夏の梅の子ども*   作:マイロ

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不思議不可思議

 青々と広がる海原が望める道路は()いている。白いカモメが海に突っ込んで、銀色に光る小魚を器用に捕まえていた。その鳴き声は聞こえない。車内は紫外線を避ける遮光シートが張られた窓ガラスにより木陰のような薄暗さで、乗っている人たちの静かな呼吸音と、快不快を感じさせない温度の空気に満たされていた――そう、すっかり眠気ムードだった。高級車に乗れるなんて滅多にないといって満喫しきっていた与謝野は三日ほどで飽いてしまったのか、外の景色も観ずに腕を組んで目を閉じている。宮沢もまたはじめの方は歌を唄ったり、天井が開いて風が舞い込むのに歓声を上げたりしていたけれども、絵画を乗せた帰り道では湿度と温度の管理のため窓も開けられない。ここ数日の帰り道は、すっかり座席に背中を寄りかからせ、麦帽子を顔に乗せるなり、すよすよと寝息を吐いている。

 

 睡魔が這い寄る午後の日差し。車のなかは、絵画のためだけに空調機器を稼働させているため、人間にとっては特別暑くもなければ寒くもない。もっというと、適度な湿度があって、涼しくもない。車のなかの停滞した空気に、ひと仕事終えつつあること、そしてここ数日間の疲れと共に、ため息をつくように目を閉じていた。

 

 夏梅はというと、故郷の海を思い出すように、外を眺めていた。

 潮の音が聞こえなくとも、夏梅の耳には車窓を隔てた先からその音が届いているように感じられた。

 ふと――ここの反対側へと目をやった時だった。

 

「――あ、」

 

 窓に手をつき、夏梅は運転してくれている茨木へと声をかける。声を上げた瞬間、今まで起きていたかのように与謝野と宮沢が目を開くが、夏梅が指さす方を確認して、表情を緩めた。

 

 

 

 

 

 

 

 太宰は黙ったまま、絵画を抱えて階段を下りる。今回の絵画は比較的小さなものだ。とは云っても、額縁を含めたら3㎏はあるだろうが。このまま次の絵を取りに行くことができないこともない、そんな大きさだ。

 

 この絵を抱えたまま次の目的地(ポイント)まで行くか、それとも一旦、絵画蔵に置きに行くか考えながら通りまで出ると、どこからか夏梅の声がした、「おとうさん!」

 

 

 そんな筈はない、そうは思いながらも首を巡らすと、郊外方面から走って来る一台の車――黒光りする高級車の窓が開き、夏梅が身を乗り出していた。

 

「危ないぞ、夏梅っ」

 

 その声が届いたかはわからないが、夏梅は車に身を引っ込め、高級車は売り物件の脇にある駐車スペースに停まった。そして重々しい車の扉を開き、夏梅が降りて来た。絵画の移動の経路(ルート)と被ったのだろう。私は太宰に声をかけようと振り返ったが、太宰はぼんやりとした表情で眺めていた。

 

「……夏梅くん?」

「ああ、太宰。どうやら、絵の回収の帰りらしい。丁度いい。見つけたその絵も持って行ってもらおう」

 

 私は太宰の抱える額縁へと目をやった。

 車の進行方向は、他の絵画を収めている蔵がある方角と同じだった。

 夏梅が走り寄ってくる。その後ろで、同じ高級車からは、与謝野と宮沢も出てくる。

 

 幼い夏梅は、私の脚に飛びついてきた。

 

「お母さんの絵、あった?」

「ああ、あったぞ。お前は絵を回収できたんだな?」

「うん。あ、太宰さんが持ってるものが……?」

 

 夏梅は離れたところで立ちすくんでいる太宰の方を向いたかと思うと、少し顔色を変えて駆けて行った。

 太宰の腕を飛び跳ねてつかみ、ずらして絵を覗き込んでいた。

 我が子にしては強引な行動だった。

 

「………ちがう、これじゃない」

 

 夏梅は安堵したようにつぶやく。

 

「もう……太宰さん、なんか困ったみたいな顔してたからへんな心配しちゃったよ」

「――なんだ、知ってる絵があるのか?」

「違うよ。ちがうから。別にそんなんじゃないし」

 

 ……反抗期だろうか。顔を覗き込もうとすると、首をそらされた。

 果ては、太宰の影に隠れるようにして逃げられる。

 

「そうか。ならいいんだが……」

 

 夏梅は顔をそらしたまま、太宰の脚に張り付いた。

 ぶっきらぼうに頬を膨らませると、太宰の腕をぺちりと叩いた。

 

「この絵、茨木さんたちに預けて仕舞ってもらうように頼んでおいたから。――お父さんたち、次の絵を探しに行くんでしょ。僕もついて行くから」

 

 私は目を丸くする。じっと夏梅の横顔を見据えてみたが、視線を嫌がり太宰の脚に顔をくっつけた。こうした――顔も観たくないと云った様子なので、てっきりすぐ帰るのかと思ったが、どうやらついてくるらしいと分かったからだ。子ども心というのは捉え処がない。……誰の心も完全に理解することなどはできないのだろうが。

 

「絵の……運搬についてはその心算だったから正直助かる。また戻って出てくるのも面倒だしな。……だが、夏梅。お前が着いてくると云っても、お前には別の仕事があるだろう。あと移動が必要な絵はどれだけ残っているんだ?」

「もうこれで終わり。だから、与謝野先生も賢治おにいさんもいいって云ってくれたよ」

 

 尖った声を出す。よほど腹の虫の居所が悪いのだろう。

 こうした時は嵐がやって来たとでも思って、あまり干渉しないのが一番だ。

 それにしても十七点もの作品を回収し、その運搬全ても今完了するところだという。実に優秀だ。少々親バカの気分に浸っていると、今まで黙り込んでいた太宰が、生気の抜けた声で疑問を口にする。

 

「織田作、夏梅くんも連れていくつもりかい?」

「ああ。別に、危険でもないし構わないだろう?」

「いけないの?」

 

 夏梅はじっと太宰を見上げる。太宰は静かにそれを見返していた。

 しばらく両者の視線が交差し、折れたのは太宰のほうだった。

 太宰相手に一歩も引かない態度を取る、我が子の太々しさを注意すべきか。

 

「判ったよ。きみがそこまで云うのならね」

 

「お前はここで帰ってもいいんだぞ、太宰。このところずっと具合が悪いんじゃないのか」

「そうなの……?」

 

 夏梅が気づかわしげな表情で見上げる。幼くなったせいか、とても大きな目が印象に残る。

 対する、太宰はうつむいていて表情がうかがい知れない。その表情を観れるとしたら、目線がはるかに下にある夏梅だけだろう。

 

「寧ろ、具合が悪くなって然るべきなのは、私ではないのだけれどね」

 

 顔をあげたとき、そこにはいつもの太宰がいた。

 包帯の巻かれた首をかしげつつ微笑む。

 

「私はいたって元気だよ」

「そんなに包帯まみれなのに?」

 

 我が子が鋭い質問を投げた。

 絵画を抱える腕の包帯をほどこうとしているのが解った。……常々、包帯の下を見てみたいと口にしていた我が子の行動力に、目が回りそうだ。

 太宰は重々しく答えた。

 

「これはね、私の体の一部なのだよ」

「そうなの!? ……そうなの?」

 

 電柵に触れた猫のようにびくりと包帯から手を離した。

 しかし、その声音を若干変えて夏梅が眉根を寄せる。

 その頭をくしゃくしゃと撫でた。人を思いやれる優しい子どもに育ってくれて誇らしい。

 

却説(さて)――次はどんな悪夢を見せてくれるのだろうね? まあ……見当が、付かないわけではないけれど」

「次の目的地のことを云っているのか?」

 

 持っていた地図を開いて、次の目的地を探す。その傍らで、夏梅が宮沢を呼び、太宰の腕にあった絵画を運んでもらうように頼んで、絵画が車へと運ばれていく。残り二点だが、どうやら次の地点が最終地点らしい。

 

「ここだ。森――いや、雑木林か? 緑に囲まれた一軒家だな。ちょっと大きめだ。どこかの邸宅なのかもしれない。行きはそうだな、夏梅もいるし、タクシーを使うか」

 

 車のエンジン音が聞こえた。

 探偵社の同僚と妻の絵画を乗せた高級車が走り去っていく。夏梅は大きく手を振って、それを見送っている。

 私は、友人へと顔を向けた。

 

「じゃあ、行くか。太宰」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タクシーの運転手のおじさんは、白い手袋をしていて、木目が美しいハンドルを握っていた。地図を持っている父が助手席に、そして後部座席には太宰と夏梅が座っている。運転手のおじさんはとてもおしゃべりで、父を相手に話しかけている。

 

「お客さん、その屋敷に行くんですか」

「はい」

 

 父は短くうなずいた。

 会話がぶつ切りになりそうだなと夏梅は思っていたけれども、運転手は手強かった。

 

「あんな辺鄙なところにいったい何しに行くんです? ――ああ、いやいや、詮索しようってんじゃないんですがね、あの屋敷は人が住まなくなって長いんですが、一度火事になったんですよ。だから、子どもさん連れていくようなとこじゃないなってことを言いたかったんです」

 

「火事に?」

 

 夏梅はちょっと首を伸ばした。

 もちろん、絵というのは紙に描いたものなので、とても燃えやすい。

 

「絵、無事かな?」

「悪さをする連中が屯してなければ無事だろう。人が寄り付くような場所でもないし」

 

 父と話をしていると、運転手が話しかけてきた。

 

「お客さん、何か忘れものでもしたんです?」

 

「うーん、そんな感じです」

 

 夏梅は、事情の説明に困って曖昧に頷いた。

 運転手にとってはそれでもよかったようだった。

 

「そうですか。なら、きっと大丈夫だと思いますよ。私は横浜でタクシー運転手(ドライバー)をしていて長いんですがね、その屋敷までお客さんを乗せていったのは、あなた方と女の子の学生さんの二回だけですよ」

「女の子? 一人だけで?」

 

 運転手は頷く、「ええそうですよ。もう……そうですね、四年ぐらい前でしょうかねえ」

 隣で、太宰が顔をあげた。少しは元気になったのだろうか。

 

「あの時の学生のお客さんは、今ではさぞ素敵な大人の女性になっていることでしょう」

「ふうん……?」

 

 学生と分かったのは制服でも来ていたのだろうか。

 それにしても、学生の女の子がそこで何の用があったのだろう。

 

「ああ、でもその時のお客さんはね、その屋敷に行こうとしたんじゃないんです。さっき話した火事の話、実は、通報したの、私なんですよ」

「へえー。その時、近くを通ってたの?」

 

「そうなんですよ。その時のお客さんはね、横浜では見かけない制服を着ていて、雰囲気も『アッこの子は他所から来たんだな』って分かるような子でしてね。何か理由があって横浜へ来たんでしょうが。とても大きな旅行鞄を持っていましたよ。女の子ひとりで引っ越してきたのかもしれませんね」

 

 運転手は海沿いの道から、木々が見える道へと入っていく。

 

「駅から拾ってきて、でもあんまり引っ越し先に早く行きたくなかったんでしょう。行き先を聞いても、あまり口にしなくてね。……今思えば、横浜に来たばかりで地名も、引っ越し先ぐらいしか分からなかったんでしょう。けど、私は横浜のことを好きになってもらいたくて、今みたいに色々話をしてたんです。まあ、性分でもありますが」

 

 運転手は恥ずかしそうに笑う。

 

「それで彼女は、さっき通ってきた、海が見えるところでちょっと反応したんです。私は長く色んなお客さんを乗せてきましたからね、『ああ、この子はもしかしたら海が見えるところから来たのかもしれない』って思いました。だから、ちょっと表情の硬いお嬢さんでしたから、喜んでほしくて海の見える道、海沿いから続く今走っているこの道を運転していったんです。……実はその時、寄り道分のお代を頂かない心算でした」

「どうして?」

 

 夏梅は運転手のおじさんの話に夢中になっていた。

 いつの間にか座席に張り付くようにしていて、尋ねていた。

 仕事をしていたのに、お金をもらおうとしない理由は何だろうと。

 

「恥ずかしながら、私には長年別れた妻と娘がいるんですが、事情があってずっと会えていませんでね。同じくらいの年頃のお嬢さんだなと思ったら、明るくない表情が妙に気にかかりまして……まあ、私の娘は、私の顔に似てしまっていて、あの時のお嬢さんくらい目を見張る別嬪さんという訳でもなかったんですが愛嬌のある娘です……娘恋しさもあったのでしょう。そのお嬢さんが、今の坊やのように外の海を眺めている間は、悩みも忘れた表情になってましてね。調子に乗って、ここまで………そこで煙が見えたんですよ。ここら辺で建物と云えば、あのお屋敷しかありませんからね」

「消防車を呼んだんだ?」

 

 ええ、と運転手は穏やかに頷いた。

 夏梅は席に座り直した。

 

「火は消えたのかな」

「消防車が到着したころには、すべてが燃えてしまった後だったようです。私は通報した後、お嬢さんを連れて、云われた通り、指定された場所から少し離れた公園で降ろしました。きっと歩いて気持ちを落ち着けたかったのでしょうね」

 

「そっか……」

 

 人にはそれぞれ事情を抱えている。

 何年も前に夏梅たちと同じ道を、同じタクシーの運転手に連れられてやって来た女の子にも事情が合ってここまでやって来た。その時のタクシーの運転手のおじさんも、事情を抱えていた。

 こうして聞いてみなければ、知らなかったこと事実――それは父の寝物語を聞いているような心地だった。

 

 

 タクシーが停まる。そこは雑木林が広がっている。

 よく見ると、道もあった。それは一本道だ。

 

「さあ、ここですよ。屋敷までは車が入れませんので、歩きで行ってもらわなくちゃならいないんです。ここは他のタクシーも来ませんから、ここで待っとります。忘れ物を持って来たら、またこっちに戻ってきてください」

「助かります」

 

 何も言わずに降りる太宰、そして礼を述べて扉を閉める父。

 運転手は片手を上げることで応えていた。

 夏梅は、運転席のドアのところに行って、話しかけた。

 

「おじさん、さっきのお話も有難う」

「なんだか不思議な話でしょう?」

 

「うん。あのね、その女の子は、おじさんが運転手で良かったって思ったよ、きっとね」

「坊やにそう言ってもらえると嬉しいねえ」

 

 運転手は目深にかぶっている帽子のつばをずらすと、眉をあげた。

 

「おや」

 

 運転手は皺の深い顔に、しゃべり口調からは想像もつかないほど穏やかで落ち着いた目をしていた。そこが笑顔になると、深いしわが刻まれる。よく日に焼けた顔だ。来る日も来る日も運転してきたんだろうなと、ずっとずっと働き続けて来たんだろうなと夏梅に感じさせる顔だった。 

 

 

 

「なんだかねえ、坊やは――あの時のお客さんのお嬢さんに似てる気がするんだよ」

 

 

 不思議だねえ、と運転手は呟いた。


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