夏梅は試験に合格して、晴れて探偵社の一員となった。
「きみに訊きたいことがあるのだよ」
包帯の人物は、夏梅がひとりになるとそう言って声をかけてきた。まるで、人さらいをする人間のようだなと思った。人の良さそうな声と笑顔で近づいてくる男性は、ひょろひょろと肉の薄い体をしている。首に巻いた包帯が痛々しい。けれども、夏梅の記憶するかぎり、その包帯が解かれたことはない。おしゃれでもしているのだろうか。包帯で? 夏梅は思考がお
「ぼくにですか」
新入りの夏梅に訊きたいこととはなんだろう。振り返る際に、制服の襟が首もとの隙間を詰めてきて、息苦しさに顔をしかめた。書類を持っていないほうの指で襟元を寛げていると、対面する包帯の人物は包帯が巻かれた両手首を背中へ回し、小さい子へするように態々腰を折って顔を近づけてきた。
「織田作……いや、きみのお父さんの話なんだけど」
「あの、これを社長にもっていったあとでもいいですか」
もちろん、と包帯の男性はにこやかに頷いた。
ふさぎ込む父に、追い打ちをかけるように、子がさらわれた。その土地の子どもたちとともに子狩りにあったのだ。猟奇的な連続誘拐殺人に巻き込まれたのだ。子は、頭を砕かれた。そして次々に集められた子どもたちが殺された。父は探してその連続誘拐殺人犯を追い詰めた。そこには殺されかけようとしている子どももいた。父は、子の死も目にしたのだろう。犯人を殺そうとしたとき、父は踏みとどまった。死んだはずの小さな手が成長して、それを止めたのだ。警察へは匿名者による通報によって事件は収束した。
「でもころされた子たちはたくさんいて、怪我をした子どもたちもいて」
「それは凄惨な事件だねえ」
「おとうさんは、生き残った子どもたちで、行き場のない子をひきとって面倒をみることにしたんです」
「へえ……相変わらずお人好しだねえ」
『凄惨』という言葉が分からなくて、小首を捻ったが、そのまま続けていうと、その人は父を『お人好し』といった。
『お人好し』の意味も解らなかったけれども、それは妙に夏梅の頭に残った。
父は事件で親元のわからない子どもたちや身寄りのない子どもたちを集めて、暮らしていた海の別荘を改築し、子どもたちを養育する施設を開いた。直接の運営は地元の人々の手を借りた。父はなれたように子どもたちの世話を買って出ていた。それが、『お人好し』なのだろうか。
「ぼくはその事件で、頭をなぐられました。そこで異能がかいかしました」
「そう説明されたのだね」
「はい。ずがいこつがかんぼつしていたらしいです。ぼくがおきたとき、十二歳くらいに大きくなっていました」
「そりゃ暴力的な犯人だねえ。頭蓋が陥没するといったら……ああ、やられたのは幼児の頃だっけ」
「二歳のときです。それからいたいけがをすると、ちいさくなったり大きくなったりします」
「なるほど、きみは自分の異能を把握できない……それで社長の『部下』になりにきたと」
夏梅は頷いた。そして首を傾げて、相手の男性に尋ねた。
「太宰さんは、どうしてここにはいったんですか?」
「うーん………人助けかな」
えらいですね、と頷いた。ウエイターの女性が珈琲とジュースをもってくるので、ありがとうございますと会釈をした。ジュースのほうに口をつけてから、目の前の彼に尋ねた。
「ぼくもおとうさんのことで訊いてもいいですか」
「うん、何だい?」
にこやかに微笑むその人は机の上で両手を組み、先を促した。
「太宰さんは、おとうさんのむかしのともだちですか」
やっと違和感の正体が分かった気がした。
妙に、親しげに見えたのは、どこか引いている父と一方的に父の多くを知っているような彼との温度差が目に付いたからだろう。
そして、その理由として考えられるのは、父がなくした記憶の中に彼が深くかかわっていたということだ。その人が死ぬ前に強く思った記憶が無くなるのだから。
つまり、父がなくした記憶に彼がいたのなら、彼は父にとってかかわりの深い人間だということだ。……そして父が、特に何の理由もないのに相手に危害を加えようとするのは、昔にかかわりの深かった相手だったと記憶している。
夏梅の出社初日に、父が夏梅の前で普通の顔をして、太宰の包帯がまかれた首を絞めていたのは、
「昔の……きみは、彼が。きみのお父さんが記憶を失くしていることを知っているのだね」
知っている。一歳くらいの頃に母が話しているのを聞いたことがある。夏梅は、母の胎中のなかでの記憶も覚えているくらいだ。生まれる瞬間の記憶もあるし、生まれた後の記憶はもっと鮮明だ。目ではほとんど情報を拾えなかったことも覚えている。
「彼はね、私がここにいる理由――大切な友人だよ」
「そうですか。……これからも父のことをよろしくおねがいします」
夏梅の大切な存在を、同じく大切だと言ってくれる人がいる。夏梅はわらって頭を下げた。すると、頭上で太宰がふっと息を吐くのが聞こえた。不思議に思って顔をあげると、太宰は眉を下げた笑みで夏梅を見下ろしてきていた。
その眼差しになにか影を見たような気がして瞬くと、太宰は目を細めてそれを隠した。
「きみはきっとお母さん似だね。あいつとは大違いだ」
「……おかあさん?」
「とても素直ってことだよ」
母とも知り合いなのだろうかとも思ったが、それは違うような気がした。太宰のことばには、父に対するもののようには気持ちがこもっていなかった。
それが、中村夏梅に太宰治という人物を苦手に思わせた。
「ところで、お酒飲む? 織田作とも一杯くらいやってるんだろう?」
「ぼく未成年です」
「あーあー、そういえば真面目だったものねえ……そういえば、きみが織田作の息子っていうのは分かったけど、改めて年は一体
珈琲を片手に軽快にわらう太宰に、夏梅はいま聞くのかと思いながら答えた、「まだ三歳だよ」
ぷぷーと口に含んでいた珈琲を噴き出す太宰の正面をささっと通路の方へ移動して避けた。その夏梅の肩に手がおかれた、「帰るぞ、夏梅」
いつの間にかやって来ていたらしい父の姿がそこにあった。
うん、おとうさん、と席を立ちあがる。じっと追ってくる視線を感じて、夏梅はその人物の方へと向いた。そして口を開いた。
「おごってくれてありがとうございました。次は、おとうさんにおごってもらってくださいね」
太宰治は、にこりとわらって手を上げふたりの父子を見送った。背は父の方が高く、まだ育ち切っていない子は、それでも父子よりは兄弟だ。どことなく表情ははっとするほど似ている時はあるが、細面で柔らかく整った顔立ちは程遠い。少年の域を出ていないせいか、首も手首も足首も細い。ほっそりとした白い指が、父親の腕の部分の衣服を掴んで連れ立って行く。太宰はそれを頬杖をついて眺めた。
「……まあまあ、織田作のやつってば、しっかり父親やってくれちゃって」
こんな日が来るとは思わなかった。
「――というより、今でも信じられないけど」
織田作之助は死んだ。太宰治の目の前で――確実に。生きていることは望外の喜びの筈なのに、あまりにもありえなさすぎて、それを疑ってかかるしかない。とはいえ、太宰は恩義ある探偵社の社長、福沢から詮索無用と直々に釘を刺されてしまったので、表だって探るわけにもいかない。目の前の事象を受けとめればいい。
けれど、太宰自身が、それをさせない。
「織田作をつかった死体人形かとも思ったけど、違う。あれは織田作自身だ。記憶がないだけ……記憶が無くなるだけで人を生き返らせる異能力をもつものがいた?」
そんなめちゃくちゃな異能があるはずがない。思い出すのは、織田夏梅という織田作之助の息子として入社してきた少年のことだ。致命傷ともいうべき大けがを負うと、年を重ねる代わりに、死を回避する異能力……だろうか。
「織田作に奢ってもらう時に訊いてみるかなあ……」
何を考えているのか分からない。このことまで考えが及んでいたのだろうか。
太宰は机に突っ伏した、「…………三歳児だぞー、相手は」
帰り際に、そんな気を遣うようになったのか、という父に、夏梅はかわりばんこなんだよと返した。