夏の梅の子ども*   作:マイロ

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第三幕 絵画は真実を騙らない。
赤点だらけ。


 母方の祖父の屋敷は日本家屋で、増築が繰り返されている部分には、和洋折衷になった区画が多々ある。その屋敷は毎年増築を続けている。横浜から久方ぶりに瀬戸へ戻ってきた者にとっても既知と未知が入り乱れていてちょっと混乱する。回廊の継ぎ目は真新しいところから、古い方へ。そうやって、小走りで進みつつ、かち合いそうになる人がいれば、たくさんある曲がり角の一つに身をひそめた。そうして誰にも見つからずに足を向けていくと、目当ての部屋を見つけた。

 換気と日干しのために開けられている障子の間をすり抜ける。なかに人は不在だ。この部屋の主は、いつもこの時間に早朝稽古をしている。その時間を見計らって、こっそりと部屋に入る……これは身内の犯行ですね、と脳内で実況しながら、電気のつかない部屋を進む。

 

 まず日当たりのよいそこは来客用の部屋で、その奥に二つの部屋が引き戸で区切られている。合わせてこれら三つの続き間は、すべて祖父専用の場所になっていた。

 奥の奥。来客用、寝室用、その奥が物置になっている。奥に進むほどに暗さが比例する。

 最も奥に進んで、薄暗いその部屋へ行く。光が届きにくい部屋で、そこには祖父が大事にしまい込んでいる、とあるものがあることを、夏梅は知っていた。

 箪笥の最も上の棚の、左側。そこにあるもの――。

 

 手を伸ばせば、“それ”に届いた。

 

 そこに掛けられた布をといて、中身を見る。埃一つ被っていない。祖父が時々眺めていたのか、それとも最近開いてみたのか。

 指先で、ちょいとつまんで中身を見る。

 

 

――ああ、やっぱりそうだった。

 

 そこにいるのは、父と母と抱かれている幼児。これは母が描いた絵で、そろって描かれているのはこれ一つしかない。祖父たちが見せないようにしてきたもの。まだ体が小さいときの夏梅には手が届かなくて、高いところにしまわれるそれを下から見上げていた。

 

 母の顔は自分にそっくりだった。それはいい。その人が抱える幼児は――。

 

 布をかけなおして、それをしまう。

 記憶にもふたをして、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 寝台列車の騒動によってふいにされた神西の抜き打ちテストは、その後、瀬戸の屋敷に着いてから改めて準備され、執り行われた。その結果や、診察、その処置により、父の経過観察のため、もう少し滞在を引き延ばすことになった。

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 

 少し大きな麦わら帽子を手で押さえながら、まだやってきていない新幹線を待つ。父は……見るだけで苦い顔になるウグイス色の小さめの紙袋を複数個もっている。なかには抹茶と茶菓子が入っている。それを見ると、瀬戸で父とともに、祖父に付き合わされた茶を思い出す。足の指がびりびりと痺れる感覚が戻ってくるようだ。

 

「ね、おとうさん。グリーン席?」

「いや、一般自由席だ。席が決まっていると時間をずらせないからな」

「席、()いてるといいねえ」

「この時間だ。滅多なことがなければ()いているだろう」

 

 音楽が流れて、新幹線がやってくることを知らせた。

 行きとは違い、戻りは数時間だ。

 

 勢いよく到着する新幹線の車窓からなかを見て頷く。

 

「ほんとだ、人少ないね」

「まだ8時前だからな」

 

 始発である。

 人はまばらで、席はすかすかだった。

 選び放題だから、荷物の多い夏梅たちは、車両の中でも一番前の席で、座席の前のスペースが広い場所に座った。麦わら帽子を脱いで、膝に乗せると、父が夏梅の前髪を整えてきた。

 

「熱はもうすっかり下がったな」

 

 どうやら、熱もついでに測っていたらしい。

 疲れからか、夏梅は熱を出していて、それも横浜へ戻るのが遅れた理由の一つだった。

 

「長居したな。社長が、急な休暇の延長を認めてくださってよかった」

 

 父はいつもと違い、一般的なスーツを着ていた。白いシャツに、黒いスラックス、そろいの上着はこの時期には暑いので、腕にかけているが、一見して一般の会社員のようだ。ネクタイを片手で緩めて、少し息苦しそうにため息をつく。この後父は、横浜で探偵社とは別件で用事が入っている。

 

「んー。お母さんの個展の話が長くかかっちゃったもんね」

「夏梅の新しい戸籍の作成もな。しかし、二歳刻みで予備の戸籍を作る作業は必要だったのか」

「ないよりは有った方がいいんじゃない? ……あーあ、高校生も終わりかあ」

 

 まさか、あれでお別れになるとは思わなかった。抜き打ちテストも受けずに、さよならも言わずに、自分は急な引っ越しにより転校する手続きをこちらでしていた。あれで最後だったなら、もっとなにか、やりたかったこと話したかったことがあった気がするのに。

 

「考えたら、お前は3歳なのに、よく高校へ通えたな。授業は問題なかったのか?」

「そういうこと、もうちょっと早くに考えられたら、善かったんじゃない? おかけで赤点だらけだったよ」

「そういえば、成績表を見たことがない。どこかへやったのか」

「違いますうー。此れからもらうところだったんですう。通信簿もらう前に辞めれてよかったかも」

「新しい学校は、探偵社で乱歩さんが直々に決めてくれるらしい」

「学校行かなくてもいいけどなー」

 

 だが、なにやら探偵社へ来た依頼で、とある学校へ潜入しなくてはならない案件があるらしい。

 夏梅と、もうひとりが誰だかは分からないけれども、宮沢か中島かのどちらかだろう。

 あるいは教師として潜入するのなら、与謝野が保健の先生、国木田が数学の先生、太宰は……なんだろうか。父は文章を書くのが好きだし、国語の先生とかだろうか。

 

 そんなことを考えていると、早起きして車に乗って駅までやってきたせいか、あるいはおとといの熱で疲労が抜けていないのか、いつの間にか父の隣の席で眠りこけてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ふっと目の前が陰ったような気がした。

 

 目を開けると、見覚えのある天井がみえた。それは夕焼け色になっていて、それをぼうっと眺めた。探偵社の天井だ。どうしてこれが見えるのだろう。寝ぼけた頭を横に倒すと、向かいのソファに座って本を繰っている、太宰の姿が目に入った。

 

 夏梅のぼんやりとした視線に気づいたのか、太宰は顔をあげず眼だけこちらへ遣し、にこりと微笑を口許にのぼらせた。

 

「――やあ、お早う、でいいのかな? よく眠れたかい、夏梅くん?」

「……え。…なんで、太宰さん?」

 

 びっくりして思わず体を起こすと、どうやら自分は二人掛けのソファに横になっていたらしかった。服装は、新幹線に乗った時のものと同じ。それで父はどこだろう。さっきまで一緒だったはずなのに。日付は変わっているのかいないのか。

 

「きみのお父さんは、先方の学芸員との打ち合わせに行ったよ」

 

 だいぶ小さくなってしまったね、と太宰が呟きのように言いながら、小首をかしげてつづけた。

 

「なんでも、きみのお母さんの遺作である絵画の展覧会を検討しているらしいね?」

「うん……。そっか、おとうさん、行ったんだ」

「きみを預かるよう織田作に頼まれてね。ちょうど暇を持て余していた私が、読書がてら傍についていたというわけさ」

 

 夕暮れに赤く染まる空間は静かだった。他の社員たちはみな帰路に就いたのだろう。

 太宰はこうして夏梅を見るために残っていたのか。

 

 持っていた本を閉じて、頬杖をつきながらこちらを見てくる。

 その本が、いつもの自殺に関するものではないことに、ほっとした。

 

「織田作がきみを預けてまで、その時間に向かった。身内関係者、それも亡くなった作者の配偶者でありながら、一個人の都合では日取りどころか時間をずらすことができない会合。……これはなかなか大きい規模か、早急に進められることが必要なスケジュールのようだ。急な計画であったとしても、早急な段取りをきちんと踏んでくるあたり――きみのお母さんはとても期待された画家だったのだろう」

「……そうかもね」

 

 そうなのかもしれない。そうでないのかもしれない。

 屋敷の人たちは母の絵を特別飾りもしていなかった。

 むしろ、布をかぶせていた。

 

「きみのお母さんって、どんな人なのかな?」

 

 細められた太宰の視線に、夏梅は目をそらした。

 視線をそらした先に、自分の小さくなった足が見えた。

 これでも実年齢よりはずっと大きい。

 でも、本当は夏梅はただの三歳児だ。

 

「わからない。ぼくが1歳の時に、お母さんは死んじゃった。お父さんに聞いても、おとうさんもそんなにお母さんのことは覚えてないし」

 

 白いカーテンと、色とりどりのキャンバスが、潮風に吹かれていた。

 そこにいたのは母で、隣の部屋では父が小説を書いていた。

 絵筆をとる母と、ペンを握る父。

 父は架空の物語を作り出すが、母は……。

 

「でも――“絵”はいつもほんとのことがかいてあるんだよ」

 

 この意味が、本当の意味が、解かるときが来るのだろうか。

 太宰の顔を今度ははっきりと見て、夏梅は力なく笑った。

 

「太宰さんも、見てみればいいよ」

 

 今度、横浜で開かれる個展のため、ぞくぞくとこの地へ母の絵がやって来る。

 そこに“あの絵”があるのならば。

 瀬戸から運ばれてくる数々の絵画の中で、“あの絵”もやってくるのなら。

 

 

 夏梅は見て、見なかった振りを選んだ。

 父は、見たものを拒絶したという。

 

 ならば、それを見た上で答えを出すのは、あの絵に関わる人の中にはもういない。

 しかし、なぜだろう。あの絵に描かれている家族をみて答えを出すのは、目の前の、包帯だらけで痛々しいこの男の人ように感じた。

 

 

「では、無事に展覧会が催されることを願おう」

「お父さんたちがちゃんと準備してるから、大丈夫だよ思うよ」

 

 包帯だらけの人は、夏梅の言葉に、思い出したように破顔する。

 

「織田作が! 昼間からスーツ着て、普通の会社員のように出かけていくさまは、なんというか、ここが違う世界線なのではないかと感じさえしたものだが!――だが、問題は別のところでおきそうでね。この横浜で、少々厄介なことになりそうなのだよ」

「厄介なこと?」

「ああ。敦くんを知っているだろう?」

「…………覚えてるよ! お休みは長かったけど、そんな忘れたりなんかしないからね!?」

 

 思いがけない問いに、驚きでちょっと返答に間が空いてしまったではないか。これでは逆に怪しく聞こえる。ちがうのだ、ちゃんと覚えてるし知ってる!

 父は忘れる可能性が微少にあるけれども、夏梅はそれこそ胎内にいるときからの記憶が(略

 

「それは善かった。私の事も覚えているようだしね。実年齢が三歳児と言ったけれど、それとは見合わないほどに、聡明で記憶力も抜群だ」

「ほめられてるの?」

「その心算(つもり)だとも」

「……ありがとう?」

 

 なんだか、純粋に褒められているというより、毛並みを撫でながら反応を見てくる研究者を前にしているような、居心地の悪さを感じながら、一応お礼を言った。

 

「どういたしまして。それで話を戻すけれど、敦くんに掛けられていた70億の懸賞金のことは? あ、『懸賞金』とは、その人をつれて来た人に与えられるお金のことだよ」

「へえー。……知らない」

 

 懸賞金という言葉も、それが掛けられていたという中島のことも。どちらも。

 

「まあ、つまり敦くんを連れてきたら、大金がもらえるわけだ。大金持ちになれる」

「大金持ち」

「なりたいかい? 大金持ちに」

 

 なれるものなら、何にでもなった方がいい――とは夏梅の持論だ。野球選手も、先生も、医者も、画家も小説家も。犯罪者は別として、夏梅はあらゆるものに、なれるものならなりたいと思う。

 だから、大金持ちひとつになりたいわけではないが、夏梅はまあ、なれるものならと頷いた。

 

「お金はないよりも有った方がいいと思う」

「ふふふふ。きみは欲があるのかないのかわかりづらいね」

「それで、そのお金って誰が出してくれるの?」

 

「そこなのだよ」

 

 そこなのか、と夏梅は周りを見回した。つまり、どこだろう?

 ハハハハ、と太宰は笑いながら指摘してくる。

 

「そことは、ここのどこかではなく、先ほどのきみの着眼点についてだ」

「へえ……」

 

 そこがここでどこが何だろう。分からなくなってきた。

 混乱して、理解できないまま、とりあえず相槌を打った。

 

「反応薄いよ、夏梅くん!」

 

「ごめんなさい」

 

 なんか、似たような会話したなと思い出す。

 

「つまり、“WHO?”――いったい誰が、敦くんに懸賞金をかけたのか。それもこの国では望外なほどの大金を、という問題について」

 

 この国では、ということは言葉。

 この国では望めないほどの金額ということ。

 

「じゃあ、その人は外国のひとだったの?」

 

 太宰は片目をつぶって、指を鳴らした。

 人差し指は夏梅の方を向いている。

 

その通り(That's right)!」

「ふうん……」

 

 夏梅の薄い反応に、大仰な仕草で肩をすくめて、太宰は言う。

 

「これから大変なことになるよ、この横浜は。だから同じ時期に開かれるという展覧会については懸念していてね。織田作の奥さんの作品には私も多大な関心があるし、無事に恙なく滞りなく開催し閉幕することを祈るよ」

 

「太宰さんは、お母さんの絵に興味があるの?」

 

「いや、正直に言ってしまえば、奥さんのこと自身に尋常ではなく実に深刻にものすごく興味があるけれどね! だって、あの織田作に奥さんだなんて! ――まあ、それについては置いておいて、いや置いておけないけれども、ここは苦渋の選択で、脇に置いておいて。そう。それに遺作という話だからね。そうでなくとも、作品は一点ものだから、失われてしまえば戻っては来ない。懸賞金の黒幕の件が終わった暁には、一番に拝見させていただこう」

 

 饒舌に語ったかと思えば静かに瞼を伏せる。その様は静謐で、この包帯の男の人は多弁でも寡黙でも、面に出る落差の激しさの一方で、心のうち――そのどこかはいつも静寂が占めているのではないかとなんとなく思った。それを眺めながら、ぽつりと言う。

 

「なんだか、愉しそう」

「――そう、みえるかい?」

 

 不思議そうに首をかしげる太宰に、夏梅は頷いた。

 

「うん。お父さんに会えるの、愉しみだったんだね」

 

 息をのむ音が聞こえた。

 斜陽で陰った視界のなかで、きっと太宰は微笑んだのだろうと夏梅は思った。


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