し付けた。そうしたら、黒く血の匂いのする軍服が私の涙でしとりと濃い染みになってしまって。間近の視界に飛び込んできた一際目立つ漆黒の痕に、青褪めて慄いた。

 ヴィルヘルムといっしょに過ごすうちにこの黒い軍服は彼の誇りであると知った。彼が奉ずる黄金に固い忠誠を誓った証だから、それを不本意な涙で汚してしまったのが申し訳なくて。

 

「ぁ、ごめんなさい。ごめんなさいっ、ヴィルヘルム。私、汚してしまって……!」

「ァ……?」

 

 跳ねるように顔を上げて必死に謝れば、緩慢とした動作で私を見つめたヴィルヘルムが不思議そうな顔を浮かべた。

 

「はぁ、今更だろ。もっと汚えもんで汚れまくってんだから気にする必要ねえよ。そりゃあ常にきちっとしておきてえって頭はあるがよ、戦争やってりゃ嫌でもズタボロになるもんだし、涙なんて血や臓物の破片とかに比べりゃ綺麗なもんじゃねえか」

「……ぇ?」

 

 呆れた声音で鼓膜を打った彼の言葉に、かぁっと頬が赤面する。必死の謝罪にあっさりと返ってきた答え、それに恥ずかしさで胸がいっぱいになる。ああ、私は彼を軽んじていた。半分の心しか持たない薄い私の涙程度で彼の魂を汚すことができるわけがなかったのに。なんて、なんて失礼な考えを抱いてしまったんだろう。青褪めて後悔する私を、不思議そうに小首を傾げて、じっと熱に潤んだ赤い瞳が見ているのに気付いた。

 その視線に戸惑って顔を上げれば、ヴィルヘルムは酒気にぼんやりとするだろう頭を振って、じっと考え込むように視線をふいと天井に投げた。そうしてたっぷりの時間を掛けたあとで、戻ってきた彼の視線が熱っぽく私を見つめて、白い頬が僅かに赤らんだ彼の顔が少しだけ困ったようにくしゃりと歪んで。

 

「アァー、まあ確かにてめえの言うようにどうでもいい奴の汚えので汚れりゃ、嫌かもな。けどよ、おまえはもう俺のもんなんだから、俺の一部みたいなもんだろう。それに汚れりゃ、いくらでもおまえが洗ってくれりゃあいいじゃねえか。好きだろ、洗濯すんの。軍服(ふく)なんてどうしたって汚れるもんなんだしよ、それでいいと思うぜ」

 

 だから私が汚したことは別に気にならない、相手が私なら汚したいだけ好きに汚せばいいしその分綺麗に洗ってくれればいいのだと、彼は熱に浮かれた穏やかな口振りで言った。

 それは、その言葉の意味は、あまりにも私にとって意味が深くて、深すぎて、たまらなくて。

 

「っ、ぁ……あぁ」

 

 あなたは、私が半分で薄いからあなたの軍服(ほこり)を汚すに足りないのではなく、私があなたのものだからいくら汚してもその度に好きなだけ綺麗にすればいいと言ってくれるの?

 私はあなたのものだから、いくらでもあなたの側にいていいと言ってくれるの?

 分かってる。彼が何の気なしにその言葉を告げたこと。良いように良いように、私が取ってしまっているだけ。酔っ払っているからつい普段言わないようなことまで彼の口が滑ってしまっただけだって。だけどそれでも、嬉しくて、嬉しくて。我慢できずに溢れた悲鳴じみた嬌声といっしょにまたぼろぼろと涙が溢れる。今度こそほんとうにたくさん溢れて、止まらなくて、どうしようもなくて。自分の心すら上手く掴めないで混乱している、そんな私が怖くて、――微かでも確かに怖いと思えて、戸惑うまま助けて欲しくて涙に濡れた瞳で懇願してヴィルヘルムを見つめた。

 

「んだよ、まだ泣くのかよ。おい、どうしたよ、クラウディア。俺が泣かしたとかふざけたこと抜かすんじゃねえぞ。さっさと泣き止めよ、コラ」

「……ぅ。ふぇ、うぅ」

 

 ひどい。ヴィルヘルムったらひどい。泣くことを知らなかった私をこんなにも戸惑うほど泣かせたのはあなたなのに。いつものように泣くなとひどく言うのに、いつもより穏やかな音をして声をかけるものだから、私はまた泣いてしまう。泣き止み方なんて知らないから、溢れる感情に促されるままただただ嬉しくて泣いてしまう。ただでさえ初めてのことで戸惑っているのに、そんな私にさらに追い打ちを掛けるように呆れ顔を浮かべていたはずのヴィルヘルムが愉快げにくしゃりと表情を崩した。

 

「ハッ、でもまあおまえの泣き顔は悪くねえな。普段うるせえてめえが吠え面かいてるかと思うと気分いいしよ。それに泣くってのはそんだけ何か感じたってことだろう。生きてるって感じがしていいじゃねえか――って、おいよお。まだ泣くのかよ、いい加減にしろクラウディア」

「……だっ、て、ぅぇ、……う゛」

 

 溢れる涙は止まらない。嗚咽を溢す喉が震えすぎて痛い。生きてる、そう言って貰えたことが嬉しかった。もっと生に執着を持てとことあるごとに私を叱るあなたにそれを僅かでも認めて貰えたことが嬉しかった。

 途方に暮れながら涙を流し続ける私の隣で、同じようにヴィルヘルムも泣き続ける私を眺めて途方に暮れる。馬鹿だ阿呆だと罵って叩いてくれれば泣き止むかもしれないのに、私が泣いて弱々しい姿を晒してしまっているせいで珍しく当たりづらいのか、それとも叩いたらよけい泣くと思ったのか乱暴な手が持ち上がらない。いつもみたいに酷く扱ってくれない。それがまた辛くて、苦しくて、切なくて、なのにまるで大切にされているように感じてしまってどうしても嬉しくて。

 

「……仕方ねえなあ。本当にてめえは手が掛かる馬鹿女だよ。おら、こっち向け」

「ぇ? ぁ、きゃっ!」

 

 呆れ混じり困ったように半笑いで零して、前のめりになった彼の顔で見上げた真上にさっと薄暗い影が差す。がさりと覆い被さってくる大きな彼の体躯。ぐっと寄せられた整った白い顔。吐息で肌をくすぐるように近づいてくる彼の薄い唇。

 ぺろりと涙で濡れた頬を舐められた。そのまますいっと逸れた唇があぐりと開いたと思ったら、がじりと鼻先を噛じられた。びっくりした。あんまりにもびっくりして、びくんと跳ねた身体にぴたりと涙が止まってしまった。整った歯並びの形につきりと走った甘い痛み。彼の熱い舌が拭った涙の痕、濡れた舌が辿ったところがじわりと熱を持ったみたいに熱い。

 ああ、彼は本当に私の初めてばかりを奪っていく。尽く、持っていってしまう。抱き締めてくれたのも彼が初めてだったけれど、それはよくある男女の営みで想像の範囲内だし、最初に求めたのは自分からだったから心の準備も出来た。彼限定ではあるけど、多少は慣れもした。だけど頬を舐めるとか鼻を噛じられるとか、そんな行為は私の持てる知識にはなくて、そんな風に男性に扱われたのはそれこそ初めてで頭が真っ白になりかけた。

 しょっぱいと短く感想を零して、間近に整った彼の顔が私をじっと覗き込んでいる。拭えない狂気を宿した赤い瞳の中に、涙に真っ赤になった目で驚いた顔の私が映っている。口付けできそうなほどの距離の近さに息を呑んだ。心臓がばくりばくりと激しく鳴った。

 

「ハハッ、泣きやめるんじゃねえか。ぶっさいくな面しやがって、目ぇ真っ赤じゃねえかよ」

 

 意地悪い顔をして、からりと彼が笑う。その顔があんまりにも楽しそうで、眩しくて、闇に生きるはずの彼が放つ光にまた目が眩んだ。そうだ、彼はそうやって何度も何度も私を光の方へと導いてくれる。そんなことをした覚えはこれぽっちもないと、いつだって不機嫌そうに断じるだろうけれど、彼がなんて言おうと私はいつだって彼に救われている。闇の中に佇む彼が放つ眩い光に、いつかの澄み渡る青い空に見た美しい白い鳥に似た姿に。彼は、私と同じノアの子。けれど私と違う生き方を選び、光と闇が同在する厳しい世界を力強く生き抜いていく、強い人。この魂を善き処へと導いてくれる、私の白い天使。

 ああ、この人はどうしてこんなにも私の心を揺さぶるんだろう。半分の心しか持たない私が、十全になれると明確な根拠もないのに力強く信じられるくらいに私の心を捉えて離さない。交わしてくれた約束はきっと守られる。彼なら必ず守ってくれる。そう信じることが、こんなにも容易い。彼は私の運命なのだとただの直感でしかない考えが、どうしてこんなにもすとんとこの胸に当たり前のように落ちてくるんだろう。それが不思議で、だけど疑うことなんてこれぽっちもできなくて、ただ真っ直ぐにこの先も彼を信じて光の下を生きたいと、そう心から切に思う。

 

「……ッ」

 

 我慢できなくて、私一人ではこの胸に溢れる感情の渦を耐えることができなくて、私の涙で染みが出来た黒い軍服の胸元にきつく縋り付いた。

 

「アァ、やっと寝る気になったかよ。おら、さっさと寝ろ。諦めて大人しく抱かれてろよ、バァカ」

 

 普段からどうしたって素直に言うことをきかない意地っ張りな私が、やっと思い通りになったとどこか満足そうに笑って、言葉通り気持ちよく眠るための抱きまくらにするために軍服の両腕が温く私の背中を荒っぽく撫でて抱き締める。

 彼の良いようにして欲しくて、望まれるまま頬をざらついた軍服の布地に擦りつけた。きっと彼からしたら飼っている犬が芸でも上手く出来た程度のことなんだろう。そうだと分かっているのに、褒めるように乱暴な指先にくしゃりと後ろ頭を撫でられて、長い髪をからかうように柔らかく梳かれて、そのくすぐったさにまた泣きそうになる。だけどせっかく止まった涙をもう一度零すのは嫌だったから、ぐっと身体を縮ませて耐えた。また泣いたら彼を困らせてしまうし、弱い私をこれ以上強い彼には見せたくなくて。

 不思議な体温が与えてくれる温もりにぎゅっと身を寄せていれば、規則正しく脈打つ心臓の音が聞こえた。それに耳を傾けていれば少しずつ心が落ち着いてきてほっとした。

 二人してじっと寄り添っていれば先に眠ってしまったのは眠気を押し殺して会話をしてくれていた彼の方で、しばらくしてすぐ側から落ち着いた寝息が聞こえてくる。半開きの唇から香る濃いお酒の臭い。私といてこんなに最後まで笑っているほど機嫌がいいなんて、きっと本当に気持ちよくお酒が飲めたんだろう。誰と飲んでいたのかは知らないけれど彼が気分良く楽しい時間を過ごせていたのなら嬉しいし、どうしてかは分からないけれどこんな半端な時間に帰ってきてくれたのも――彼といっしょに眠れるのも嬉しい。

 そっと持ち上げた涙に濡れた瞳で気持ちよさそうに眠る彼の顔を眺めていたら、またじわりと涙がこぼれそうになって、唇を噛み締めて耐えた。ああ、もうこれ以上泣きたくない。泣いたほうが生きている気がしていいとあなたは言ってくれたけれど、私はやっぱり泣きたくない。ごめんなさい、ヴィルヘルム。これはただの私の我侭。絶えず眩しい光を求める私が幼い頃から朝の日課といっしょに諦めずに貫いてきた譲れない意地。だから、守り抜きたい。残されたあと少しの命を光に許される限り全うしたい。あなたみたいに、私も強くなりたいから。

 ――ああ、お願い。だから忘れて、ヴィルヘルム。

 朝になって日が昇って、それからぐっと夜が近づいてあなたが目を覚ます頃にはいつもの私に戻っているから。あなたが望んでくれたように、軽口を叩いて屈託なく笑う私に戻るから。涙を流してあなたに縋った弱い私のことは、どうか忘れて。

 だって、嫌なの。ここにいる弱い私はどうしても、耐えられない。昨夜の言葉は気の迷いだったと、酔っていたから口にした戯言だったと、あなたの薄い唇から、この夜のことを否定するような言葉は聞きたくない。そんな言葉を聞いてしまったら、半分しかない心なのに胸が傷んで眠れなくなってしまいそう。それならいっそのこと忘れて欲しい。我侭だって分かってる。だけどあなたの言葉一つに踊らされる弱い私は、それだけで本当に心が砕けてしまいそうだから。そのかわり、私は絶対に忘れない。こんなに大切なこと、忘れたくなんて、ない。

 あなたのかわりに、お酒の力につられた素直な言葉も、まるで一つのようにぴったりとひっついて触れ合った温もりも、抱き締めてくれた腕の力強さも、髪を梳いてくれたあなたらしい荒っぽい手つきも、欠けている私が持てる感覚すべてで受け取った記憶をこの胸に大切に大切にしまっておくから。

 私は半分だから、酔ったあなたが気まぐれにくれた優しいものを十全に受け取ることがきっとできていないけれど、それが悔しくてしょうがないけれど、それでも確かにこの心は喜びに震えたから。あなたが側にいてくれて幸せだって、思えたから。

 だからお願い、ヴィルヘルム。私の涙は、忘れてください。

 あなたが望んでくれた普段通りの私のように、あなたにはいつだってにこやかな笑顔を見せていたい。

 涙の夜を越えて、微笑いたい。煌めいて眩しい光を身体いっぱいに受け止めて、あなたの側で屈託なく笑顔を溢す私でいたいから、どうかお願い。

 目尻に残っていた涙と頬に残った涙の痕をごしりと手の甲で拭った。擦れてほんの少し熱を持った瞼をぱっと開けば整った白い寝顔がすぐ側にあって、眺めていれば自然と頬が緩んで唇が微笑みの形を浮かべてくれた。きっと彼も、明日はいつも通りの彼に戻る。すっかり酔いは冷めて、きっと朝にはいつもの顰めっ面を浮かべてくれる。そう、これは酔ったあなたが私にくれた一時の優しい夢だから。

 ああ、よかった。大丈夫、きっと大丈夫。いつも通り見慣れた彼が隣にいてくれるなら明日の私もきっとにこやかに笑っていられる。

 私の半分を見つけると約束してくれた彼のために明日はこの微笑みを絶やさないと心に誓って、彼が誇りに思う軍服の胸元に乾いた涙にかさついた頬をぴたりと寄せた。穏やかな寝息と力強い心臓の音に耳を傾けて、穏やかな眠りに落ちるためにそっと涙が乾いた瞼を閉じる。

 触れ合う彼の熱に優しく眠りへ誘われて、ふわりと漂った私の心、そこにじわりと沁みた一つの想いがあった。それを切に切に願って、深い眠りの淵へ落ちていく心の中で私の隣で穏やに眠る彼にそっと優しく語りかけた。

 私がいつか――きっと遠くない日にあなたのおかげで善き処へ行けるなら、私を幸せに導いてくれたあなたもどうか善き処へ。心が望むまま、彼の願いが果たされる場所に辿り着けますように。意地っ張りで理不尽で乱暴者で、だけど揺らぐことのない強い渇望を抱いて厳しい世界を生き抜こうとする誰よりも前向きなあなたが、どうか幸せであれますように。

 おやすみなさい、ヴィルヘルム。半分の私だけれどあなたの幸せをこの心で精一杯願うから、どうか素敵ないい夢を。

 あなたと私の二人で紡ぐ明日がより良く優しい輝きに溢れた尊いものになりますように――。

 




読んで頂けて嬉しいです。ありがとうございました(*´∀`*)!

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