“パニック”という語源は、ギリシャ神話の牧神パンに由来するという。山羊の脚を持ち、頭に二つの角を生やしていた。彼がひとたび叫び声をあげると、周りは恐怖に満たされる――という。
悲鳴が聞こえた。逃げ惑う人々行き交う道々のどこを向いても、悲鳴が聞こえる。夏梅は探偵社のなかにいた。外には出るなと言われた。硝子窓の外をみれば、人通りは少ないのに、悲鳴が聞こえる。どの建物の中からも。
「
「心配。大丈夫かなって」
「童は優しいのう」
夏梅の腹の前には、あでやかな和装に身を包んだ女の人の腕が回っている。外そうとしても外せそうにない。片腕は腹に回され、片手は夏梅の頭に置かれている。指先に至るまでの所作がとても洗練されており、夏梅は何とはなしに目がつられた。
彼女はポートマフィアの幹部、尾崎紅葉。
人見知りである夏梅は、目を窓の外へと再び戻した。
探偵社から見える景色は、いつもと同じようでいて、全く違う。
夏梅が感じることはとってもシンプルだ。
「そんなんじゃ、ないよ」
きっと正解なんてないはずなのに、褒めるように頭を撫でてくる尾崎の手を避けるように俯く。
夏梅は、夏梅の知っている人の無事が心配なだけだ。
「その幼さで、『優しい』という言葉を受け入れぬとは、聡過ぎるのも考えものじゃの」
「……叱られてるの?」
夏梅は――叱られるのはきらいだ。
父は叱るとき本当に怒っているのかどうかわからないことが多いから平気だ。大叔父はいつも怖い顔をしているから別にいい。でも……夏梅を可哀想な子を見るような目で駄目だと諭してくるような人は、大きらいだ。この人はそうなのだろうかと静かな口調に、夏梅は眉をしかめた。
「
尾崎は、紅を引いた薄い唇を噛み、悩むように眉間にしわを寄せる。
そして、何かを思いついたのか、夏梅を見下ろした。
「童に分かり易く云う前に確認じゃ――『優しい』という字がどう書くかわかるか?」
夏梅はちょっと視線をさまよわせた。
尾崎はふふっと笑って瞳を閉じ、和歌でも謳いあげるように諳んじた。
「『人』を『憂う』と書くのじゃ。……『憂う』というのはの、無力な己を知ることじゃ。世に諦観しつつも、決して己の手には届かぬものを想い続けること。――童の言葉を借りれば、想い患い、心配する。想い過ぎて病を得たような有り様になる――どうじゃ、そなたのことではないか?」
「心配しすぎの……病気? それが『優しい』?」
ころころと鈴が鳴るような声がした。
夏梅は真剣であるのにと、じと目で睨むと、尾崎は目尻に浮いた涙をぬぐうところだった。
「
「もう――」
「駄目じゃ。止めよ、やめよ。そうむくれて睨んでくれるな、愛いやつめ、全く愛いだけじゃからな」
ひとしきり笑うと気が済んだように落ち着いたようだった。
……大人はみんな勝手だ。
はあ、と息をついた尾崎は切れ長の目尻をほんの少し緩ませた。
「――そうか、心配し過ぎの病か。成程、不思議と趣があって好し」
納得はいかないけれども、尾崎の言葉の分かり易い部分だけをくみ取り、尾崎ははっきりと明言しないので、夏梅は曖昧に頷いた。すると、賢いの、と尾崎はあでやかな袖を、口許に当てる。空気が震えるだけで、笑った、と夏梅は判らなかった。つい、とその瞳が窓の空へと向かう。
「――うん? おや……あの小僧め、大した度胸じゃ。ほんに脱出しおったわ」
脱出と聞いて、夏梅は顔をあげる。蒼い空から降りてくる白い影。遠すぎて夏梅の目には見えないが、きっと中島だ。
「おお、パラシュートを破かれたな」
「えっ 敦おにいさん!?」
窓の桟を掴んで、爪先立つ。
何とか顎をあげてみようとしたが、見えない。
すると、後ろに立っていた尾崎が脇の下に手を入れ、持ち上げてくれた。
「あ、ありがとう、おねえさん……」
眺めに切りそろえられた前髪で隠され、片側だけになっている目をほそめ、陰に融けこみそうな密やかさで微笑む。礼には及ばん、と。
拒まれたのかと思ったけれども、夏梅は、これがこの女の人なりの『どういたしまして』なのかなと思った。
「のう、童よ。……その眼にこの世界はどう映る?」
陰りの中に咲いた鈴蘭のような人だった。薄暗がりから見下ろしてくるその眼差しを受け、夏梅は今聞いた『優しい』の言葉が一番似あうのは、この人な気がした。
❂❂ ❂ ❂❂ ❂
「敦お兄さん!」
「あ――夏梅くんっ」
若白髪の散切り。斜めの前髪という特徴な髪形をしている中島へと、夏梅は駆け寄った。心配していた。父のことを心配もしていたけれど、父はおそらく平気だと思っていたから、本当に心配していたのだ。――引け目もあった。夏梅は中島の救出には何の手助けもできていない。
だのに中島は、夏梅の顔を見て本当に心配していたという顔で振り返った。
「大丈夫だったかい!? 怪我してない? 斬られてない? 滅多打ちにされてない? 言葉の暴力は受けてない???」
「――え? あ、うんえ、え?」
名前予備からの開口一番の質疑の数々に夏梅は困惑する。
見るも痛々しいボロボロの状態の中島は、夏梅の肩に手を乗せて目線を合わせて来た。
「あのポートマフィアの
あー……、と夏梅は視線を太宰へと向ける。太宰は父の肩に腕を乗せて耳元に顔を近づけ、内緒話しているようだったが、夏梅の目に気付いてにこりと笑い、手を振って来る。――そう、表向きは、夏梅は探偵社で人質のような立場にあるポートマフィアの幹部を監視するという名目で、夏梅を探偵社に取り残したのだ、太宰は。しかし、ふたを開けてみれば、夏梅の方こそ、尾崎によって外へ出ていかないようにと見張られていた。これは謂わば、子守だ。
「だい……だい、じょうぶだよ」
敵の組織の人に子守をされていたなんて白状することは夏梅の幼くとも慎ましく育っている矜持が許さなかった。早く話を変えよう、と夏梅は中島へと顔を向け――ふと、首を傾げた。
空から降ってきた後の中島は、どこか前とは雰囲気が違っていた。
どう違うのかは言葉にできないのだが。
「敦くん、打ち合わせをしよう」
「あ、はい。太宰さん」
夏梅は中島の袖を思わず引いてしまった。振り返って首をかしげる中島に、ちょっと慌てた。無意識だった。父と太宰もこちらへ来るのが見えた。何か言わないと、と思って、夏梅はうろうろと会話のとっかかりを探し、咄嗟に質問した。
「あの、何の打ち合わせ……?」
ああ――と中島は頷く。
会話が聞こえていたらしい父も、太宰へと視線を向け、不思議そうな顔で中島を見遣る。父も知らないらしい。
「ポートマフィアと手を組むことを社長に提案したんだ」
「そうそ、敦くんに最初聞かされたときはほんとに驚かされたよー」
太宰の言葉が耳を素通りする。
首をかしげていた父も、夏梅もぎょっとして口を閉じていた。
大叔父と中島とはその件について既に話し終わったところらしい。
そして明日の昼には、ポートマフィアと探偵社が密会し、同盟を結ぼうと持ち掛けるのだという。
「いや、それは無理だろう」
「いや、それは無理でしょう」
父と言葉が被ったが、心配で心配で、続けた。
「危険すぎる」
「だって、危ないよ」
夏梅は父と言い募ったが、それでも中島の決意は固いようだった。
「協力するという訳じゃありません。でも、互いに足を引っ張り合わないことはできると思うんです」
「その点さえ保証されれば、
太宰が父を見る。その父はきょとんとしている。
……この二人は、きちんと意思の伝達ができているのだろうか。
「国外の異能力者たちだったから、情報が手に入らず後手後手に回ってしまった。しかし、ギルド単独であれば、織田作ひとりでも殲滅は不可能ではないだろう」
「それは………大いに買い被り過ぎだ太宰」
「私はそうは思わないね。他のみんなだって同じ意見だろうさ」
突然の重い期待が父にのしかかった。……今、どんな気持ちなのだろう。
ちろりと父の友人であるはずの太宰へと目を向けると、ため息をついているところだった。
太宰の友人でいるのはとても大変そうだと夏梅は思った。
「ただ、問題はその次だよ。織田作が抜けた後、探偵社をポートマフィアに襲われた場合、ディフェンスが心もとない――というより、まあ持たない」
確信した口調だ。それもその筈で、ポートマフィアというのは数が多すぎるのだ。末端はいったいどこまでなのかすら曖昧。それはこの横浜の街と長く密接に関わってきたからだ――とは太宰の言葉だ。
「ポートマフィアとの接触はでくるだけ避けたいのだが……そうもいかなくなっている。だが、せめて、邪魔さえ入らないと約定を取り付ければ、織田作一人でもギルドを殲滅できるだろう」
太宰の言葉に、中島も口を開く。
「この一大事に、互いに争う余裕なんて探偵社にもポートマフィアにもない筈です。この横浜で戦争をするなんてことをどちらも望んでいない」
夏梅は絶句。父は「正気か……」と思わず口を継いで出たようだけれども、中島の表情のなかに何を見たのか、それ以上は反対しなかった。
「お前が決め、太宰が腹をくくり、社長もその意志ならば、俺に云うことはない。手が必要ならば云ってくれ」
「ありがとうございます、織田作さん」
夏梅は太宰へと目を向ける。ポートマフィアが危険な組織であることを説明してくれたのは、太宰だった。きっと中島を止めてくれると思ったが、太宰はにこりと微笑むだけだった。………こうなったら、中島のことを助けられるのは、父の精神状態を診てくれている瀬戸の老医である神西しかいないのだろうか、とスマホを取り出して、それでも指が右往左往した。
「大丈夫だと思うんだ、夏梅くん」
「敦お兄さん……」
「彼らが横浜の街を思う気持ちは、本物だと、僕は思う」
「想う………?」
「うん……なんか、感覚になっちゃうんだけど」
気弱そうな顔になる中島に、夏梅は首を振った。そういうことではなくって。
想うことは、優しいという言葉につながる。そう夏梅に話して聞かせてくれたポートマフィアの
「ぼくは……」
夏梅は、スマホから指を離した。中島の顔を見あげた。初めて会った時より、随分と高い位置にある。
それだからか、夏梅には中島の存在がとても大きく感じられた。
夏梅は――掴んだままだった中島の袖を離した。
「おい、太宰、敦! 早く来ないか!」
国木田が会議室から上半身を傾けて、二人を呼んでいた。なるほど、姿を見ないはずだ。
その後ろから谷崎兄が、「国木田サン、そう急かさなくとも……敦君に至っては脱出したばかりで疲れてる筈ですよ」
「大丈夫です! 今行きます――それじゃ」
夏梅の手が外れて、太宰と共に去りかけたとき、中島が立ち止まって振り返った。
「そうだ。お母さんの絵、無事で善かった」
怒らないの、と聞きたかった。でもそれをきくのは、自己満足だと思った。
夏梅は咄嗟にゆがんだ顔をなんとかえがおに替えて、頷いた、「うん――いってらっしゃい」
手を振って見送る。後ろ姿が扉の外に消える。
パタン、と扉が閉まる。
ごめんなさい、と云わないようにするのがとても難しかった。降ろしかけた手は途中で、父に取られた。父の手のひらは温かかった。
翌日、昼の密会にて――休戦の約定を取り付けた探偵社は、その晩にギルドの団員に囚われていたポートマフィアの『Q』を奪取する。選ばれたのは、夏梅と父と、太宰だった。どうしてと思ったが、父が頭を撫でて来たので、きっと気に病んでいる夏梅のことを知っていて、人選に捻じ込んでくれたのだろう、と夏梅は思っている。
夏梅よりいくつか年上の少年は、起きていたら、もしかしたらおしゃべりができたかもしれない。ポートマフィアにも、小さな子どもがいた。友達になれるかな、と夏梅は父に背負われている夢野久作という少年の手を握った。
その後、何やかんやありながらも、父のおかげで難なく敵を沈黙させることに成功――ちょっと抜けているように見えて、なかなかどうして父はハイスペックだった、いつも通りのことだけれど。
引き渡しにやってきていたポートマフィア側の人に、その子を渡すのは太宰の役目だった。
そして、別に動いていた江戸川と与謝野によって、ギルドの情報が手に入り、探偵社の大きな指針が決められた。
ギルドとの全面対決であり、そして――探偵社の一員である泉鏡花の奪還。
この二つについて、次のように決定した。
まず、ギルドの本拠点である飛行船を叩くこと。これは太宰の言葉通り、父がひとりで担当する。またしても太宰の重い期待を背負わされた人がいるわけだ。今度はそれが父ときて、白状すれば、夏梅はちょっぴりグロッキーな気分だった。空ということで、谷崎兄の異能力【細雪】によりヘリコプターを迷彩して飛行船まで父を連れていくという。
そしてついに、鏡花の奪還の交渉に、太宰が動く。
ここで何故か、与謝野ではなく、夏梅が太宰の知り合いの見舞いへ付き添いを頼まれた。太宰が先に病室に入り、夏梅は三十分ほどあとで入室するように言われた。与謝野の出番は交渉の後らしい。
夏梅はいつ太宰がその交渉するのか判らないままだったけれど、太宰に連れ立って病院へと入る。
大量の見舞いの花と果物を両手に、太宰は夏梅に笑いかけた。
『待っていてくれ給えよ。何、すぐ終わるから』
――そう、そこで、夏梅は何の準備もなしに病院に来ていたことに気付くのだ。
見舞いには、花が必要なのに。
夏梅は待合室の長椅子から立ち上がった。
「久しぶりだねえ、安吾。ご機嫌いかがかなー? 未だ治りきらないその怪我、我が探偵社で治療しようと云ったら、どうする?」
『僕は自分がどう見えているのか、うまく伝えられない。だって見えてるままだから。だけど、僕は、お姉さんのことがどう見えるかは云えられるよ。それはね、お姉さんがいっこいっこお話ししてくれたから。本当にお姉さんが云っている言葉が分かったかはわからないけど。でも、そういう意味だとね、
ぼくの目には、お姉さんが、お姉さんの教えてくれた優しい人に見えるよ』