ぐだ邪ン短編です。
今回は普通です。
――それはまるで、踏みしめられたことのないような新雪。
そっと先を下ろせば、なんの抵抗もなく沈んでゆく未知の感触に、かの魔女の胸も高鳴る。
銀色に掬われた、桃色と赤の混じる一塊。
不安と期待、双方を胸に少女――ジャンヌ・オルタはぱくりと、その一掬いを口に含む。
――瞬間、口内に弾けるようなみずみずしさ。
続いて舌先から伝わる甘さと酸味。
相反するもの同士の絶妙なバランス、そのハーモニーに、彼女は震える。
生まれてはじめて口にしたそれの名は、「ショートケーキ」。
その蕩けるような甘露に、ジャンヌはうっとりとした声で「美味しい……」と漏らした。
「――それは何より。ぎりぎり間に合ってよかったよ」
その様子を、マスターは微笑みながら見つめている。
呟いてしまったことを自覚していなかったのだろう。
はっ、となったジャンヌは途端きりりとした表情に変わる。
「……まぁ、そこそこいいわね。そこそこ」
つんとした態度で、さも興味がないように見せるジャンヌ・オルタ。
けれどマスターにはそうですか、と笑ってあしらわれてしまう。
……なんだか、子供のような扱いをされてる気がする。
「……貴方は食べないの?」
机に乗ったものは二皿。
一つは無論ジャンヌのもの、何だかんだでもう半分まで減っている。
もう一つはマスターの前に置かれてる一皿。
ジャンヌが食べているものと同様の、白いケーキが盛られている。
「ああ、別に気にしないで。結構今満足してるから」
「……こっち見るな」
ぶんぶんと蠅を追い払うかのように手を振られて、マスターは「ひどいなぁ」と苦笑する。
「……てゆうか、いきなりなんでこんなもの買ってきたのよ」
――今日の出撃場所は新宿。
だが編成上の理由、今回ジャンヌは出撃させられなかった。
マスターの後ろ姿を見送ったあと、特にやることもなく自室に戻る彼女。
本を手にとったりゲームを起動したりと色々試したが……物足りなさを感じて、結局やめた。
なにも語ることがないくらい、虚無的なまでにつまらない時間というものを、久々に体感した。
息がつまるほどの暇、もやもやとした虚しさ。
……傍にいないというのが、こんなにも不安になるなんて、はじめて知った。
退屈に殺されそうになっていた時、こんこんと扉を叩く音で、少女は一命をとりとめる。
がばりと起き上がって、ドアまでかけるのは一瞬。
はやる気持ちを抑えて、落ち着いた動作でロックを解除し、がしゃりと扉は横に開く。
そしてその先に見えたのは、見送ったときと同じ、少年の立ち姿。
彼は右手に持った白い箱をかざし、にっこりと笑って少女に言った。
いっしょに食べよ、と。
――その、『いつも通りの景色』に、ほっと胸を撫で下ろした。
だが無論、その事実を言ってやる気はないけど。
ジャンヌの問いかけにマスターは一度首を捻るが、「まぁ、強いて言うなら胡麻すりかな」と笑って答える。
「本日は寂しい思いさせてしまいましたし、その返礼をばと思ってね」
「別に寂しいなんて思ってないわよ。被害妄想甚だしわね」
「これは失敬……ちなみに、明日オレ暇なんだけど、君空いてる?」
ごっほとむせた。
とんとんと彼女は自らの胸を叩く。
数回咳き込んだ後、滲んだ瞳で恨みがましそうに、ジャンヌは少年を睨む。
射殺しそうなぐらい鋭い視線を向けられても、涼しげな顔をしているマスター。
「……とゆうわけで、掛け金追加で」
すいと、彼は自らの皿をジャンヌの前に差し出した。
にこにこと、晴れやかな笑みを浮かべたまま、こちらの回答を待っている。
……なるほど。
つまりこれは賄賂か。
私を誘うための、ご機嫌とりのために。
……たかだかケーキ二個で、この私をものにしようなんて。
「馬鹿げてるわね」
さらりと、髪を揺らしながらジャンヌは言い切る。
愚かしい限りだと、嘲笑って。
「……どっかの王様と違って、私はそう安くはない。ケーキ二つで私が欲しいですって?話にならないわ。出直してらっしゃい、マスター」
「――そっか。じゃあ残念だけど、このケーキもなしで……」
ため息と共にそう言って皿を下げようとする。
しかしだ。
つかんで引いたはずの皿が、まるで動かない。
ぴくりとも、うんともすんとも。
――反対からジャンヌが引っ張ってるから、動くはずがない。
「――ジャンヌ」
じっ、とマスターは淡々とした瞳で見つめる。
見つめられた彼女は、気まずそうに目を反らしながら「……これは前金」と早口につぶやく。
「いや。そうゆうのはちょっと。返して」
「どうせ貴方食べないんだから私に寄越さしなさいよ」
「君にあげるために食わなかっただけで本当は食べたかったし。ていうか高かったんだよこれ」
「ならそのまま私に渡しなさいよ。ケチよ貴方」
「あげたらデート行ってくれる?」
「やだ」
「なら渡さない」
……互いに一歩も譲る気がなく、皿が割れそうになる勢いで引っ張り合う二人。
かたかたと揺れる机。
刹那の拮抗。
――最中、ジャンヌは傍らにあったフォークを手に取る。
それから隙あり、とばかりにそのフォークをショートケーキの頭部にそびえていた赤い頭――シンボルの苺を突き刺した。
「あっ」
「もらっておくわよー」
からかうように笑って、少女は頬張る。
もう興味を無くしたとばかりに、皿からあっさり手を離して。
「ジャンヌっ!ショートケーキから苺とったら何も残らないでしょっ!」
「知ってるわよ。だからとったんじゃない」
バカねぇと頬張りながら笑う。
……しめしめ。
いい気味ね、とジャンヌは頬を歪める。
悔しそうに自分を見るマスター。
それぐらいの顔を見せてもらわなきゃ、魔女は満足出来ない。
ようやくすっきりした、と深く息をはいた。
「ま、取り返したかったら好きに取り返しなさいよ。もう食べちゃったけどね」
トドメとばかりに言ってやる。
……ああでも、彼女は知らなかった。
トドメというのが、彼にではなく。
――他でもない、自分自身に向けてだったのだと。
「――そう。なら、好きにしようか」
――ふわりと、黒が揺れる。
いつ距離を積めたのだろう。
膝を抱えて笑っていた黒の少女の目の前に。
少年の顔が、すぐそこまで近づいていた。
「――え?」
――理解が追い付かない。
笑っていた彼女の思考では、間に合わなかった。
近づいてくる顔から、背けることも。
接近する吐息を、払うことも。
――触れる唇に、抵抗することも。
……焼けるような感触。
熱くて熱くて、熱い。
なのに……どうしようもなく、甘い。
――水音が、口の中で響く。
自分の舌に絡む何かを感じる。
「っ!?」
顔を離そうしたが、突き放せない。
固められたからというのもあるけど。
……本気で逃げられない、私がいた。
一分という、長い刹那。
ようやく口を離したとき、少女の顔は真っ赤に染まっていた。
……苦しい。
頭がくらくらする。
酸素を取り入れられなかったせいじゃない。
――爆弾みたいに脈打つ心臓のせいで、今にも胸が張り裂けそうだった。
顔が熱を持ちすぎて、不覚にも泣きそうになる。
なのに、さらに悔しいのは。
こんなにも満身創痍なのに。
してきたはずの少年は、少しも動じてないこと。
その親指で、彼は濡れた自らの唇を拭う。
ゆっくりと、しっかりと。
唇についた赤い果汁を拭い……そして舐める。
それから少女に向き直り、微笑みを向ける。
――ごちそうさま、と。
そう、少年は笑った。
首を傾げて、妖しげに。
……もう、それだけで、この紅潮は止まらなかった。
「――じゃあ、明日十時集合でよろしく。あとこれ、もう食べていいよ」
――本当に食べたいものは、ちゃんと口に出来たから。
耳元でささやいて少年は手を振り、部屋を去っていった。
あんまりにも呆気ない幕引き。
少女だけの室内は、沈黙に支配される。
……が、余韻は絶大だった。
ばん!と、少女は大きな音を立てて机に突っ伏した。
じんじんと痛む額。
けれどそれ以上に。
……唇を拭う仕草に色を感じた悔しさとか。
少年の味が残った口内の羞恥とか。
溜まりに溜まった感情に……焦げるような甘さに、焼き殺されそうだった。
「……食えるか、馬鹿」
そう、絞り出すように、残った白いケーキを睨みながら少女は語る。
……食えるわけがない。
こんな甘さを知ってしまったら、もの足りなくて仕方ない。
――
今さら、戻れるわけないじゃないか。
――時刻は、午後九時。
約束の時間まで、あと半日以上。
あんまりにも長い……『食休み』だった。
終