タクシーから降りた後の廃墟探索。
陰に日向に
表面の壁紙も、継がれた木の柱も燃えてしまったのか、白石が建物の骨のように残っていた。割れてしまったステンドグラスの破片が散り、不思議な色付きの影が落ちる石畳の間には、緑色の自然な縁取りがあり、所々日向に贈り物のような、小さな黄色い花が咲いていた。人がいなくなった場所だからか、野花が咲いていても踏みつぶされないのだろう。
とても静かな場所だった。
辺りを
「――夏梅、一人で先に行くな」
「だーいじょうぶ、だいじょうぶ」
其処彼処の暗がりにさえ静かに白い野花が咲いている。火事があったというのはきっと随分と前の事なのだろう。そこは、誰も隠れることができいだろう、ひろい間取りだった。
真ん中辺りにはぽつんと白い椅子が一脚だけあった。
その背もたれに白い紙切れが貼られてあるのを目に留め、夏梅は駆けだした。同時に、後ろで地面がざり、と音を立てるのが聞こえた。
「おそらく心配はいらないよ、織田作」
軽く地面を蹴りかけた父の行動を、太宰が言葉で引き留める。
そして父は太宰の顔を仰ぎ見でもしたのだろう。
二人は立ち止まり、声だけが夏梅の背を遅れて追ってきた。
「こんなにひらけた場所に何かを仕掛けるのは至難の業だ」
「そうは云うが、太宰。あの子は何の変哲もない床でも躓いて転ぶような子どもなんだ」
太宰の少し考えるような間があって、慎重な口調で父に対する応えがあった。
「……それはきっと、夏梅くんがあの姿になる前じゃないのかい? 云ってはおくけれどね、織田作。幼児期の子どもなんて、立っては転ぶのが自然なものだよ」
「そうなのか……」
後ろでごちゃごちゃと話す大人二人を放っておいて、夏梅は白い椅子に近づいて行く。貼られたそれは、夏梅のメモ紙ではなかった。手に取ってみると、そこにはパソコンから打ち込まれた数字と文字で、計算がかかれてあった。一桁の計算だ。
「こんなのかんた……あえ?」
一見して平易な足し算だと思われた。
しかし、よく見ると、それが大変におかしなものだと気づいて、言葉が途切れた。
自然に顔が険しくなる。
「え、なにこれ……」
「――如何したんだい?」
太宰が肩口から覗き込んで来た。それなりに背の高い太宰が屈むと、なんだか落ち着かなくなる。それを抑え込んで、持っている紙を見せた。
「これ、椅子に変なのが書いてあって」
「変なの……ああ、なるほどね」
納得したような声の太宰に、夏梅は怪訝な顔をする。
「どうした? 二人して何をそんなに覗き込んでいるんだ?」
遅れてのんびり掛かる父の声に、夏梅と太宰が揃って振り返る。
口を閉じ、眉をあげ、目を僅かばかり瞠った顔としかいいようがないけれど、夏梅に言わせれば、ちょっときょとんとした雰囲気を纏わせていると見えた。
「おとーさん、見てよ、これ」
「織田作、なかなかに興味深い問題だよ、これ」
目にいつもの陽気な笑みを浮かべた太宰が、指さす紙面には次のように書かれてある。
『1たす4たす5は1、3たす7たす9たす0は2、8たす6は3。では、3たす4たす5たす6たす7たす8は?』
おかしい。何がおかしいって、最初から最後まで全部おかしい。
夏梅だってわかることだ。でも、この訊き方、なんだが馴染みがあるような。
でもまさか。そんなそんな、まさか……いやいや、ない。……ないな。
「問題? 如何いうことだ?」
「つまり、これを解けば、絵の在り処が分かる、ということなのかもしれないね」
「……犯人はどういう心算でこんなことを始めたんだ? これまでのことを考えても、予めこちらに絵を返す気があったとしか思えないんだが」
「――え? そうだった?」
父の疑問に、夏梅は首を傾げた。顔を見合わせていると、太宰が見比べるように視線を寄越してきて、ひとつ瞼を閉じた。そして、太宰はやや声の調子を落とし、一石を投じる。
「………
「それで、今はこの問題を解けばいいんだな?」
とりあえず納得した父が、両手を外套に突っ込む。そして、腰をかがめて夏梅が手に持つ紙面を覗き込んだ。少し離れたところからでは流石に見えなかっただろう。さらっと視線で改めて紙面の上の情報を浚っていくのが分かる。
「ね、面白いだろう?」
太宰はさっきからずっと愉快そうな顔だ。なんだか一人だけで分かったような顔をするので夏梅は怪訝に思ったけれども、次の父の言葉に顔をそちらへ向けた。
「なんだ、計算か」
「計算だけど、おかしいよこれ」
首をかしげる父に紙片を視えるように体を傾けて夏梅は言い募る。
「ここにある計算ぜんぜん後ろの答えの数字にならないよ? おかしくない?」
「そうだな」
一瞥して軽く瞬いた父は特に訝しんだ様子なく頷いたが、太宰がちっちっちと立てた指を横に振り、違う意見を述べた。
「いや、それがこの式のルールなのだよ」
「るーるぅ?」
わからん。夏梅は父の方をちらっと見る。
ちょっと期待を込めた視線で、けれど半ばあきらめていもいた。
「………おとうさん、解る?」
「解らん。こういうことはお前か太宰に任せる」
父は、夏梅の問いかけにのみ、あっさり答えた。もう少しくらい粘ってくれてもよくないだろうか。仕方ない。整理も何もないけれど、こういうことは箇条書きで一つ一つ分離して考えるものだと夏梅は教わった。
・1たす4たす5 …………答えは1
・3たす7たす9たす0 ……答えは2
・8たす6 …………………答えは3
例題が三つある。太宰の言葉を借りれば、これがきっと次の問題の答えに関係するルールに則った見本なのだろう。全部、納得がいかない。
夏梅の気持ちは抜きにするとして、答えなくてはならない問いは次のようなもの。
・3たす4たす5たす6たす7たす8 ……答えは?
もし、これを書いた人が夏梅の目の前にいるとしたら、優しく算数の計算の仕方を教えてあげる所存だ。先ず問題文から違いますよと。おふざけはここまでにしよう……。夏梅は反省し、もう一度きちんと問題に向かい合った。
「うーん」
紙面とにらめっこする夏梅の後ろで大人たちは呑気におしゃべりをしている。
「織田作はこの問題、本当に私たちにパスするのかい?」
「ああ、できれば頼む。こういう、頭を柔らかくして解く問題は不得手だからな。単純すぎても複雑すぎても俺には解らん。きっと、発想力がないんだろう」
「
そうか、すまないという父の気持ちのこもっていないように聞こえる言葉を耳の外へ流しながら、夏梅は顎に指を掛ける。
この問題で、夏梅が一番はじめに気になったのは、計算があっている合っていない以前に、なぜ1+4+5と表されていないのだろうかということだった。ただ算数の計算の問題なら、
「ややや……考える、かんがえる」
神西がここにいたら、ちゃんと自分で考えないとまた『怠惰』ですよと云われてしまう。それはむっとする。しかし……夏梅のちっぽけな頭脳に入っている知識など高が知れているわけであるし。数式として表記されていないのは、文字通りの計算ではないからとか? でも、それなら数字は何を意味しているのだろう。
うんうん悩みつつ、夏梅はまず答えを見ることにした。すると、求められている問題より前の答えは1,2,3と順番に来ていることに気付く。……まどろっこしいこと全てに目を瞑り、安易な考えで答えだけに注目すると、次に来る答えが『4』であったなら。
(1,2,3,4になるなあ……けど、どうだろ)
夏梅はため息を吐いた。
「――ん?」
父と太宰たちが夏梅を振り返った。
大人たちの無責任な視線に、何でもないと首を振る。再びため息がもれる。夏梅だって判っている。こんな考えで正解に辿りつくはずがない。でも思い浮かぶこともないし。それにいい感じに答えの数字が順番に並んでいるし……。
とはいえ、だ。もし仮に万が一、その答えが合っていたとしても、問題を解いた気がしない。もちろんそれは、原因とか理由とかを考えないまま、結果だけをみて推測したのでそれは当たり前なのだけれども。そんなすっきりしない気持ちでいるので、夏梅はその答えがあっていると期待もしていない。寧ろあっていないことを期待する。どうしてかといえば、やっぱり夏梅の考えたような答えの順番だけを考えて前の部分が何も関係ない問題なんて、全然たのしくないし、すっきりしないのだ。
でも、絵画は、この答えがないと在り処が分からないらしいのだ。だから絶対に判らないといけない。答えが合っているかどうかだけを考えるのなら、夏梅は、それくらいしか思い浮かばなかった。だって、1,2,3まで来ているのだ。次は4が来ると思うのは普通じゃないだろうか。普通じゃなくても、夏梅はそう期待する。これで5とか来るだろうか?
(……そういえば1以外で2,3,5っていう順番は教科書にあったような。ええっと……たしか『素数』で、でも4は『素数』じゃなくて、3の次に来るのは5だった。もし1と素数の小さい順なら、1,2,3,5っていう並び方でもそんなにおかしくない? あれ? でもこれってそんな話だっけ?)
思考が迷走しだして夏梅は現実でもうなりを口から漏らしていた。
「えー……でも…うう……」
わからん。そうだ、放り投げよう。
夏梅が紙片から顔をあげた時、何も考えていなさそうな父の顔が目に入る。
だめだった。父に任されていたのだ。悩み過ぎて忘れてしまっていた。もう一人担当の太宰の方は……考えてなさそうだし。
むむむと口を引き結んだ夏梅の横で、太宰がにーっこりと満面の笑みを向けて来た。
「私、解ったよ?」
「えええーうそだー」
声が大きかったのだろう、屈んでいた上半身を起こした太宰が眉を上げてみせる。
「心外だね。嘘などつかないさ。本当の、本当だとも」
胡乱な眼で、夏梅は問いかけた。
「じゃあ、答えは?」
「その前に、夏梅くんはどんな風に考えたかを聞きたいな」
うーと呻りながら、夏梅は安直に考えたことをそのまま、「次の答えは、4……かなって」とだいぶ渋って答えた。合っているはずがないということくらい、夏梅にだってわかる。
しかし、夏梅の予想は裏切られる。
太宰はにっこりと笑顔で、縦に首肯した。
「同感だ。私の答えも『4』だよ」
まさかの答えが一致。
どうしよう。
「ええええーうっそ……? うえ、でも、もしかして、ホントに?」
自分の考えは間違っているだろうが、太宰がいうのならその答えだけは正解なのかもしれない……。でも、どうして『4』が答えになるのか。自分で答えておいてなんだけれど、太宰の答えとはつまりこれ偶然の一致なわけで……。
夏梅がうんうん、唸って頭を捻っていると、父が感心したように云う。
「すごいな、夏梅。太宰と渡り合うなんて」
「いやたぶん、わたりあってないよ……」
俺には解らなかったと顎に手を遣ってしみじみ感心する父だが、夏梅の控えめた否定の言葉にきょとんとした表情を見せる。こういうとき、夏梅と同い年くらいの子どもを相手にしているような気持ちになるのが不思議だった。
父は、そうなのか、と首をかしげながら、けれども重要なことを口にした。
「それで、その答えが出たところで、何が分かるんだ? 答えが『4』だけじゃ、絵の手掛かりにはなりそうにないが」
「たしかに」
何が『4』なのか。
「それはこれからだよ。とりあえず、この部屋で、『4』に関係するものをみていこう」
「よんに関係するものって?」
「そうだね、例えば、この椅子は四足だね。この紙自体も四つ角だ」
なるほど、と父とともに頷くと、夏梅は一緒になって辺りを見回した。
まず何かに気付いたのは父だった。
「――そういえばここの窓は、四角ではなく、上がアーチ形だな」
「ほんとだ……」
「早速、織田作が選択肢を消してくれたね」
太宰が人差し指を立てて、片目をつむって来た、「あとどれくらい『4』に関係するものがあるかな?」
慌てて夏梅は紙を父に押し付けた。
「ぼくも見つける!」
どこに四角いものが、四つの物があるだろう? 張り切って部屋の中を歩き回り、目を皿のようにして見ていく。だから、夏梅の耳は、太宰が何事か呟いたのを拾うことはなかった。――或いは、その音と通じる『死』であったり、ね。
絵を見つけたのは、それから数時間後の事だった。
はじめの計算の問題からはじまって、いつまで続くのかというほどに謎かけがあった。ねちっこい。夏梅すらそう思うほどで、絵の探索の途中で、にこやかだった太宰もちょっと怖い顔をして謎解きを猛然と熟していた。すべての絵を見つけたときは、砂埃にまみれていた。
鼻がむずむずするし、眼もしぱしぱする。なかなかにスリリングな探索だった。
どうやら、廃墟といっても、裏組織の人たちに時折利用されているのか、明らかに盗品かなと思われるような金の延べ棒であったりという見つけてはいけないようなものを見つけてしまったりした。一番印象に残っているのは、廃墟の床下に、隠された空間があるのを発見したことだ。これには太宰もびっくりしていた。大人ひとりは横になれるかなといったくらいの大きさだけれども。絵画はそこに納まっていた。その下には、ぼたぼたと黒い焦げ跡があった。あれは、火事の時のものなのだろうか?
重たい絵画は、父と太宰が廃墟から運んでいる。
夏梅は自分の身一つ運ぶことにした。つまり、普通に手ぶらで歩いた。
随分と長い間待ってもらっていたタクシーの運転手には、大目に代金を払って乗せてもらった。
高層ビルの前で降り、すぐに絵画蔵へと絵を収める。
そこからは徒歩で戻るのだが、照り付けてくる日差しは容赦ない。
もっと耐えがたいのは、日射よりもアスファルトから発せられる熱の方だ。
「うわあ、見てよ、おとうさん。向こうの道路がゆらゆらしてる。……あれが蜃気楼?」
「陽炎だな」
「かげろう……」
父は外套を脱いで肩に掛けた。太宰も手で襟元を煽いでいる。
なんとも頭が沸騰しそうな暑さだ。
額の汗をぬぐおうとしたら、じゃりじゃりと音がしてげんなりする。
「帰ったらお風呂だ、絶対そうだ」
「風呂掃除は誰がするんだったか」
「ぼくだー……もう」
父と騒いでいると、ちょっと昏い顔をしていた太宰が呆然と呟いた。
「織田作んちのお風呂は当番制なんだ……」
お風呂掃除が当番制だからってそんな茫然とされるようなことなのだろうか?
きっと疲れているに違いなかった。今日は朝からとても暑かった。
太宰は俯いて、ひとりくすりとわらった。
「――なんだろう、この会話」
今話しているのは、太宰だけだと思う。
変な独り言する太宰はきっと暑さに参ってしまっているのだ。
夏梅は父の袖を引いて耳打ちした。
都会の中で、瀬戸の田舎を思い起こさせるような構えの店がひとつ。
扇風機が回り、ひんやりとした空気が肌に当たる。
カラン、カランと涼し気な氷とガラスが打ち合う音がした。
「おまけしといたから、皆と仲良く食べるんだぞ坊主」
「ありがとーう、オジサン!」
でっかくなれよ、と腕まくりした店主がにかりと白い歯を見せ、夏梅の頭をがさつに撫でてくる。
髪質が柔らかいせいか、ぐしゃぐしゃになった。
目にかかりそうになった黒髪を直していると、どこからか、ぷと噴き出す音が聞こえた。
商売人の大きな声だったから、店内のどこにいてもその声が届いただろう。先に出口に向かっていた、発泡スチロールのボックスを両腕に抱えた父へ、扉を開けてくれていた太宰が振り返っていた。
逆光だったけれども、その顔が笑っているように感じた。先ほどの笑った犯人だと覚った夏梅はむくれた。
「……ぼく、いつでもおっきくなれるもん」
その人は遂に、大口を開けて笑い声を立てながら、夏梅を迎える。
不思議そうに振り返る父と共に。
絵画蔵へ絵画を収めた後、探偵社に寄って、最後の絵も回収し終わったと報告しに行くことにした。慰労という意味も込めて、暑い日の風物詩であるアイスを箱買いして持っていく。移動中に、幾らか埃っぽさが抜けていったのは、周りの人にご免なさいというべきだろうか。
「おつかれさまです、もどりましたー」
「冷え冷えのアイスも一緒のお戻りだ。さあ今、
「みんな呼んでくればいいよ。……敦おにいさんや鏡花お姉さんもいたらよかったけど」
「そうだね。早く“その時”が来ればと思うよ」
いつのまにか元気を取り戻したらしい太宰は、穏やかに頷く。
太宰の信頼を得る中島が羨ましいと思う一方で、素直にすごいと思う。
きっと夏梅は、そういった意味で太宰の目に留まろうとは思っていないから。
事務所には、長椅子に横になって団扇で顔を扇いでいる与謝野とケースから出した黄色い背中のカブトムシの角を拭いていた宮沢がいた。ちなみに冷房はガンガンに効いている。
「おや、いいところにいい物を持って来たねェ、あんたたち」
「わあーい、アイスです! ナツメくん、太宰さん、織田作さんもおかえりなさい!」
歓声が上がり、与謝野が体を起こし、宮沢がカブトムシと共に出迎えてくれる。
「ああ、戻った。人数よりだいぶ多めに用意してあるから、好きなだけ取ってくれ」
「わあ、沢山ですね! 僕、作業してる国木田さんと谷崎さんも他の部屋から呼んできますね!」
「ああ」
宮沢が出ていく際に、夏梅ににこりと笑顔で、カブトムシを持った手を振るのでそれに返した。
「あんたたちせめて、手と顔を洗って来なよ。砂だらけじゃないか」
だいぶ落ちたと思ったけれど、そうでもなかったようだ。
三人でお互いを見比べて肩を落とした。
「与謝野女医に云われたんじゃあ、断れない。ちょっとシャワー室借りてきます」
「殊勝じゃないか、太宰」
「私は与謝野女医に対しては何時でも殊勝でしょう?」
「どうだかねェ……」
与謝野が意味深に笑って、立ち上がる。その所作が綺麗だな、と夏梅は瞬いた。
夏梅の視線に気づいてか、与謝野が口元に指を持っていく。
その口元が笑んでいることに気付いて、夏梅はなんだか居た堪れなくなって父の後ろに隠れた。
「
蝶の髪飾りが外の光にきらきらと輝く。ひらひらと手を振り、与謝野もまた出ていく。
「これはここに置いておいてもいいと思うか、太宰」
「これだけ冷房が効いていたら、大丈夫さ」
そうだな、と太宰に同意した父が発泡スチロールのボックスをローテーブルに降ろす。そして何処からか着替えを用意してくる。太宰もまた着替えを持っていた。
「用意周到ってやつだね。どうして着替えなんて持ってるの? 太宰さんも、おとうさんも」
「そりゃあ、もしもの時のためにだよ」
「もしも……」
もしもとは。
「仕事によっては、泊りがけの時もある。時間がないときのために、二着ぐらいはこっちに置いている」
「そうそう。夏梅くんも本格的にここで働き始めることになったらきっとわかると思うよ」
太宰の言葉の何かに引っ掛かったが、父に背中を押されて歩き出す。
勝手知ったる建物内といった様子で父と太宰が進んでいく。
そういえば、夏梅はここに来はじめてからそんなに時間が経っていないのだなと改めて感じさせられた。
「僕、シャワー室に行くの初めてだな」
「私も織田作もあんまり行くことはないんだけどね」
「家が近いからな」
父はさらっという。さっさとシャワー室から出ると、肩にタオルをかぶせられた。頭を乾かすのが一番時間がかかるのだ。面倒くさい。ドライヤーもそこそこに、三人で事務所に戻ると、他の面々も集まっていた。
「待ってましたよー」
「お疲れでしたね」
口々にねぎらってもらえるけれど、それは夏梅が云いたいことだった。
待っていてくれたらしく、改めて保冷剤をどかした中の色取りどりのアイスを手に取る。
束の間の休憩だ。休憩というのは、何かをするための休み時間なので、限られているのは決まっている。
でも、中島の脱出の準備に奔走する面々と、身柄引き渡しのための交渉を進める太宰、そして絵画を回収するというそれぞれ重複した役割を熟しているというのに、夏梅は、そうではない。
俯いていると、太宰が思いついたと云った風に話しかけて来た。
「そうだ、夏梅くん。ちょっと頼みたいことがあるのだけれど」
「頼みたいこと?」
「このアイスを、持って行ってあげてほしい人がいるんだ」
席をはずしている事務員の人でもいるのだろうか。
「うん? いいよ。何処にいるの?」
「その人はね――医務室にいるんだ」
太宰はひっそりと笑んだ。ちらりと父が目を向けてくるのが分かったが、父は特に何も言わず、顔を戻してアイスを齧った。駄目だと云わない父の反応を確認して、頷いた。
「うん、持って行けばいいんだね?」
「ああ、頼むよ」
スイカの形をしたアイスを手に、夏梅は病室の扉をノックした。
古風な誰何を受けて、夏梅は「なつめです」と答えた。聞いたことのない人の声だったので、こんな人いたかなと疑問に思っていると、入っても好いと云われたので、扉を開ける。
斜陽を受けて橙色に染まった医務室のなかで、その女人は呼吸も潜めたように静かに、独り佇んでいた。なんだか……廃墟の日陰に咲いていた白い花を、夏梅は思い出した。
出典:
藤木稟『バチカン奇跡調査官―ラプラスの心臓―』より なぞなぞ