父の話し声が聞こえて、夏梅は目を覚ました。ぼんやりとしながら、目を開けると、スマホを耳に当てた父が傍に腰を下ろして誰かと通話していた。今は何時だろうと枕から顔を浮かし、頭を巡らせて、壁に掛けてある時計を見る。すると、もう正午も近い時間になっていることが分かった。
「そうか…………じまの異能なら…何と……もなるだろうが。……ずみが警察に捕らえ……れたの…たいな」
頭を動かしたことで、夏梅が起きたことに気付いたのだろう父が、大きな手のひらで夏梅の頭を再び枕に沈み込むようにしてきた。そして、髪を梳くようになでてくる。耳にかかっていた髪が避けられたので、今度はしっかりと言葉が聞き取れた。
「ああ、こちらは無事だ。昼過ぎには、夏梅と探偵社に向かおう――ああ、ではまた」
通話を切る父の横顔を寝転んだ状態で見上げながら、聞いてみる。
「相手の人は誰?」
「独歩からだ。中島がギルドの手に落ち、泉が警察側に捕らえられたらしい」
探偵社の国木田から父に掛けて来たらしい。
探偵社は今、ギルドとポートマフィアと三つ巴の抗争に入ってしまっているらしい。
それなのに、鏡花が捕まったのは、ギルドでもポートマフィアでもなく、警察だという。
警察を巻き込んで、四つの組織が争うということだろうか。
……警察がそれを分かって、参戦するとは思えない。
「なんで鏡花お姉さんが、警察に捕まるの?」
「三十五人の殺人を犯したからだ。警察は泉を指名手配していた」
「そうなんだ」
それは正当な理由だった。云ってみれば、警察は、警察の倫理で動いている。
夏梅はちょっと黙ってから、父に聞いた。
「……探偵社は何もしなかったの?」
「中島に関しては手立てを打つ。そのために、社に呼ばれている。お前もな。だが、泉に関しては、難しい問題のようだ」
「――人を殺したから?」
探偵社に人を殺めていない人がいったい何人いるだろう。
肘をついて上半身を起こし、枕を見下ろした。
「いや、単に泉の心の在り方に問題があるとみているようだ、探偵社はな」
裏試験をする前にこの出来事だからな、と父は平坦な口調で言う。
ふうん、と夏梅は、枕に掛け算の記号を何度も指でえがいた。
「……じゃあ、お父さんは?」
「泉の処遇に関してか? それとも、心の在り方についてか?」
「心の在り方のほう」
父のことだ。鏡花を見捨てるはずがなく、助けるに決まっている。
他の探偵社員にとってみても同じことだろう。
夏梅、分かり切ったことは聞かない主義である。
それより、何度も死に、何度も生き返り、その度に記憶を失くしている父が、心をどういったものとして捉えているのかが気になった。記憶はその人自身であると言っても過言ではないくらいに重要なものであるはずなのに、その重要な部分だけが著しく欠けている父は、自分の心とどう折り合いをつけているのか。
子である夏梅ですらわからない。
「難しく考えることでもないと思っている。それに人の心の在り方を問うことなどできないさ。――人に他者の心は縛れない。悪にも正義にも。そうだな、きっと生の保障でも死の恐怖でも、何によってでもできはしないんだろう。世界は案外と簡単にできているのだろう、と俺は思う」
そうだろうか。夏梅は首をかしげる。
人は、悪に染まったり、正義を掲げたりする。
しかし確かに、悪に縛られたり、正義に縛られたりするという人を、夏梅は見たことがないかもしれない。
人がそれらを選び取ることはあっても。
「じゃあ心は自由ってこと?」
夏梅が父の顔をうかがうと、それは少し違うと父は首を傾けた。
そしてカーテンを透過した光に、父はまぶしそうに目を細めた。
一瞬、ここが、家族三人で過ごした瀬戸の別荘であるかのように思えた。
閉まっている窓は、潮風が入って来て白いレースのカーテンを揺らし、寝汚く午後まで横になっていた白いシーツの上を吹いていく。家の扉や窓はいつもどこかが開いていて、海の風を感じることができていた。
――錯覚だ。
夏梅は善く聞こえる耳で、考えられる頭で、父の言葉を拾っていく。
それは赤ん坊のころにいつも聞いていた潮風に似ていた。
「本当の自由というのはきっとどこにも存在しないのだろう。それだけ自由という言葉についてくる責任は重いものだ。本当の自由を手にしたとき、人は自分を縛る何かを欲するんだ。それが正義であったり、悪であったりするだけで、当人が望まないものに、本当の心は縛れはしないんだろう」
「ふうん……?」
枕の上に肘を立て、両手で組んだ上に顎を乗せて父を見上げる。
父は片膝を立てた上に乗せた腕の先を見ながら言った。
「それは自己犠牲的な献身さえ、当人が望まないのなら、心まで縛れはしない。葛藤するのなら、それは少しでもそれを望む心が自分にあるからだ」
「やっぱり難しい話だね」
「そうか? 望む心と、それを行動したという結果だから、分かり易いと思うが」
「見えない心と、見える行動がどっちも必要ってことでしょ? ……でもきっと行動が難しいんだよ」
体を起こして三角座りする。膝に顎を乗せながらしゃべると視界がぐらぐらする。
父の声は、静かな部屋によく響いた。
「だが、それを探偵社は要求している。正直に言うと、俺はお前が探偵社の社員に合格しなくていいと思っていた。今も、多少なりともそういう部分はある」
からかうように言う。
「ちゃんと話し合いしたのにね」
「親子会議、か」
「そうそう」
連日連夜に長引いた会議だ。その頃の夏梅は大変な早寝であったので、夜8時で会議は終了していたけれど。
探偵社の社員に求められていること。それは、見知らぬ誰かのために自己を犠牲にできるか。
夏梅はその試験を合格した覚えがない。あの探偵社での人質事件でさえ、父が人質になるよりはと思って行動しただけだ。知らない誰かのために、夏梅は、父を残して自分を捨てることができるのだろうか。それを父に望まれているとは思いはしないけれど……。
自己犠牲。犠牲とは何のためかと言われれば。
「そっか。それは、自分の他に誰かがいないと成り立たないものだね」
自分を犠牲にしても残るものがあるから、それを選ぶ。その時、それが自分の命より尊いかどうかを考えるまではしないのだと思う。なぜなら、自分の命より尊いものなどそうそうないのだ。自分の命を考えるより、他の人の命を尊重しようとする気持ちが先行して、行動してしまうのだろう。夏梅には、想像することしかできないけれども。
知らない誰かを見捨てることさえないのなら、知っている誰かを見捨てることはないのだろう。
ここで捨てる命は、きっとここの誰かによって想いを引き継がれていく。
「そっか。人間は他の人がいない自由がとっても寂しく感じるんだね」
だからきっと、探偵社にいる限りは、独りぼっちになることがないのだろうと思った。
夏梅は目を閉じた――昨晩のやり取りがぼんやりと思い出される。
『夏梅。――絵は、必ず守る』
安心しろ、と父は言った。
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「ようやく来たか、織田作、夏梅。息子がついているせいか、時間通りだな」
「近所のおばあさんに話しかけられたんだが、夏梅がうまく切り上げてくれた。いつも助かっている」
「………そうか。いや、もう何も言うまい」
事務所の扉を開いてすぐのところで仁王立ちしていたのは、国木田だった。
夏梅は父の後ろから顔をのぞかせてその姿を確認すると、走って飛びついた。
「おおお!? なんだ急に」
「……なんでもー」
腰のところにぎゅうと顔を押し付ける。
事務室の奥から江戸川が顔を出し、ふむと眼鏡を直して「成程、そう来たわけか」と意味深に言う。その声を聞きつけて夏梅は、国木田から慌てて離れた。
「乱歩さん、あの、ネズミ……」
「勿論、判っている。そのことについても話そうと思って呼んだんだ」
江戸川はくるりと一回転したのちに、段々担ってる本棚の上を駆けのぼり、天辺に立つ。
掲げられた指はなぜか三本。
「ようやく集まったな、凡人ども。
三本指を立てられる。その間に、与謝野や谷崎兄妹、宮沢らもやって来る。口々に挨拶を交わしながら、江戸川の眼前に集まる。そこに太宰の姿は……なかった。
「ひとつ、中島敦がギルドに連れ去られた。ふたつ、泉鏡花が警察に逮捕された」
誰も、鏡花が探偵社員ではないとは言わなかった。
夏梅は、江戸川の次の言葉を待った。
「そして――みっつ、社長の亡き姪である中村和枝の絵画が、横浜への運送中に何者かにより奪取された」
驚いて、夏梅は江戸川を見上げ、父を振り返った。
父は夏梅の肩に手を置いた。
「中村和枝は、織田の妻であり、夏梅君の母上だ。早逝しているため、ポピュラーではないが、そちらの業界では期待された画家で、かなりコアな
そこで江戸川は言葉を切る。
「整理しよう。僕たちは、ギルド、ポートマフィアとで争っている心算になっていた。さっき挙げた人質二名に関しては、ギルドの計略にすっかりはまってしまった結果だが、物質に関しては、この二つ以外の勢力によるものだ」
その組織の名は――
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悪夢を見た子どものように、嗚咽する我が子を何とか眠らせる。眠っている間も少し険しい顔で眠っている夏梅に、布団を肩まで掛けてやりながら、片手でスマホを操作した。
夏梅の傍を離れ、夏梅が着ていた服のポケットを探る。そして、そこに夏梅が使っているメモ紙と同じ模様のメモ用紙が一枚入っているのを探り当てた。
一度、夏梅がしっかりと眠っているのを振り返って確認し、居間に行ってから、電話を掛けた。
「――ああ、太宰か。夜に遅くに済まない。例の紙だが、見つけた」
『日本語かい?』
何かが書かれていることは知っているのだろう。
郵便局の受付の衝立の反射で、夏梅が背後で妙な紙をポケットに入れるのを見ていたというのだから、抜け目がないというか、細やかなことに気付くというか。
さて、それよりも問題はメモの事だ。英語ではないことは確かだ。生憎と母国語以外は、辞書も繰らないので、大した判別はできない。
「いや、外国語だな。どこ国の文字かはわからないが」
『写真を撮って送ってくれ』
わかったと頷き、写真を撮る。こうした時にいい絵が撮れるようだといいのだが、自分では手やスマホの影が入らないように調節するくらいが精々だ。昼間であれば割と簡単なのだが、室内であったり夜であったりすると天井からの照明でうまくいかないことが多い。夏梅の方がよほどうまくとる。まずは昼間我が子に、写真の撮り方の教えを乞うべきだろうか。
『成程。これは露西亜語だね。“人間には、幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である”と書かれてある』
「お前は露西亜語もできるのか。相変わらず、多才な奴だな」
『……ふふふ。まあ、そうでもないさ』
それにしても、悲観的な言い回しだ。
ありふれた内容ではあるが。
「夏梅は露西亜語はできない。これを読めたとは思えない」
『最近はスマートフォンで写真を撮るだけで、自動翻訳してくれるアプリもある。それを使えば、誰だって意味を理解することは可能だろう。――ま、精度のほどは知らないがね』
夏梅が本当にこの文章を翻訳して読んでいるのだとしたら、写真の撮り方だけではなく、アプリの使い方も習うべきかもしれない。
「だが、その文章を読んで一体どうするというんだ?」
『文章だけではないさ。それだけなら、夏梅くんも不可解に感じるだけですぐに忘れただろう。……しかし彼はこのメモに過剰に反応した』
それは何故か――?
太宰の言葉に緊張を飲み込む。
「メモ帳を使った異能力か?」
『ふむ、面白い意見だ。もしそうだとすると、僕がそのメモに触れた時点で、無効化されるだろうから話は単純なんだがね』
「そうではないと?」
『物事はもっと複雑なのさ。夏梅くんにとってそのメモに書かれていた事柄が無視できないものになっていったのかもしれない。わざわざ夏梅くんの使っているメモ紙を同じものを使用しているのだからね。いっそう得たいが知れなく感じただろうし』
「夏梅の物なのか、これは」
『勝手に、減っているらしいよ。春野さんからの情報だ。私も見覚えがあってね、確認してもらったんだ。夏梅君くんの引き出しの鍵を開けてもらったんだけれど、誰も使っていないはずなのにね』
「なんだか気味が悪いな。夏梅はそのことに気付いているのか?」
『おそらく半信半疑なのだと思うよ。でも、いつも使っているものだから、角の折れ具合とかで、何か感じるものがあるかもしれないね。まあ、メモに書かれた内容を私たちが見たのはそれ一つだ。その他にもメモを受け取ってそこに決定的なことが書かれていたのかもしれないし、実際に何かが仕掛けられたのかもしれない。最近、何か夏梅くんに変わったことはなかったのかい?』
変わったこと――たっぷり五分間考えたが、首を振った。
「いや、特には」
言いかけて気づいた。
「ここ数日、俺は妻の個展の打ち合わせで、あまり夏梅についてやれていなかった。だから、気づくことができなかったのかもしれない」
『……ビンゴだ、おそらく』
「なに?」
太宰の口調が変わった。
『ちょっと大掛かりになってきそうだよ。嫌な予感はこれだったのかな、まったく性質の悪い嫌がらせだよ』
「どういうことだ?」
『狙われているのは、記憶だよ、織田作。君の奥さんの絵が物言わないことを良い事に餌にするつもりだ』
視界が、溶かしたバターのようにゆがむ。その単語を、口にしてくれるな。
スマホが手から滑り落ちる。床に膝をついて、頭を抱える。
スマホから太宰の声が聞こえてくると、真っ黒なもので視界が覆われ、いつの間にか通話が切れていた。燃える車、直前まで叫んでいたはずの***たちの悲鳴は届くことなくはじけ飛んだ……誰の悲鳴だ?
「お父さん!」
「夏、梅………ああ、生きていたんだな。善かった、よかった、よかった、よかった」
夏梅の華奢な腕が頭に回り、耳をふさぐ。
夏梅の小さな脈動が聞こえた。いや、自分の物なのか。
「絵は――」
首につきりと何か冷たい物が触れた気がした。背中から床へと沈んでいく。床の下は暗く、底はない。どこまでも沈むなかで、白い腕に押しのけられた。
「あん、しんしろ……なつめ」
底のほうで、笑い声が聞こえたような気がした。