夏の梅の子ども*   作:マイロ

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姿を現し、

 ここから出たいといつも思っていた。

 

 

 

 組んだ両手を口許に当て、入り組んだ構造の屋敷をざっと眺め、すぐに視線を下げる。

 元の構造が武家屋敷なので、床は顔が映りそうなくらいに艶々した板張りになっている。

 見覚えのある木目と板の継ぎ目とがそのまま、真新しいものになっていないことを確かめて、「こっちだよ」と行き先を示した。

 

「わあー! やっぱりナツメくんは道を覚えるのが上手なんですね!」

「此処は生家だから当然だろう――と本来ならば云うところだが、これだけ道筋があるとすべて把握しきれていなくともおかしくはないものだぞ」

 

 夏梅は左の指先を壁に沿わせ、数歩前の床を注意深くみながら、宮沢と国木田の会話を聞いていた。

 左手が壁を失って宙に浮くところで、曲がり角の壁に沿って手を這わせる。

 

「こっち、かな」

 

 この先が変わっていなければ。

 床の継ぎ目はそのままで、顔を上げると、目的地の前まで着いたことを確認する。

 男性用と女性用とに札掛けられ分かれている手洗い場は、広めに作られ、複数人が使用できるようになっている。その際目に飛び込んで来た、在る(、、)はずのものが無い(、、)その景色に夏梅がちょっとの間、動揺していると、その後ろから顔を出した宮沢が最初に手洗い場に着いたことに気付いた。

 

「あ! ありましたね!」

「ううううああ、すみません! 行ってきます!」

 

 掛かっている札を見るなり、中島が駆け込んでいく。

 腕に着替えを抱えた国木田が、やれやれと首を振る。

 

一寸(ちょっと)あの大広間から出ただけで四辻を二つ通り過ぎたぞ……。これでは本当にこの屋敷で迷って遭難ということもありそうだ。俺は既に大広間までの帰路に自信が持てん。――しかし、それでも住人は自身の住処を好く解っているものなのだな」

「うーん……」

 

 ぼんやりとした返事を不思議に思ったような顔が二つ向けられた。

 記憶を探りながら、夏梅は奥まで続いている通路の先を指さす。

 

「そう……でもないんです。たぶん、ここは前までは行き止まりだった気がするし……」

 

 しかし一番、改築のあとが分かりやすい床の継ぎ目は古いままだった。

 これが夏梅のこの方法での困りどころだった。夏梅が知る前から、ここはもともと廊下であり、後からその上に行き止まりの壁を作っていたということで、現在はそれを取り払った状態ということになる。……もしかしたら、ここが袋小路だったというのも夏梅の記憶違いなのかもしれないけれども。

 

 ここに居ると、記憶に自信が持てなくなってくる。

 正直にいうと、夏梅はこの屋敷で迷うことはしょっちゅうある。

 ――これまではそれでも、問題はなかった(、、、、、、)のだ。

 

「物覚えの善いお前もそんな風に感じることがあるのか」

「ここ。迷路みたいですもんね!」

「先ほども織田作も、知らない内に部屋が無くなっていて、階が増えていたとか云っていたしな」

 

「それで、なのかな」

 

 生家といっても、父と母が暮らしていたのは海を見渡せる岬の上の別荘で、今は身寄りのない子どもたちの施設としているところなので、この屋敷で過ごしたのは、父が夏梅を残して横浜へ行ってしまった後から、夏梅が横浜まで追いかけて行った間の、ほんの数か月だった。

 それなのに夏梅はいつもここから出たいと思っていた。

 

 

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 

 記憶が頼りになるのは、その記憶が確かであること、今もまだ面影が残っていることが前提になっていると云えるだろう。その点で、この建物と我が子の相性はそんなに良くないようだった。

 

「これは前回の墓参りの帰省の時に()ったことなんだが、夏梅は当時の記憶と少しでも違うところがあると、少なからず混乱しているらしい。あれでいてあいつは稀に、驚くほど方向音痴なんだが、そういうことが原因だと」

 

「へえ。初めて知りました」

 

「俺も迷ったと聞くこと自体が稀だったから、偶々だと思っていた」

 

 返しながら、義父がしばらく不在のため、広間の座布団の上で脚を崩す。

 向かいに座っている谷崎兄は天井を見上げながら思い返すように話す。

 

「乱歩さんの事件で急遽向かってもらった時も、しっかりと引率してて、とてもしっかりしている子だとナオミが話していたので……って、ン?」

 

 谷崎兄が長机に身を乗り出し、前のめりになる。

 耳の上の橙色の花が落ちそうになっている。駅で谷崎妹に別れ際に飾り付けられていたものだ。

 何となくそちらに目を向けていると、谷崎兄が焦燥した顔色で捲し立てた。

 

一寸(ちょっと)待ってください! じゃあ、夏梅君は、若しかしなくとも自分の家で迷っちゃうってことでは?」

「そうなるな」

 

 肯定すると、思わぬところから反応があった。

 

「や、それは拙いでしょ、織田作」

 

 太宰が思案の海から還って来たようだった。

 意外と早かったなとそちらを見る。

 

「お帰り」

「も、戻りました」

 

 じゃなくって、と太宰が大きく手を振る。

 その際、首から下げたシュノーケルに首を絞めつけられて咳き込んでいる。

 織田作もたまに、首に巻き付けた自分の鎖編みの髪に首を絞めてしまうことがある。

 太宰は、咽ながらも顔を上げた。

 

「それって大丈夫なのかい?」

「問題ないだろう。こういう時はいつも何処からか神西老医(せんせい)が見つけて回収を……」

 

 織田作がはたと気づいた顔をする。

 太宰が、念を押すように確認してくる。

 

「その先生、電車で話していた夏梅くんの主治医で、いま行方不明の人じゃなかったかい?」

「――困ったな」

 

 

 

 

 

 ❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 

 

「じゃあ、この先は、ナツメくんも知らないんですね」

「うん。いっつも新しく増えていたり減っていたりするから」

「成程な。ひ、広間までの帰り道は大丈夫なんだろうな?」

 

「帰り道はね」

 

 夏梅は不安げな国木田に自信満々にっこりと笑いかけた。

 国木田はひきつった顔になる。……失礼な。帰り道の案内はこうして保証しているのに。

 

「じゃ、僕も顔を洗ってしゃきっとしてきまーす!」

 

 列車の中でトランプをしてはしゃぎ疲れたあと、すっかり眠ってしまっていた宮沢は顔を洗いに手洗い場に入り、続いていそいそと着替えを持った国木田もそれに続いた。

 

 

 ひとり外に残った夏梅は、壁に凭れ掛かって三人を待つことにした。

 外とつながる通路から奥に伸びる廊下はそのまた先の外とつながっている。

 風通しが良いそこは、昔は漆喰の壁があったはずだが、障子紙の代わりに硝子がはめ込まれた格子戸になっており、中に茶器や掛け軸が掛かっているのが見えた。

 

 記憶の中の景色とは全く違う。

 

 

 まるで息をしているような屋敷だ――と夏梅は思う。記憶していた部分と目の前の現実とは少しずつずれ、或いは大きく歪曲し、何もなかった場所に部屋ができ、行き止まりの壁が無くなってその先が続いている。かと思えば、続いていたはずの先がなく、開かない扉が前を塞ぐ。記憶との差異が小さくとも、眩暈がするほど混乱する。――夏梅は、この屋敷が苦手だ。

 

 

 壁に凭れ掛かり、ぼんやりと格子にはめられた硝子窓に映る自分の姿を眺めていると、手洗い場から出てくる人の物音が聞こえた。

 中島が手を拭きながら出てくる。

 

「ううう。助かった……本当に助かったよ、夏梅君」

「ううん、間に合って良かった。僕もちょっと道に自信なかったから」

 

 部屋と通路は増えたり減ったり増えたり増えたりするものの、水場の位置はあまり変動はない。そのため、ここはあるかもという手洗い場に何とか辿りついたときは心底ほっとした。

 

「そうなの? 余裕なかったからか気づかなかった。でも改めて思うけど、ここって凄く広い……というか狭いというか。あれ……何言っているんだろ、僕。全然反対になっちゃってるね!?」

 

 広さと狭さを同時に感じたという中島の気持ちが夏梅には何となく理解できた。

 

 敷地は広く、その中を、無数の通路と部屋が縦横無尽に、まるで無作為に作られている。

 祖父が命じて敷設しているのだから計画的でなにかしら意味があるはずなのに、意味のない飾りの扉すらあってよく判らない。広い空間を、過剰な扉と部屋と通路とで敷き詰めている。だから狭く感じる。

 

「ごちゃごちゃしてるってことじゃない?」

「う、うん。そう……。夏梅君のお家なのに失礼なこと云っちゃってる」

「ううん。僕もそう思うし。頭の中なんてしっちゃかめっちゃかだよ」

「夏梅君でもそう思うんだ」

 

 意外そうな顔をされるが、買いかぶられたときの方が気まずいので強めに肯定する。

 

「うん。ここ、ひどいときは、朝は部屋があったところが、夕方にはなくなっちゃってて通路になってたりするんだよ」

「うわっ それはさすがに夏梅君が迷うわけだ」

 

 困ったね、と首を横に倒す中島に習って、夏梅も首を倒して「ねー」と同意する。

 

「ところで、なんでそんなに改築してるの?」

「わかんない。お爺さんに聞いてもよくわかんない事返してくるんだもん。だから、乱歩さんに来てもらって教えてもらえたらなって僕は思ってたんだけど……」

 

 困った困ったと、夏梅は反対側に首を傾げた。

 

「へえ、そうだったんだ……それで」

 

 中島が言いかけたとき、手洗い場の中から「……わあ!」と何かに驚いたような宮沢の声が聞こえた。続けてガタガタと慌てた足音が。何やら話し声がするが、内容までははっきりとは聞こえない。

 どうしたのだろうと中島と顔を見合わせていると、中から二人が話しながら出て来た。

 

「確かに見たんですけど……おかしいなあ」

「外の奴らにも聞いてみればいいだろう」

 

「何を?」「何をですか?」

 

 夏梅と中島が目を瞬かせていると、中から出てきた二人が顔を向けて来た。

 国木田は南国の襟衣(アロハシャツ)から、もう少し落ち着いた水色の襟衣に着かえ、赤い花柄の襟衣は腕に掛けていた。

 

「賢治が女の子を中で見たというんだが、ここは男子トイレだろう。見間違いじゃなければ、間違って近所の子が入って来てしまったとか、お手伝いの方が掃除に来られたのかと思ったんだが」

 

 着替えをしていたので国木田は宮沢が見かけたというその場所から目を放していたのだそう。

 出入口の前にずっといた夏梅は目を丸くした。

 

「だれも入ってもないし、出てもいないよ?」

 

「僕が中にいた時も、僕と国木田さんと賢治君の三人だけでしたよ」

 

 宮沢は不思議そうな顔をしたが、肩を竦めた。

 

「じゃあ、僕の気のせいだったのかもしれません。顔を洗っているときでしたし、ちょっとよく見えてなかったかも。でも確かに鏡に映っているのが見えたと思ったんですけど」

 

 ま、気のせいと分かったのならそれでいいんです、と宮沢は口を開けて笑った。

 その声がやけに廊下に響いて聞こえた。

 

 

 

 

 ――もちろん、道には迷わなかった。

 こういうのは得意なのである。

 

 

「ただいま」

「戻りましたよー!」

 

 自信満々に夏梅は大広間に顔を出す。続いて、宮沢が顔を出し、不思議そうな顔をする。そのまま、足を休めていたはずなのに何故か前よりも疲れたような顔色の谷崎兄の方へと駆け寄り、大丈夫かと声をかけていた。

 大広間の面々は夏梅達の姿を確認した途端にほっとした顔になったように見えた。なぜだろう?

 

「……ああ。戻ったか」

「お、お帰りなさい!」

「やア、君たち無事で佳かったよ」

 

 父はともかく、谷崎兄と太宰は、まるで夏梅達が遭難したかのような歓迎ぶりで、夏梅はちょっと不服だった。

 太宰はすぐに夏梅の後ろ姿を現した国木田へと目を向ける。

 

「おや、国木田君ってば、お着替えしてきたんだね。ここで着替えれば佳かったのに。此処に居る私たちみーんな男同士だよ?」

「戯け。家主の方が来られた時に着替え中では失礼だろうが」

 

 一息ついて余裕ができたらしい中島が、大広間を見回しながら空いている座布団に座る。

 夏梅は何となくその隣に座った。

 

「こんな広い部屋があるなんて、やっぱり改めてみると、このお屋敷ってすごく広いんだね」

「ここにくるとそう思うよね。さっきは通路ばっかりで狭く感じちゃうけど」

「そうだね。でもそもそもの敷地がとても広いんだって今気づいた」

 

 こそこそと中島と話していると、父が口を開く。

 

「さらに建て増しをしているから余計に、だな」

 

 父が長机に片肘をついて頭を支えながら、夏梅のほうへ視線を向けてくる。

 なんだなんだと夏梅も見返す。

 すると太宰が横から顔を出し、不思議な笑みを浮かべて、どこか断定的にいう。

 

「この部屋は昔からあるみたいだけれどね」

「そうなのか?」

 

 国木田が机を挟んで向かいに回って座りつつ、父に尋ねた。

 宮沢は欠伸をして長机に体を伏せている。洗顔くらいではしゃっきりとはいかなかったらしい。

 

「庭に面した部屋はあまり手を入れてはいないとは聞いた。二階、三階に至っては全くの増築らしいが。この部屋がどのくらい古い年代の造りかは知らないな」

 

「ふん……お前なら見当ぐらいついているんじゃないのか、太宰」

 

 鼻を鳴らした国木田が太宰を見遣る。

 そのやり取りを隣の中島に習って、余計なことを喋らぬよう口を押えながら見守る。

 太宰はにこにこと笑ったままだ。

 

「おや、買ってくれるね、国木田君。乱歩さんがいないので、僭越ながら私が代わりに推測を披露することは吝かでもないね」

「勿体ぶるな」

 

 太宰は肩を竦め、その推測を言葉に出していく。

 言葉というのは不思議なもので、その人が何を見て、何を感じ取って、どう考えたのかを教えてくれる。その人の見えない頭の中のことを伝えてくれる。

 

「この梁も柱も、構造的には不可欠なものだし。きっと最も古い部屋の一つじゃないかな。――畳は新しく替えるものだけれども、天井を見れば十中八九そうだろう」

 

 神西とは逆のことを言うんだな、と夏梅は思った。

 神西は下をみて、床の年代を見ればと判ると。太宰は上をみて、天井の梁を見ればと。……通路と部屋の違いだろうか。悩んでいると、斜め向かいに座る谷崎兄が髪に飾っているハイビスカスの花に触りながら浮かない顔をしているのを見つける。

 

「どうかしたの、潤お兄さん」

「え? あ……ああ。さっき夏梅君のお爺さんに云われて、ちょっとナオミのことを考えてたんだ。ナオミは如何してるかなって思って」

 

 いつも仲のいい妹と離れるのが寂しいのと心配なのだろう。

 夏梅は元気づけるつもりで話した。

 

「与謝野先生と鏡花お姉さんとスイートルームで女子会するって言ってたよ」

「そっか……。で、でも高級リゾートホテルだったよね。お金がすごく掛かるンじゃないかなって」

 

 お金の心配をしてくれていたようだ。

 とても親切で優しい人だと思った。 

 夏梅が何かを云う前に、応える声があった。

 

「気にすることはない。儂の腐れ縁が営んどるホテルだ。奴の面倒を片付けてやるかわりに、こうして客人が来た時には持て成してもらうことになっている」

 

 谷崎兄が大きく肩を揺らして後ろを振り返る。

 

「は、はいいい。ナオミがお世話になります……」

 

 薄い背中を小さくして頭を下げていた。

 祖父はいつの間にかそばに居たりするのでびっくりしてびくびくする気持ちはよく分かった。

 

「部屋の用意ができた。疲れているだろうから14時に昼食を用意する。湯も沸いている。それまで好きに寛いでくれ」

「何から何まで有難うございます」

「否、支度が整わず済まないな。各々の部屋へ案内しても宜しいか」

 

 背を向けて案内しようとした正直が、ふと振り向いた。

 ひとりひとりの顔をじっと見ていき、やや顔をしかめた。

 

「………誰か、見つかった(、、、、、)か?」


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