それはブレーカーが落ちて電気が消える、十二秒ほど前のこと。
中島と雑談と評した、探偵社の本作戦の全貌について聞き及び、さらにここがどこであるかも聞き出した夏梅は、ある種の理解と無理解の狭間の末に手が震えた。気づかわしげに見てくる中島へと父の居場所を尋ねた。「心細いかい」との問いに、夏梅は寧ろ「ほっとした」と返す。片目をつぶって暗闇に備えだしていた中島が驚いた顔を鏡の中で浮かべるので、ぎこちなく笑おうと思った夏梅に――無遠慮な第三者の声が割って入ってきた。
「なるほど、ここに彼は来られないということですか……」
金属音が聞こえた。それは、父の持つ拳銃の撃鉄を引く音に似ていた。
鏡のなかで顔をこわばらせた中島が弾かれたように、声のした方へと体を向け体勢を低くした。
夏梅もまた、相手の出方がわからず、用心しながら、後ろ手に縛られている親指へと指を添えた。
そして――唐突に、完全なる帳は降りた。
闇に煌く虎眼を見つけ夏梅は「敦お兄さん、目を閉じて」と叫んだが、銃声はすぐ後に続いた。
悲鳴は聞こえなかった。
きっと――当たらなかった。
夏梅は逸る頭でそう考え、親指を掴み、ふいに闇だと思っていた中に……蠢く
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古典における『
さて、『こてん』は『こてん』でも『古典』ではない方の『個展』について。
母の遺作を瀬戸の実家から取り寄せて開催する個展の打ち合わせと、探偵社のほうでの仕事の二足草鞋を履いている父は、里帰りから戻った数日の間のスケジュールは特に超ハードであるようで、昨晩は探偵社に夏梅を預けて、20時に迎えに戻ってきた。誰よりも遅くまで探偵社に残って滞っている分の仕事をしていた国木田までもが気を遣い、予定を切り上げて夏梅達の帰宅に合わせ、車で自宅の
夏梅でさえ、瀬戸の屋敷に出入りする見知った顔、知らぬ顔の面々との上辺の取り繕い方は母や祖父、神西の振る舞いから自ずと習得していたのに、父は夏梅が心配になるほど覚束ない。
母の遺作を提供する側である父に対して、個展への準備に並々ならぬ情熱を傾けている面々が設けた場に出向いていたのだ。きっと夏梅のことを考えて時間を気にしていたのだろうが、不器用な父のことだ、巧く抜け出せずに遅くなってしまったのだろう。
「織田作、忙しいのは判るが、無理を
「お前の云うことはもっともだと思う、独歩。だが、一つ疑問がある」
国木田が、眼鏡のつるを押し上げて、「なんだ」と促す。夏梅も父に肩へ腕を預けられながら、不思議に思って続く言葉を待つ。
「無理というのはどこまでいけば無理になるのかが解らない」
「――ほんとうだね」
言われてみれば確かに分からない。どうなったら、無理ということになるのだろう。そもそもいつも使っている『無理』とは何の限界や程度を指すのだろう。それはきっと人によって違うものだけれども、本人の定義だってあやふやだ。この言葉、どうやって用いれば――? 夏梅が目を大きくしてその疑問に頷くと、大きなため息がして国木田の方をみた。
「お前たち、もう帰って寝ろ」
ぱちぱちと瞬いて、ああと気づく。
もう夜の22時を回っている。
「ここまで送ってもらって悪かったな。夏梅がいるから、運転ができなくてどうしようかと思っていた。助かった」
やっと捕まえたタクシーで帰って来た父は見るからに草臥れていた。
国木田は肩をすくめた。
「気にするな。お前と夏梅にとって、一世一代の至要たる催しだ。抜からず、遮二無二掛かれよ。………太宰の阿呆が飛び切りの愚挙を
頼もしい言葉だった。夏梅は国木田を尊敬した。今とっても。
父も何か感じ入るところがあったと思う。
「恩に着る。この夜道だ、車通りは少ないだろうが、独歩も気をつけて帰ってくれ」
「送ってくれてありがとうございました、国木田さん。おやすみなさい」
手を振ると、国木田もぎこちなく手を振り返してくる。車が去っていくのを見送ってセキュリティ付きのフロアを通って、昇降機に入る。父と二人だけになると、気を張っていたものが抜けため息をつく。それから息を吸うと、鼻に慣れない匂いが刺さる。夏梅がいると滅多に飲酒しない父から酒気がして、夏梅は呻いて鼻をつまんだ。
「………におうか?」
父はスーツの袖を鼻に寄せた。すると、父の血色のよくなっている顔の、ほんのり色づいた目許に年のせいか皺が寄った。――ふいに不安になった。
父は順当に年を重ね、
「……洗濯屋に出すか」
「洗っておくよ、それ洗濯できるやつだって言ってたし」
「誰がだ?」
「瀬戸のお手伝いさん。名前は知らないかな」
階数があがっていくのを見守りながら考える。父は――流石、元少年暗殺者とでもいうのか、どんなに疲れていてもよろけはしないが、夏梅の手を握ったまま壁に肩をもたれかからせていた。そんな父に心配を覚え、様子をうかがいながら開いた昇降機を出た。するりと自宅の扉を開いて中に入り、靴も放って
父はテレビ前の
「今日は待たせてすまなかったな。こんなに遅くなるとは思わなかったんだ」
「……まあ、ぼくはべつにいいけど。……ねえ、これがお酒の匂い?」
「……飲み過ぎたな」
夏梅が起きている間は、父は飲酒はしないのだ。勿論、喫煙もである。
家庭内で身内が飲酒や喫煙をする家は子どもの教育的にうんたらかんたら……であるそうで。
夏梅はちょっと眉をひそめた。二日酔いの不調が長引くようになった、歳のせいか、と頭を押さえる父の姿を夏梅は見たばかりだったので。
「飲めませんっていえばいいのに」
「和枝が生前世話になったらしいからな、そうもいかない。どうやら随分と年長者に好かれる性質だったんだな」
故人の人となりを感慨深そうに言う父。好かれるかどうかは知らないが、母は人嫌いであったまる。向かい側の卓上に頬杖をついた夏梅がその顔をじっと見上げると、実を起こした父の大きな手のひらが頭に乗った。夏梅にとってそれは重く感じられるものだったが、そう思った瞬間、手のひらは少し浮いた。
「和枝のおかげか、その道の老大家にいびられるということがないのは有り難い。派閥の立ち位置の微妙な違いに巻き込まれつつあるような気はするが」
「それってやばいやつじゃ……」
「やばいのか………だが、悪い事ばかりでもない。今まで知らない和枝の一面を知ることができた、と思う。さすがに、度数の高い酒から勧められるのは、勘弁願いたいが」
普段父が使わないような言葉も復唱している辺り、自分も何を喋っているのか定かではないに違いない。
前向きにとらえようとしてちょっと失敗している父に、夏梅はため息をついた。
「顔色が変わらないから、お酒に強いって思われたんじゃない?」
「そうなのか?」
いや知らないが、ここまで来て知らないよとは言えない。
「ぼくはそこにいたわけじゃないからわからないよ、だから想像ね」
「そうぞうか……」
言葉尻もおかしくなってきた。この後も勧められて断れぬまま流されて深酒を続けるようなら、国木田か太宰に言いつけて何とかしてもらおうと半眼になる。その時だった――ぴろりろりん、と洗濯機が家人を呼ぶ。長椅子に沈んでいる父と
ネクタイをしめたまま、スーツにしわを作りつつ長椅子に横になった状態で
父が酔っぱらっていたから、夏梅が代わりに。
不可思議なその手紙を見つけたのは偶然だったと、夏梅は記憶している。
なぜなら、父が酔いつぶれていなければ、自分で服を着替えて、それに気づく、あるいは気づかず洗濯機の中に入れて消滅してしまったかもしれない、メモのようなものだったからだ。その時はまだ、メモ紙は夏梅の普段使いの物とは違い、ただの白い紙片に過ぎなかった。無地のそっけない紙切れの裏表両面に、ミミズがのたくったような模様がそれぞれ描かれていた。
不思議に思った夏梅は、それらをスマホで写真に撮り、瀬戸にいる老医の神西へ
まず、表には『真実はどんな色をしている?』とあり、さらに、裏には、『解――それは、赤』と書かれているそうだった。――何やらとても興味をそそられる、面白いことが起こりそうですね、との神西の言葉がおまけのようにくっ付いている。こんなちょっとの文面から面白みを見つけ出すなんていう高等技術は夏梅にはなかった。……神西と友だちになれないなと思うのはこういう時だった。
神西が同時に両方とも訳してしまったので、問いと答えを一度に得てしまった夏梅は、なんともつまらないなぞかけだなと肩をすくめる。それにしても、父はいったいどこでこんなものをくっつけて来たのだろう。そんなことを思いながら、スマホをポケットにしまった夏梅は、居眠りをしている父にタオルケットを掛けにパタパタと廊下を小走りになった。
それは、花束の芳香に抱擁された黒髪の青年に追われるほんの数日前の事だった。
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離れたところから中島の声がした。
「夏梅君! 無事かい?」
一瞬にして戻ってきた暗闇の中に蠢く影
「夏梅君!」
切羽詰まった中島の声に応えられない。
目を、開けている。夏梅は、目を開けている心算だが、何も見えない。何も見えないのに、そこに誰かが居た。誰かが居る。生温い、甘い香りと腐敗した切り花の茎のような匂いが混ざり合って咽そうになる。
沢山の少女たちの声に晒され、言葉が夏梅を惑わし、夥しい数の手が伸びてくる。頻りにみつけた、みつけた、逢いたかったと繰り返すその声は知らないものだった。そんなの知らない――と喉に絡みつく腕、口を塞ぐ手がなければ叫んでいただろう。夏梅は――手袋に包まれた短い指によって乱暴に髪を掴まれた。
「とても……残念です」
声が頭から降ってきた。あの時、肩を支えてくれた与謝野はいない、手を握ってくれていた宮沢もいない。その代わりに、温度のない、暗闇から生えた異常な数の手が、夏梅を囲い込んでいた。
「ここにお二人がいらっしゃれば、中村先生の、最後の絶筆を見せていただけると聞きましたのに……」
その人は、心底残念そうに言い、夏梅を引き留める髪を掴んだ手を捻りあげた。
夏梅の肩が軋んで、音を立てた。身をかがめたその人の、恨み言葉が耳元に注がれる。
「
その声の主は、地雷原の床を通り抜けて夏梅の傍らにまで無事にたどり着いていた。手袋に包まれたその手には、いつも携帯しているのですと教えてくれた沢山の私物の中にあった多機能ナイフがとりだされているのだろう。冷たい感覚で、夏梅の首筋にじっとりと当たっていた。血が出ているのか、何か痺れる感覚があった。
「こうしてこの
神に訴えかけるような声音だった。
その手のどちらもに銃はない。それを確認した夏梅の目尻から、生理的な痛みからくる涙が溢れた。
男性学芸員――溝地が宙に吹っ飛んだのは、夏梅の濡れた頬に風が当たったのとほぼ同時だった。
「夏梅君!」
咳き込んだ夏梅を支えたのは、地雷の危険を顧みず、夏梅のところまで一瞬で接近した中島だった。夏梅の座らされている画架の柱に捕まり、宙に浮いた溝地までも抱えたのだろう。柱の軋む音がした。
足音はなかった。もしかして、あの一瞬で、入り口から跳躍したのだろうか――夏梅の処まで。
「だいじょうぶだよ」
夏梅はどくどくと動悸が聞こえる脈拍を聞きつつ答えた。
気をつけて、と中島の声がした。――もう一人いる、と。