私の名前   作:たまてん

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彼と彼女の夢の前

「……ジャンヌ」

 

――名前を呼んでも、返事はない。

眠っているのだから、それは当然のことだ。

そうでなくとも戦闘のあとは部屋に篭って、食事より娯楽よりまず休息を取りたがる彼女なのだから。

 

まして今日の戦いは過酷だった。

あと一歩対応を誤れば……もしかしたら全滅だってあったかもしれない。

 

無事帰還することができたのは、すべて彼女のおかげ。

体力の限界ぎりぎりまで持ち堪え、味方を守り、敵を全力で叩き伏せて。

 

だから今の彼女が疲れ果て、自室のベッドで身動き一つすることもなく深い眠りに陥っていたとしても、それは当然。

むしろ感謝すべきことだった。

 

彼女は今もここにいる。

息をして形を持って、彼との繋がりを失わず、今もこの場に在ってくれる。

 

そっと伸ばした指先に、いつもより少し冷たくはあるものの白磁の肌がぬくもりをくれる。

嬉しくてありがたくて少しでもその健在を確かめたくて、彼女が包まったシーツ越し黙って肩を包み込んだ。

 

強く半身を抱き締めてやれば、少し苦しかったのだろうか。

むずかるように、彼女の眉宇が引き寄せられる。

不服そうに尖らせられた唇に彼は思わず笑みを零した。

彼女の背中を宥めるようにポンポンと撫でる。

 

とたん、ほわりと緩むその可憐な目許。

不機嫌だった今が嘘のように、淡くであるが見慣れた笑みが刻まれる様を目にして、彼は安堵の息をつく。

真っ白と言えるほど生気を失っていた横顔にも、僅かであるが血気が戻った。

安心のあまり、そっとこめかみに唇を落としてやれば、再び彼女が嬉しげに笑う。

すり寄せられる彼女の身体。

抱き込んだ胸へとぐりぐりと猫のように額を押し付けられて、彼の唇が無意識に上がった。

日頃高慢な女神のように孤高を保つ気高い彼女。

そんな彼女が夢現であれ見せてくれた、自分への甘えが嬉しくてならない。

同時につい先ほど部屋に戻り、彼女の姿をこの目で確認するまでは

どうしても振り払うことのできなかった

破格の恐怖と焦燥が霧散するのを自覚する。 

……たかが、マスターとサーヴァント。

彼女との関係はそれだけであるはずなのに。

そもそもが差し替えの効くもの同士であるのだから、執着するなど意味はない。

それは常々、他ならぬ彼女自身からはそう言い習わされているけれど……。

 

「……困ったことに。オレの方は、もうそれじゃあ収まらないみたいなんだ」

 

彼は小さく呟いた。

ふと見ると、開いたままの衿元から、細い鎖骨が覗いている。

華奢なラインに、うっすらとではあるけれど汗と土埃がまとわりついていて。

 

「……シャワーも浴びずに寝たのか」

 

そう言って彼は苦笑する。

そしてどうにも申し訳なくて指先でそれを遠慮がちに拭ってみたものの、到底それでは追いつかなくて。

……汚れたままでは気持ち悪いだろう。

ああそれに、こんなに沢山汗をかいたまま眠ったら、身体が冷えてしまうかもしれない。

気づいてしまえばそのままにして置くのもできなくて、そわそわと落ち着かない気持ちになった。

――彼女の物ではあるけれど、何と言うか……『それなり』のつきあいになって長いから、着替えのある場所は知っている。

それに意識のない彼女の身体を整えたり、服を着せたりするのも慣れていた。

いや、大っぴらに言っていいことではないのだろうが、これは事実であるのだし。

色々と自身にもっともらしいい言い訳は浮かぶけれど、やはりいつもとは違う彼女をどう扱っていいのかは考えてしまう。

だが彼女がこう言った不自由な状況に陥ったのは、明らかに彼女のマスターである自分の判断ミスであるわけで。

 

「……やっぱりこのままにはしておけないよね」

 

ごめんね、と彼は一人囁く。

着替えと濡れタオルを用意して、先程までしっかり両手で抱きしめていた彼女の身体を再び片腕に支え上げる。

今更だが、あまりしげしげと見るのも失礼に当たるだろうと少し視線を逸らしながら手探りでさっさと服を脱がせる。

温めてきたタオルでざっと出ている肌を拭ってのけた。

 

「ん……」

 

衣服を着せかけようとした刹那、彼女から吐息混じりの声が漏れる。

目が覚めたのかと驚いて、視線を合わせて見たけれど、どうやらそうではないらしい。

先ほどと同じく深い眠りに落ちたまま、健やかな呼吸を繰り返す彼女。

しどけない肢体を無防備に晒し、ベッドに横たわる彼女のさまを目の当たりにすれば視線がどうしても宙を泳ぐ。

 

「マスター……」

 

何か楽しい夢でも見ているのだろうか。

呟いたジャンヌが艶やかな笑みを浮かべる。

その顔は、いつも彼の腕の中で見せてくれる特別な表情に似ているように感じられた。

熱い吐息と閉じられた瞳。

薄く開かれた唇と紅潮した頬が、嫌でもそのときの彼女を想起させ、不埒な妄想を掻き立てられる。

開けばしっとりと潤んだそれが、彼を囚えてくれるだろうか。 

手を伸ばして、彼女の頬を引き寄せる。

いつもより少し冷たい柔らかい頬。

心配と不安、それを上回る利己的な感情がせめぎ合う。

手のひらを通して彼女の体温が伝わって、それをもっと感じたくて無意識に指先を下降させる。

唇からあごの先、喉元を通り過ぎて鎖骨の上、そして開いた胸許へ。

汗で湿った素肌の上を目で追って、無抵抗な彼女にこんなことをするのは良くないんじゃないかなどと今更の罪悪感がほんの少しだけ彼を浸した。

でも逆を言えばこう言ったことができるのは、無意識に彼女が自分を信用してくれている為と言うこともわかっている。

 

だからこそ嬉しい。

 

だからこそ……したい。

 

「――悪い、ジャンヌ。今日だけだから」

 

シーツを剥ぐと、彼女が小さく身を捩った。

 

「……ぅ、ん」

 

やめろと言わんばかりに腕の中、彼女の肌が彼を振り払うように翻る。

呼吸の合い間に不満の声が入り混じる。

でもそれですら、いつも彼女が彼の為に発してくれる煽られる艶声を思い出させて。

……そう言えば、ここ数日彼女を抱いていなかった。

何もこのタイミングで思い出さずとも良いものを。 

……基本彼らのこう言った関係は、なんだかんだで彼女が主導権を持つことが常だったから、彼の方から言い出すことやそもそも要望を示すことはほぼないと言っていい。

言ったところで却下されるのがオチだろうし、言わなくたってほどほど間が空きさえすれば彼女の方から求めてくれる。

それは作戦立案等が重なって不眠不休の数日が続き、ようやくベッドに横になれた途端、気が向いたからしようのなんのと押しかけられて馬乗りになられ、服を奪われて目が覚めるというのは、ちょっと……謹んで、お断りしたい場合もあるけれど。

――十回が十回とまでは言わないまでも、彼女の希望は彼の希望だったから。

ある意味相性がいいのではないかと呟いてみたら、みぞおちに一発入れられた。

それを思えばこんな風に、まるで欲求不満の犯罪者のように彼女を欲するなど、過去あった試しがない彼なのだ。

 

戦闘が終わりさえすれば体力が戻るわけではないのだし、

実際そうでないからこそ、今の彼女はこのような状態に陥っている。

しばらくはゆっくり休ませておくべきだろう。

それなのに……恋しいと思う切なさが、止められない。

 

起きたらきっと叱られる。

こっぴどく、それこそ殺されるじゃないかというぐらい怒鳴られる。

でも今彼女に触れなければ……最早、僅かに残る己さえ保てなくなりそうだった。

……つまりはそれほどまでに。

自分は、彼女を失うことを恐れていると言うことだ。

 

「……弱いって、君はきっと呆れるだろうね」

 

失笑とともに自嘲する。

でも仕方ない。

少なくとも今は、こんなどうしようもないこれが自分なのだから。

いずれは強くなるから、と言い訳めかして口づけて彼女の左胸に手のひらを重ね直接鼓動を確める。

 

――脈打つ心臓。

 

規則正しいリズムを刻む力強いそれに、彼はほっと息をつく。

 

「…ん…」

 

喘ぎに漏れる、彼女の声。

情欲を連想させるのは変わらなかったはずなのに、先程より穏やかにそれに微笑む自分が居る。

……てっきり男としての劣情だとばかり考えていたけれど、文字通り触れるだけでこんなにも簡単に心が落ち着いてしまうなんて。

本当に単純だと、思わず笑いがこみ上げる。

 

「……マス、ター?」

 

彼女が声が小さく自分の名を呼んで、彼は慌てて彼女の方へと視線を向けた。

うっすらと開いた金色の瞳が、寝起きの茫洋とした意識のままに、じっと彼のみを見つめている。

 

「……なに、して……?」

 

まだ目が覚めきっていない為か、それとも体調の為なのか、自分が置かれている状況を把握し切れないらしいあどけない彼女。

左胸に彼の手が重なっていることに気ついてから数秒後、ようやっといつもの彼女らしい反応が彼に返った。

 

「なっ!貴方、人の了承もなくどこを触って……っ!」

 

ただでさえ半分眠った状態で赤くなっていた頬が、怒りと驚きで更に真っ赤に染まっている。

……元気そうでよかった、なんて言っている場合じゃないのだろうが、彼の唇が喜びと安堵で笑みの形に引き上げられた。

慌てて起き上がろうとする彼女の肩を力尽くで押さえ、ベッドの上に押し戻す。

 

「落ち着いて。着替えさせようとしてただけだから」

「き、着替えさせるのに、胸は関係ないでしょう?!」

「ああほら。疲れてるのに暴れちゃ駄目だよ。すぐに終わるから大人しくしてて」

「馬鹿を言うのも大概になさい!大人しくしてたから、貴方が好き勝手してきたんじゃない!!」

 

どうやらまだ本調子ではないらしい。

力の入らない身体で必死に抵抗してくる彼女が酷く可愛く感じられて、既に抱く気など欠片もなくなっていた癖についつい悪戯心が湧き上がる。

それと同時に肌を重ねて彼女を確かめたいと言う不安からくる焦り自体は消えたけれど、それよりももっと本能的な……『君が欲しい』と言う確かな飢えが頭をもたげる。

 

「そんな風に思われているのは心外だな。オレはジャンヌを心配して、様子を見に来ただけなのに」

「その……心配して様子を見に来たはずの相手を……はぁ…っ……意識がないのをいいことに、全裸に剥いていたのはどこの誰よ……っ。んっ!」

 

先程まで、あの無慈悲な宝具を使いこなしていた割に、見た目こんなに細くて折れそうなしなやかな腕。

それを突っ張って彼を押し返そうと頑張っていた彼女の身体から、不意にくたりと力が抜けた。

 

「……どうしたの?」

「……も……どうして……疲れてるのに……なんだってこんな」

 

……乱れた呼吸。

その隙間から、悔しげに小さく訴えてくる彼女の声に、彼は押さえ付けていた肩を慌てて開放する。

 

「ごめん!ふざけすぎた。大丈夫っ!?」

 

それほど強く押さえていたつもりはなかったけれど、やはり今日はいつもと勝手が違うらしい。

普段何気なくしているじゃれあいも、現在の消耗しきった彼女には負担が大きかったと思い知る。

負けず嫌いの彼女だから、少しのことであればこんな風には弱みを晒すことはない。

それほどまでに辛い状態の彼女を襲う気になるなんて……自分も大概どうかしている。

 

「……本当にごめん。もう何もしないから。だから、服だけ着させて?」

 

頭を下げて懇願すると、彼女は彼を睨み上げる。

逆らう気力もないのだろう。

辛そうに息を長く吐いて彼へを両手を延べてくる彼女を抱いて、彼はタオルでもう一度丁寧に、シーツから出ている部分に浮いた汗を拭い取った。

彼女はすでに意識が沈みかけているものか、今にも眠ってしまいそうなぼんやりとした表情で彼の動きを見つめている。

 

「眠い?眠かったら寝てていいよ」

 

頷いて目を閉じる彼女の腕に着替えの袖を通してやって、

もう一度抱き上げて背中を経由して反対側の袖を通す。

そのまま身体をベッドに横たえようとすると――ぎゅっとシャツの胸を掴まれた。

 

「……どうしたの?」

 

寝ぼけているのかと考えて、

一回はそのまま振りほどこうかと思ったけれど、彼女の視線はしっかりと彼に向いていた。

じっと見つめて物言いたげに唇を開き、

数秒躊躇ってから結局何も言わずに視線を逸らす。

そのまま彼へと背中を向けた。

 

「ジャンヌ……?」

 

促すように名を呼ぶと、彼女がころりと転がって、腕の中へと舞い戻る。

シャツ越しでもわかる熱せられた身体、戸惑う彼がどうしたものかと両手を上げる。

 

「ジャンヌ、もう本当に余計なことはしないからちゃんと眠って……」

「馬鹿」

 

シャツの胸元に額を付けたまま、くぐもった声を彼女が上げた。

 

「え?」

「……抱いて」

 

は?と、我ながら間の抜けた答えが湧いて出て、彼は思わず真っ赤になった。

 

「……眠るまで……こうしてここで抱いててって言ってるの……」

 

引き寄せるように掴まれていた手が解かれ、そのまま腕が彼の広い背に回される。

まだボタンを留める前の裸の胸が押し付けられて、

馬鹿すぎることに心臓がまたもおかしな鼓動を刻む。

 

「……駄目なの?」

 

返事がないのが不服だったらしく、抱きついたまま睨みあげてくる負けん気の強い愛らしい瞳。

拗ねた表情と甘える口調。

反則技の二段攻撃に、それが無意識と分かっていても……いや、だからこそ

余計に気持ちを煽られる。

 

「……いいよ」

 

ため息をつき、短く応える。

……手を出したくても出せないだなんて。

それなのに強請る瞳を向けてくる彼女。

壮絶に可愛い。

最早笑うしかないような状況で彼は彼女に腕を回し、ゆっくりと熱い身体を傍らに倒した。

 

「前のボタン留めるから、手……離して貰える?」

 

絡めた腕を不承不承解いて、大人しくされるがままの状態になってくれる

彼女の艶かしい肢体を出来るだけ見ないようにして、彼はとりあえず目に付くボタンを慌てて留めた。

 

滑らかな曲線を描く真っ白な胸、綺麗なみぞおち、それに続く平らな腹部。

全部知り尽くしているだけに、強いて覆い隠すように左右を合わせる。

がっちりと全てのボタンを留め終えると、彼は我武者羅に彼女を抱いた。

 

「……マスター」

 

こんな状況でなかったら、誘っているのだと間違いなく錯覚してしまうだろう蠱惑的な声。

今の彼女にはありえないことだから、考えても仕方のないことではあるけれど。

 

「……なに、ジャンヌ」

 

たどたどしく掠れる声は許して欲しい。

差し出された細い手首を掴み、彼女の身体を引き寄せる。

 

「ありがとう。貴方もゆっくり寝て頂戴」

 

それを受け思わず笑った優しい人に、彼女が柔らかな笑みを零した。

 

「……治ったら、ちゃんと襲ってあげるから。それまでは我慢しなさいな」

 

恐らくは彼女への心配が勝ち過ぎて、彼自身思い至ることもなかったのだろう。

自らも先の戦闘で疲れ果てていたはずのマスターが、その言葉を聞き終わることなくぱたりと、瞬時に寝落ちしてしまった。

……まったく、駄々をこねたりべそをかいたり、まるで子供みたい。

けれどまぁ……可愛くはある、かな。

 

そんなうっかりな彼が熟睡した頃を見計らい、そっと大切にその唇へ口づけた彼女。

 

それからもう一度収まりのいい場所を腕の中に探すと、魔女は微笑みながら、安らかに目を閉じた。

 


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