「――それでは、今日はミネストローネを作っていきたいと思いまーす」
「はい!承知いたしましたわますたぁ!」
「かしこまりっ!」
「……は?ちょっと待ちなさい。ミネストローネなんて聞いてないわよ。スイーツって話だったでしょ?」
意気揚々と手を上げる三人に対し、ジャンヌはそう言った。
するとマスターは「その件についてですが……」と彼女に向き直る。
それからにこっと、お日様のような笑顔を向けるのだ。
「――オレの調理スキルじゃあ無理」
「……帰る」
エプロンを脱ぎ捨てて、背を向ける少女。
鈴鹿が抱きついて止めるが、逆に引きずられて遠ざかっていく。
しかし、その背中をくすりと、緑髪の乙女が笑う。
「――たかだか料理の品が変わるというだけで帰ってしまうなんて、狭量な方。ですがわたくしはそれで一向に構いませんわ。ますたぁと二人っきりだなんて、とても幸せですから。ますたぁもそう思うでしょう?ジャンヌさんがいない方が都合がいいと、ね?」
「……さぁ。どうだろうね」
清姫の問いかけに、マスターあいまいな回答を返す。
――瞬間、ぴたりと、聖女の行進も止まる。
彼女は振り返り、少年を見る。
マスターはこれといった反応は見せず、淡々と調理器具を準備していた。
普通の……普通すぎるほどの、仕草。
じっと、しばしその様子を見つめていたが、ふぅと息を吐いたあと「……気が変わったわ」と再び白衣を纏いなおす。
「ふぅ。よかったよかった。ここまで来て帰るとか、マジ勘弁だったし。がんばろうねジャンちゃん!」
「だからその呼び方やめろって言ってるでしょうが……それに、今はもうそんなことどうだっていいわ」
え、と鈴鹿はジャンヌの顔を見直す。
少女はそれ以上口を開かなかった。
黄金色の瞳。
その眼差しは、彼の姿を追い続けているだけだった。
■ ■ ■
――ミネストローネといえば、イタリアでは有名な田舎料理である。
トマトスープを主にし、細切れにした野菜やベーコンなどを一緒に煮込んで完成。
日本でいえば、みそ汁のようなものだ。
……さらにいえば、今ここにいるメンバーが作るには、いまさら過ぎるほど簡単なメニューである。
まぁ、それをチョイスした理由はおおむね見当がついている。
恐らく、例の二人組対策であろう。
下手に自由メニューにすれば、競い合ったエリザベートとネロが隠し味だの芸術性だの工夫を凝らしてケイオス状の何かが出来上がるのは目に見えてる。
ゆえに簡単かつボリュームあるこれならば、二人も大人しく作るであろうとマスターは考えたのだ。
色も赤いし。
「……でもあのトカゲは隙あらばタコとか入れそうですね」
「そうね。あの子何故かタコには謎の執念抱いてるし」
互いに割り振られた野菜を細かく刻みながら、清姫とジャンヌはそんな会話をする。
ちらりと、ジャンヌは視線を逸らす。
少し離れた場所で、二人がたまねぎを炒めているのが見える。
マスターがヘラを動かすのを、鈴鹿は尾をゆさゆさとふり、わくわくとした様子で見守る。
イタリア料理なんてものに縁がなかったのだろうか。
好奇心溢れる彼女の眼差しに、「……のんきでいいわね」と言葉を漏らす。
とゆうか、もし私を応援する気があるんだったら、まずそこに私を立たせるべきじゃないのかしら?
完全に忘れてるわね、と半ば呆れ気味にため息を吐く彼女だった。
「ええ。ついでに言えば、貴方も呑気で大変よろしいことで」
――対して、こちらはギスギスしているどころの騒ぎじゃない。
会話こそあるが、殺気にも似たとげとげしい空気が充満している。
ここでとり繕うような気づかいがあれば、もしかしたら話は変わったかもしれない。
だがそんなもの、ジャンヌの辞書にはなかった。
向けられた敵意と同等の、鋭い視線を黒の聖女は返す。
「……ほんと、面倒くさいやつね。回りくどいのよ。言いたいことがあるならさっさと言いなさい」
「特に何も。貴方こそ、さっさとおかえりになられたら如何ですか?」
「自分から焚きつけておいてよく言う」
「焚きつけてなどおりません。事実を言ったまでです」
「アレが私と居たくないなんて言うわけないでしょうが。どれだけいっしょにいると思ってるのよ?」
「まぁ、なんてずうずうしい……けれどその言葉に嘘をまったく感じられないことが、なおのこと恨めしい」
「それはご愁傷様でした……でも、さっき確かに、アイツは言葉を濁した。嘘を許さない貴方の目の前で言葉を濁すってことは、イコールNOってことでしょ――アイツが私と居たくないって言うとしたら、それは決まって私に見られたくないものがあるってことなのよね、経験上……それを私に見ろってこと?」
しかし、清姫は「さぁどうでしょう?」とこの上なく白々しい答えを返すだけ。
……声音は変わらず至って穏やか。
しかし、まな板に打ち付けられる包丁の音が一際高く鳴り続ける。
……本当に陰険ね、この蛇。
「お互い様ですわ」
――こちらの心の内を読んだかのような言葉に、びくりとジャンヌの肩が震える。
「……いえ。私から見ればなおひどい。何も考えず、ただ今を享受してるだけの貴方になんて、何も言うことはありません――私が一番言いたい人は、貴方なんかじゃありません」
「……どういう意味よ」
容量を得ない清姫の言葉。
しかし、その声音からそれがただの八つ当たりなんかじゃないことは嫌でもわかる。
なのに、それ以上の返答はない。
続く沈黙にしびれをきらしたジャンヌが、詰め寄ろうとする。
――その時、きゃぁと、甲高い声が上がる。
「ちょ、マスター!それダメだって!?てか血っ!血が出てるよ!?」
ぎょっとして、顔を上げる双方。
視界に入ったのは、包丁を片手に持ち、もう片方の手を見つめている少年の姿。
――見つめているその指先から、どくどくと濃い赤が流れ落ちていた。
「ちょっと!貴方何やってるのよ!?」
慌てて駆け寄るジャンヌ。
彼はあはは、と恥ずかしそうに笑う。
「いやぁちょっと失敗しちゃったな。でも大丈夫だよ。気にしないで」
「気にしないでって、かなり深いよ。医務室とか行かなくていいの?」
わたわたと心配そうに見る鈴鹿に大丈夫と再度言い聞かせるマスター。
……その姿に一瞬、ほんの一瞬だけ、ジャンヌは違和感を覚える。
理由はわからない。
ただ、何かが変だと、彼女は思う。
「――ますたぁ」
――しんと、静かな一声。
優しく、諭すような、その声。
振り返ると、清姫がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
こんな時、いの一番に走り寄ってきそうなのに。
緩慢な動作で、下駄を鳴らす。
それからにこりと、彼女は笑う。
涼やかで、清々しい笑顔。
……なのに、その微笑みは何故だか――怒っているようにも見えた。
「――痛くは、ございませんか?」
そう、彼女は尋ねる。
何の深みもない、ただ一言。
イエスかノーの、単純な質問。
その問い掛けに、マスターは少し目を見開く。
一瞬で済むはずだったやりとり。
けれど、彼は少しためらう素振りを見せる。
……だが、変わらず笑みを向けてくる少女の意図を察し、はぁあと観念したように物憂げなため息をついた。
それから、少年も微笑み返す。
――ぎこちなく、少々恨みがましい声で。
「……うん。痛くないよ」
――そう、貴方は語る。
ただそれだけ、貴方は頷く。
――それだけで、私は気づいてしまった。
「――なんて、バカ」
奥歯を噛みしめて、漏れ出た声がある。
誰でもない、自分に向けた言葉。
――気づけば、少女は少年の腕をがしりとつかんで。
その手を引いて、走り出していた。
「え、ジャンちゃん!?いきなりどしたの!?」
鈴鹿の声など気にも留めず、走り去ってゆく二人。
ぽかんと、取り残された鈴鹿だったが「おそらく医務室ですよ」の一言で正気に返る。
「え、うん……でも、今めっちゃ怖い顔してた気がするんだけど、ジャンちゃん」
「さぁどうでしょうね。でも気にされずにいて結構だと思いますよ。それよりも調理の続きをしてしまいましょう。鈴鹿さん、そちらの箪笥の二段目に胡椒がありますからとっていただけますか?」
「あ、かしこまり。てか、きよひー詳しいね、ここに」
「ええ。わたくしもますたぁといっしょに通ってましたから、料理教室」
「そうなの!?」
通ってただけですよ、と再度清姫は言った。
――そう、通っていただけだ。
あの人が来る日を狙って、あの人と同じ班になれるように細工して、いっしょに料理をしてただけ。
だって、それぐらししかなかったから。
あの人は寄り道をしない。
いつも真っすぐ、ミッションが終わったらすぐに帰ってしまう。
あの不愛想な、魔女の元に、嬉しそうに踵を鳴らして走ってゆく。
その人といるとき、貴方は幸せそうに笑っているから。
そんな貴方の、邪魔をしたくなかったから。
……こんな機会ぐらいでしか、貴方の傍に居られなかった。
ああ、なのにどうして。
そんなささやかな時間なのに、そんな大切な刹那なのに。
貴方に微笑んでもらいたくて、いっしょに作ってたのに。
『お味はいかがですか?ますたぁ』
……その一言を、お尋ねすることすら許して頂けないのでしょうか。
「――恨みたくも、なりますわ」
――ぽつりと、絞り出すような一言が。
真白い唇から、流れ落ちた。
■ ■ ■
「――いつからなの?」
――静かに。
そして驚くほど冷たい声で、ジャンヌはそう尋ねる。
誰もいない廊下。
その壁にマスターを押し付け、吐息がかかるほど顔を近づけて。
黄金色の双玉は、少年を見る。
……こんな状況じゃなきゃ、きっと最高にときめくシチュエーションだったろうに。
「……ひどく残念である」
惜しむように、マスターは言葉を漏らす。
しかし答えはなく、代わりに襟首を締め上げる力が増しただけ。
――どうやらごまかしも、許してもらえないらしい。
深く憂鬱そうに息を吐く少年。
……正直恨むよ、清姫。
言ってもしょうがない愚痴を内心こぼしながら、彼は「……半年前から」と答える。
「兆候が出たのがそのくらい。一か月前くらいからあったりなかったりの繰り返しだったんだけど……今は、ない時間の方が長い」
「……なんで、言わなかったの?」
――気づかなかった。
まったく、これっぽっちも、気づけなかった。
だってあまりにも、その仕草は自然だったから。
これ以上なく今まで通りで、何の面白みもなく普通だったから。
――感覚がなくなってたなんて、気づきもしなかった。
それはつまり、ないことが『日常』になるまで、振舞い続けたことも同じく意味する。
……先ほどの清姫の問いかけがなければ、永遠に見抜けなかったかもしれない。
『……痛く、はございませんか?』
――その問いかけは、彼女の、せめてもの意地悪だった。
今までずっと、そう言いたいのを堪えていた。
マスターが隠したがっているのを知っていたから、あえて尋ねなかった。
嘘を許さない彼女が聞いたら、隠し続けることが出来なくなってしまうから。
誰よりもマスターを、想うがゆえに。
……けれどそれもう、限界を迎える。
平然としている彼に、腹が立って。
同じく平然と無知な魔女に、殺意は募るばかり。
――事実、私が逆の立場だったら、そう思う。
「……本音を言えば、今ここで貴方をくびり殺してしまいたいぐらいよ」
「それはまた、悲しいことを言ってくれるね君……でも、言っても仕方なかったんだよ。こういうことは前からよくあった。そもそもオレは生粋の魔術師じゃないし。何かしらの反動があって当たり前なんだ。特に、マシュの加護が薄れている今なら、尚更だ」
真っ赤になって固まってしまった指先に目を向けながら、彼はそう語る。
――今までが、あまりにも都合が良すぎただけのこと。
だから、触覚を持っていかれることぐらいなら安いものだ。
そう言って、彼は笑う。
……その割り切りのよさに、吐き気さえ覚える。
「……ふざけないでよ。何がなくなってもいいっていうのよ。じゃあ何?貴方は自分がどうでもいいって思ってることを私に押し付けてたわけ?味わえもしない料理なんか懸命に作って、私に嫌味を言いたかっただけなの?ずいぶん回りくどいことするわね、貴方も」
――君の喜ぶ顔が見たい。
その一言に、胸が震えた。
だから、返してあげたいと私は思えた。
なのに、肝心の貴方は、その幸せを放棄しようとしている。
……昨日まで悩んでいた私が、あほらしくて仕方ない。
小馬鹿にしたように、ジャンヌは鼻を鳴らす。
しかし、マスターはそれは違う首を横に振った。
「……失って、初めて気づいた。いつもあるはずのものがなくなってしまう恐怖を。寂しさを。だから君には、オレの分まで楽しんでほしかったんだ……君が笑ってくれると、オレも楽しかったのは事実だしね」
「……貴方は、諦めたっていうの?元に戻らなくて、本当にいいと思ってるの?」
「まさか……けど、そういうことも考えなきゃいけないってのは事実なんだ。ダ・ヴィンチちゃんにも対処してもらってるけど……そろそろ腹をくくらないと――オレも、つらくなってくる」
――馬鹿。
そんなもの、諦めたって言っているようなものじゃないか。
暗い顔をして、泣き出してしまいそうな目をして。
それが、まだ希望をもっている人間のする表情なの?
――腹が立つ。
割り切りの良い彼に、隠してきた彼に。
気にしなくていいと、貴方は笑う。
けれどそれは、私に心配させないためだってわかる。
……心配すら、させてくれないのか。
貴方が悲しんでいるのに、慰めることすら許してもらえないのか。
私だって、大事にしたいのに。
悔しくて、寂しくて、怒りでどうにかなってしまいそうなぐらい。
恥ずかしさのあまり、私を殺したくなるぐらい。
……貴方に、惹かれているのに。
何食わぬ顔して、暖かな声をかけて近づいて。
勝手に笑って、勝手に優しくして、勝手に手をつないで……勝手に、離れてしまう。
……なんて、ずるいひと。
「――目、開けてなさい」
――だから、これはそんな貴方に対する仕返し。
私の言葉に、ぽかんとする貴方に、もう一度言葉を繰り返す。
「……絶対に、目を閉じるな。瞬きすらするな。いいわね?」
「え、いやちょっと待って。意味が――」
少年が語ろうとした言葉は、それ以上声にはならなかった。
――ぬくもりが、口先を覆う。
しっとりと滑らかで、手折れそうなほど柔い感触……なのだろう。
何故なら、触覚のない少年に、そんなものは感じようがない。
――口づけの味なんて、わかるわけがない。
ひどく長い時間、彼女は唇を重ねていた。
少年には目を開けてろと言ったのに、自分はきつく目を閉じてしまっている。
――見つめあってのキスなんて、できるわけないじゃないと言わんばかりに手が震えている。
……そのいじらしさに、死にそうになる。
ようやく、温い息とともに、彼女は唇を離す。
少年は自らの何も感じない唇に触れて、呆然と少女を見る。
対して、ジャンヌの方は満身創痍。
口元を手で覆い、くまなく赤く染まってしまった顔。
まともにマスターの顔見れず、目をそらしたまま。
……けれど、それでも。
消え入りそうな声だったけど……確かに、君は語る。
「――この熱が、もう二度と伝わらないというのなら……キスなんて、二度としないわ」
――やめてくれ。
そう呻きそうになる。
その顔と、声と、台詞は……あまりに、卑怯だ。
「……ごめん、なさい」
――譲るつもりなんてなかったのに。
割り切れていたはずなのに。
いつの間にか、彼はそう口にしていた。
「……清姫にもよ」
付けくわえられた言葉にも頷いてしまう。
……なんて、単純なんだ、オレは。
「――心配してるのは、貴方だけじゃないわ」
――最後に、ジャンヌはそう告げる。
「……貴方の周りはこれぽっちも諦めてない。なのに貴方が諦めるなんて、おかしな話でしょ……強がってないで、寂しいんだったらさっさと言いなさい――その時ぐらい、傍にいるわよ」
「……うん」
――感覚なんて、とうになくなってしまったけど。
この言葉が、すごく暖かいものなのはよくわかってたから。
思わず、声が上ずる。
「――じゃあ、さっさと戻るわよ……あと、顔を拭いときなさい。私が泣かせたなんて思われたら、清姫に殺されるわ」
「――泣いてなんかないよ」
あらそう、と少しおかしそうに君は笑う。
……ほんと、情けない。
教えるはずの料理教室で、逆に教えられてしまった。
料理よりもあったかくて、大切なものを。
――想ってもらえるという、幸せな灯火を。
■ ■ ■
――エミヤ師匠へ。
ちょっと忙しいため、留守電で申し訳ありませんが、先日の件についてご報告させて頂きます。
料理教室はつつがなく終わりました
死人も出ず、怪我人は多数でしたが、とりあえずオレは無事です。
清姫に怒られたり、鈴鹿に絆創膏貼ってもらったり、そしたらいつの間にか完成してたミネストローネを頂いたりで。
先生らしいこと、何もできなかったなと自身の未熟さを嘆くばかりです。
次回があるなら、もっと頑張りたいかな。
……ああ、でも。
一つだけ、確かに言えることがあります。
その時、みんなといっしょに食べたミネストローネは。
――すごく、美味しかったです。
終