「完全に迷った・・・」
柊伊吹はさまよっていた。階段を上ったのは覚えている。廊下を歩いていたのも覚えている。ここがどこかは・・・わからない。
「まずいな・・・」
何故こんな事になってしまったのか。事態は30分前に遡る。
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「まったく持って理解に苦しみますね。奴らの感覚器官は一体全体どうなっているんだ」
会議室に置かれたテーブルの前に立っているウィルキンスが書類を持ちながら呟いた。
「ネウロイの表面には感覚器官らしき物は存在せず・・・か。これほどうしたものかな」
ウィルキンスの横にいるボーマンが困り果てた様な苦笑を浮かべながら発言する。
1週間の地獄の様な書類整理の器官を終えたワイルドファイアチームはいよいよ本格的にネウロイの解析に取りかかろうとしていた。その中でまず彼らが行おうとしたのが『ネウロイの感覚器官に関する解析』だった。本来動物の感覚器官という物は動物を構成する器官の内、何らかの物理的、化学的刺激を受け取る受容器として働く器官の事を指す。各器官は感覚器系と呼ばれそれぞれの器官が繋がる末梢神経系を通し神経系を構成する細胞、ニューロンを介して中枢神経系に伝えられる。感覚器の種類には視覚器、聴覚器などが存在し、視覚器は目。聴覚器は耳といった様に動物が外界の情報を取得するのに必要不可欠な器官であるが、ネウロイにはこれらの感覚器官という物が今の所確認できておらず長年ネウロイがどの様に外界の地形や景色といった情報や音を検知しているのかが謎のままとなっていた。その謎に立ち向かおうとしたワイルドファイアチームはたちまち壁にぶつかってしまう。まず彼らが行ったのはネウロイの表皮を採取してそこに感覚器官の類いがあるのかを解析する作業だった。ネウロイの一細胞を採取しただけのブリタニア軍研究チームには出来なかった芸当だ。その結果驚くべき事実が判明した。
「ネウロイの表皮はハニカム状の分厚い装甲になっています。しかもそれぞれの孔の面積が均一になっていて最も強度が損なわれない形状になっている。これは人為的な設計以外あり得ません」
人類史上最初にこの事実に気づいた生物学者となったダンチェッカーは断言した。こんな形状は生物界では蜂の巣などで見られるがそれでも各孔の形状や大きさにはばらつきが出てくる。これほど正確に、精巧な作りになっている形状は自然界ではあり得ないと。感覚器官の謎を解析する筈がそれ以上の難題にぶつかってしまった。しかも当の感覚器官に準ずる様な器官は表皮上には確認出来なかったとダンチェッカーは続けて報告した。その報告書を閲覧したウィルキンスが呟いた一言が先ほどの台詞である。
「1つ謎を解明しようとすると2つも3つも新たな謎が出てくる。全くもって厄介な敵だな」
その場の中心にいたマレー中佐が忌々しそうに口を開いた。
「ダンチェッカー教授の言う通りなら奴らは人工物かそれに準ずる生物って事になる。いや、生物ですらも怪しいが・・・伊吹、君はどう思う?」
「え、俺?」
ボーマンにいきなり話を振られた伊吹が困惑した表情を浮かべる。伊吹自身今の話を聞いていて理解出来ない事が多すぎるのだ。明らかに自然物体では無いようなネウロイの構造。その体内は未だに人類の手が入ったことのないロスト・ワールド。今の時点で考察出来る事と言えばごくごくわずかな事だけだ。
「・・・これは単純に思ったことなんだけど。ネウロイって本当に生物なのかなとは思った」
「ほう」
伊吹の発言に最初に反応したのはボーマンでもダンチェッカーでも無い、ワイルドファイアのリーダー、マレー中佐だった。
「続けて」
マレーが促す。
「なんて言うか、人為的な意思が介入してる気がする。奴らの戦い方を見ても」
「戦い方ですか」
ワイルドファイアの紅一点、ウルスラ・ハルトマン中尉が反応する。
「ああ、戦い方。奴らは欧州で人類と散々戦ってる癖に太平洋沿岸や人類にとって重要な拠点や戦略物資が大量にある場所は攻めてこない。まるでゲーム感覚みたいだ」
「なるほど・・・興味深い考察だな。ありがとうイブキ。皆少しここで気分を入れ替えよう。30分休憩にする。各自ゆっくりしてくれ」
マレーの言葉が会議室の中に響く。その言葉を聞いた瞬間各自がばらばらに散る様はこの1週間ちょっとで何度も見た景色だ。伊吹も固まった身体をほぐす為に運動がてら少し兵舎の中を動いてみようと思い会議室を後にした。
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「完全に迷った・・・」
ここで話は冒頭に戻る。
「まずいな・・・」
辺りを見回してみても廊下に存在するのはドアと日が差している窓のみ。案内板の様な物は見当たらない。基地の中で迷子になるとは。途方に暮れかけたその時
「ハルトマン大尉!今日こそはちゃんと部屋を掃除してもらいますよ!」
廊下に怒声の様な物が響いたかと思うと伊吹の前を何かが一瞬で通り過ぎた。
「うわっ」
思わずバランスを崩しかけた伊吹の身体を横から伸びてきた腕が支えた。そのまま手を伸ばしてきた人物に声を掛けられる。
「大丈夫?」
伊吹の身体を支えた人物は女性だった。どこかで見たことがある。そうだ、ワイルドファイアのウルスラ中尉だ。でも何でこんな所に・・・?その時、廊下の角から別の女性が飛び込んできた。
「ハルトマン大尉!!」
「うわっ、ハットリ。まだ追ってきたのかぁ・・・じゃあね」
目の前のウルスラ中尉はそう言うと伊吹の前から素早く姿を消した。その場に取り残された伊吹は呆然と事の成り行きを眺めるしかなく・・・その時伊吹の横に先ほど廊下の角から姿を現した女性が息を切らしながらやってきた。
「大尉・・・本当にすばしっこい・・・ん?」
「あ、、、」
伊吹と女性の目が合った。伊吹は新しく目の前に現れた女性には今度こそ間違いなく見覚えがあった。この基地に着任した初日、地下の倉庫に保管されていたネウロイを見せてもらう前に会議室にやってきたミーナ中佐の後ろにいた女性。確か名前は・・・
「服部さん・・・だったっけ?」
伊吹の眼前で棒立ちになっていた少女、服部静夏は伊吹の言葉を聞いた途端直立不動の姿勢になった。
「扶桑皇国海軍海軍兵学校からやって参りました・・・」
「いや、いいから。それも前も聞いたから」
依然と同じ自己紹介を始めそうになった静夏を制止する。
「それより元の場所・・・会議室に戻りたいんだけどさ。帰り道知らない?迷ったんだよ」
きょとんとする静夏。
「ここはウィッチ隊の宿舎ですよ?」
「・・・は?」
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「マジかよ・・・どうやったらそんな所まで来るんだ」
結局あの後全ての事情を説明して静夏に会議室まで送り届けてもらうことになった伊吹は改めて自分の奇跡的なまでの勘違いに心底あきれ果てる事になった。伊吹が自分で登ったと思っていた階段を実は下っていたのだ。その結果1階まで降りてきてしまった伊吹は連絡通路を渡ってそのまま横の宿舎に設けられているウィッチ隊の宿舎へ入りそこを気づかぬままうろうろしていたという訳だ。
「この基地は広いですからね」
そう横にいる静夏が言ってくれるのがせめてもの救いと言うべきか。そんな事を思いながら先ほど渡ってきた連絡通路を静夏と渡っている途中、向こう側から2人組の女性が歩いてきた。
「ハットリ、そいつ誰だ?」
2人組の内片方の女性は静夏に声を掛けた。美しい白銀の長い髪に陶器を思わせるような白い肌。まるでモデルの様なプロポーションからは想像出来ないほど雑な言葉使いだ。
「駄目よ。エイラ、初対面の人にそいつなんて言っちゃ」
「うっ・・・」
エイラと呼ばれた方とは違う女性がその言葉使いを窘める。エイラと呼ばれた女性はその子には逆らえないのか俯いたままになってしまった。
「エイラ大尉、サーニャ大尉」
「あーその言い方堅苦しいからヤメロって」
「いえ、規則ですから」
「最近ちょっとは堅苦しくなくなってきたと思ったのになぁ・・・」
エイラと静夏の会話を楽しそうに見つめるサーニャと呼ばれた女性はその容姿通りの穏やかそうな声の持ち主だった。
「静夏ちゃん、そちらの方は?」
サーニャが伊吹の方を向きながら静夏に訪ねる。
「こちらの方は・・・」
「この基地に駐屯している研究部隊の研究員をしてます柊伊吹です。よろしく」
静夏が口を開くより先に伊吹が自己紹介を手早く済ませる。ここで妙な話の流れになるのはごめんだ。
「研究部隊?お前研究なんか出来るのか?」
「エイラ」
伊吹の方を訝しげに見るエイラをまたしてもサーニャが諫める。
「そう言えば大尉達はどうしたんですか?」
「少し司令部の方にミーナ中佐から言われた用事があって」
「サーニャと一緒に行ってきたんだ」
静夏の問いにエイラとサーニャが答える。
「まあこれから宿舎に戻るつもりだったんだけど・・・ハットリは何でその・・・えっとイブキ・・・だっけ?イブキと一緒にいるんだ?」
今度はエイラが静夏に問いを投げかける。確かに普通ではおなじ基地内の人間とは言えあまり接点が無い者同士だ。事実彼女達とイブキが顔を合わせるのもこれが初めてなのだから。
「えっとそれは・・・柊さんが兵舎の中で迷っていまして。ハルトマン大尉を追いかけてる時にそれを見かけたので元の場所に案内しようと」
「兵舎の中で迷子?大丈夫かよ・・・?」
「ここの基地はかなり広いから・・・気を付けてくださいね」
エイラの苦言とサーニャの心遣いが交互に伊吹の脳内に侵入してくる。有り難いのか貶されているのかよくわからない。
「じゃあ、私達は宿舎に戻るから・・・またね、静夏ちゃん。イブキさんもまた・・・」
「あっ、待ってくれよサーニャぁ」
伊吹達から遠ざかっていく2人を見ながら伊吹はほっと息をつく。本当に・・・人付き合いは苦手だ。人に合わせよう合わせようとして必ずどこかでボロが出る。そんな事を何回も経験しているからこそ余計に人との接し方がわからなくなっていく。今は上手くやれていただろうか。そもそも人付き合いなど殆ど縁が無いのだから今更人からどう見られようが自分の知った事ではない・・・そんな事を考えていると
「行きましょう。柊さん」
横から響く静夏の声。
「・・・あぁ」
口から出た言葉は結局その一言だけだった。
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「ここが会議室のある兵舎です」
伊吹がウィッチ宿舎の中をさまよい始めて30分。ようやく元いた兵舎に戻る事が出来た。
「ありがとう。助かった」
「いえ、では私はこれで失礼致します」
「あ、そういえばさ」
背を向けて立ち去ろうとした静夏に伊吹が声を掛けた。
「はい・・・?」
「最初に会った時ハルトマン中尉を追いかけてたみたいな感じだったけど、何で追いかけてたんだ?」
「あぁ・・・あれはですね・・・ちゃんと言いますとハルトマン大尉です」
「ハルトマン大尉・・・?ウルスラ技師は中尉だろ?」
「それは双子の妹さんの方です。501統合戦闘航空団に着任しているのは姉のハルトマン大尉です。エーリカ・ハルトマン大尉」
「・・・マジ?」
頭の中で電光が炸裂した。そう言えば扶桑本国でカールスラント宣伝省が発行している雑誌にさっき廊下ですれ違った女性と同じ顔が掲載されていた。人類史上最もネウロイを撃墜した人物。戦乙女。扶桑語に翻訳された記事にはその様に書かれていた。しかし・・・
「自分が雑誌で見た時にはもっと凜々しい感じだったような・・・ってか双子だったのか・・・」
伊吹がこぼした一言に静夏は苦笑した。
「ちょっと印象のすれ違いがあるみたいですね・・・本当はもっとおおらかと言うかいい加減というか・・・あっ、いい人なんですよ?凄く。ただ柊さんが見た記事の感じとは若干違いがあるかな・・・とは。ウルスラ中尉は凄くしっかりした方なんですけど」
取り繕う様に言葉を並べる静夏。こころなしかフォローになっているようでなっていない気もする。今の話を聞いた上で伊吹が扶桑で見た『凜々しい』ハルトマンの写真と照らし合わせてみると要するに・・・
「・・・プロパガンダって凄いな」
見たくも無い世界の一面を目の当たりにしてしまった伊吹とそれを見せたくなかった様な静夏のなんとも言えない表情が2人の間を取り巻く空気を名状しがたい物へと変えていった。
続く