早朝。
僕はいつものように、事務所で書類を整理していた。
いつもの騒がしい事務所も嫌いではないけど、朝の誰もいない時間帯が僕は好きだった。いつもたくさんのアイドルで賑わってるここに、僕のタイプ音だけが響いているのが、なんだか心地良い。
「おはようございます、プロデューサーさん」
「おはようございます、千川さん」
アシスタントの千川さんが出社してきた。
いつも元気いっぱいな彼女だけど、朝はそうでもない。
別に朝に弱いわけじゃないだろう。
早朝の、神秘的にすら思えるこの事務所の雰囲気を崩したくない、そう思っているんだと思う。
どうしてそう思うか?
だって、僕も同じだから。
「朝ごはん食べました?」
「いえ、まだです」
「それじゃあ、何か作りますね。リクエストはありますか?」
「そうですね……それなら、オムレツをお願いします。僕はコーヒー淹れておきますね」
「分かりました。美味しいの、期待してて下さいね」
事務所には小さなキッチンと冷蔵庫が置いてあって、その中に少しの食材と飲み物、それから何故か少しのアルコール──多分、柊さんか川島さんあたりが用意したもの──が常備されてる。
ここで代わり番こに朝ごはんを作って振る舞う、それが僕らのちょっとしたお楽しみ。アイドルにバレると際限が無くなっちゃうから、二人だけの秘密だ。
タイプ音の代わりに、コーヒーを淹れるコポコポという音と、チヒロさんがオムレツを作る音が響く。ついでに良い匂いもして来た。
音と匂いが溢れるたびに、僕の気持ちも高まってくる。そりゃあもう「わーい、わーい」って感じだ。
「出来ましたよ、プロデューサーさん。チッヒ特製オムレツです!」
「おお、チーズとマッシュルームとベーコンのオムレツ! 僕、これ大好きなんですよ」
「ふふ、知ってます。だからお作りしたんですから」
「流石は千川さんですね。ライトグリーンの服を着てるだけのことはあります」
「またまた、そんなこと言って。褒めたって何も出ませんよ?」
褒めたつもりはないんだけど……。今のは所謂、ジョークというやつだ。だけど千川さん的には、あの服を褒められると嬉しいらしい。
「でもプロデューサーさんだって、私の好みピッタリのコーヒーを淹れてくれるじゃないですか」
「偶然ですよ、偶然」
「それなら、そういう事にしておきましょうか。そんなことよりほらほら、早く食べてくださいよ。冷めちゃわないうちに」
「そうですね、いただきます」
「はい。召し上がれ」
オムレツを切って、卵の生地にたっぷりのチーズを絡めて口の中に入れる。うん、美味しい。
次はチーズを少し減らして、マッシュルームとベーコンと一緒に食べる。ベーコンの肉汁をマッシュルームが吸って、良い味わいになっている。
一口、また一口とオムレツを口の中に放り込んでいく。
うむむ……チッヒ特製オムレツ侮りがたし。
「気に入っていただけました?」
「えっ、あ、はい」
「ふふふ、良かったです。あっ、もう、プロデューサーさん。お口についてますよ。ちょっと動かないで下さいね」
机に乗り出して、ポケットから出したライトグリーンのハンカチで僕の口を拭いてくれた。
この歳になって同僚の女性に口を拭いてもらう恥ずかしさと、対面に座る僕の口を拭く為に、千川さんが机に乗り出した事で強調されたふくらみが見えてしまった事で赤面してしまう。
……千川さんは意外と大きかった。
流石ライトグリーンの服を着てるだけある。
「隙だらけですよっ。お仕事の時はあんなにしっかりしてらっしゃるのに……。あっ、もしかしてそれだけ私に気を許してる……とか?」
「さあ、どうですかね」
「ちょっと、誤魔化さないで下さいよ」
「おっと! 千川さん、そんなに机に乗り出したら危ないですよ」
「はぐらかすプロデューサーさんが悪いんですっ! ほら、うりうり〜!」
「ちょ、千川さんそれ以上は本当に───」
「プロデューサー、何をしてらっしゃるんですか?」
「た、高垣さん……」
し、しまった。千川さんとのじゃれ合いに夢中になって気がつかなかった。
いつの間にか、僕の担当アイドルの一人である高垣さんが出社していた様だ。
彼女は僕の方へと歩いて来て、背中に寄りかかった。そして、耳元でそっと囁く。
「随分楽しそうにしてましたね」
「いえ、そんな……」
「別に隠さなくていいんですよ? 同僚の方と親睦を深めることは、社会人の大切な嗜みですから。ただ──」
高垣さんはより一層口を耳元に寄せた。彼女の吐息が耳を擽る。
「千川さんと朝ごはんを食べたんですから──今日のお昼ご飯、付き合っていただけますよね?」
彼女の提案を断る、という選択肢はない。
僕は彼女に逆らう事が出来ない、弱みを握られている。
◇◇◇◇◇
高垣さんとのランチ。
僕は何処かお店に入ろうと提案したのだけど……高垣さんに却下されてしまった。
代わりに高垣さんが提案した場所はここ、つまり事務所だ。今朝千川さんと朝ごはんを食べたこの場所で、僕と高垣さんは昼食をとっている。
何かテイクアウトするか出前でもとろうかと提案したんだけど、全て却下されてしまった。代わりに、高垣さんの手料理をいただいてる。
たらこスパゲッティ。
それが今日のメニュー。
たらこスパゲッティは好きなんだけど……味が全く分からない。
「はい、あ〜ん」
「あ、あ〜ん」
隣に座る高垣さんが、フォークで巻いたそれを差し向けてくる。
僕はまるで親鳥からエサを貰う雛鳥の様に口を開けて、高垣さんに食べさせて貰っていた。
しかも千川さんは対面に座っていたのに、高垣さんは隣だ。
隣に座ってる時点でもうアレなのに、メチャクチャ距離が近い。足と足、肩と肩が触れ合う距離だ。高垣さんの良い匂いや甘美な呼吸音が心臓に悪い。
それからもう朝じゃなく、お昼だということもヤバい。
トライアドプリムスや和久井さん、新田さん、速水さん、千川さんが死ぬほどこっちを見てる。助けて。
「はい、あ〜ん」
「あ〜ん」
「……と見せかけて、私が食べちゃいます! うん、我ながら美味しく出来てますね」
バカの様に口を開いたまま固まる僕。
高垣さんの後ろでは凛が「間接キス──!」と
「あ、お口周りに食べかすがついてますよ。少しじっとしてて下さいね」
またか。
千川さんの時もそうだったけど、どれだけ僕は食べてる時無防備なんだ?
高垣さんはポケットからハンカチを取り出──さず、人差し指で僕の口周りになぞった。そしてそのまま指を口の中に入れる。
「ちゅう、ちゅる……」
妖艶に指を舐めながら、流し目でこっちを見てくる。
こく、こくと高垣さんの白くて細い喉がなった。あの綺麗な喉の中を僕の食べカスが通ってるのかと思うと、何故だか無性にいけないことをしてる気分になった。
「──ん、やっぱり美味しいですね」
人差し指と口の間に、唾液のアーチが出来る。
え、エロい。
妖艶に微笑む高垣さんは、とてもエロかった。そりゃあもう「わーい、わーい」ってなっちゃうくらいだ、主に僕の下半身が。
「舐めます?」
「えっ?」
「私の指、舐めますか?」
高垣さんが人差し指を僕の口元に近づけてくる。
高垣さんの指、白くて細いなあ……舐めたら美味しそうだ。
「プロデューサー、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
渋谷さんが割って入ってきた。
原因は分からないが、とても不機嫌だ。よっぽど悪い悩み事を抱えているのだろう。
僕は渋谷さんの悩み事を解決すべく立ち上がろうとして──止められた。
高垣さんは両手で僕の頬を添えて、高垣さんの顔の方を向かせた。
顔が近い。
とても近い。
鼻頭がほとんど触れるくらいの距離だ。
「今は私の方だけを見ていて下さい、ね?」
「は、はい」
僕は彼女に逆らう事が出来ない、弱味を握られている。
「ちょっとプロデューサー」
「凛ちゃん、先約は私ですから」
「……楓さんのはただのランチでしょ? 私のは仕事の相談だから」
「そうですか……それは困りましたね。プロデューサーのお昼ご飯タイムが無くなっちゃいます」
やれやれ、と高垣さんは腕を組んで悩み顔をした。
「仕方がありませんね。プロデューサーを少しの間貸してあげます」
「プロデューサーを自分のモノみたいに言うのは辞めて」
半ギレの凛に、高垣さんはほがらかに笑って返した。
「プロデューサー」
「は、はい」
「後で私からもお話があります」
「分かりました」
「約束ですよ。指切りげんまんです」
「は、はい」
高垣さんの細くて長い指と、僕の無骨な手が絡み合う。
……本当に細い。
ちょっと手を込めたら折れてしまいそうだ。
「破ったら、針千本飲んでもらいますからね?」
ウィンクを一つ。
本当に、何をしても絵になる人だ。
◇◇◇◇◇
「楓、ちょっと良いか?」
「今少し忙しいのですが……急用ですか?」
「ああ、そうだ」
手を掴んで、少し強引に引っ張る。
──昼過ぎの事務所。
こいつはここがアイドル事務所だって事を理解してるのか? やれやれ、本当に馬鹿なヤツだ。我が事務所のトップアイドルである高垣楓を呼び捨てにした挙句、強引に手を引っ張るだなんて……まったく、馬鹿なヤツさ。この業界の厳しさってやつを叩き込んでやらないとな。
「仕方がないですね。プロデューサーの頼みとあっては断れませんから」
「楓、ほら、早く行くぞ」
「はい、プロデューサー」
──僕だった。
その大馬鹿な者は僕だった。
「プロデューサーさん……?」
「なんですか、新田さん」
「いえ、あの……」
「要件が無いのなら、失礼します。ほら、来るんだ楓」
「はい」
普段とまったく違う僕に唖然とする新田さん。
いつもだったら何かしら声をかけるんだけど、今日は無理なんだ。ごめんね。代わりに今度はあんまりエロくない仕事持ってくるから、許して!
僕は高垣さんの手を引っ張って、事務所の外へと出た。
「……これでいいか、楓」
「はい! うふふ、貴重な体験をしちゃいました」
イタズラっぽく笑う高垣さん。
さっきのは勿論、僕がオラオラ系に目覚めたわけでも、僕の没個性的性格をテコ入れしたわけでも何でもない。
“ランチをご一緒する約束を破ったから”──ということで、高垣さんが今日一日ああいう態度で接する用命じたのだ。しかもなんでか事務所内からスタートで。事務所に歩くセック──失礼、新田さんしかいなかったのは不幸中の幸いか。
「普段のプロデューサーも素敵ですけど、こういうプロデューサーも新鮮で……ドキドキしちゃいますね」
「俺もドキドキしたよ。悪い意味でね」
「ふふふ、お揃いですね」
「こんなお揃い嫌だね、俺は」
「そうですか? 私はプロデューサーとのお揃いなら、何でも嬉しいです」
にっこり笑う高垣さん。絵になるなあ……。絵になり過ぎて、困るなあ。
「それで、どこに連れて行って下さるんですか、プロデューサー」
「え……」
「だって、プロデューサーが私を連れ出してくれたんじゃないですか。“楓、ほら、行くぞ”って。責任、取ってください」
ここで「いやいや、高垣さんが連れ出せって言ったんじゃないですか」とか言うのは、男としてダメなんだろうな。
いやまあ、元々僕に断るという選択肢はないんだけど。
高垣さんがそれを望むなら、僕は手を取るだけの話だ。
「それじゃあ、公園にでも行きましょうか。居酒屋はちょっと早いですし、この後仕事で車に乗らなくてはなりませんので」
「ええ、何処へでも。お伴します、プロデューサー」
◇◇◇◇◇
二人で公園を歩く。
変装でほとんど顔を隠してるけど、それでもやっぱり高垣さんは神秘的で、綺麗だ。そんな彼女とこうして肩を並べて歩くのは、とても誇らしい事だと思う。
「……」
「……」
穏やかな時間がただ流れて行く。
他のアイドル──渋谷さんとか川島さんとか──と居るときは、なんか話そうと思ってこっちから絶え間なく話しかけるんだけど、高垣さんといる時はどうしてか、黙ってしまう事が多い。だけど、それは決して嫌な沈黙じゃなくて。
「あっ、プロデューサー」
「はい、はい。なんでしょう」
「お酒が飲みたいです」
「えぇ……」
「冗談です。ほら、見てください。紫陽花です」
「ああ、紫陽花……お好きなんですか?」
「お花はなんでも好きです。喋りませんから」
そういえば、高垣さんはあまり話すのが得意じゃなかったんだっけ。
「喋らないから好きなんて、なんだか悲しい理由ですね」
「そうですか? 私はいいと思います。例えば
そうですね……プロデューサーと二人っきりでいる時、ほとんどお話しなくとも、お互い身近に感じますし、気持ちも何となく分かるでしょう。それと一緒です」
ね、素敵でしょう?
紫陽花を愛でながら、高垣さんはそう言って微笑んだ。
「確かに、素敵ですね。その紫陽花はなんて言ってるんですか?」
「さあ……? プロデューサーが聞いてみて上げて下さい」
「どれどれ……。うん、アイドルデビューしたがってますね、この子」
「まあ! 強力なライバルの出現ですね」
「安心して下さい。六月から七月までしか現れませんから」
再び、公園内を歩き出す。
暫く歩くと、池が見えて来た。
池の上にはカモが浮いている。
「カモ……お蕎麦が食べたいですね」
「お肉屋さんに置いてある加工済みならともかく、生きてるカモを見てそんな感想が出て来るのは貴女だけですよ」
「和歌山に住んでいた頃、良く使わせていただいていたお蕎麦やさんがあるんです。そこにカモの剥製があって。だからカモを見ると、ついあのお店のお蕎麦を思い出しちゃうんです。鴨南蛮蕎麦が食べたいって話じゃないですよ?」
「それは失礼しました。今度行ってみたいですね」
「是非来て下さい! いつも手を引いていただくばかりなので、いつかお返しをしたいと思っていたんです。和歌山のことならお任せです」
確か、高垣さんは和歌山の観光大使だったな。いやまあ、その仕事を持って来たのは僕なんだけど。
「いつにしましょうか?」
「ん……そうですね、ご両親の都合が合う日にしましょうか。ご挨拶もしたいですし。確か、高垣さんのお父様ってとても厳しい方でしたよね。許して貰えるでしょうか……」
「ふふふ、大丈夫ですよ。お父さんがプロデューサーを怒ったら、私がお父さんに「メッ」ってしますから」
「それは、頼もしいです。冗談抜きに」
「それより、そろそろ高垣さんはやめて下さい。もう直ぐ「高垣」ではなくなるんですから」
「中々癖が抜けなくて……。態々特訓までして貰ったのに、不甲斐なくてごめんね、楓」
「いいんです。ゆっくり生きましょう。これまでそうして来たように、これからもずっと、ゆっくり……」
高垣さんは……楓はそう言って微笑んだ。
彼女と婚約を結んだのは、つい最近の事だ。長い交際を経て、やっと。
最近では花嫁修行として、彼女は料理を練習している。得意料理はたらこパスタ。
僕はまだ「楓」呼びに慣れてなくて、時たま彼女に怒られる。練習させられるくらいだ。
彼女はポケットから指輪を取り出すと、柔らかく微笑んで、それを見つめた。
「ふふ、これを見ると、とっても幸せな気持ちになるんです。プロデューサーと結婚するという実感と、それから……プロポーズして下さった時の、あのセリフを思い出して」
「あー! そ、それは言わないで下さい! それにまつわる事以外だったらなんでもしますから!」
「んー、どうしましょう? それじゃあ、そうですね。一生一緒にいて下さい、なんて」
「──もちろんですよ、楓さん」
僕は彼女に逆らう事が出来ない、弱みを握られている。
書いといてなんですけど、楓さんにあんまり恋愛って似合わないなーと。
ずっと手が届かない存在でいてほしい、なんとなくそんな気持ちがあります。
全然関係ない話なんですけど、いつだかの劇場で智絵里が「今度DJをやることになって……」みたいな事をなつきちに相談するシーンがありましたよね。
智絵里にDJて……。しかもなつきちに相談する様な曲調のやつて……。
プロデューサーはどんなアレで仕事を取って来たんだろうか。