非番の人も集まって指定された倉庫に向かった満月の夜、中を覗けば驚いた顔を見つけた。
そして驚いた顔をしたその人物はこういったのだ、『あれー、乱歩さんは留守番なのかい?』
「ねえ、ねえ、おとうさん。あれってどういう意味だったと思う?」
「乱歩さんは珍しい事象に興味があるから、来るなと言っても来ると思ったんじゃないか」
袖を掴んで注意を引きながら尋ねると、苦笑しながら父は言った。
「ふうん? ぼくは、お前みたいな三歳児お呼びじゃない、乱歩さんを連れて来いって意味かと」
「どうしてそうなったんだ」
父の声は不思議そうだった。
「だって……」
夏梅はちょっとぶすくれてそっぽ向いた。
すると、ふっと頭上で息が吐かれて、沈黙が落ちる。
そのまま家までの道のりを黙って歩く。青白い月が、暗い海のような空に鏡のように輝いていて……そのせいで周りの小さな星々の姿は、夏梅の目には見えなかった。
電灯に照らされた街路を父の腕を掴んで歩く。
海の波打つ音から遠ざかると、人が産みだす雑音が耳を掠めるようになる。いつもどこかで聞こえる自動車が走る音。偶に見かける電気の切れた街灯の点滅。高いビルのたくさんある窓の内の明るいところ。
それは、父と母と共にすごした瀬戸内の閑静な街とは違っていた。
瀬戸内の海に浮いているような山の端から月が昇ってくれば、陸の動物も魚もねぐらにかえり、鳥は羽をたたみ、植物さえ夜の姿になって――人はみな自然と共に寝静まる。
一日が終わりましたよ、という夕焼けがお休みの時間を連れてくるのだ。音がしない道路は霧に覆われ、ときおりトラックがそこを走っていたり、バイクの音が夜の静寂を駆け抜けていく。
父と母に抱かれて眠る夜に感じたことは、夏梅の知っている少ない言葉のなかでは言い表せない。
高く昇った冷たい蒼い月を見あげた。
ここは、父と母と過ごした海の街とは違う。
きっとこの横浜の地では、夜が更けても、必ず誰かが起きている。それはとても安心できるようなことに思えた。誰かの息遣いが、動く音がこの街ではいつも響いている。
はじめは気まずさからだったけれども、父と肩を並べて(実際には身長差がまだあったけれど)歩を進めることが、なんだかとても幸福なことに感じられて、夏梅はもっとずっとこの夜道をいっしょに歩いていたいと思った。
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さて、耳を通して頭のなかを揺さぶるは、古くから親しまれた黒電話の騒音。
電話の音といえばこれ! という着信音にしたのは、夏梅である。
つまり、これは夏梅の携帯の音である。
「…お…とぅ……さん……」
けたたましい音に、寝床から出ずに父を呼んだ。しかし、寝起きの声は喉に絡みついて上手く出ない。それでもいつもならばすぐにあるはずの応答がなかった。
そこで、夏梅は、父が早朝出勤であることを思い出す。
「………うううーい」
軽く――絶望だ。
昨夜は夜更かししたので、朝起きるのが殊のほか辛かった。父は低血圧の夏梅のために遮光カーテンを閉めたまま出ていってくれている。寝ようと思えば、いくらでも寝られる環境は整っていた。
しかしながら安らかな眠りから叩き起こそうと朝から鳴り響く携帯の大音量に、割と早々に白旗を振った夏梅はもぞもぞと布団の中から腕を出して応える、
「もしもし……なつめです」
「夏梅くん、おはよう! いい朝だね。その声はひょっとしなくとも寝起きかな? もしかしなくとも起こしちゃったかな?」
朝からテンションの高い声で、「ごめんねー」と言ってくる太宰。
知らず半眼になりながら、夏梅は問うた。
「……おしごとですか」
「ううん、ちがうよ。これはとっても私的なお話なんだよ。とっても個人的なお願いで心苦しいんだけど」
太宰の流暢な言葉が耳からすこーんと飛んでいってしまうのを何とか引き止めつつ、夏梅は少し考えて、返答した。
「……なら、でんわしてこないでください」
眠気眼で、腹這いのまま電話に出ていると、内臓が下に落ちるような感覚がした。むかむかしてくる。
この理由は分かっている。うまく腹の筋肉、つまり腹筋がついていないのだ。あばらとあばらの間、鳩尾といった骨で支えられていないところから、内臓が下に落ちてきている。内臓を支える筋力不足なんて、誰にも言えない。故郷で夏梅を見てくれた医者と夏梅との秘密だ。
もともと筋肉があまりついていない状態なので、鍛えるも何もない。ない筋肉を作らなくてはならないので鍛えるよりもずっと難しいのだ。運動だけでなく高タンパクの食事が必要だ。それにも、夏梅はちょっとした壁があるのだが。
夏梅は、通話終了と判断して電話を切って寝返りをしようとした。しかしそれを声の主が引き留める。
「い、いやっ 待ってくれ、夏梅くん! とっても重要な事なんだ」
「……なんですか」
寝返りをいったんあきらめて耳を傾ける。これでくだらないことだったら切ろう、そうしよう。
「聞いて驚かないでくれよ。実はね今――死にそうなん、だっ」
「おめでとうございます」
くだらないこと――いや、おめでたいことでした。さようなら。
ピッと通話を切って、夏梅は携帯を枕元に戻して、再び布団の中にもぐりこんだ。
父は早朝から、江戸川とともに仕事に出ていた。朝食を作り置きしてくれているのは知っているので、可能な限り惰眠をむさぼる所存。
今日は振替え休日だ。世の学生たちはお休みである。
休日と言えば、夏梅は探偵社の助手の手伝いがある。しかし、それだけではない。
試験前のちょっとした、いやまあそれなりに大切な抜き打ち小テストで、赤点を取ってしまった夏梅は午後から補講があるのだ。
……ああ、そうだ。そうだと知っているから、夏梅は意地でも今は寝るのだ。
そこできゅうと腹の奥、鳩尾の辺りが苦しくなった。
これは――つらい。
貧弱なひゅるひゅるの筋肉の奥で、小さな胃袋が自分の胃酸に焼かれそうっと悲鳴をあげている光景が鮮明に思い浮かぶ。
「うううう……しかたない」
いったん自覚してしまった胃袋の訴えを無視するわけには行かず、もそもそと布団を被りながら食卓の上におかれた食事へと足を伸ばすことにした。
お腹すきすき。好き? いや空き。空き? お腹空きる?
空っぽの腹が頭の回転を鈍らせる。せっかく覚えて頭のなかで組み立て、整えた文法も、覚えた意味もぐちゃぐちゃになっていく。
糖分が足りていないんだ、糖分が! と頭のなかがわちゃわちゃと騒ぎ立てる。いやちょっと待って、落ち着いてよ頭さん。
頭のなかの何人もの自分の声を自分で制しながら、ちょっと頭がおかしくなっているかも、と自覚する。空腹はなんておそろしいものだろう。日常のうちで人を狂気に陥らせる、実に生理的でありふれたきっかけだ。――それは置いておくとしても。
正直、太宰の電話に起こされなければ、こんな朝早くから空腹の苦痛に苛まされることはなかったのではないかと思うと、ちょっと恨む。
頭の中に何人もの自分の声を抱えながら、父に怒られるので普段はしないけれども、今日はいないから、と掛け布団を頭から被ったまま、リビングの食卓に移動する。ずるずると床を擦る音に頓着せず、テーブルの上を確認した。
鍋式に置かれた鍋のふたをつかみ、いざ中身を拝見……
「きょうはー、カレーだ」
おおおーとふたをもったまま万歳をする。頭からずるりと布団が床に落ちた。その途端に、頭のなかの夥しいほどの声も静まり返る。餌があると解ったからか、現金なものである。よたよたとしながらふたをいったん鍋に戻す。そして床に落ちてしまった布団を部屋にたたんで戻して来て、食事が用意されている席に座る。
これは父の好物で、夏梅の好物でもある。父は仕事柄、匂いのつく食べ物はあまり食べないのだけれども、今日は江戸川の付き添いなので、気にする必要はないのだろう。
「カレーは、一晩おくと、おいしくなる、もっと……って、誰が言ってたっけー?」
父がいないとひとり言が多くなる。広い部屋に一人きりだと、とても寂しい。
鍋からカレーを取り出して、レンジの中に入れて温める。電子音がして、中身を取り出す。白米と混ぜて食べる。
机の上に他に用意されているのは、サラダだ。まだ瑞々しいサラダの葉と、四等分にされたゆで卵。ドレッシングは市販のものを和風青紫蘇と胡麻ダレ、洋風シーフードとヨーグルトドレッシングなど種類は豊富。
異能力によって、見かけがいくら成長しようと、それに順応できるとは限らない。
夏梅は、胃袋の大きさに慣れないせいで、少量しか食べられず、常に栄養失調気味だ。父はそのことを気にかけていて、野菜や果物のジュースや高カロリーのおやつなどを食事に用意してくれる。
少し食べるだけでも栄養が取れるようなものや、ちょっとした時間に補給できるものをこまめに買い置きしてくれている。いまや、すっかり主夫である。まあ、そればっかり食べていると、食事が食べられなくなってしまうので、やはりこれも調整しなくてはならないのだけれども。
――あ。
『カレーは一晩おくともっとおいしくなるの』
「おかあさんだった、なあ……」
そのとき、まだ一歳にしかならなかった夏梅は、母の作ったカレーの味を知らない。カレーと聞いて、その母の言葉しか、思い起こすことができない。
「どうしておいしくなるのか聞けばよかった……かな」
喋る舌はまだ育っていなかったけれど。
戸籍では十六歳になったからといって、身体が大きく成長したからといって……心まで成熟したわけではない。これは不自然な状態なのだ。草木のように一朝一夕で生長することはできない。
ひとりで食べる朝食は、父の優しい気遣いと、どうにもならない孤独が身に迫って感じられてちょっと泣きそうになった。
電話がもう一度なった。誰だろうと出ると、それは太宰だった。
「あれ、今度は早かったね、夏梅くん? ご飯はちゃんと食べて準備は出来ているかなー?」
「………」
調子のいい声に、つい黙ってしまう。電話に早く出てしまったのは、きっと寂しかったからだ。
こんな時に聞く、この太宰治という人間の言葉は、何だかほっとするのが、夏梅は不思議でならない。
「うーん? もしかしてどこか調子悪いのかな?」
「太宰さんは、ぼくのこときらいなんじゃないですか」
だから、つい言ってしまった。
口から飛び出してしまった言葉が、少したって怖くなって手が震えた。
切ろうと思った電話の向こうで、太宰の静かな声が響いてきて手を止めた。
「――嫌いじゃないよ。そうだねえ、あとで話をしよう」
その言葉を聞いて、ほんとうに不思議なことに、手の震えが止まった。
いつもとは違い、夏梅は誰もいない玄関をひとりで出ていく。
オートロックで、勝手に鍵がしまる音が背後ですると、肺に冷たい空気が入ったような心地がした。
学校の用意を持って制服を着たまま仕事へ向かうと、そこはにぎやかだった。
挨拶をして、夏梅はそそくさと鞄を邪魔にならないところに置いてきた。夏梅と同じ様な内容なら、ちょっとばかり部屋のなかがごちゃごちゃしそうだからだ。
試験の準備は大方出来ているらしかった。立てこもり犯が決まると、人質役は率先して手が挙がり、あっという間に少ない配役が決まった。夏梅は、大人しく社長にお茶を持って行く係りを引き受けた。社長はいないことになっているので、入社試験の状況を隣室で伺うのみだ。
猫舌気味の大叔父のとなりで、熱い緑茶を両手で持ちつつ、耳を傾ける。
果たして、中島敦は合格――。
「『家族も友だちもいない、孤児院さえも追い出され、行く場所も生きる希望もない』かあ……」
大変だなあ。
でも、この少年はとても、生きていると、そういう気がした。
白髪の頭を抱える、夏梅の外見年齢よりいくつか年上であるような少年を大叔父の傍らで眺めて、目を細めた。
大叔父の和装の袖を掴んだ。
「おとうさんは、いなくならないよね」
袖は揺れた。
答えはないまま、夏梅の手を、広くて大きくて乾いた手のひらが包んだ。
俯いた夏梅の視界の端に、白髪の少年がこちらを向くのが分かって、そちらへと目を上げた。
「きみは……?」
傾げられる首に、夏梅は大叔父の影から離れて一歩前に出た。
「中村夏梅……じゃなかった、織田夏梅です。これからよろしくおねがいします。おにいさん」
夏梅は背後の大叔父に見守られて、にっこりとほほえんだ。