少年が云った、「この人からは硝煙の匂いがしないんだ」と。
微かな秒針の音。
時間は刻々と進んでいる。
幾多の画架に立て掛けられた絵画は、墨汁を零したような闇にひっそりと沈んでいた。
灯りも窓もない閉じた空間に、ゴーン、ゴーンと年季のいった時計が鳴る。
海底から轟くような低い音だった。
大型の画架にしがみつき、息をひそめていた少年と台座に腰かけている子どもは小声で会話していたのを途切れさせた。暗闇の中で目を凝らし、耳を澄ませる。
カチリとどこかで照明のスイッチが起動する音がした――ただそれだけ。
主電源の切れた照明が点くことはなかった。
少年と子どもは杞憂と知って肩を下ろす。少年の方はしがみ付いていた画架の柱からそろそろと床に足をつけていく。そして地面があるか確かめるように、慎重に立ち上がった。少年が片腕に抱えていた男を床に降ろし、ふたりは辺りを見渡しながら、小声で話し込んでいる。
「じゃあ、銃を持っている人がここにいるってこと?」
子どもが少年に問いかけた。
会話に耳を傾けながら、“それ”は手持ちの物を数え……思いついた。
✣✣ ✣ ✣✣ ✣
電子
外套の
一年前では最新型だった機種も、今や型落ちとされる。
時間の流れはいつの時代も同じである筈なのに、急速な変化は目まぐるしく、対応していくことができなければ自分だけが取り残されたように感じられた。いつまでも、古い型の拳銃を愛用しているような者にとっては、それも現実に即した自己把握なのかもしれない。
新着の
正方形に、その面積の五対一程度が二重線により区切られた図だ。
面積の広い方には、逆三角形の記号が散らばり、その中でひとつだけ黒丸があった。対して、面積の狭い方には星形の記号が一つあった。――その図の意味するものはいったい何なのか。
織田作は、最後に書面の一番下に『Dより』とあるのを見つけ、イニシャルにDが付く人物を考えた。……太宰だろうか。真っ先に思い浮かんだ社の年下の同僚であり、親しい友人でもある男のことだった。しかし、太宰がこんな謎めいたものを送るだろうか。…………送ってくるかもしれない。
しかし、わざわざ『Dより』と宛名を打つだろうか。
「アドレス、太宰のものではないのか」
悠長に悩む時間はないので、太宰の連絡先に添付データを送りつけることにした。
そして、作戦の定刻には谷崎兄の待つ場所へと辿りつくよう車を回した。
特務課から特別に借用したヘリの操縦は、谷崎兄が受け持つ。
織田作は、片耳に取り付けた通信機からの音声による指示で動くことが決まっている。
指示を出すのは探偵社外部の協力者で、意外な人物だった。
はじめは特務課に依頼するつもりだったらしいが、優秀な助っ人が向こうからやって来た。その実力は江戸川が太鼓判を押すので、疑いようもない。
「織田作さん………こんなこと今言うべきじゃないと思うンですけど、夏梅君のこと、心配ですよね」
プロペラと風の音で直接は聞こえない。
耳当てから機械を伝って耳に届く声はいつもと違う声音に聞こえた。
「太宰がやると云ったんだ。やり過ぎないか、相手のほうに同情する」
「う……相手の人、大丈夫なンですかね……」
「三文小説のようなありきたりな終わりは迎えられないんじゃないか」
ひい、と少女のようなか細い悲鳴が耳当てから響いてくる。
織田作は、ヘリが雲の上を通過するのに目を止めた。霧の塊のような雲はうっすらと視界から消えていく。
戦慄く谷崎兄は、寒いのか歯を鳴らしていた。確かに上空は気温も低くなり、肌寒い。
「お、怖ろしい。何が怖ろしいってこの探偵社が一番危ないンじゃないかってことですよ……!」
「谷崎も探偵社員だろう」
「そ――そうでした」
悪寒がしたらしい谷崎兄は操縦桿を持つ方の肩を震わせていた。
織田作は口ごもったが、これだけはと口を開いた。
「安全な操縦を頼む」
「あ、はい」
谷崎兄は、然るべきヘリの操縦に戻った。
飛行機に乗るより先に、飛行船に乗ってしまった――記憶にある限りだが。
これを夏梅に知られたら恨まれそうだった。乗り物が好きらしいので、仕事ででも一人で乗ったと知られれば拗ねられる。この一件が終われば、どこか……船でもいいから連れて行くなりして機嫌を取ろう。
そんな算段をつけながら、織田作は空に浮かぶ敵地を目視した
❂❂ ❂ ❂❂ ❂
「この人からは硝煙の匂いがしないんだ。だからもうひとりいる筈だよ」
夏梅はたくさんの少女たちの声と手のひらを思い出した。
ひとり、だけではないと思うのだけれども。
その時、時計の音が鳴った。驚いてびくつくが、どこにも照明が点いたりはしない。
ほっと胸をなでおろす。
そして縛られた状態で柱にしがみつく中島の方へと首を捻り、途端に首筋に痛みが伴う、「――あい、
「あ、
夏梅が目の縁に涙を浮かべていると、暗闇のなかで中島が何やら身じろぎ、掴まっていた画架の柱から軽々、夏梅のすぐかたわらの床に降り立ったのが分かった。そこはちょうど溝地が立っていた場所だった。地雷がないことを分かっていたのだろう。中島が無事でよかった。夏梅としても、そんなに近くに地雷があるのは……
どさりと何かが床に下される音がした。
溝地のうめき声が足元から聞こえた。
「ぶ……ぐう」
蛙がつぶれたような声だった。
真っ暗で何も見えないため、夏梅は溝地が起きているのではないかと思って声をかけてみた。
「溝地さん、起きてる?」
「――いや、気絶してるよ。もう暫くは目覚めないと思う」
応えたのは中島だった。夏梅は中島の云う『暫く』の長さがどのくらいなのだろうと考えて黙り込んでいると、心配していると思われたのか、中島が声音を柔らかくして告げて来た。
「大丈夫。加減はできてたから、骨とかは折れてない筈だよ」
「……そっか」
中島のおかげで拘束が解け、夏梅の両手が自由になった。
「ありがとう、敦お兄さん」
「夏梅君、大丈夫かい」
「うん、大丈夫。敦お兄さんは?」
「僕は平気だよ。でも、夏梅君は怪我をしているから手当てが必要だよ」
「けが……」
中島は夏梅と問答しながら、ごそごそと足元で動く。
縄がぶちぶちと切れる音がする。
その中島の手にはどうやら溝地から取り上げた多機能ナイフがあるらしく、それで縄を切ってくれたようだった。解放された手で痛みが走った首筋に触れてみると、何かでぬるりと濡れていた。――なるほど、これは血だった。
「傷口に触っちゃだめだよ、夏梅君」
「うん、ごめんなさい。……虎の鼻ってすごいよね」
中島はちょっと困ったように笑う。
「これで全部かな。動ける?」
夏梅は足や肩に引っかかった縄を手で降ろした。
画架の腰掛けの上で体が動くことを確認する。
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
夏梅は足を伸ばして、地面に触れた。
足元がぐらぐらとする。妙な感覚だった。
「この人が持っていたのが、銃でなくて本当に善かったよ」
そういえば、首に突き付けられたのはおそらく溝地の多機能ナイフだった。
銃を持っていたのなら、わざわざナイフに持ち替えたのは少し不自然かもしれない。
「じゃあ、銃を持ってる人がここいるってこと?」
それだと、神西がここにいるということになってしまうのだろうか。
そもそも、神西は、銃が使えるのだろうか。もうここを去ったと思ったのだけれども。
では、銃を持っている人物が別にいるのか。
夏梅の脳裏には意外に若かった神西のすました顔が思い浮かんだ。
「………せんせいってば、結局かえったんじゃないのかな。
この場から立ち去った神西はどこへ向かったのだろう。
夏梅は唇をかみしめる。あの“絵”――あの“絵”がここにある。
今は太宰もいない。でもあと数分でやって来るだろう。……何とかすることはできないのかと夏梅は焦る。
どうしてこんなことに……。そもそもこんな事態を招いた主犯だろう神西がいつ横浜へ来たのかも不明だった。いつから計画されていた? まさか、母の個展が開催されたと決まった時点からではないだろうけれど。……それに、ここに設置されているという地雷や発火装置なんてもの、神西に用意できる伝手でもあるのだろうか。横浜に来たばかりなのに? そういえば、神西は、特務課の事も知っているような口ぶりだった。溝地とも知り合いになっていたのだろう。神西は日頃から、何かをしでかそうとする人を見つけ出すこと、そしてその共犯者になるのが特技のようなもので、今回もきっとそうなのだろう。溝地の云っていた『約束』というのも神西としていたのだろうか。――それでも、なぜだかしっくりこない。寧ろ、このやり口は、あの花束を持っていた男の人を彷彿とさせる。
しかし、あの絵の存在を知っているのは、神西だ。……夏梅の考え過ぎなのだろうか。
中島と太宰は、神西とは入れ違いにやって来た。……神西は、夏梅以外に関わる気はないということだろうか。あの“絵”のことはどうするつもりなのだろう。
「どうしたの、夏梅君?」
口のなかで聞こえないような声で、いない人のことをぶつぶつと呟いていたのだが、中島が聞き留めたらしい。
夏梅は虎の聴覚の良さに舌を巻く。慌てて話をずらす。
「その、敦お兄さんって今どのくらいが見えるの?」
「ぼんやりと輪郭が見えて、動くものが分かるくらいかな」
思った以上に見えているらしい。
「……すごいね。ぼくはなんにも見えない、」
よ、と夏梅が云いかけた時、遠くで何か硬いものが落ちる音がした。
夏梅と中島はびくりと身構えた。
カラン、カランと金属の軽い物が床に転がる複数の音。それは最後に重めの音を残して途絶える。夏梅は、それがちょうど神西が消えた進行方向だと気づいた。けれどもその意図が掴めなかった。神西がいるのか。目を細めて何とか見通そうと思ったが、黒の他には何も見えなかった。
すると、傍らで中島が口を開いた。
「……僕が物音がした方へ、確かめに行ってみるよ」
危険を顧みない、中島の言葉に夏梅は慌てて口を挟む。
神西がことさら危険だとは思わない。しかし、行く手を阻むのは地雷なのだ。
「でも、敦お兄さん、あっちに行くには、地雷があるところを行かなきゃでしょう?」
「大丈夫、この男の人が通った道は何となく覚えているから、そこを辿っていけばいい」
「太宰さんが懐中電灯を持ってくるまで待とうよ」
夏梅が袖をつかんで引き留める。
しかし中島は首を振った。
「それが一番避けたいことなんだ。相手は銃を持ってる。銃が使われたこともきっと音で太宰さんが気づいたと思う。その太宰さんがこの暗闇の中、懐中電灯をつけてきたら、きっと真っ先に狙われる」
「……どこにいるか、ばれるから?」
虎眼が光ったように、懐中電灯の明かりでその人物の居場所が。
中島が頷いたのがわかった。
「そう。それに、太宰さんは、僕たちのようには丈夫じゃないから」
「それは……」
夏梅は言葉に詰まった。その通りだったからだ。太宰なら銃声を聞きつけただろうから、用心して懐中電灯をこの部屋の直前で消すかもしれないが、中島を信頼して、敵を倒したと思い込んで警戒を怠るかもしれない。何せ、父に対しても子である夏梅の目から見て過剰と断言できる期待さえ寄せていた太宰なのだから。
「じゃあぼくも行く」
「夏梅君には――ここにいて太宰さんを待っててほしいんだ。誰かがここに居ないと、後からやって来る太宰さんが心配するだろうから。それにね、探偵社のみんなが、君をとても心配してるんだよ」
「……行くの、気をつけてね」
口をとがらせて言った。
中島は笑った。まさか、夏梅の顔まで見えているのだろうか。
「うん、行ってきます」
泣きそうになるのをごまかすように、夏梅は冗談めかして言う。
「わ、ざわざ危ないところに行こうとするなんて、『虎穴に入らずんば』なんとかかんとか、みたいな?」
「虎だけにね」
笑みを含んだ声の中島に、夏梅もちょっと笑った。
勉強した国語はこうして緊迫した状態でも人を笑わせてくれるのが不思議だった。
「心配しないで、夏梅君。虎の毛は、銃も刃物も通さないから」
夏梅は元々、資料からその異能力の強さを知っている。
そして今、優しいお人好しの心が、力強い意志によって支えられていることも知った。
「………でも、敦お兄さん、本当に気をつけなきゃだめだよ。催涙瓦斯とか毒瓦斯とかに知らないうちに巻かれていたり、爆弾とか地雷とかの
「そ、それはだいぶ、過激すぎじゃないかな……」
夏梅は中島の最もな言葉にうなずいた。
「うん、一番大変なのは、煙で喉が焼けちゃうことだったよ。息ができないもん」
「………え、若しかしてこれ経験談?」
愕然としたような声が聞こえてきた。うんうんと夏梅はその時の苦労を思い出し何度も頷いた。
あの絶体絶命の時には、江戸川の言葉が走馬灯か、天啓のように耳に蘇ったものだ。
「あそこで病院に棲みついていた
その後、事務員回収のための列車に乗り込んでいた夏梅は、谷崎妹と春野と合流し、そして駅で待っていた中島と太宰にも合流したのだ。太宰は、お手洗いに行っていたと口実をつけていたけれど。
平手を打ったことまで思い出して、夏梅は苦い思いになる。
「……あとで詳しく訊こうかな。太宰さんが聞いたらきっとすごく怒られると思うけど」
引きつった声で急にぞっとしない言葉をいうものだから、それをききつけた夏梅はその内容におっかなびっくりしながらもお願いしてみる。駄目もとではなく、中島だったら聞いてもらえるかもという打算も含んだお願いだった。
「――敦お兄さんにはお話しするから、太宰さんには黙っててもらえない?」
頼んではみたけれど、難しい問題だなあ、と中島はぼやかして、それでも正直に教えてくれた。
嘘でも気休めを言わない辺り、人の好さが表れている。
「じゃあ、行ってくるよ。あんまりぐずぐずしてると、太宰さんが戻って来てしまうだろうから」
はらはらとしながら、
「ごめんね、溝地さん……」
ある意味、溝地だって、巻き込まれた被害者なのだ。
「若し溝地さんが、それを
あの悪魔的な研究者をちょっとは殴ってもいいと思う。
夏梅は暗闇の中では、何も見えない。
だから――夏梅の足元で横たわっていた溝地の指先がピクリと動いたことにも、そう。
そう、少しも気づかなかった。
罰、だったのだろうか。
「迷惑かけてごめんなさい」
「――あのね、夏梅君。君は僕のことを面倒だと思う?」
想ってもみないことを口にされて夏梅はきょとんとした。
次いで、慌てて首を振る。
「どうして、そんなことを訊くの?」
夏梅は不思議でならなかった。
何か自分がそんな風に思わせることをしてしまっただろうかと心配になって来る。
慌てていると、中島はくすりと声で微笑んだ。
「僕は君の気持ちが少しは判ると思う。僕には懸賞金が掛けられていた。それに、人食い虎なんて呼ばれて、国木田さんにも探偵社のみんなにもとても迷惑をかけたと思っていた。厄介者だって。でも、探偵社のみんなは、僕のことを面倒だとは思っていなかったんだ」
中島は優しい声で語った。
その目は本当に、夏梅を捉えているのだろう。暖かな人の手が肩に乗った。
「僕は、探偵社のみんなが好きだ。夏梅君のことも含めてね。――来たばかりの頃、君と一緒に寝泊まりしたことがあったのを憶えているかな?」
「うん………忘れてない」
大人は夜にお酒を飲みに行って話すと打ち解けられると聞いたから、太宰と父と話ができるようにと夏梅が気を遣って。中島は優しそうだったから、頼んだら聞いてくれると思った。そんなことを考えていたのに。
「嬉しかったんだ」
優しい声だった。きっと……この人は他の人の心配ばかりしてしまう。
自分ばかり危険なところに行こうとする。
夏梅は暗くて何も見えなくてよかったと思った。
どんな顔をすればいいのかわからなかったし、自分が今どんな顔をしているのかもわからなかった。