「これからどうしよう……さっきの人たちのけがは、先生じゃないんだよね?」
「心外ですね、私は医者ですよ。怪我人を治す側の人間です。危害を加えるなんてそんなことしません」
たしかに、自分が傷つけて治療はしないかもしれないんだよね、たぶん。ふつうは。
ふうん、と相槌を打ちながら、夏梅はつま先を絨毯にとんとんと突いて、違和感がないことを確かめた。そんな夏梅の足元には、季節外れの緑のマフラーを首に巻き付けた男の人がふかふかの赤い絨毯にのびている。
「いきなり何か投げつけて来ようとするから、びっくりして蹴っちゃったけど、どうしよう。……起きないね」
「気絶しているだけです。すぐに起きますよ」
両手にまたあのレモンを握ったまま、床にうつ伏せで倒れている。この男の人は、おもちゃ職人か何かだろうか? レモンに強いこだわりとかがあるのだろうか? 確かにみごとなレモンだけれども。
みんな何が起こっているのかわからず、最後尾の車両に避難している人さえいるのに、ずいぶん、呑気な人だなあ、と倒れた姿はまるでカエルが伸びたような格好になっている男の人を見下ろす。
夏梅はもうひとり呑気な人を知っている。こうして周りでけが人が続出しているというのに、子どもの夏梅よりもぐっすりと部屋で寝入っている父だ。
「ここで、なにがおきてるんだろ。またおとうさんの運が悪いやつかな?」
母が存命のときに、異能力が使われたのは、三回だったと夏梅は記憶している。
いずれも、父の異能力では察知できなかったり、察知できても逃げ場がなかったりして逃れられなかった死だった。
一度死んでしまった人は、死に易い。
不運な偶然に巻き込まれやすい。運がないのだ、本当に。
「どうでしょう? 結局、“薬入り”を飲んだのは、あちらですが…こうして眠っている間に、私たちが問題解決のために動いているところを見ますと……やはり壊滅的に運が悪いのは坊ちゃんの方かもしれませんね」
「なにかいった?」
「いえいえ、何も」
「この男の人、何かに追われてたのかな? おもちゃなんかぶつけようとして来て……この人もぱにっくだったのかな? 先生、何か知らない?」
「おや? 質問だけして答えを得るような怠惰はいけませんね」
あ、そう?と夏梅は顎に指を添えて、小首をかしげた。
なるほど、なるほど……。
「じゃあ、別にいいよ。ぼくひとりでみてまわるから」
神西の視線が泳ぐのをしり目に、肩をすくめた。せっかく言うことを聞いてあげようと思ったのに、言わないんじゃあしょうがない。夏梅だったら、神西がみせないようにしていた部屋をまず確認するし、いまだに戻っていない最後尾の軽傷者たちのいる車両の様子を見に行くし、この先の車両に行って状況を確認しに行く。それで、他の乗務員や運転手の人を探しに行く。それと父が起きるのをまったり、大叔父である福沢に電話で連絡を取ったりする。ああ、それか、大叔父に電話を先にして、その間にここで倒れているマフラーの人が起きたら、事情を訊くのもいいかもしれない。どうしてこんなところに一人でうろうろとしていたんですか、なんでおもちゃを投げつけようとしてきたんですか、とか。
まあ、たぶん、夏梅が思いついた行動のどれかは、神西にとってずいぶんと都合が悪い状況になるんだろうなと思う。
そういったことを言えば、神西は髭を揺らしてにっこりと微笑んだ。
白い口髭を指でゆっくりと撫でつける。
「それはお待ちを。私の口が過ぎました。ええ。どうか、坊ちゃんはそのまま、あまり自発的な行動をされないでいただきたいのです」
「………『自発的』ってなあに?」
「自分から行動することです。こうだと思ったり、こうしたいと思って行動することです」
「なんで?」
「実は私が計画していた能力テストなのですが、無難に安全なものを準備していたのです。が、このような事態になってしまいましたでしょう?」
「ぜんぜん、安全じゃないじゃん」
ジト目で神西を睨むが、気にした風もなく微笑んで何度も頷く。
「そうなのです。ですから、この混乱を収めて、また場を整えたいと思いまして」
神西は、機嫌よく笑う。
夏梅はそんな神西からちょっと距離を取るように窓の横の壁にもたれて、胡乱げに見上げる。
おかしいなあ、神西は医者で、さっき人を助けるために働いていたのに、夏梅の目にはなんだかうさんくさい、悪い人に見えるのだ。
混乱を収める、場を整える……悪い言葉ではないはずなのに、なんだか不穏に感じる。
ぬぐいきれない違和感を置いて、とりあえずそういうからにはあてがあるのだろうと夏梅は尋ねた。
「じゃ、なにがげんいんかわかってるの?」
原因と夏梅は言った。列車で同時にたくさんのけが人が出たことから、列車の何がしかの不具合による事故だと思っていた夏梅はそういったのだが、神西はにこりという。
「ええ、犯人はもう捕まえたのも同然ですから」
夏梅が目を見開いたのを、神西は気づいていないようだった。
ふふふと髭に手を遣る神西は、ずいぶんと余裕げなそぶりで語る。
「乗客の安全第一に治療や鎮静のために後手後手に回ってしまいましたが、これからは私にたたかせてもらおうと思います」
余裕たっぷりな人はいつも最後に負けてしまうというのは、本でも映画でも絵本でもそうであって……たしかに、現実にどうかはわからない。でも。
「先生に任せてだいじょうぶかなあって不安かも」
「おや、信用がありませんね」
眼鏡の奥の、開いた赤い目を覗き込んだ。
――この目は凪いでいる。
きっと夏梅は気づかなかった。
気づいたのは、言葉が多かったからだ。つまり、『語るに落ちた』というやつだ。
「だって、先生、おとうさんのこと考えてないでしょ」
眼鏡の奥で、開かれた赤い瞳。
こてりと首を倒し、不思議そうな雰囲気の神西。その目の前に、夏梅は人差し指を一本、立てて見せた。
「そろそろ、先生が言ってた時間じゃない?」
――1時間。
「ぼくは動いちゃダメでも、おとうさんはいいんでしょ。あんまり、おとうさんのこと大したことないなんて思ってたら、先生。計画がずれて楽しいなんて思えなくなっちゃうかもね」
「作之助殿を侮っていたわけではないのですが」
神西は後ろに流していた白い前髪を手櫛でとかす。年月を重ねたことによる綺麗な白髪。なんとなく神西はこの色の髪のほかは似合わないように感じた。想像ができない、のほうが近いだろうか。
初老の医師は、静かに朗らかに言葉を紡いだ。
「私としましては、坊ちゃんが、作之助殿の安全を考えて行動を制限していただけると思っていただけで……」
「ぼくが思ったことをこうどうしちゃだめなんだって、さっき言ってたと思うけど」
「坊ちゃんには、協力していただけると思っていました……」
「いつからぼくは先生の味方になったの? みんなみんな。おとなはみんな自分勝手にしてるし」
どうしてショックを受けたような顔をするのだろう。ぜったい、夏梅のほうが我慢ばっかりしていると思う。神西のその涼しげな顔をゆがませてやりたい、とふいに、なんとなくぼんやり思った。
(――あれ、変だな。そんな悪いこといつもは考えたりしないのに……)
自分の気持ちに戸惑って、胸に手をあてて不思議に思っていると、いつもよりいくらかしんみりとした声で、初老の医者は言葉を紡いだ。
「では、年寄りのお願いを一つだけ聞いてはいただけませんか」
「うーん……………聞いてからきめる」
「慎重になられましたね。以前でしたら、『うん、いいよ』と頷いてくださったでしょうに」
視界の端で、指がピクリと動いたように見えた。起きたのだろうかとマフラーの男の人を確かめようと伸ばした手を、神西が横からつかんで止めた。夏梅の耳に顔を近づけてきて、小声で言う。
髭が耳に当たってくすぐったい。
「では、『若しも』です。――若しも、作之助殿が、この男からもらったモノを欲しがったら、あげないようにしてください」
父があのおもちゃ?のレモンを欲しがるようには思えない。父が欲しがらなければ、神西のお願いは聞かなくてもいいのだ。これはお願いにもなっていないことに思えた。
「それだけ?」
念のために確認したけれども、老医はどこか愉快気に眉をあげて頷くだけだ。
機嫌のいい時の大人ほど、良からぬことを考えているもの。夏梅の、三年間の人生経験からくる独断と、偏見ではあるけれども。
「……何のためにそんなことするの?」
「強いて言ったら、また運試しです」
「――また? 何やったか知らないけど、さっきもそういってたよね? さっきは何したの? それを教えてよ」
「ご勘弁を。これは私の探求心でして。結果が出ないうちは、その過程も申せません」
「また、難しいこといってわからなくするんだから……!」
まゆをよせて悩んだ。一見して意味のないお願いに思えるが、何か神西にとっては意味があるのだろう。でも、その目的の意味にはまったく見当がつかなかった。………分からないなら、仕方ない、と一旦思考を放棄する。
「………わかった。いいよ。おとうさんが、あんなの欲しがると思えないし……けど」
夏梅の目からしても、何の変哲もないつるつるのおもちゃだ。
特に、心は惹かれないのだが。
「もし、おとうさんが、ほしいってなったら、面白いかも」
夏梅はにこにこと笑った。そうしたら、どうしよう? 神西はああいうけれども、夏梅が父におもちゃを譲ってあげるのも面白そうだ。想像してくすくすと笑っていると、視界の端でマフラーの人の肩が動いた気がした。近くにある、神西の顔をどけて確認しようとした。
「あれ、もしかして起きたんじゃない?」
「それは私が確認しておきましょう。坊ちゃんは、お部屋を見てください。そろそろ起きられるでしょうから。あと、くれぐれも、もう一つのお約束はよろしくお願いしますよ」
その言葉を受けて、肩をすくめる。
ほらね、一つだけと言っておきながら、結局他にもお願いしてきているのだ。大人はずるい。
ここにいれば、また神西にお願いと称していろいろ頼まれてしまいそうな予感がする。
これ以上は、夏梅だって手いっぱいだ。言うとおりにするのは癪だけれども、父のこともあるだろうし、さっさと客室に戻るのが一番だ。
「はーい」
父の目が覚めるときに、夏梅がいないと困るだろう。マフラーの人は、こう見えてでもやっぱり医者である神西に任せるのが良いのだろう。よし、と決めて、夏梅は客室に戻ることにした。そして、少し行って立ち止まって振り返る。
「鍵開かないんじゃなかったっけ?」
「ああそうでしたね……では、私も行きましょう」
そう言って神西は、両手でこぶしを作り、体の前で軽く打ち付けた。まさかこぶしで殴って鍵を開けるのかと戦慄く夏梅の前で、神西のそのこぶしは振り下ろされた――色眼鏡をかけた、倒れた男の人の顔面に。
「ごふっ……」
ばきゃ、くたり、と色眼鏡が破壊される音と力なく弛緩した体に、夏梅は言葉もない。いや、驚きのために声をあげる。
え! なんで、どうして!?
「えだにゃ!?」
噛んだ。滑った。理解ができない。
ぐっと奥歯をかみしめて恥ずかしさを耐える。
「これで行けます。さ、行きましょう、坊ちゃん」
神西は何でもないことをしたかのように、マフラーのその下の襟首をつかみ、夏梅を先導する。
呆然としていた夏梅は慌ててその後ろを追いかけ、そのマフラーの人の顔面を見て、思わず口に手を遣った、「うわ……」
これは酷い。
理由のない、ただただ理不尽な暴力が、無抵抗で無力でこれといって罪のない失神者を襲ったように、夏梅の目には見えた。この初老の、人の良さそうな顔をした人が医者だなんて、今この場面を見た人は信じられないだろう。夏梅もだ。
唐突な暴力のせいで、夏梅は頭が回らない。なんだろう、これから鍵を破る前に、こぶしで試し殴りでものだろうか。
いくらものを投げて来ようとした人に対してであっても、これはひどい。
戦々恐々としている夏梅の前で、神西は血の付いたこぶしを扉にたたきつけることはせずに、普通にネクタイのピンで鍵を開けたことで、夏梅は開かれた扉の前で硬直した。
「…。……えっ………なぐって開けるんじゃないの……?」
「おや、殴って開けようだなんて。そんな野蛮な。何故そんなことを?」
なぜって、それを聞きたいのはこちらなのだが。言葉にならず、くちをもごもごさせて、結局言えなかった。
そうして神西の手によって難なく開かれた扉の前で立ちすくむ夏梅へ、それでは先頭車両の方へを見てまいりますとにこやかに辞する神西の手に、ずっと掴まれたままのマフラーの人の襟首を見ながら、夏梅は手を振った。
「……なんか、疲れたな」
部屋に入ると、出たときのまま、健やかに眠る父の姿が目に入り、むっとした。
「おとうさん、そろそろ起きてよ」
夏梅は父の鼻をつまんだ、「おとうさんってば!」
起きた父は、やけにぼんやりとしていて、ちょっと心配になった。一時間も熟睡していて、物音にも気づかなかったらしい。思わずむくれる。なんなんだ、大変だったんだぞ、夏梅は。父が眠っている間に大変だったことをいろいろ言いつけてやろうと思ったが、父に教えてはいけないと言われていた神西がらみの話が多すぎて、結局口を閉ざすしかない。
父に神西がこの列車にいることは内緒である。
なら、このねぼすけの父に嫌みを言えることとはなんだろう。
夏梅は考えて、あっと思いつく。
父と同様に呑気な人がいた。その人は、さきほど神西によって理不尽に酷い目に合っていたけれども、そもそもこの人はこの部屋を訪ねようとしていた。
「ぼくが戻ってきたとき、マフラーのお兄さんが来てたのに」
父は寝ていたから、その人は神西に連れていかれてしまった。
「どうしようって思ったよ」
夏梅は口をとがらせて言った。