「おだなつめといいます。おはつにおめも……おもめ……おめじ」
「『お初に御目文字仕ります』……はじめまして、でいいんじゃないか、
「はじめまして、おとうさん」
「……。…うん?」
父は頷きかけてから、その首を捻った。
すると、その父の肩口から顔を出した人物が、目を瞬かせて夏梅を覗き込む。
夏梅はじっと見返して、その細い首に包帯が巻かれているのを見て、いたそうだなあ痛くないのかなあと考えてその包帯の傷がどんなものかを想像していた。考え得る限り最も痛いものを想像して、傷を自分のものと錯覚して顔をしかめた。
探偵社の人間がそれぞれ自己紹介を始める。といっても、名前くらいだったが。
首に包帯を巻いた痩躯の人物の名は、太宰治。にこにことわらっていて、手に持っている緑色の本を振ってくる。
夏梅は元来の人見知りが顔を出し、短く顎を引いて会釈で返した。
持っている本に視線をやると、表紙の角がよれるほど読み込んでいるのが分かる。ふせんが冊子の間にたくさん貼られていた。何の本かは分からないが、勉強熱心な人だと思った。
父はどことなくこの人物に気を許しているように見えた。一方で、すこし身構えているようにも感じられた。父がこれほどひとりの人間に反応するのは珍しく、夏梅はこの太宰治という人間のことが気になった。
次に、頭に大きな蝶の髪飾りを短い髪につけた女性。名は、与謝野晶子。若くして亡くなった母を思い出して、すこし印象に残った。母にもあんなふうにきれいな髪飾りをつけたらうつくしかっただろうなと。彼女は、医者だという。学校の保険医と雰囲気が似ているような気がした。不良より不真面目には厳しそうという点で。
そして、江戸川乱歩。小柄な印象を受けた。身長自体は、夏梅とそう変わらないだろう。もしかしたら同じくらいかもしれない。そうではなく、この探偵社の面々のなかではあまり目立たないという意味で。
しかしこの人物のことは、父から聞いていた。ナゾナゾを解くのが世界で一番上手な人間だと。
楽しそうな人かと思ったのだが、つまらなさそうな顔をしている。ナゾナゾがないからだろうか、と思う。
すごい人だと言っていた、父も大叔父も。そんなにすごい人なら、すごいところを見てみたいと思った。
父には、気分で動くところがあるから、機嫌がいい時に頼んで見なさいと言われた。機嫌が分かりやすい人ならいいなと思っていたが、分かりやすそうだった。……とりあえず、今は機嫌が良くも悪くもなさそう、だからきっと今お願いしても快く引き受けてはくれないかもしれない。
この他には事務の女性たちと、今は仕事をしていて不在の人もいるという。
それは後日改めて、といわれ、夏梅は頷いた。
すると、父の肩に腕を回して夏梅の顔を見下ろしている包帯の人物が口を開く。
「へー、その子がきみの子ども? ……どうみても年齢が合わないんだがねえ。織田作ってば、いくつでこの子作ったのさー」
完全に冗談交じりといったお道化た仕草でいう包帯の男性が、身長が近い父の方に腕を置く。父はふいに、腕の乗せられている自分の肩をみて何度か瞬いた。包帯の男性は、にっこりと笑みを浮かべている。そのやり取りも気になるが、もっと気になることがあった。
「おださく?」
父と妙に親しげな男性の、父への呼称に、首を捻っていると、父が近い目線になって微笑んだ。その手は包帯の男性の首に伸びていた。
「ここではそう呼ばれている。人から恨まれることもある。実名を伏せておくに越したことはない」
ふうん、とよくわからないながら頷いた。父は包帯の怪我人の首を絞めながら、普通に返してきた。怪我している首を絞められて痛そうだなあと思って、やっぱり顔をしかめた。
それはいいのだが、周りが妙に視線を泳がせているのが気になった。首を絞められている包帯の男性などは、口元が弧を描いているようにすら見える。
「ここでは、織田作之助ということになっている」
父の言葉に、はっとして夏梅は顔をあげた。
「ぼくも、おだなつめだよ。おんなじだね、おとうさん」
「同じだな」
なるほど、偽名というのは親子でセットなわけだ。
相槌を打った父は口許で薄く微笑して、くしゃくしゃと頭を撫でてきた。子どものように柔らかく軽い髪質であるので(実際、三歳児だ)、すぐにぼさぼさになってしまう。鼻先にまで髪の毛が降りてきて、呻くと、辺りが静かになっていた。
「子煩悩……いや、これは……」
首を傾げていると、背後から大叔父がやって来た。
「――紹介する。織田夏梅だ。齢は表向き十六歳となっているが、正真正銘、私の姪の子で、織田の子だ。今は、故あってこのような姿をしているが」
口を開けたり、目を見開いたりしていたが、大叔父の言葉だからか、誰も騒ぐことはなかった。
「『故』っていうと、異能力ですか?」
そうだ、と大叔父が頷く。和服の袖に腕を入れて、夏梅の方へと鋭い眼光を向けてきた。
「夏梅、なにか皆にいうことはあるか」
「うーんと……なつめは、『なつ』に『うめ』とかきます」
そうかあ、と周囲は何度もうなずいてくれる。それで夏梅はほっとして言おうと思っていたことを口にした。
「あと、ぼくは男です。女のこみたいな名まえっていわれるけど」
そっかあ……と周囲は油の切れたブリキのようなギコギコとした動きでひとつ頷いてくれる。その顔はさきほどのものと変わらないはずなのに、どこか違うように思えた。
真顔でいう父と、これまた真面目くさった顔で頷く大叔父は雰囲気がどこか似ている。ふたりとも目の下に隈があるところも似ている。父は母を亡くしてからずっとで、大叔父は夏梅の記憶では隈があることが多い。忙しいのかもしれないと夏梅は思う。
夏梅は向き直って頭を下げた。
「よろしくおねがいします」
そのとき、事務所のドアが勢いよく開かれた。
銃を向けてきた眼鏡をかけた男性が手を上げろと怒鳴ってきた。頭の後ろで一つに結わえている黄色い髪が背中に揺れていた。
夏梅は周りにならっておなじように手を上げた。何が起きているのだろうと思いながら、銃をもつ男性をじっと見ていると、早口で何かをまくし立てていた。夏梅は聞き取ることができず、ぽかんと口を開けていると、噴き出す声がすぐ近くで聞こえた。
それは包帯を首に巻いている人と、大きな蝶の髪飾りをつけた女性だった。あげていた手を口元に持っていっている。
手を上げなくてもいいのだろうかと、観ていると、銃を持つ男性が怒鳴ってきた。その後ろから、郵便だという帽子をかぶった少年がやって来て、あっという間に人質として取られていた。
探偵事務所において、目の前で瞬く間に襲撃者と人質の構図が作られていく。そこでどう動くのか――それが夏梅の入社試験だった。