夏の梅の子ども*   作:マイロ

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知ってる知らない

「……僕、向こうの車の方見てくるね」

 

 二人から離れて、夏梅は衝突してきた車の様子をうかがうことにした。

 

 自家用車だ、普通の。蜘蛛の巣状にひび割れた助手席の窓からは、向かいの運転席の様子を見るのは苦労したが、はっきりと見て取れる。白い風船のようなものがハンドルから飛び出た状態の運転席は――もぬけの殻だった。思わず首をかしげる。

 

「血もないし……こっちの人は怪我なかったのかな?」

 

 夏梅は今度は、ひび割れた助手席ではなく、後部座席の窓に移動し、中を覗き込む。

 車内は、実に飾り気がない。交通安全のお守りも、箱ティッシュも、座席の座布団も、暇つぶし用の文学雑誌も、家族や故人の写真も――何一つない。誰が乗っていたのかという手掛かりを見つけられず、夏梅は諦めて相手の車から離れる。

 

 辺りに人影はない。

 昼間であるにもかかわらず、ちょっと意外なほどの静かさだ。

 

「見てた人もいないし、運転手もいないし。……じゃあ」

 

 夏梅がこの現場に駆けつけるまでに、逃げ出したのかもしれないけれども、そうなると……。

 

「……ひき逃げってこと?」

 

 なんだか引っ掛かりを覚える。交差点に差し掛かったところで衝突した車。太宰が乗っていた車が走行中に、別の車が停止せず衝突してきたと思ったけれども……。

 

 夏梅はちらりと重傷を負っている、運転席にいた太宰の知り合いの人に目を向ける。地面に横たわり、いまだに指一本としてピクリとも動かせない。

 その近くに立ち、会話している太宰にも。

 

 

 何か腑に落ちない。

 

 使用感のある年代物の車のわりに乗っている人の人柄が分からない車内、いつの間にかいなくなっている相手の運転手、そして――太宰の乗っていた車のほうの、タイヤの跡の不可解さ。まるで、ここで最も大けがをしている安吾という人物が、自ら交差点の中で車を停止させていたように見えるタイヤ痕。見晴らしの良い交差点で、止まっている車が見えているはずなのに、相手の車はぶつかってきた……。

 

「変なの………」

 

 うろうろと視線をさまよわせた結果、二人のもとへ戻ることにした。

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 近づくと、やり取りする声が大きく聞こえる。

 負傷している割に、口はとても元気であるようだった。

 

「涙が出るほど面白いですか。あなた、ちょっと情緒不安定なのでは?」

 

「棺に納まった死人スタイルに仕上がった君に言われるとね、ちょっとばかり精神を平静に保っていられないのだよ。ねえ、安吾、私今から花屋にでも行って、君のその胸の上に組んだ両手に持たせる花束でも用意してきてあげるべきかな?」

「馬鹿馬鹿しい問いかけですが、敢えて忠告(アドバイス)しましょう。私は死んでもいませんし、死ぬつもりもありませんので、不必要な労力ですね。ご自分で善く悟って行動することをお勧めしますよ」

 

「定番は白い菊かなあ? 百合の花も善さそうだよね?」

 

 いつかの夏梅を思い出させる台詞である。

 彼岸の時期でもないのに、なんだろう。誰か亡くなったのだろうか。

 太宰の近しい誰かが亡くなったのではないことを祈ろう。

 

「人の話を聞いていますか? それがあなたの悟った上での結論なのですか?」

 

 喧嘩しているのだろうか、と近寄るのを躊躇する。

 すると、そんな夏梅に気付いたのか知らないが、思い出したかのように太宰が振り返った。

 

「そうだ、これは返そう」

 

 夏梅は差し出されたスマホを受け取った。

 瀬戸の有島の海の写真がホーム画面になっている。

 これは瀬戸の別荘にある母のアトリエの窓から見える景色を写真に撮ったものだ。

 

「……うん。救急車はどのくらいで来るかな」

「あと五分ぐらいで来るのではないかな」

 

 ほんのちょっと時間があるようだった。

 

 緊急連絡はパスコードが掛かっていてもできるので、太宰は救急車を呼べたのだ。

 夏梅はちょっと考えてから、パスコードを解除して、連絡先から父の電話番号をタップした。夏梅は、事故に遭った際に、警察よりも会社にいる夫に電話するという話を、父親が警察官である安井から聞いたことがあるのを思い出し、電話した方の奥さんの気持ちが分かった気がした。

 

「もしもし……お父さん?」

 

 コールは二回ですぐにつながる。しかし、接続が悪いのか、何かが地面を引きずるような音が聞こえた。聞きなれた父の声が耳に届いた瞬間、ほっとした。

 

『夏梅、無事か。いつまでたっても講堂に姿を見せないから、何かあったのではないかと心配したぞ。今までどこにいたんだ。今は、どこにいる?』

 

 淡々と、しかし矢継ぎ早に問いかけられて、ちょっと黙ってから夏梅は答えた。

 

「うーんと、乱歩さんから連絡が来るまでは、美術館の施設の人のとこにいたんだ。で、ちょっと用事を済ませてて……今は」

 

 言いかけて、スマホの奥から、金属をはじくような音と知らない人の喚き声が聞こえて来ていることに気付く。さっきの妙な音も、接続が悪かったからというわけではないようだ。

 

『どうした?』

「なんでも。今は太宰さんと、知り合い?の人と一緒にいるよ。……お父さんは何してるの? なんか、変な音と声がするけど」

 

 何かが地面に落ちる音、うめき声。

 

『太宰がいるなら大丈夫だろう。俺は今は、そうだな……招いていない客の応対をしている』

「なんだか大変そうだね」

 

 ガン、ガンッと銃声が聞こえて、何かが地面に打ち付けられる音――その拍子にうめき声が聞こえたので、打ち付けられたのは人だろう――の後、父の声が再び耳に届く。

 

『そうでもない。来ることは乱歩さんが予想していたからな。それに――ちょうど今終わったところだ』

 

 夏梅は生唾を飲み込み、父の言葉をちょっと違うニュアンスで繰り返した。

 

「今、ちょうど終わったところなんだ……」

『ああ』

 

 父の声は平坦で、カケラも動揺したところが見られない。

 あ、そう、と肩をすくめる。ちょっと期待外れの反応だった。

 ……どんな反応を期待していたかは自分でもわからないので、別にいいけれども。

 

「そっか。でも、お仕事中は電話切っててくれていいんだからね?」

『そうしよう』

 

 講堂へやってくる敵がいれば、撃退という役割と担っていた父は、相変わらず息切れ一つしていない。すごいなあと思う。夏梅は、不器用に駆けずり回って、汗と埃と土ばっかりだというのに……。

 まあ、ともかく、取り込み中の仕事が終わったのは善いことだ。

 

「終わってよかったね。おめでとう」

『ああ。ありがとう。ところで、お前はいつこちらへ来られるんだ?』

 

 いつと言われると、用事を済ませてからと応えるしかないのだが。

 

「うーん……もうちょっとしたら」

『そうか……。あまり遅くならないように。晩飯は何がいい。社で出前を取るらしい。今、点呼をとっている』

「そうなんだ。何の料理? なんでもいいの?」

『ああ』

 

 云ったな。何でも善いという言葉を簡単には使ってはいけないとは、老医の神西からの受け売りだ。夏梅は心の中で父にも言う。そして頭の中でじっくりと考えて、最も困難だと思うような要求をしようと思った。……が、夕食の要望程度では、父を困らせることができるようなものは現時点では夏梅には思いつかなかった。

 ちょっと難易度が高いなあと、夏梅は自分の欲求を素直に告げることにした。

 

「じゃあ、カレーがいい。赤い漬物はなしでね」

『福神漬けは無しだな』

 

 父が深々と頷く気配がした。

 

「辛さは辛口ね」

『ああ。ちなみに俺もそれにする心算だった』

「……知ってるよ?」

 

『そうなのか?』

 

 実に、不思議そうな声音だが、このことに関してそうと察しない人は、父の知り合いにはあまりいないのではないかと思う。いたらそれはモグリだ。

 

「そうだよ。じゃあね。たぶん、5時には帰るから」

『晩飯には間に合うんだな。ではその時間に合わせよう。太宰も一緒なら、できるだけ離れずに行動するんだぞ、誘拐されないように、知らない人にはついて行かないように。ああ、そうだ切る前に、太宰の出前も聞いておいてくれ』

「はいはい」

 

 太宰とは別れて行動しなくてはならないことがあるのだが、それについては黙っていい子のお返事をしておいた。スマホから耳を離して、太宰に問いかける。

 

「太宰さん、夜ご飯って何がいいですか? 出前にするらしいんです」

「それで、カレーか。君の“お父さん”もそうなんだろう?」

「そうですよ。やっぱりわかるんですね?」

「そりゃあね」

 

 目を細め、父を思い浮かべているのか遠い目をする太宰は、笑いの呪いが掛かっていたのかと思いもした姿からは脱却したらしい。父の友人としての付き合いの深さが感じられる。きっと父の記憶がない分も。いつもの姿だ。

 ね、と夏梅は頷きつつ、太宰の返答を聞く。

 

「私も同じものにしようかな。あっ 辛さは控えめで頼むよ」

「控えめって、中辛ですか?」

 

 夏梅は首をかしげる。控えめに辛いということだろうか?

 尋ねると、太宰は何を思い出したのか、ちょっと顔をこわばらせた。

 小さく舌を出し、手で口元を仰いでいる。……なんだろう、口のなかでも暑いのだろうか。

 

「………いや、甘口でお願いしたいかな。なにしろこれから胃がきりきりしそうな案件ばかりが起こりそうな気がしてね。ちょっとばかり嫌な予感がしているのだよ。今のうちに胃を労わっておきたいのさ」

 

 ぺらぺらと早口になった太宰は、妙な汗をかき、へらりと笑いながら手のひらを振る。――いつもの太宰だ。太宰の知り合いは、ふんと小さく鼻鳴らし、空気に消え入るような控えめさで「……なら咖哩(カレー)は辞めればいいでしょうに」と呟いた。ちらりと見ると、言った言葉を後悔したように唇を噛んでいた。呟きの声はなんだか暗いように聞こえた。カレー、嫌いなのだろうか?

 

 夏梅はちょっと意外な気持ちになりながら、父に太宰の注文を伝えた。

 

「太宰さんは、カレーの甘口だって」

『了解した。ああそうだ』

 

 父は、言葉をつづけた。

 

『太宰と一緒なら、そこに谷崎もいるだろう。聞いておいてくれ』

 

 え、と夏梅は吃驚した声が出た。

 

『いるだろう?』

 

 疑問形だったが、当然そうだという事象を確認するような響きだった。見落としたのは自分かと、夏梅は周囲を見回す。

 しかし、橙色の特徴的な頭は見つからない。

 どころか、相変わらずの人通りの少なさだ。車の一台さえ通りがからない。

 

『いないのか?』

「……うん」

 

 夏梅は、車の事故の不可解なところが次々に思い浮かび、刹那の思考に、うわの空になる。

 

『可笑しいな、太宰が外へ出かける際に連れて行った筈なんだが』

 

 何かがかみ合いかけたところで、太宰の知り合いに「どうしたんです?」と声を掛けられて、ぼうっとしたところから我に返り。慌てて曖昧にわらった。まとまりそうだった何かがふわりと解けていった。

 

「えっと、ね……太宰さんの知り合いの、安吾さんっていう人はいるけど」

 

 通話中であるのを気遣ってくれたのだろう、太宰の知り合いの人は黙って横を向く。もっとも、通話先の声は聞こえないだろうが、こうした配慮が大人だなあと夏梅を感心させた。

 

 

『安吾? ――知らないな』

 

 父も知らないのだな、と夏梅は納得する。それもそのはずだ。

 

「まあ、太宰さんの知り合いだからね」

『それもそうだな。谷崎は別行動しているんだろう。また別に連絡する』

 

 谷崎兄のことなら、谷崎妹に聞けばよいとは思ったのだが、父が夏梅の嗜好を知っているように、夏梅が父の嗜好が分かることに気付かない父に言うのもなあと思って黙っておいた。

 

「それじゃあ」

『ああ。晩飯までにはちゃんと戻って来るんだぞ』

 

 通話は切れ、夏梅はホームに戻った画面に、いくつかの不在通知か来ていることに気付く。何だろうと思っていると、下から声がした。

 

「親御さんですか」

「うん。お父さん。『今どこにいるんだ』『いつ帰って来るんだ』『遅くなるんじゃないぞ』ってね。ちょっとうるさいけど」

 

「善い父親じゃないですか」

 

 太宰の知り合いの人は、ふっと笑った。否定はしなかった。

 不在通知を未読にしたまま、スマホをポケットのなかに入れ、静かに握りしめた。

 

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 

 曲がり角を曲がると完全に目で追うことはできなくなり、耳に届くサイレンの音もが遠ざかっていく。

 よく喋っていた割に、大怪我だった。探偵社の与謝野がいれば、すぐにでも治るのだろうが、それは異能力者であることを明かすことになってしまう。珍しい回復系の異能の持ち主であることを知られるのは、ただの異能力者がそれと知られることよりずっと危険だという。

 

「早く怪我が治るといいね。……太宰さんの知り合いさん」

「坂口安吾。奴は『鬼札』さ」

 

「おにふだ?」

 

 物か何かのように言われているように感じた。

 気のせいだろうけれど。

 

 

「異能特務課。政府のエージェントさ。異能力犯罪者を取り締まるのが仕事」

「それは大変そうな仕事ですね」

「そう。でもそれが仕事なのさ」

「仕事だったら、仕方ないですね」

 

 太宰は少し笑った。

 

 救急車に乗せられていった安吾と呼ばれる人を見送った夏梅は、同じ車に乗るほどの間柄にも関わらず救急車に同乗しなかった太宰を横目で見上げて、どう行動したものかと内心でぐるぐると考えてしまっていた。

 そうした夏梅に気付いているのか、太宰ははあ、と擦り傷の目立つ腕を伸ばした。そこでどこからか、ばきり、と音がした。夏梅は辺りを見回していると、頭上から太宰の声が降りてくる、「却説(さて)、夏梅くん――」と太宰の顔がこちらを向く。

 

「どうしよう」

「……どうしたんですか、太宰さん」

 

 真面目な顔をした太宰が、腕を伸ばしたままの状態で停止している。なんだか嫌な予感がしつつも、おとなしく続く目を合わせないように目線をすこし下の位置で彷徨わせながら言葉を待っていると、夏梅は伸ばされたその腕が小刻みに震えていることに気付いた、

 

「あれ――腕どうかし」

「折れた」

 

 

「え?」

 

 思わず顔をあげる。

 生気を感じさせない張り付いたような笑みが、科学の実験で加熱中のビーカーに入れた沸騰石の動きのように絶え間なく、震え出す。その振動に合わせて笑みという表情が徐々に壊れだしていた。

 

「もしかして、さっきの事故で折れてたんです?」

「いや――今、折れたんだ」

 

 

 

「え?」

 

 

 腕を見る。ピンと伸びている――ように、片方は見えた。

 もう片方は、なんだか奇妙な曲がり方をしている気がする。『今』とは?

 

「いやあ、これは予想外、いや、ホント」

 

「え?」

 

 正気だった人が狂気に落ちていく過程を目の前にしているような、笑みの壊れ方。そうと感じて、一抹の不安と凶器を同時に覚えながらも、逃げ出すわけにはいかず、ただ、現状を受け止めきれずにいた。

 

 上からさらに声が降って来る。

 

 

「折れた、ようなんだよ。――今さっきのことさ」

 

 

 脂汗が滲んでいる額はきらりと光り、夏梅は何とか事態を飲み込もうとして、現状を振り返る。

 救急車を呼んだ。負傷者を乗せて、病院へと去っていった。

 その後に、軽傷だったはずの太宰は、伸びをした拍子に自分で腕を折った……?

 

「え?」

「うう、痛いっ」

 

 腕以外の体をあらぬ方向に曲げながらもだえ苦しむ姿を視界に留めていると、なんだか自分の頭がおかしくなってくる気がして、空を仰ぎ、はるか上空を横切る小さな飛行機の雲を見ながら、明日は雨かなと現実逃避してから、視線を隣に戻す。

 

「太宰さん」

 

「な、なんだね?」

 

 何故か蟹股の、海老反りの、首捻りの状態で目を合わせてくる父の友人へ、表情の乏しい夏梅の、それでも滅多に出ない真顔を向ける。

 

 

「――間抜け過ぎじゃないんです?」

 

 

 

 夏梅は、与謝野の異能の利かない太宰を連れて病院へと付き添った。

 右腕の骨折のため、包帯を首からつるしている太宰は、夏梅の用事にも付き合ってくれた。特に大したことはしないし、待たせるだけなので恐縮なのだが。

 

 

 横浜のとある駅の改札口を通り、桃色に染まる雲が美しいほんのちょっとの時間、定刻通りにやって来た電車に乗り、すぐに降りる。そして、そのまま改札口へと戻る。改札口を通る前は持っていなかった大きな旅行鞄を引きずり、改札口で待っていた太宰とともに駅を出る。

 

「それはなんだい?」

「お母さんの形見です」

「大切な物なのだね。君には大きすぎるだろう。私が運ぼう」

「そんなに重くないから平気。太宰さんだって腕怪我してるしね」

「君よりは力があるよ、大人だからね」

 

 そう言って太宰は、夏梅から旅行鞄を攫っていった。

 燃えた匂いがする。その奥からしみついて取れないのだろう、絵の具の匂いがする。

 

「中には何が入っていた(、、)のかな?」

 

 太宰は軽い口調で尋ねてくる。

 旅行鞄の中身がないことを、持ったことで分かったのだろう。

 

 

 夏梅は、質問を質問で返すことで、正解を半分だけ教えた。

 

 

()だと思う?」

 

 

 夏梅だって、知らないことだったのに。

 


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