少し大人向けのぐだ邪ンです。
「……あっつ」
ぐでんとソファに全身を預けながら、ジャンヌはそう言った。
額にうっすらと汗を滲ませ、疲労に満ちた顔で天井を見上げる。
「……だね。流石に夏場並みのこの気温で、しかもエアコン壊れてるってのは本気で辛い」
死にそう、と枕に顔を沈めてベットにうつ伏せているのは彼女のマスター。
いつもならそれなりの体裁を気にしてかっこつけようとしていた彼だったが、この蒸された自室に抗うことは叶わず、干しものように両手足を投げ出していた。
「だいたい、なんでこの時期の深夜ぶっ続けて映画見ようとか言い出したのよ?もう四時過ぎよ?しかもあと三時間したら出撃なのよ?馬鹿みたい……」
「そうは言うけど後半君のほうが活き活きしてなかった?むしろDVD 率先して取り替えてたよね」
「仕方ないでしょ、続きが気になったんだもの」
それってどうなの?というなかなかずれた答えだったが、マスターもマスターで、「そっかぁ」とつぶやいて納得してしまう。
お互い、暑さにやられて完全に頭が回ってない。
「……喉渇いた。麦茶もらうわよ」
どうぞ、とマスターが手だけで促した。
立ち上がったジャンヌはとてとてと覚束ない足取りで冷蔵庫まで歩いてゆく。
がちゃりと扉を開いたあと、屈んで中身を覗いた彼女は「げ」と声をあげた。
「お茶切れてるじゃない。なんで新しいの作っておかなかったのよ」
「最後に飲みきったのジャンヌじゃん。君が淹れておいてくれよ。とりあえず、今は水でも飲んどいたら?」
「やだ。味のついたものが飲みたい」
「なら廊下にある自販機で買ってきなさい」
「面倒くさいわね。貴方が買ってきて」
「とことん働く気がないのね君……」
はああ、と深いため息をつくマスター。
それからがそごそとポケットを漁ると、その手に黒い財布をつかんでジャンヌに差し出してきた。
しかも今時、がま口である。
「……これで好きなの買ってきていいから、君が行ってきて。ついでにオレの分も」
「あら。やけに羽振りがいいじゃない。なら今回はありがたく使わせてもらうわね」
自覚しながらも高慢な物言いを続ける彼女。
そういう態度を見せることで、彼は拗ねるような仕草を見せてくる。
それが子供っぽいというか、いじらしいというか、たまらなく好きなのだ。
……我ながら、なんともぞっこんであると苦笑しながら。
それでも期待して、ジャンヌはマスターの反応を待つ
――しかしだ。
今度返ってきた反応は予想したものより素直な答え。
構わないよ、とジャンヌに手渡しながらあっさり頷く彼の応答。
特に文句はないから、好きなものを買ってきてねとまで囁かれるのだった。
意外な反応とジャンヌは内心驚き、だがつまらないと愚痴りつつ、しぶしぶ財布を受けとる。
……けれど、最後に。
枕からわずかに頭をあげた彼は、にやりと頬を歪める。
「……その分、あとできっちり返してもらうから」
――たまには趣向を変えてみて、ね。
そう、何か企むような笑みを浮かべて。
どこか楽しそうに、マスターはつぶやくのだった。
■ ■ ■
――出来れば甘いものでよろしく。
そんなおねだりを背中に受けながら、彼女は部屋を出た。
「……何をさせられるのかしら」
そう、首を傾げるジャンヌ。
おそらく、この手に握る財布以上のなにかを奢らされるとかはないだろう。
少なくとも金銭面で訴えかけてくることはない。
今日を越えれば明日は休みだから、それを絡めたことをしてくるはず。
ゲームの素材集めとか、テーブルゲームの連チャンとか。
そういう性格なのだ、彼は。
「……なんにせよ、夜になればわかることか」
悩んでところで仕方がない。
今は自販機から甘いものを買ってくるという使命だけを果たせばいい。
このドアから右手に進んだところに、一番近い自販機があるから、そこを目指そうと考える。
だから、彼女は右を向いた。
それが当然の行為だったから。
……それゆえに、その赤い瞳と目があった。
「…………」
――無言。
紡ぐ言葉はない。
互いが互いに見つめ返して、沈黙が二乗されてく。
何も語り合いはしない。
けれどジャンヌの表情だけは、明確な変化を見せていた。
額から滲み出てくる汗は、先ほどまでの暑さによる発汗とは違う。
逆に冷水を浴びせられたかのように冷えて、意識は見事に覚醒している。
焦り、戸惑い、困惑から流す冷や汗。
現在の状況がよく理解できているからこそ、心臓が早鐘を打っているのだ。
――早朝から、
それを見られることの気まずさが、理解できないほど間抜けではない。
例えやましいことがなくとも、勘違いしてくれと言っているようなもの。
……でも本来なら、馬鹿じゃないのと一蹴して強引に押しきる方法もあった。
何せ彼女は竜の魔女。
多少の強引さは、少女のデフォルメのようなものだから。
だが……今目の前に立つ相手に、その方法は通用しそうにない。
――ミルク色の髪。
紅の瞳と同じく、鮮血の赤を纏う姿。
痛みすら感じさせる見た目に反して、一切の心が感じられない能面のようなその表情。
――この、ナイチンゲールという女は、間違いなくジャンヌ・オルタの中では『苦手』と分類される存在だった。
無機質な眼光は、まさに鋼鉄のような鋭さと無感情さ。
掴みようがない思想、という面では病気女と同格。
けれど清姫と違って、必要以上は無口な分だけ理解不能度が増している。
何を思って自分を見つめているのかまるで読めないから、ジャンヌは嫌味の一つ吐けやしない。
淡々とした瞳に何故か申し訳なさを思って、たじたじになってしまうのだ。
……最悪。
なんでよりによって、今会うのがアンタみたいな奴なのよ。
胸のうちで愚痴るが、そんなことで状況は変わらない。
ごくりと生唾を飲み込み、せめてもの意地で、ジャンヌは瞳をそらさずその見つめ合いに応じ続けた。
……しばらくの沈黙の後。
先に変化があったのは、赤い彼女のほう。
頭を少し下げて、「おはようございます」と一言、ナイチンゲールは挨拶をした。
「……お、おはよう」
若干逃げ腰ではあるが、ジャンヌもそう応える。
するとナイチンゲールはそのまま「お早いのですね」と言葉を続ける。
「何か御用事でもありましたか?」
「いえ別に……ただ飲み物が欲しくて、自販機行こうかなって」
「左様ですか。最近は蒸し暑い気候が続いていますからね。水分補給はいいことです。ただし、寝しなの糖分は好ましくないので程ほどに」
「……了解」
ならよろしい、とナイチンゲールはつぶやく。
……会話が成り立ててることに、びっくり。
言葉を吐けば返事が来ることに、これほど新鮮さを感じたことはない。
――だから思わず訊いていた。
あんまりにも珍しい状況だったから。
貴方は何してたの、なんて尋ねている己がいた。
するとナイチンゲールは「カルテの整理です」と素直に応える。
「また何人か新しく入った子たちがいましたので、その健康資料のチェックを。なにぶん数が多いもので、そのために私も早起きしました」
「それは、まためんどうそうね……」
手に握るカルテを翳すのを見てジャンヌはげんなりとつぶやく。
デスクワーク系統の面倒くささは、マスターの手伝いできっちり体験済み。
だから知っている。
積み重なる資料の山というものは、見るだけでかなりくるものがあることを。
容易に想像できてしまって、思わずジャンヌまでもが落ち込んだ雰囲気になる。
「いいえ。カルデアの衛生向上のためなら、これぐらいのことは苦でありません。それに業務をこなすたびに成果を実感できますから、私にはむしろ喜ばしい作業です」
――思ってたものと、正反対。
どこか得意げに、彼女は語る。
それは子供が自分の成果を自慢するかのような、そんな無邪気さを含んだ声音色。
あの作業の何がああまで嬉しいのかまったく分からないが。
……それでも、こう喜びを奏でる機関が彼女に存在したことに、魔女はただただ驚いていた。
そして遅ればせながら気付く。
無表情イコール無関心ではないことを。
強い意思、曲がらない信念。
鋼鉄女なのは確かだけど。
話しかければ答えの返る、『生きた』鋼鉄ではあるのだと。
……なんて、しょうもない事実にようやくたどり着けた。
「……では、私はこれで。ジャンヌさんもあまり夜更かしをしないように。マスターにも、そうお伝えください」
「あ、ちょっと待ちなさい」
立ち去ろうとした背中を、ジャンヌは引き留める。
振り返ると、なんでしょうかとナイチンゲールは首を傾げる。
「……他の奴らには、言うんじゃないわよ」
歯切れ悪いが、ジャンヌはそう口にする。
言ってどれほど意味があるかわからないが、一応は釘を刺しておく。
対するナイチンゲールは、問いかけると口元に指をつけ、少し考える素振りを見せる。
それから再びジャンヌに向き直り、「それは治療に関係ありますか?」と逆に問いかけられた。
「え。いや、ないとは思うけど……」
「なら私が誰かに話すことはありません。これが貴方たちの健康を守るためにするべきことなら話は別でしたが……それにです」
――ふ、と婦長の口元が緩んだ。
恐らく、黒の少女には初めての光景であろう。
……柔らかな、彼女の笑顔。
共に告げられたその言葉はより鮮明に鼓膜を震わせた。
「――私はこれでも女ですから……そのような野暮は、致しません」
……ギャップ、という単語の重みを、ジャンヌは今よく知ることとなった。
なにせ普段あれだけ疑り深い彼女が。
ナイチンゲールのその言葉一つで、十分と思えてしまったのであるから。
……食わず嫌いも、やめた方がいいわね。
今後は気を付ようと、胸のうちで少し反省をする魔女。
「……ありがとね」
そう手を振ると、こちらこそと丁寧に彼女も下げる。
……はじめ見つかったときはどうなるかと思ったけど。
なんとか事なきをすんだ、とジャンヌは胸を撫で下ろす。
――このまま終わったらの話、だったのだが。
頭を下げたナイチンゲール。
しかし同時に、彼女は何かに思い当たったかのようにはっとした顔になる。
「……ちょうどよかった。実はマスターに届け物を依頼されてまして。よろしければ、私の代わりにお渡して頂けないでしょうか?」
「届け物?」
はい、と頷きながらナイチンゲールは自らの小脇に取り付けた救急袋に手を入れる。
しばし袋を揺らした後、茶色い紙袋を一つ取り出す。
「今晩までにとのことでしたが……ものがものですし、衛生面でも万全を期すにはお早めにと思いまして」
「ふーんそうなの。ならわかったわ。私からマスターに渡しておく」
……口止め料と思えば安いものだ。
ちょうだいと差し出した手に、ありがとうございますとナイチンゲールは預ける。
「じゃあ、飲み物買ってきたらすぐに渡しておくわ。それで構わなくて?」
「はい。よろしくお願いします……あと、最後に一つだけ」
なにかしら、とジャンヌは聞き返す。
ナイチンゲールは少しジャンヌに近づき、その耳元に唇を寄せる。
そして、小さな声でささやくように、彼女は語る。
「――あまり力まず、ご無理をなさらないように……それとしっかりお休みをとられて、お体を大切にしてください」
――そう言い残して。
鋼鉄の天使は、魔女の前から立ち去っていった。
「……なんだったのかしらね、あれ」
力むって何が?とナイチンゲールの去った後の廊下を眺めながら、ジャンヌはつぶやく。
そしてちらりと自らの右手に目をやった。
……紙袋は、思っていた以上に軽い。
それこそ中身が空じゃないのかと思えるほど。
「……なぁにかしらねー」
どうせ見ても怒られないだろう。
好奇心に押されて、ふふんと鼻唄混じりにジャンヌはちらりと紙袋の中身をのぞく。
――それからぐしゃりと、彼女は両手で紙袋を握りしめた。
とても、直視出来るような物ではなかった。
わなわなと、指先が小刻みに震える。
それ以上の速さで、ドドドドと心臓が脈打つ。
苦しさを覚える激しい躍動。
耳まで一瞬で赤くなったジャンヌは、なんとか呼吸をするのがやっと。
……見えたのは、長方形の小箱。
今までの見たことはないモノだったが……それが何なのか、一瞬で悟れた。
――衛生面で万全を期すためにもと、ナイチンゲールは言う。
確かに、衛生面の問題にはコレをつけることが大切である。
――マスターに昨晩頼まれたので、と婦長は語る。
なるほど、コレを持ってそうなのは彼女ぐらいだろう。
『お体を大切にしてください』
心配そうに、顔を覗くあの淑女を思い出す。
――もはや、語るまでもない。
湯気が出るほど、顔が熱い。
悶えて回るほど、恥ずかしくて仕方ない。
意味がわかってしまったら、もう誤魔化しがきかない。
これならばまだいっそ、勘違いされたままのほうがマシ。
だって、こんなものを受け取ってしまったら。
……言い訳なんて、もうできるはずないから。
『……その分、あとできっちり返してもらうから』
悪戯っぽく、貴方は笑う。
ええ、理解しましたとも。
その意味、そのわけを。
今さらカマトトぶることもないし。
ぶっちゃけ魔力供給という名目でこなした回数が多いわけだから、本当に今更。
――しかしだ。
少なくとも、こんなものを持たされて、顔色一つ変えずにいられるほど。
……私もまだ、少女を捨てちゃいない。
「……この、馬鹿マスタぁっっ!!」
――甘いものなんか買ってられるか。
ただでさえ甘いのに、これ以上なんて堪らない。
紙袋を握りしめながら、バンと扉を蹴破って、ジャンヌは部屋へ戻る。
恐らくは外の話に聞き耳を立てて、くすりと微笑んであろうあの意地悪なマスター。
烈火赤面の魔女は、生半可なことでは収まらぬこの羞恥をはらすべく、声高に叫ぶ。
その不届きものの……惹かれて止まない、貴方の名前を。
■ ■ ■
――さて。
暑さが増す今日この頃ですが、本日もまた然り。
どころか、より一層深みを増すこととなるでしょう。
ただし、今夜は暑い夜ではなく。
――熱い夜と、なるわけですが。
終