Dream over!!   作:天杜 灰火

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play ball!!④

 目を閉じ、細やかなお湯を頭から浴びる。

 今の季節は夏。湯船に浸かる人もいるだろうが、ボクは浸からない派だ。

 

「ふうー……」

 

 適当に体を流す。

 髪の毛や体はもう洗い終わったし、あとは上がるだけ。

 ここまで髪が長いと洗うのにも一苦労で、男の時とは比べ物にならないほど時間がかかってしまった。姉さんから、「髪は女の子の命だからしっかり丁寧に洗うように。特に満月くんの髪の毛はとっても質が良いんだから」とものすごく怖い顔で釘を刺されたからというのもある。

 ふとシャワーを止め、何気なく鏡を見た。

 

「……うむむむ」

 

 湯気に隠れる少女の裸体――なんともロマンあふれる光景ではある。鏡の中の少女が、自分でさえなければ。

 頬を上気させた銀髪の女の子の体には、しっかりと女性らしい凹凸がある。自分の体を見下ろすと、男の時には考えられなかった二つの膨らみがあった。

 男の時には見る事さえなかったもの。自分の体なのに恥ずかしくなってくる。

 ……とはいえ、ボクも元は男。

 洗う時も触ったんだしセーフ、自分の体だしセーフとわけのわからない言い訳をしながら、胸に手を添えてみた。

 ふにっとしていた。

 柔らかかった。

 

「……ううううっ」

 

 羞恥心に加えて罪悪感まで襲ってきて、ボクは胸から手を離した。

 馬鹿なことやってないであがろう。

 鏡に映るボクの顔が真っ赤だったのは、きっとのぼせてしまったからだろう。

 

 

 タオルで体を拭いて、着替える。

 今のボクにとってかなりきついのがこの着替えだ。

 もちろん、変わってしまった自分の体を洗うハメになる入浴も厳しい。胸はまだ良いとして、その……下半身を洗う時は変なうめき声をあげそうになる。

 だけど、着替えはまた別ベクトルの恥ずかしさがある。

 今のボクはこっちの方が普通なのだと、頭では理解しているのだけれど、女装している風にしか感じられない。

 男物のトランクスとは違って、吸い付くようにフィットするショーツを穿く。純白で飾り気のないものだが、リボンのワンポイントがあったりしてボクのメンタルを抉りとる。

 そして、女性用の下着と言えばもうひとつ。

 前は着けることのなかったブラである。

 ボクが女の子になってしまってから数日、とりあえず最低限は揃えなきゃいけないということで、姉さんが通販で購入してくれたものだ。

 ショーツと同じく、純白だが青いリボンのワンポイントがある。これでもまだ大人しい方だと言うのだから、女性用下着って恐ろしい。野郎のなんてただ柄があるかどうかくらいなのに。

 ブラのつけ方は事前に姉さんから教わっているので、それに従って着ける。

 

「……違和感があったらサイズが合ってない、とは言われたけど」

 

 元男としてはブラという存在そのものが違和感でしかない。

 

「まあ、どうせ間に合わせのものだしね、うん」

 

 そこまで神経質にならなくても良いか。

 ボクはそう頷いて、髪をドライヤーで乾かし始めた。

 そのあと、同じく通販で買った白い半袖のブラウスと赤いフレアスカートを着る。丈は前のワンピースより短めだ。

 しかし――

 

「ふふん、この程度なら慣れたものよ」

 

 誰に向けるわけでもなく、ドヤ顔で呟く。ボクもこの数日いろいろと着させられた。一度ものは試しと思ってミニスカートを穿くだけ穿いてみたのが良かったのかもしれない。あれを体験したあととなれば、こんな長いスカートなんぞ恐るるに足らずである。

 この調子なら、案外学校の制服とかも簡単に着ることができるかもしれない。あれ、折ったりしなければ普通に長いし。うん、楽勝楽勝。

 姿見の前に立って、おかしいところがないか確認。

 問題なし。

 ボクは頷いて脱衣場から出ると、リビングへ向かう。

 そこでは姉さんがソファに座りながら、櫛でゆっくり髪をといていた。

 

「上がったよ、姉さん」

「ん、わかったわ。……まあ」

 

 櫛を置いてソファから立ち上がった姉さんは、ボクの姿を見て顔を輝かせた。

 

「うんうんっ、すばらしいっ。シンプルな格好だけど、満月くんは素材が良いから変に着飾る必要もないわね!」

「そ、そう? 姉さんから見ても変じゃない?」

「ええ、大丈夫よっ。十人が振り返るくらい素敵な女の子だわっ」

 

 ぐっ、とサムズアップする姉さん。

 そこまで褒められてはさすがに悪い気もしない。しない、のだが、やはり複雑なのも変わらない。

 

「さ、こっち来て満月くん。髪といてあげるから」

 

 笑顔で手招きする姉さんに頷き、ボクは素直に従う。女の子歴数日のボクはまさに右も左もわからない状態なので、大先輩である姉さんにはできる限り頼るようにしていた。

 さすがにスカートであぐらを組むわけにもいかず、かといって女の子座りも恥ずかしいので正座で床に座る。

 

「ブラの方はどうだった?」

 

 背後で姉さんがゆっくり銀髪をといてくれる。

 その心地よさに目を細めながら答えた。

 

「変な感じ」

「変な感じ? ……サイズ、合ってなかった?」

「ううん。そういうのじゃなくてね……ほら、男って基本ブラジャー着けないじゃん。はじめて着けるから、違和感バリバリ」

「あー……なるほどね」

 

 背後で姉さんの苦笑が聞こえた。

 

「でも、慣れなきゃダメよ」 

「うん、わかってる。……今日はいろいろ慣れる練習も兼ねて行くんでしょ?」

「その通り」

 

 今ボクが着けているブラジャーは、あくまで間に合わせ。

 ボクたちは今からある場所に出かける。

 それは――

 

「不本意かもしれないけど、満月くんももう女の子だから。外出はもちろん、お洋服とか下着くらいはひとりで買えるようにならないとね?」

 

 洋服屋さんである。

 

 

 井の中の蛙、大海を知らず――なんていう言葉がある。

 要するに、狭い世界で調子に乗ってんじゃねえぞぼけぇという意味だ。

 まさしく今のボクにぴったりな言葉だろう。

 人が行き交う街に出てみて、はじめて気付いたことがある。

 ――それは、同じ女装であったとしても、家の中と外とじゃ恥ずかしさの度合いが桁違いである、ということ。

 

「うう……あ、足がスースーするっ」

「がんばって。そんなに長くないし、ゆっくり歩けば大丈夫だから」

 

 姉さんにピッタリくっつきながら、小声で呟くと、そう励まされた。

 暑い日差し降り注ぐ街中。

 その歩道を、ボクたちはのんびり歩いていた。

 普段ならなんてことのない道だ。けれども、女の子の格好をしてからはじめて外出するボクにとってはそうもいかない。

 ぼんやり遠く、我が家を思う。家の中では姉さんと父さんしかいないからまだマシだったのだ。

 女の子の格好で外を歩くということは、つまりボクからすれば事情を知らない他人に女装姿を見せつけるようなもの。新手の罰ゲームかなにかだろうか。

 それだけではない。

 内股になって慎重に歩く。家族に下着を見られるのもそれはそれで恥ずかしいが、赤の他人よりはずっとマシだろう。でも今は下手をすればその赤の他人にパンツを見られる危険性があるのだから、その緊張感など家とは比べものにならない。

 ちくしょう誰だこの程度のスカートが許容範囲内だとかほざきやがったのはふざけんなこんなことならあの丈の長いワンピースにしてもらうんだった家と外とじゃ全然違うじゃないかくそっせめてスパッツとかないか訊いてみるんだったああもうほんとありえない――。

 過去の自分に全力で唾を吐くが、今更引くわけにもいかない。

 

「女性っていつもこんな頼りない服装で歩いてるの……?」

「その辺りは一概には言えないんだけど……うーん、今の満月くんの格好はまだ露出が少ない方だから、人によってはもっと頼りない服装で過ごしてるわ」

 

 言われてみればたしかにそうだ。ミニスカートとか。

 一度穿いた――本当に穿いただけですぐ脱いだけど――今となっては、派手な女の子ってすごいんだなあ、という感想しか抱けない。

 そもそもあれは穿いてるという感じがしないのだ。頼りないとかそういうレベルを超えて、もはや無の域に達している。ボクにはまだ早すぎるし、きっとこれから穿くこともないだろう。

 

「し、しかもさ、姉さん」

「なに?」

「なんかボクたち、見られてない……?」

 

 姉さんの腕にひっついてキョロキョロする。すれ違う何人かと目が合って、気まずげに逸らされた。

 どこかおかしいところでもあったりするのだろうか。いや、それなら姉さんが指摘してくれるだろう。でもだったらなんでボクたちはここまで視線を集めているのか。

 不安になるボクを見て、姉さんが微笑む。

 

「満月くん。自分の姿、もう一度思い出してごらん?」

 

 言われて、はっとする。

 そうだった。今のボクは、銀色の髪を長く伸ばした赤目の少女なのだ。しかも、現実離れしているほどに可愛らしいというおまけつき。

 そんな女の子が、同じく美人な姉さんと一緒にいて、なおかつ小動物みたいにひっついているのだから、人目を惹かないわけがなかった。

 しかしだからといってここまで見られているとなると、さすがに恥ずかしくなってくる。

 

「満月くん、顔真っ赤になってる。かーわいー」

「っ……!」

 

 姉さんがニヤニヤと笑った。慌てて自分の頬を触る。今日の気温に負けず劣らず熱かった。

 

「も、もう、そういう言葉でからかわないでよっ。そんなこと言うなら先に行くからね!」

 

 鼻息荒く姉さんから離れ、ずんずんと歩いていく。身内にかわいいとか言われても微妙な気分だ。まして、ボクは元々男だったのだから。

 そんな気持ちを隠すように歩いていると、後ろから姉さんの困ったような声が聞こえた。

 

「あっ、み、満月くん。そんなに大股で歩くとスカートが……」

「〜〜っ!?」

 

 急いでスカートのお尻の部分を押さえる。

 立ち止まって、周囲を睨みつけるように見回した。

 ……だ、誰も見てなかっただろうな。いくらなんでも恥ずかしすぎる。こちとらまだ女の子になって数日、気持ちはバリバリの男の子である。女装を他人に披露していると考えるだけで倒れそうになるのに、下着まで見られたら冗談抜きで死んでしまう。

 

「大丈夫よ、今のなら見えてなかっただろうから。……それよりも気をつけてね。満月くん、この前まで男の子だったんだから、油断するとすぐに」

 

 追いついてきた姉さんの言葉にこくりと頷く。見られた、と想像するだけでオーバーヒートしそうになる。ボクの顔がお日様よりも赤くなっているであろうことは、想像にがたくなかった。

 女の子というのも、なんだかんだ大変なのだった。

 

 

 

 

 男なら、夏、服が透け、下着が見えている女子高生なんかの姿に目を奪われる気持ちがわかるだろう。

 だからこそ――今の季節、さすがにノーブラで外出するというわけにはいかない。いや、むしろノーブラで外出して良い季節があるわけでもないだろうけど、夏は危険度が高いという話だ。透ける的な意味で。まして、夏場は薄着になりがちだし。

 さて、そうと決まれば下着や服を買いに出かける必要がある。だがそのためにはそもそもブラが必要だ。この前SNSでニッパーが欲しくて購入したら、包装を解くのにニッパーを要求されたという話題が流れてきたけど、あれに近い。

 そういうわけで、姉さんは外出用のブラを通販で取り寄せてくれたのだった。

 つまりこの服もブラも、あくまで間に合わせ。

 

「さて、と。満月くん、覚悟は良いかしら?」

「う、うん」

 

 洋服屋さんの前まで来たボクに、姉さんが問いかける。

 そう念押しされると少しためらうのだけれど、いずれは通らねばならない道だ。頷いて、洋服屋さんの自動ドアをくぐった。

 

「いらっしゃいま……せっ!?」

 

 ちょうど入ってすぐの所を歩いていた若い男の店員さんが、ボクたちを見てギョッとする。

 無理もない。黒髪を揺らす姉さんはスタイル抜群の美人だし、ボクだって今はこんな見た目。目立たないわけがない。

 店員さんに軽く会釈して、店内をまわる。

 

「満月くーん、どこ行くの? そっちは男性用よ?」

「……はっ」

 

 足が無意識にそっちへ向かっていた。笑顔の姉さんに肩を掴まれて、ようやく今の自分は女の子だったんだと再確認する。

 い、いけないいけない。

 数日前、唐突に女の子となってしまったせいか未だにそういう自覚が薄い。頭ではわかっているのだけど、ふとした拍子にこういうことをしてしまいそうになる。この調子ではトイレも男性用に行ってしまいそうだ。

 姉さんと一緒に、改めて女性用下着のコーナーへ向かう。

 

「……お、おおう」

 

 到着した途端、思わずそんな声が漏れると同時に、ボクは目頭を軽く押さえた。

 あっちを見ればフリフリとかわいらしい下着のセット。こっちを見ればちょっと大人っぽいショーツ。いかにも『女性』といった感じの下着が、これでもかと言わんばかりに並んでいた。

 男だったからなのか、見ているだけで罪悪感と羞恥心が襲ってくる。かああっ、と頬が熱を帯びた。

 この頬はちょっとしたことで赤くなる上、それが自覚できてしまい、他人にもわかりやすいのが短所だ。

 姉さんが、心配そうにボクを見た。

 

「満月くん、大丈夫?」

「大丈夫じゃない……かも」

 

 デパートなんかで女性用下着コーナーの側を通りがかったことぐらいはある。でも、ここまでマジマジと見たのははじめてである。

 ボクがここに入っても良いんだろうか。いや、普通はダメだけど、今は特別だ。だって、今の体は大変不本意ながら女の子そのものなのだから。うん、だから大丈夫。

 そんなに恥ずかしいんだったら別にわざわざ実物を見る必要もないんじゃないか、と言われれば、それは確かにその通りである。

 通販オンリーで下着などを揃えるというのも考えはした。

 したのだが、姉さん曰く、「下着はなるべく試着した方が良い」らしい。サイズや肌に合っていないと地獄を見るハメになる、と。

 その点通販はこんな気持ちを味合わなくて済むかわりに、試着できないのがデメリットとなる。

 普段から不快な思いをして過ごすくらいなら――と、ボクは渋々実物を手に取って買うことを選んだ。早くも後悔しはじめているけど、吐いた唾は飲めない。

 ボクは意を決して、下着コーナーへ足を踏み入れた。

 

「満月くんはどんなのが好きなの?」

 

 まさか実の姉と女性用下着の好みを話し合うことになるとは夢にも思わなかった。

 頭の片隅で、今の状況のおかしさを改めて認識しつつ、ボクは答える。

 

「……シンプルなのが良いかな。あんまりかわいかったり、大人っぽすぎるのはダメ」

「ああいうのとか?」

 

 姉さんが指さす方をチラッと見ると、そこには黒色のスケスケの下着があわわわわわわわわわわわわわ

 

「ああ、うん、わかったわ。ああいう刺激が強すぎるのはダメね。まだ早すぎるもんね……」

 

 ボクの顔を見た姉さんは、ちょっと申し訳なさそうに言った。

 ボクの頬がゆでダコみたいになっているであろうことは、説明するまでもないと思う。

 頬の熱を振り払うようにぶんぶんと首を振る。

 き、気を取り直して。

 ボクはなるべく精神的ダメージの少ない下着を、姉さんと協力して探し始めた。

 

「こういうのは?」

「んっ、んんんんー……も、もうちょっと大人しめのない?」

「うーん。満月くんの気持ちもわからないではないんだけど、これ結構地味なやつよ? お姉ちゃんが探した中で一番地味」

「そ、そう……じゃあ、それひとつもらっておく……」

「ん、わかった。……ところで満月くん。満月くんはどっちかっていうと大人っぽいというよりはかわいい系だから、こういうのとか似合うと思うんだけどー……」

「――っ! ダメっ! 却下っ! そんなピンクのフリフリとか無理! 見るのも恥ずかしいんだからっ!!」

「えー……」

「えー、じゃないっ。姉さんなにかと楽しんでるでしょ!? こっちはそういういかにも女の子って感じがしないのをがんばって探してるのに!」

「そ、そんなことないわよー。お姉ちゃんだもの、弟……もとい妹の望みを叶えるべく、しっかり選んでおりますともっ。ほら、まだまだたくさんあるわよ。これとか地味な部類で良さげじゃない?」

「む……まあ、さっきのフリフリよりマシかな。うん、これ候補に入れとこう」

「むふふー、気に入ってもらえて良かった。それじゃあ次はこれなんだけど――」

「二つにひとつの割合でかわいらしいの持ってくるのやめろ!」

 

 そんな一幕を挟みながら、下着選びがようやく終わる。

 それらを店員さんに試着させてもらうよう頼む。試着室の中でそれを着けたり穿いたりしてみた限り、肌に合わない……ということはなさそうだった。サイズもこの前測定した通りなのでピッタリである。

 精神的ダメージは……まあ、許容範囲内。姉さんがふざけて持ってきたものを着けるのと比べれば全然平気なのだ。鏡に映ったボクの顔が、本日何度目かの沸騰をしていた気がするけど多分気のせいなのだ。平気ったら平気なのだっ。

 

 

 

「お疲れ様、満月くん」

 

 洋服屋さん近くのベンチに座っていると、自販機でジュースを買っていた姉さんが戻ってきた。

 差し出された炭酸ジュースを受け取る。

 

「ありがと。……はー、つっかれたあー!」

 

 んんんっ、と手足を伸ばす。

 メンタルを抉り取られるような下着選びを終えたボクを待っていたのは、姉さんの着せ替えショーだった。

 下着ほどではないけれど、男としては女性用の服を着るのも充分きつい。

 幸い姉さんもボクの意向をきちんと理解してくれて、なるべく派手ではないものを選んできてはくれたけれど、疲れるものは疲れる。

 ……せいぜい数着買うだけなのに、あれも良いこれも良いと悩む姉さんが妙に怖かった。

 

「ごめんねー、満月くん。お姉ちゃんちょっとはしゃいじゃって」

「良いよ。たしかに疲れたけど……でも、変な服は出されなかったし。それに、真剣に考えてくれてちょっと嬉しかった」

 

 照れくささを隠すようにはにかむ。嘘ではない。恥ずかしくなかったと言えばそれこそ嘘になるけれど、そう思っていたのは事実だ。

 姉さんがハッと息を呑んで、その後、仕切り直すように咳払い。

 

「んんっ。……良い、満月くん。あんまり見ず知らずの人……特に男の人に対して、そういう笑顔見せちゃダメよ?」

「へ?」

「とりあえず、今のはお姉ちゃんの脳内フォルダにこっそり保存しておくね」

 

 そう言って、姉さんは満面の笑みを浮かべた。家族ながら見惚れてしまうような笑顔である。言ってることが意味不明だったけど。

 こんなの見せられたら一目惚れしちゃう人もそりゃ出てくるだろうし、ミスコン優勝も妥当だなあ……と思いつつ、曖昧に頷いた。

 

「さて、と。満月くんも疲れただろうし、早く帰ってお昼ご飯にしましょう。カレーで良い?」

「辛いやつ?」

「甘いやつ」

「やったっ」

 

 ボクはカレーが好きだが、甘口派である。辛口だって食べられないことはないけど、甘口には及ばない。中学生の頃なんかは、それを姉さんに「子供っぽい」とからかわれたりもした。

 今では割と吹っ切れている。もちろん、気にしてはいるので他人に好みを告げる時はわざわざ甘口とか言ったりしないけど。姉さんにはどの道バレバレだし、良いかなって。

 

「ようし、そうと決まったらさっそく帰ろう! 早く帰ろうっ!」

「あらあら、現金ね」

 

 立ち上がったボクを姉さんが微笑ましい目で見てくる。もう気にしない。慣れた。

 そうして姉さんに一歩先んじて歩いていると、曲がり角から飛び出してきた大きな影にぶつかってしまった。

 

「ぷあっ」

「っと」

 

 妙な声をあげながら尻餅をつく。

 今のは明らかにボクの不注意だ。ろくに確認もせず早歩きしてしまっていたし。

 向こうはたたらを踏んだ程度でなんともないようだったけれど、急いで謝る。

 

「す、すみませんっ。大丈夫です……」

 

 か、と続くべき声が、消えていく。

 尻餅をついたまま、ボクが見上げたその姿。

 一八〇を軽く越える長身に、がっしりした体つき。涼やかとも鋭いとも言える瞳が、まっすぐにボクを見下ろしていた。

 ――ボクは、この人を知っている。

 

「すみません、不注意でした。お怪我はないですか」

 

 心地良く響く低音の声と共に、彼が手を差し伸べてくれる。

 そんな彼を見て、ボクは思わず呟いていた。

 

「――達海、くん?」

 

 その声が、背後の姉さんの言葉と被った。

 姉さんの声に気付いた彼、麻耶達海が視線をそちらに向ける。

 

「ああ、小夜さん。こんな所でお会いするとは」

「ああっ、やっぱり達海くんね! 怪我、治ったんだ!」

「ええ」

 

 相変わらず、感情を表にあまり出さない彼。しかしボクにはわかる。姉さんと会えて喜んでいる、というふうだった。

 

「ごめんなさいね、私の連れがぶつかっちゃったみたいで。……立てる?」

 

 姉さんの小声になんとか頷いて、立ち上がる。さすがに怪我をしているわけでもないから、わざわざ彼の手を借りることはしなかったけど。

 それを見た達海くんは手を引っ込めて、姉さんに訊ねた。

 

「小夜さん、こちらの方は……」

 

 姉さんがボクを横目で見やる。

 不思議となにを伝えようとしているのか、わかった気がした。

 ここで首を横に振れば、姉さんは上手く誤魔化してくれるだろう。逆に頷けば――本当のことを話せるよう、場を整えてくれるはずだ。

 一瞬、悩む。

 でも、その一瞬だけ。

 ボクは力強く頷いた。

 姉さんが達海くんにバレないよう、お茶目にウィンクしたのがわかった。まるで、『了解っ』と笑うように。

 

「そうね。達海くんにも伝えなきゃいけないだろうと『この子』も思っていたから」

 

 姉さんがポンポンとボクの頭を叩く。

 ……むう。前までは、ボクの方が遥かに背が高かったというのに。

 

「もし暇なら、ちょっとウチまで来てもらっても良いかしら? お昼ご飯、ご馳走しちゃうわよ?」

「俺は構いません。俺も退院したことを報告しようと、さっきまでそっちの家へ向かっていました。留守だったので、今こうして歩いていたんです」

「あら、そうだったの。入れ違いになっちゃってたのねー……すれ違ったままにならなくて良かったっ。それじゃあ、行きましょうか!」

 

 にっこり、と姉さんが笑ってボクたちの間に入り、歩き始める。

 現時点で、達海くんはボクのことを知らない。まさかボクが夢原満月だとは思わないだろうから。それを踏まえた上での配慮なのだろう。

 でも――。

 まさか、こんなに早く達海くんに伝えることになるとは思わなかった。

 もちろん、話すつもりはあったけど。けど、もうちょっと落ち着いてからで良いかなーとも考えていたのだ。

 まあ、会っちゃったものは仕方ない。

 それに、どうせ伝えるんだから遅いも早いも変わらないだろう。そう自分に言い聞かせ、強引に納得した。

 見上げた先の太陽も、まるでボクの背中を押してくれているようだと、都合よく考えながら。

 

 

 麻耶達海は、ボクと同じ高校に所属する怪物投手である。

 ボクにとって彼は小学生の時からの相棒だった。

 ボクはキャッチャーで、彼はピッチャー。自分で言うのもなんだけど息ピッタリで、いつも二人で組んでいた。

 私生活での関わりももちろんたくさんある。

 家族を除いた人物の中で、誰と一番親しいかと言えば、ボクは迷わず達海くんの名を挙げるだろう。

 親友とも、相棒とも言える、家族とは違う意味で大切な人。

 それが、ボクにとっての麻耶達海という人間だった。

 

「――今までの話を踏まえた上で、言うよ」

 

 張りつめた雰囲気が漂う、夢原家のリビング。あるいは、ボクが緊張しすぎてそんな風に感じてしまっているだけなのか。

 

「このボクが、夢原満月だ」

 

 そう、達海くんに告げた。

 あまり感情を表情に出すことはしない達海くんだが、この時ばかりはさすがに動揺がうかがえた。当然だろう。逆の立場だったらボクもそうなる。

 しかし、ボクも彼も、視線を逸らすことは決してしない。

 不安渦巻く胸中を強引に押さえつけて、彼の反応を待つ。

 信じてもらえないかもしれない。気持ち悪い、なんて思われるかもしれない。――彼の人柄を考えればありえないはずの想像が、止まらない。

 どれぐらい経ったのだろう。

 遠くセミの声だけが聞こえてくる、緊張した空間の中で、彼が口を開いた。

 

「……そう、か」

 

 彼の刃めいた瞳に、迷いはない。

 

「正直、にわかには信じられないというのが本音だ。お前以外の人間から伝えられたら、悪戯かなにかだと思ってまともに取り合わなかったかもしれない。

 でも――」

 

 彼は珍しく饒舌に、けれどその声に軽さはなく、堂々とボクに応えた。

 

「信じるよ」

 

 そして、最後にそれだけを言った。静かに、けれど力強く。

 ボクは小さく口を開けて、一瞬フリーズしてしまった。

 再起動するなり、震える声で問う。

 

「……自分で言っておいてなんだけど。信じて、くれるの?」

「いや、そりゃまあ、言った通りちょっと信じられんのは確かだが」

 

 なぜそこまで無条件に信じられるのかがわからなくて問いかけるボクに、達海くんは本当にかすかな笑みを投げかけた。

 

「他でもないお前の言うことだ。信じるに決まってるだろ?」

 

 そんなことを、なんてことないふうに言うものだから。

 ボクはなにかを言おうとして口をもごもごさせるも、結局なにも言えずに口をつぐんだ。なにを言えば良いのか、それどころかどんな表情をすれば良いのかさえわからなくなって、額を抑える。

 やがて考えることができなくなって、最終的には、思わずクスリと破顔してしまった。

 

「……達海くん。キミ、将来詐欺とかに引っかからないだろうね?」

「なんだ、いきなり。引っかかるわけないだろう」

「いや、でもさ? まさか、これだけで信じてもらえるなんて思わなくって……ああ、どうしよう。達海くんに信じてもらえるよう、いろいろ考えてたんだけど全部飛んじゃった」

 

 自分の声が機嫌良く跳ねているのがわかった。

 正直、どうしようもないくらいに嬉しい。

 

「ありがとう」

 

 ボクは、できる限りの感謝を込めて言った。

 そんなボクを見て、達海くんも微笑み返す。

 

「どういたしまして」

 

 ああ、良かった。

 張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れ、肩の力が抜けていく。

 無意識のうちに、ため息をついてしまった。うんざりのため息ではなく、安堵のため息である。

 

「はあーっ、良かったー! もし信じてもらえなかったらどうしようかと思ってたのよ、わたしもっ」

 

 緊張していたのは、どうやらボクだけではなかったらしい。姉さんが同じように胸をなでおろしている。

 先ほどまでの緊張感漂う顔から一転、にこやかな表情になった姉さんは小さく頭を下げた。

 

「達海くん。わたしの弟……じゃなかった、今はもう妹ね。とにかく満月のこと、これからもよろしくお願いします」

 

 妙に改まった姉さんの様子がどうにも照れくさかった。

 

「ね、姉さんっ、恥ずかしいからちょっとやめてっ」

「ええ。俺も、満月や小夜さんとは今後も良い付き合いを続けていきたいですから。俺の方こそ、よろしくお願いします」

「達海くんも何言ってるの!?」

 

 間に挟まれてる本人としては、恥ずか死しそうなのでやめていただきたい。

 あたふたするボクを流し目で見て、姉さんがくすくすと声を出して笑う。

 

「ねえねえ満月くん。婚約者の件、やっぱり達海くんが良いんじゃない?」

「へぅっ……!?」

 

 婚約者、という単語を出されて思わずボクは呻いた。

 お父さんから決めてくれと言われた、婚約者の件である。あくまで建前だとはいえ、婚約者は婚約者だ。誰を選ぶにしろ、男だったボクとしては大変ダメージが大きい。

 だから、意図的に考えないようにしていたのだけれど。

 たしかに達海くんなら今事情も知ってくれたし、なにも知らない人を婚約者にするよりはダメージも少ない。あくまで建前に過ぎないから、負担もそれほどかからないはずだ。

 適役では、あるだろう。

 事実姉さんや父さんに相談した時も、彼の名は真っ先に上がっていた。もちろん、達海くんが迷惑に思わなければ――そして他ならぬボク自身も、それを許容することができるのならば、の話ではあったけれど。

 

「……婚約者?」

 

 達海くんが眉をひそめる。その反応もうなべるかな。

 ボクはこくりと頷いて、ポツポツと事情を説明しはじめる。

 ……なんで親友に婚約者を必要としていることを説明しなきゃならないんだろうか。

 そうしてすべてを話したあと、ボクは意を決して告げる。

 

「だ、だからそのっ、そういうわけで、ボク今婚約者を用意しなきゃいけなくて――」

「なるほど。事情はわかった。……そういうことなら引き受けよう」

 

 みなまで言うより早く、達海くんは頷いた。

 少しぐらいは渋い顔をされるかもと思っていたけど、先ほどからどうも拍子抜けと連続で、間抜けな顔ばかり晒しているボクである。

 

「い、良いの? さっきから達海くんが良い人すぎてボク惚れちゃいそうなんだけど」

「その体で言うと洒落にならないからやめろ。……良いさ。困った時はお互いさまだろう。俺も、お前には随分助けられたしな」

「あっ、ありがとう!」

 

 ボクは感極まり、立ち上がって彼の手を握るとぶんぶん振り回した。

 

「ほんっとうにありがとう! ボクすっごい困ってたんだよっ」

「お、おお。……まあ、困るだろうな。俺も逆の立場だったらと思うとゾッとするよ」

 

 なんだか達海くんが戸惑っていたけれど、気にしない。

 よし、これで婚約者の問題はクリアしたっ。予想外に早い解決だった。

 あとはひたすら、この体に適応できるようがんばっていくだけである。

 

「わたしからもお礼を言うね。ありがとう、達海くん。本当に助かるわ」

「気にしないでください。満月だけじゃなく、夢原さん家には今まで散々助けてもらっていますから、これぐらいは」

 

 実のところ、婚約者問題についてはボクのみならず姉さんも父さんもかなり頭を悩ませていた。

 というのも、ボクの精神面を危惧していたらしい。

 急な性転換現象に加え、たとえ建前だとはいえ、望まない相手を婚約者に選ばなければいけない。さすがにそれはストレスが大きすぎるだろう、と。

 

「その代わり……って言ったらなんだけど。ウチでご飯食べていって」

「良いんですか?」

「うんっ、全然大丈夫よ! どうせ一人分作るのも二人分作るのも変わらないしねっ。……あっ、作るのは甘めのカレーなんだけど、大丈夫?」

「大丈夫です。ご馳走になります」

 

 達海くんは礼儀正しく頭を下げる。

 

「じゃあ満月くん。お姉ちゃんはご飯作ってるから、それまで達海くんをおもてなししてあげて」

「まっかせて!」

 

 ドン、と胸を叩く。……柔らかかった。それはまあそうだよね。割とボクもでかいし。やっぱり男とは違うんだなあ……。

 なんて感傷に浸りそうになったが、達海くんを放っておくわけにもいかない。ボクを受け入れてくれるどころか、頼みまで引き受けてもらったんだ。最大限の感謝を込めて、おもてなししよう。

 

「それじゃあ達海くん、ボクの部屋行こっか!」

「ああ」

 

 達海くんと一緒に立ち上がる。

 服屋さんで買った品物が詰まっている紙袋を持つと、リビングから廊下へ出る。

 そうして階段まで歩いた時、ふとある事に気付いて、ボクは達海くんを半目で見上げた。

 

「……むう」

「どうした?」

「いや、随分身長差が開いちゃったなーって」

 

 勝手に性転換したボクが悪いのだけれど、理不尽を感じずにはいられない。この前までは、ボクの方がちょっと――誰がなんと言おうとちょっと――低いくらいだったのに。

 

「そうだな。……さっきはああ言ったが、少し新鮮というか、妙な気分だよ。あの満月がこんなのになるなんて」

「実のところ、ボクが一番変な気分だったりする」

 

 疲れたような表情を浮かべるボクに、達海くんが破顔した。

 そうしてボクから先に階段を登ろうとして、

 

「……あ」

「ん、どうした?」

「あー……えっと、だね……」

 

 自分の服装に目をやる。

 平然と彼の前に立っているけど、今のボクはスカートを穿いているのである。

 ……彼がなにも言わないからなんとも思わなかったけど、これ、冷静に考えれば親友に女装を見せているようなものでは……。

 ……いや、考えないでおこう。

 とにかくである。女の子歴数日のボクからすれば、達海くんより先に階段を登るのは少しハードルが高い。

 だからといって「パンツ見られるの恥ずかしいから先行って」なんていかにも女の子みたいなセリフを率直に言うのも気が引けて、もじもじしながら上目遣いでチラチラ。

 

「ボク、今、そのー……スカート、穿いてるじゃん?」

「そうだな。……そういえばその服、お前の趣――」

「違うっ! ボクだって着たくなかったけど、これから先スカート穿かなきゃいけない機会なんてたくさんあるだろうからその練習ってだけ! 断じてボクに女装趣味なんてありませんっ!」

「……お、おう。そうか、悪かった」

 

 ボクの勢いにたじろいだ達海くんが、気まずげに謝る。せっかくボクだって考えないようにしてたのに……!

 いや、今はそういうことじゃない。理由は説明したんだし、忘れて気にしないことにしよう。深呼吸をひとつ。そして、咳払いをひとつ。

 

「……こほん。は、話を戻します」

「……ああ」

「とにかく、ボクは今スカートを穿いてるんです。スカートってほら……ほら、下から、こう……ね?」

 

 そこまで言うと、達海くんにもボクの言いたいことがわかったらしい。

 ああ、と得心して、階段を登る。

 

「なるほどな。たしかに、それはキツいか」

「そ、そうそうっ」

 

 達海くんに続いて階段を踏み登る。

 その最中、達海くんがいきなり呟いた。

 

「……そういえば、なあ」

「なに?」

「少し気になったんだが、下着って男のものを使ってるのか?」

 

 おいキミ、普通それ訊く? 訊いちゃう?

 ボクはちょっとどころではなく赤面しながら、遠回しに答えた。

 

「男性用穿いてるのに、わざわざ見られたくないからーって先行かせると思う?」

「……悪かった」 

 

 達海くんはなんとも気まずげに謝罪した。

 わかればよろしい。

 

 

 

「ちょっとここで待ってて」

 

 部屋の前まできたものの、とりあえず達海くんを制する。

 

「どうした?」

「ん、いや、ちょっとね。買ったものを部屋に入れなきゃいけないから」

 

 そう言って、紙袋を持ち上げて揺らした。

 

「なんなら手伝うが」

「ふみゅっ!?」

 

 思わず変な声が出た。

 達海くんの顔は大真面目だ。本人は善意のつもりなんだろう。

 だけど、中身が中身だから、いくらなんでも手伝ってもらうわけにはいかない。先程のボクみたいな気持ちを達海くんに味合わせてはいけない。

 

「い、いや、その気持ちは嬉しいんだけどね? でもこれ、中身が中身だから、ちょっと遠慮してくれると嬉しいなあって」

「……? 中身はなんだ?」

「えっと、そ、それはだね……」

 

 しどろもどろになってしまうボク。

 けれど、ここはズバッと言ってしまう方が良いだろう。うん、今のボクは不本意ながら百パーセント女の子なのだから、問題はない。うん、大丈夫。変な目で見られたりはしないはずだ。

 意を決して告げた。

 

「……ぼ、ボクの服と下着。もちろん女性用」

 

 達海くんが固まった。

 

「だから、その、ね? 手伝ってもらうとなると、当然触ったりすることになっちゃうわけだけど……その、ボクもさすがにそれは恥ずかしいから、ね?」

「……その、なんだ。すまなかった」

 

 目頭を揉む達海くんを見て、ボクは「き、気にしないでっ」と笑った。

 そりゃまあ、予想もつかないだろう。

 怪我から復帰して退院したら相棒が女の子になっていたってだけでも意味不明なのに、その相棒の手荷物がまさか女性用衣類だとは夢にも思うまい。

 だから別に、達海くんを咎めたりはしない。普段はきっちりその辺弁える良い人だし。

 そうして先に部屋へ入り、紙袋の中身をクローゼットの中に詰めていく。ショーツやブラを手に持っているとなんとも言えない気分になったが、明日からはこれを身につけるのだ。このぐらいは慣れなければ。

 最後に服をかけて、とりあえず作業は完了。なるべく急いだつもりだったけど、どうしても数分はかかってしまう。

 待ちわびているだろう達海くんを呼び、部屋に招き入れた。

 

「テキトーに座ってて。……あ、クローゼットは開けないように」

「わ、わかってる」

 

 彼は部屋中心のテーブルの傍に座った。向かい合うようにボクも座る。

 リビングではボクの話ばかりだったけれど、そろそろ達海くんの話も訊きたい。

 

「さて、と。……怪我、治ったんだね。おめでとう」

 

 達海くんは、夏休みに入る前、車に轢かれそうになった子供を助けて怪我をしてしまっていた。

 かばう時に肩から着地してしまったようで、痛めてしまったのだ。幸い大事には至らなかったものの、当分投手としての仕事は果たせず安静。おかげで地区大会にも参加できなかった。

 

「ああ。……野球部の皆には謝ってきた。満月にも謝らないとな。本当に、申し訳ない」

 

 大会に参加出来なかったことを、達海くんは相当悔いているようだった。

 達海くんの実力は恐ろしく高い。

 正確無比なコントロールに、一試合投げきることのできるスタミナ。そして最大の武器が、一五〇キロ超というプロ並みの速度と球威を兼ね備えた豪速球。

 部員からはなんでウチみたいな弱小野球部――ボクたちの高校は進学校で、部活にそれほど力を入れていないせいである――にいるのか不思議がられたぐらい。

 達海くんはエース中のエース、大きな戦力だったのだ。

 それは、達海くんも自覚している。

 だからなのだろう。夏休み前の、ボクたち最後の地区大会が、あまりパッとしない結果に終わってしまったことに対して、彼が責任を感じてしまっているのは。

 

「皆、なんて言ってた?」

 

 そんな彼がどうにも可哀想というか、思いつめすぎなように感じられて、ボクは微笑みをたたえながらそうたずねた。

 

「……気にして、いないと」

「そうだね。加えて言うなら、ボクも気にしてないよ」

 

 気休めではなく、本心だった。

 

「達海くん、野球っていうのはチームプレーだ。ひとりの選手がいるかどうかで勝率が大きく変わるチームなんて、最初から破綻してる。ただのワンマンチームだよ。所詮、ボクらだけじゃ『その程度』だったってこと。

 むしろ皆、達海くんに感謝してたんじゃないかな。キミのおかげで、良い夢が見られたって」

 

 だから、それほど気に病む必要はないのだ。

 ボクはそう励ました。

 

「……そう、かな」

「そうそう。気にしなくて良いんだよ。それに怪我しちゃったんなら仕方ないしね。ましてや怪我の理由だって立派なものなんだからさっ、胸張りなよ! 文句言うやつがいたら、ボクがぶっ飛ばしてやるっ。今まで助けてくれたエースにその口の効き方はなんだーってね!」

 

 務めて明るく、ボクは一発拳を振るうジェスチャーをしてみせた。

 そんなボクを見て、ようやく彼もうじうじ考えるのはやめたらしく、その唇が三日月を描く。

 

「……そのナリで喧嘩は似合わないな」

「うん、ボクもそう思った」

 

 二人して、頬を緩ませる。

 

「というか、この体って基本的に運動にはまったく向いてないんだよねー。体力も筋肉もないから、」

 

 二の腕をプニプニとつまみながら言っていると、いつのまにかまた、達海くんの顔から笑みが消えていることに気付く。

 

「……どうしたの?」

「……インパクトが強すぎてすっかり忘れていた」

 

 声の調子から考えるに、なにかへこんでいるというわけではなさそう。

 かといって、楽観できる様子でもなかった。

 

「満月。――お前、その体で野球できるのか?」

 

 しん、と辺りが静まり返る。

 セミの鳴き声さえ止んで、一瞬時が止まったような錯覚さえ覚えた。それだけ、達海くんの声は真剣だった。

 そうか、と納得する。

 そういえば、ボクはあの事を誰にも話していなかったっけ。

 相棒としては、もちろんそんな反応になるよなあと、ボクは苦笑いする。

 

「できないよ」

「――」

 

 誤魔化しなどできるわけがないし、する意味もないので、包み隠さずはっきり告げる。

 しかしボクの声からは、なんの悲痛さも深刻さも感じられないはずだ。

 だってボクは、心の底からそんなこと思っていないから。

 

「少なくとも、前みたいなレベルのプレーはできない。草野球がお似合……いや、それすらできるかな……な、なんか不安になってきた」

「…………」

「つい最近この体になったばっかりで、激しい運動とかしたことないから、どうなるのかさっぱり……でもまあ、身体能力はだいぶどころじゃないくらい落ちたと思う。技術に関しても、体自体が違うからね。上手く使えるかはよくわかんないかな」

「……じゃあ、」

 

 達海くんの声は、震えていた。

 そんな彼に向けて、いっそ残酷なんじゃないかとさえ思えるほど清々しく、ボクは告げた。

 

「うん。ボクの選手生命は、完全に絶たれたって考えてくれて良いよ」

 

 まあ、ボクとしてはそれほど悲観的になることでもない。

 野球ができなくなっても、今のボクは大して困らないからだ。

 

「……なんでだ」

 

 達海くんが、呟く。

 

「なんで、そんなに平然としていられる? なんでだ? お前にとって、野球はそんな軽いものじゃなかったはずだ」

「その通り」

 

 軽いわけがない。

 小学生の頃からずっと続けてきた。必死に頑張り続けてきた。惰性でやってきたわけじゃなく、むしろ全力で駆け抜けるように、ひた走ってきた。その情熱は、達海くんが一番よく知っているはずだ。ボクのたったひとりの相棒である、達海くんが。

 でも、軽いものじゃないからこそ。

 

「……達海くん。ボクね、ちょっと前から決めてたことがあるんだ」

 

 ボクは、きっちりとケジメをつけた。

 

「部活を引退したら、それで野球はやめにしようって」

「……!」

「近いうち……それこそ、こんな体になっててんやわんやにさえなってなければ、退院した今日にでも達海くんに伝えるつもりだった。それがまさか、こんな形で伝えることになるなんて夢にも思ってなかったけど」

 

 世の中わかんないね、と、穏やかに微笑む。

 

「ただなんにせよ、野球に未練はないんだ。もう」

 

 もし、性転換がもう少し早ければ話は違っていただろう。ある意味では、タイミングが良かったとも言える。

 

「……なんで、野球をやめようと」

「ごめん」

 

 達海くんの言葉を遮って、頭を下げる。

 

「それは、言えない。……言いたくない。キミにだけは、絶対に」

 

 野球にもう未練はない。でも、やめた理由は決して褒められるものじゃない。

 それは、逃げだったから。それも、親友と、一番好きな野球からの逃避。

 

「勝手なことだって言うのはわかってる。……でも、ごめん。言いたくない」

 

 本来なら、せめて相棒である達海くんには告げるのが筋だ。

 それでも、言えない。

 言いたくない。

 

「……わかった」

 

 そんなボクの心情を察してくれたのか、あるいははたまた別の理由か。とにかく、達海くんはそれ以上の追求をしなかった。

 

「ごめん。ありがとう」

 

 ボクはただそうとしか言えず、それっきり黙り込む。

 しばらく、気まずい沈黙が流れた。

 姉さんの声が聞こえてきたのは、しばらく経ってからのこと。

 

「……小夜さんが呼んでる。行こう、満月」

「……うん」

 

 ボクたちはそうして部屋を出た。

 昼食の最中はまだなんとなくギクシャクしていたけれど、終わる頃には、それもすっかりなくなっていた。

 

 

 ――そんな風に、達海くんへ自分の変化を打ち明けたのが数週間ほど前の話になる。

 

「ん、どうした満月。疲れたのか?」

「あ……ううん。なんでもないよ」

 

 某太鼓のリズムゲーム、そのリザルト画面でそんなことをボーッと考えていると心配されてしまった。

 いけないいけない。

 ……とにかく今は、達海くんとのこの時間を大切にしないと。

 

 そうしてボクは、改めて一歩筐体へ歩み寄る。

 ふわりと揺れるスカートと、隣にいる彼との身長差が、新しいボクを的確に表していた。


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