始めに車から降りた中島が、持っていた浮き輪を落とし、呆然と仰ぎ見た、「……なんですか、これ」
浜の
「…わあー……」
蒼穹のもと、輝く金髪を揃いの麦わら帽子に隠した宮沢が珍しくも声を途切れさせた。
他の面々も似たようなものだった。
瀬戸の潮風が届く丘の中腹。白い漆喰の壁に縁どられ、手入れされた黒い石畳に舗装された上り坂の路の先へ迎えの車から降りると、木製の荘厳な長屋門が出迎える――そこから下り坂を振り返ると、中村邸は、下に広がる港町と瀬戸の青い海とを一望できた。
この屋敷の異様なところは、門から向こう側。
古くから続くこの土地の名士の家は、元は伝統的な武家屋敷であったという。しかし先先代の方針で、年々増築を繰り返してきたため、和と洋とが折衷し、上にも横にも広がり続け、外から見ても凸凹と張り出し、歪に入り組んだ異界のような様相に、初めて訪れた者は大抵が言葉を失う。
「まるで子供が玩具を出鱈目に積み上げたような構造だな……」
国木田の言葉に、確かにそう見えるなと共感した。
すぐ後ろから降りた太宰が、別の箇所に目を付けた。
「ねえ、織田作。このお屋敷はまだ施工の途中なのかな。あの端の部分は未完成のようだけれど」
「そんな時に俺たちがお邪魔してもいいのか」
もの言いたげな太宰と気負った風の国木田の視線を受ける。
それに対し、問題ないと首を振る。
「何時もどこかしら工事中だ。そちらは増築箇所だな。修繕箇所もある」
「歴史のありそうな建物だが、そのせいか……? にしても修復というよりは新しい部分がやたら多い気がするが」
そうだな、と織田作は頷いた。
観音開きに門が自動で開かれる。木でできた扉が音を立てて開かれると、その先にも木の格子戸があった。その間から門の造りが見えた。開かれた屋根付きの門は、それ自体が小さな家のように、平らな石が敷かれ、屋根があった。事実その門は、人の住める建物になっていて、これは昔の武家屋敷の名残なのだという。平らな石の先には、少し苔むした玄関までの飛び石があった。
格子の扉が開いて、そこでやっと佇んでいた着物姿の壮年の男に気付く。
壮年の男は、ぞろぞろと門の前に立っている面々を見渡し、ふと自分と国木田の間にいる夏梅に目を止めた。しばらく目を細めた。そして他の面々に視線を戻し、中島の所でまた目を止め、静かに目礼した。
中島は突然の銃撃に驚いたように慌てふためき、腰を九十度に曲げて礼を返していた。
壮年の男は、礼を返し、向き直った。
「――よくお越しくださった」
気配をほとんど感じ取れない。気配を殺すだけならば自分にも可能だが――この人のそれは違った。ただ、気配を消すのではない、何か。
何の武術を極めればこの域に辿りつけるのか、自分には見当もつかない。
「遠方から遥々疲れもたまっている処だろう。こちらから招いたにもかかわらず、駅まで迎えにも行かず、随分と礼を失した。申し訳ない」
「いいえ。とんでもありません。車で迎えに来てくださって助かりました」
義父が微かに笑った気がした。
「此処にはバス等は通っていないからな。この一帯の住民は皆各自、移動手段を持っている。私は、そこの婿殿の義父、夏梅の祖父で、名を中村正直と云う」
「私は探偵社の国木田独歩と申します。お招きいただき感謝いたします」
義父は苦笑して首を振った。
「これは我々が探偵社への慰労として招待したもの。こちらの都合で、急遽、女人方には別處に行ってもらったが、悪意あってのことではないと理解してほしい。中には妹御もおられたと聞く。招いておいて何だが、何卒、堪忍してもらいたい」
義父が、頭を下げる。妹というと、谷崎妹のことだ。
他に、与謝野、鏡花らの女性陣が別に用意された滞在先へと別れている。
慌てたのは谷崎兄だった。
「え?! い、いいえええ! そンな! 滅相もないです! ナオミも女子会ができると喜ンでいましたしっ それに……ボクはナオミが喜ンでいるならそれで善いので……」
「それは重畳。――ナオミ殿は良い兄上をお持ちのようだ」
他の面々は何故か、目を反らしだす。
自分は夏梅とふたり目を瞬かせた。
義父は、妙な空気に不安を持たれたと考えたのか、口を開いた。
「――安心召されよ。滞在の居は異なれど、どちらも中村家が手厚くもてなすことを約束する」
与謝野と鏡花と谷崎妹は義父の知人が提供する高級旅館の特室で宿泊することになっている。
距離がある其処は、屋敷の前から見渡せる港町の海岸沿いの端にあり、駅で中村邸行と旅館行それぞれの迎えの車に乗って別れたところだった。合流は、慰安旅行終了の五日後を予定している。この間の滞在費はすべて義父持ちだという。……それだけ、義父にとっても、今回の個展絡みの一件は恩に感じているということだろう。
「では此方へ。儂が案内をしよう」
義父は背を向けて歩き出した。
国木田からちらりと視線を向けられた。
「――それと、婿殿と夏梅もよく戻って来た」
その視線のやり取りすら、背中に目がついて見えているのかと思えるタイミングだった。
「――はい」
「またお邪魔します、
夏梅が宮沢と麦わら帽子を交互に取り合いながらちらという。
背を向いて進む義父の白頭が頷いたように揺れた。
その背が、どこか安堵しているように見えた。
きちんと手入れの行き届いた庭園に面する通路に沿って進んでいく。外に面した通路は広めに作られている。
先導する義父と少し下がって国木田が会話をしている後ろで、自分と太宰が、その後ろで谷崎兄と宮沢が並び、さらにその後ろに夏梅と中島が話しをしていた。
「谷崎さん、この黒いものって『電話』ですよね?」
機械に疎いらしい宮沢が谷崎兄に小声で話しかけているのが後ろから聞こえた。
電話もない東北の村からやって来たというが、本当だったのかと不思議な心地になって振り返る。
「そうだね。これは旧式の黒電話じゃないかなア」
「旧式があるんですか! でも電話って、こんなにたくさん置いておくものなんですか?」
「実を云うと、ボクも気になってンだ。さっきから数えてたンだけど、今までこの通路に八個も置いて在ったンだ。何か意味があるのかな」
宮沢が指さしているのは、小さな台に置かれた黒電話だ。
通って来た通路には既にいくつか通り過ぎたものもある。
「それは連絡用だと聞いている。部屋があまりに多いから、道に迷った時には、そこがどこかを電話で確認するのだと」
隣で上半身を後ろに反らした太宰が、興味深そうに顎に指を遣った。
その状態で歩いている。器用なものだ。
「ふむ。……差し詰め、その黒電話の受話器に刻まれている番号を回すか、つながった先に伝えればいいのかな?」
「転ぶぞ、太宰。――俺はその黒電話は使ったことがないからわからない」
「そうなのかい?」
束の間、明るい笑い声が響く。
谷崎兄が袖の余った手を口元に持っていき、笑いを抑えて言う。
「そりゃア、太宰さん。織田作さんはここに住んでいたンですから、迷った時用の電話なんて使いませンよ」
ね、と話を振られた。
宮沢からの視線も受け、思い返して頷いた。
「そうだな」
自分が路に迷ったことはなかった。
ふうん、と隣で相槌を打つ太宰は、じっと通路に置かれている次の黒電話を眺めていた。
時折、使用人とすれ違ったが、皆部屋を設える用意をしているようだった。招かれた人数と来訪者の人数が異なっているため、部屋割りを変更しているようだった。
義父に着き従っていると、やがて日当たりの良い広間の一室に通される。大人が二十人雑魚寝をしてもまだ広いだろう、大広間だった。造りは和室で、掛け軸と活けられた花、鳥獣戯画の描かれた襖、天井には梁には見事な彫刻の施された飾りが渡され、下は濃緑の縁に仕切られた畳間だった。庭に面しては、滲み一つない白い障子がすべて引かれた開放的な状態だった。
部屋の中央には、長い机が置かれ、それは屋久杉を用いたものと見えた。
「部屋は持て余すほどあるが、来客として都合の良い部屋は限られていてな。この広間で、用意が済むまで待っていてほしい」
「申し訳ありません。江戸川の方は、他の事件に駆り出されていて」
「なに、恩義があるのはこちらなのでな。諭吉も一人では探偵社を回して行けん。そういうものとして探偵社を創ったと承知している」
ぱん、と一つ手を打つ音が響く。
乾いた音が、畳や襖に吸い込まれていく。
「畏まったことはなしとしよう。客人には此度の疲れをゆっくりと過ごして労わってもらいたい。……夏梅は後で儂の部屋に来なさい」
「はーい」
夏梅が、すっかり日に焼けた手を挙げて屈託なく返事をする。
麦わら帽子をとった夏梅の、自身と同じ、赤みを帯びた髪が揺れる。
義父が頷いた。諸々の用意のため退出の去り際に、足を止めて振り返る。
「それと、この部屋を
「気をつけます」
国木田が首肯すると、義父も頷く。
「ではゆるりと過ごされよ」
義父が障子の開け放たれた通路を出て、曲がり角を曲がり、姿が見えなくなると、どっと国木田が長机に倒れ込んだ。
「お疲れ様です、国木田さん。疲れたでしょう?」
「つ、疲れた……い、いや、お前のお爺さまにこんなこと云うのはあれだが、威厳があるというか、ここ最近でもいっとう気を張ったぞ……くそっこんなふざけた服装で来たことが悔やまれてならん」
「なんか締まり切りませンでしたもンね」
乾いた笑いで、谷崎兄が傍らに屈む。
宮沢は自分の持っている麦わら帽子で風を送ってやっていた。
蟻が餌に集るように、わらわらと倒れた国木田に他の面々が近寄る。
中心になる人物というのは、こういったところでも判るなと思った。
「私は国木田君らしいと思ったよ?」
「お前も、私と似たようなものだろうが!」
「それは心外だ、国木田君。私はこうして黒で地味めに纏めたのだよ? 国木田君のその真っ赤な花柄の
太宰は、黒い襟衣を着ている。玄関先で脱いだが、足元は靴はサンダルだった。今もシュノーケルを首から引っ提げている。
こうして論えば、太宰の服装は、国木田のそれとは全く違う。派手さ、地味さという受ける印象はさておき、両者に共通している点といえば、これから海水浴に行く心算なのだろうとどちらも一目でわかることだろう。
「ナツメくんのお爺さん、武士みたいな方ですね」
「ねー。でもこの家、昔はそうだったらしいよ。そのせいか、お爺さん、昔の刀とか集めてもいるし」
「刀!?」
食いついたのは国木田だった。
それほどでなくとも宮沢と谷崎兄と中島も興味を引かれたようだった。
「うん、刀
「いや、それは、さすがに……厚かましくないだろうか?」
視線をうろうろとさまよわせる国木田の横で、麦わら帽子を扇いでいた宮沢が手を挙げた。
「ぼくは見に行きたいです!」
「じゃあ行きましょう」
「若い子たちって、ホント決断早いですねエ……」
「谷崎、お前とてまだ若いぞ……年少組が増えたせいか、急に年を感じ過ぎてないか?」
谷崎兄と国木田がぼそぼそ話す傍ら、中島は何故かずっと佇んだまま俯いていた。
気にかかり、声を掛けようとしたが、太宰が夏梅に話しかけるのに意識が反れた。
「夏梅くんのお爺さんって、剣道してるのかい?」
「剣道もしてます」
「剣道も、ねえ」
太宰の言葉を受けて、長机に臥せっていた国木田が体を起こした。
ため息を吐きながら、眼鏡の蔓を指で押し上げた。
「おそらく無手の武道もしているのだろうな。しかしあのすり足に似た足運び、何処かで見覚えがある気がするんだが」
「国木田君の記憶に当てはまるものがない、と?」
「国木田さんが知ってるってことは、諭吉叔父さんもやってたことがある武術かも。諭吉叔父さんも正直のお爺さんと同じところで武術やってたことあるって言ってたからそれじゃないかな。でも、正直のお爺さんは他にもたくさんやってたから、もしかしたらどれとかじゃないのかも」
「つまり、数多の武術を自ら組み直したという可能性があるということかな?」
「成程な。既視感があるのに、どれとも判別できないのはそのためかも知れん」
三人で義父の足運びから武術の流派についての分析に熱が入るのを見守る。
門外漢のため、自然と話から遠ざかる。
「なんだかとってもすごそうなお話しですね!」
「ボクらにはなかなか縁のない話かなア」
宮沢と谷崎兄が耳打ちしあっているときだった。
ところで、と太宰が話題を変える。
「夏梅くんのお爺さんって、何してる人だっけ?」
「わかんない」
対する夏梅の返答は実に
国木田が眉根を寄せる。
「実の祖父の仕事が分からないとかあるのか?」
「じゃ。ぼく、三歳だからわからない」
屁理屈をこねたような物言いだが、途端、辺りに沈黙が降りた。
急に皆が、口を引き結び、その沈黙を守りだす。
まるで猫が今まで食してきた魚の身の上を考えているような顔だった。
沈黙を破ったのは、おそらく契機となっただろう当の夏梅だった。
「もしかしたら忍者でもしてたのかも」
「忍者!」
おそらく当てずっぽうな、口から出た言葉なのだろうが。
目を輝かせる者、訝しげな顔をする者、驚きに目を見張る者、様々だが、突拍子もない言葉に、思わず目を向けた。が、当の我が子から視線を向けられ、同様に他の面々からの視線も受けることになった。
「お父さんが、お爺さんが後ろから来られたら判らなかったって言ってたぐらいだし?」
「そうなのかい?」
太宰の言葉に、事実であるので頷いた。しかし、頷いた後に、ここで肯定した行動は、義父が忍者であると肯定したようにもとられかねないのではないかと思い至り、しばし悩んだ。
そのため、長い机の上で両手を組んだ国木田が、深刻そうな顔で呟いた言葉は耳に入らなかった。
「織田作が気づかないとは、それはかなり凄いことじゃないか……?」
ところですみません、と中島が恐る恐る手を挙げた。
皆の視線が集まる。悩んでいた織田作の思考も浮上した。
――そして差し迫った現実の問題へ焦点を合わせる。
「その、あのう……お手洗い行きたいんですけど、部屋から出るとまずい、でしょうか?」
「いや、すまない。案内してやってくれ、夏梅」
先ほどから、様子が少し気がかりだったのを思い出した。
しかし、織田作は
慌てた夏梅が、拳を口許に当てて眉間にしわを寄せる。
「うーんと……そこぐらいならたぶん、行けるかな」
よしと夏梅が立ち上がると、他の面々もぞろぞろ立ち上がって一緒に手洗い場に向かうようだった。
残ったのは、足が疲れたという谷崎兄と部屋の調度品に興味があるらしい太宰と自分の三人のみ。
「確かこっちだよ」
大広間を出た夏梅が、後ろについてくる面々を振り返って言うのが障子の端で見えた。
部屋の隅々を観察するように目を巡らせていた太宰がふいに振り返って夏梅たちを見遣る。
「どうかしたのか、太宰」
「いや――記憶力のいい夏梅くんがあいまいなこと云うなんて珍しいなと思ってね」
「そう云えば、たしかに、そうですねエ」
谷崎兄の同意も耳に入っているのかそうでないのか、太宰は思考の海に沈んでいった。