夏の梅の子ども*   作:マイロ

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 幕間 それぞれの裏側 & 小噺
水琴窟と茶室


 年のころは二十を超えないだろう。黒髪を一つにまとめ、無駄な装飾をそぎ落としたような西洋風の女給姿だが、薄化粧を施されたその顔は、年頃の娘らしい溌剌とした笑顔に彩られている。……太宰が好みそうな相手だった。

 

「ご注文はお決まりでしょうか」

咖哩飯(カレーライス)辛さ10倍をひとつ。夏梅は?」

「カレーライス辛さ3倍。おねがいします、お姉さん」

「あら。――はい、承りました」

 

 騒動の後ということを感じさせない、職業意識の高い給仕の女性(ウェイトレス)は、夏梅の愛想のいい笑顔に思わずといった仕草で口許に手を伸ばした。そしてそこに本物の笑顔が顔を出す。なるほど、余所行きの笑顔と思わず出た素の笑顔とはこれほど違うものなのだ。

 

「あと三種のチーズのチキンサラダをひとつ、トマトジュースを一つ」

「あと、珈琲(コーヒー)もだよね?」

 

 それぞれ追加を記入した給仕は、洗練された笑顔でもって了承した。

 日が沈みかけた、空は窓枠によって絵画のように切り取られている。列車に乗車してから最初のまともな食事は、晩餐だった。硝子が散乱していて乱雑に散らかされていたテーブルには、神経質な芸術家が几帳面に一ミリ単位で整えたようなテーブルクロスがかかっていて、運ばれてくる料理を美しく演出していた。

 

「こちらは三種のチーズ、イタリアから取り寄せた、リコッタ、モッツァレッラ、パルジャミーノ・レッジャーノを使用しています。リコッタとモッツァレッラは水牛の乳から作ったものを厳選しています。パルジャミーノ・レッジャーノについても、現地の生産者と直接契約をとった輸入品となっています。ソースは蜂蜜扁桃(ハニーアーモンド)橄欖油(オリーブオイル)、ヨーグルトがあります」

 

 サラダといってもレタス、玉蜀黍(トウモロコシ)、セロリ、紫キャベツ、トマト、薄くスライスされた玉ねぎが盛り付けられた皿が中央に置かれている。香ばしい匂いは、油で揚げた大蒜で、中に混ぜ込まれていた。想像以上の量だった。

 先にサラダをつついていると、見計らったように咖哩(カレー)皿が運ばれてくる。

 

 わあ、と夏梅が手を叩いて歓声を上げる。

 幅広く口にするとはいえ、妙なところで偏食気味な我が子のお眼鏡には適ったらしい。

 

 メインである咖哩(カレー)に舌鼓を打ちつつ、外の景色を眺めて優雅な時間を過ごした。

 

「辛さが足りない」

「こちらを食ってみるか?」

「おとうさんのは辛すぎるからいい」

 

 華奢な顎がふい、とそっけなく反らされる。

 差し出したスプーンに乗っかった、咖哩飯(カレーライス)は息子のお気に召さなかったらしく、空しく振られた、「……そうか」

 口に含めば、牛筋が柔らかくほどけて、角が崩れて丸くなった馬鈴薯(ジャガイモ)と煮込まれ青臭さの抜けた人参は、子どもでも受け入れられやすいだろう。違うのは、辛さの度合いだけだ。

 自分が好ましく思っているものが受け入れられないと、まるで自分自身が受け入れられなかったように感じられる。個人の趣向にとやかく言える権限は親子と言えど、ありはしない。その結果を、ただ受け入れるしかない。

 

「……しょんぼりしないでよ」

 

 そう言うと、夏梅は 妙な味の砂を噛んだような顔で、身を乗り出し、スプーンを口に含んだ。銀製の、品のある煌きが、薄い唇に閉ざされる。以前より幼げになった顔だちの、特に膨らみが戻ってきた頬。それが、咖哩(カレー)を含んで、丸く突き出た。咀嚼する姿は、さながら料理を判定する審査員のようだ。それを待つ新人料理人のような心地で待つ。

 

「……どうだ?」

 

 待ち切れずに訊いた。

 すると、眉間にしわが寄りつつも、『悪くない』といった表情で粛々と告げる。 

 

「かっらい。……けど、このピリピリ、飲み込んだ後は忘れてどんなピリピリかわからなくなる……」

「もう一口食うか?」

「お父さんも僕の食べていいよ」

 

 

 

 

 

 

 

「いきなり出てくる日熊の店主が咖哩(カレー)屋さんなのはいいけど!」

 

 晩御飯が咖哩(カレー)だったせいかなって思うから、と夏梅は声を荒げ、両拳を目の前で振ってくる。やけに好戦的だ。ふたりでババ抜きをするという正気をも疑うような遊戯(ゲェム)の後だからか。そも、寝る前にこんなに興奮していて眠れるのだろうか。

「生まれたときから黄色い前掛け(エプロン)の恰好だったのかなあー…と思えるほどその格好がなじんでたって何???」

「思い浮かんだんだ。ちなみに年がそれなりにいっていて、頭頂部は少々禿げている。戦闘の際には、お玉を手に獅子奮迅の如く活躍を」

「熊なのに獅子(ライオン)みたいに戦うんだ……」

「彼は無敵だ」

 

 夏梅は、細い指を額に押し付けた。

 ぐりぐりと指を動かして、何かに苦悩したような横顔を見せる。

 そして顔をあげたとき、あたかもそこに余分な感情という感情が全てそぎ落とされたように、息子はただただ穏やかであった。

 

「――わかった。つっこんだら、話があっちこっち飛び跳ねて先に行かなくなるんだね。黙ってるよ」

 

 小さな両手で口を塞いだ息子だが、結局その口はそのあとも何度か開くことになった。

 

 旅を旅らしく愉しめたのは、ほんの束の間で、まるでため息をついている間に終わってしまった。夏梅は、随分と疲れ切り、二回りほど小さくなってしまった身体を投げ出して寝台に眠っていた。昨晩、即興で作った話を聞かせていると、たくさんの突込みの手が緩んだかと思えば、睡魔によって既に斃れてしまっていた。聴衆を失ってしまったままひとり語りをすることほど空しいことはない。しかし睡魔は我が子を襲い眠りの縁から突き落とすだけでは飽き足らず、未だ起きている人間をも眠りへ引きずり込まなければ気が済まないようだった。

 私は、無防備に眠りに落ちた息子へ綿毛布(タオルケット)をかけ、寝台に倒れ込む。優等客室というだけあって寝台は、程よい発条(スプリング)が効いていた。

 美しい星々に見守られるように感じた。

 

 人は死ぬと星になるという。それは慰めにしかならない言葉だ。ただ、いつもそこにあって無くなることがない。そして不安になった時に、下を見るのではなく上を見ることを促す。そうやって浪漫溢れる言葉を、彼女は戯れに解きほぐしていった。

 

 その強い輝きの中に、彼女はいるのだろうか。

 腕を伸ばして、夏梅の髪を撫でた。つややかな黒髪は、彼女譲りのうちの一つだ。

 目を閉じて記憶を探ろうとして、それは暗闇の中でぷつりと途切れた。

 

 

 

 

 

 昨晩、注文を取りに来た給仕の女性(ウェイトレス)が再びやってきた。

 朝から輝かしい笑顔で、乗客を迎える姿はさすがのプロ意識だった。

 

「お早うございます。朝食は如何致しましょう」

 

「昨晩と同じ咖哩(カレー)で」

「おはようございます。今度は、辛さ8倍のカレーをください、おねえさん」

「お気に召していただきまして、誠にありがとうございます」

 

 寸分たりとも歪みない綺麗な笑顔のまま、給仕の女性(ウェイトレス)は注文を厨房へと持って行った。咖哩(カレー)は昨晩と遜色なく絶品だった。

 

 

 

 

 

 咖哩(カレー)の芳香を漂わせながら、ふたりして下車する。その駅には、警察関係者が多数集まっていたが、ほどなくして引き上げていった。いつの間にか、麦わら帽子をかぶった夏梅に、袖を引かれた。

 

「お父さん、電話が鳴ってるよ」

 

 出るとそれは義父からで、常駐している医者の神西とともに車で迎えに来るという。

 待ち合わせの駅まで、鈍行の電車を乗り継いでいく。

 その駅には、好々爺とした義父と老医の神西が黒塗りの車で待っていてくれた。

 

 

「御無沙汰しています」

「こんにちは」

 

 夏梅は借りてきた猫のように私の襟衣(シャツ)の裾を指でつまみ、半身を隠すようにして、おとなしく挨拶をした。

 

 

 

 

 大きな門構えが、堂々と佇む。

 到底出迎えられているとは思えないほど、重厚な扉を前にする。

 

 それは内側から開かれた。

 

 

 

 

 響いていたのは、竹が石に当たって撥ねかえる音。

 音がないよりも、静寂をより一層感じる。屋敷の新しく増設した部分、庭に突き出た四角い和室に、夏梅とふたり並んで正座し、義理の父がたてる茶を待つ。はじめは行儀よく膝を折っていた子どもだが、長時間じっと正座するのには限界が近いようだった。俯いて微動だにせず、我慢強く耐えている。

 

 義父は、最近凝りだしたという茶道の腕前を自分たちに披露してくださるという。昼食の準備が終わる間、和室で義父みずから歓待してくれていた。

 

「……足が……しびれ、る……」

「あと少しの辛抱だ。堪えてくれ」

 

 夏梅は俯いた顔を横にして顔をのぞかせる。何という目をしているのだろう。人や状況に裏切られ、傷つけられ、猜疑心に凝り固まった目を向けてくる。

 

「あと…少し?」

 

 闇に落ちた人間というのはこんな目をするのだろう。

 幼くなった声は、だのに地を這うような低い声で言う。

 

「あと少しって、どのくらいあと……?」

 

「………希望を持って待て」

 

 

 ……それから夏梅と私が解放されたのは、一時間後だった。

 

 

「にっがい……」

 夏梅は半泣きだが、祖父の前ではちゃんと猫をかぶって、ひきつった笑顔で応えていた。この年でこれほどの忍耐力を備えていることは驚嘆に値する。頭を撫でて、ふくれっ面の息子を宥めておいた。

 

 

 

 

 気疲れをしたのか、夏梅は夕方には目をこすった。義父はそれをみて、早く休めるよう、部屋へと案内する配慮をいただけた。案内する使用人の顔には見覚えがないが、夏梅は顔を知っていたようで「結婚したんだ、おめでとうございます」と声をかけていた。それに対して甚だしく喜びを見せる。微かな微笑一つで、人を動かすところは、彼女に似ているなと思った。

 

 丁寧に首を垂れて下がっていく使用人に、夏梅はその気配が完全に去ってからため息をついた。

 

「なんか……疲れちゃった」

「そうか。お疲れだったな、夏梅。今日は善く休むといい」

「きょうも、だよ。あーあーあー、寝てばっかり! でも眠い!」

 

 あーあーあーと奇声をあげる夏梅を眺めて、疲れているんだなと気の毒に思った。

 

「じゃあもう寝るか」

「寝る前に、あの話の続き聞かせてよっ 気になって気になって仕方ないよ!」

「気に入ったのなら、善かった」

 

 即興で作った童話を聞かせると、夏梅たちは元気になる。

 彼女も夏梅も、その登場人物(キャラクター)についていつも興味を持ってくれた。今日もこうして記憶の欠けた自分は物語と作る。きっとそれが欠けた何かを埋めるものでもあると思った。

 夜が更ける前にはすっかり寝静まる。都会とは違った夜は、容赦なく視界を埋め尽くす黒だった。ここでは小さな灯りの果たす影響が限りなく日常のなかで身に迫って感じられる。


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