夏の梅の子ども*   作:マイロ

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みんな寝る時間。

 洗ったコップは、洗面台の鏡の下にある白い棚に、逆さまにして戻されていた。

 乾いた未使用のコップと、使用して水にぬれたコップがふたつ並んだ。

 医者の几帳面な性格が出たのか、きっちりと揃えられている。

 

 自前のハンカチをスーツの上着ポケットから取り出した神西は、濡れた手をふき終えると、ハンカチをしまい、上着を脱いだ。さて、と両手を組んで伸ばす。

 

「健康診断ですが、いま簡単にやっておきましょう。体を起こさせてもらいますね」

 

 神西は、腕まくりをした。夏梅はいやそうな顔になる。疲れているだろうから、休ませてあげたい。夏梅は横浜に来た時から、父が眠っている(、、、、、)ところを見たことがなかったので余計にそう思っていた。口をとがらせて抗議する。

 

「眠ってるんだから、あとにしたらいいのに」

「眠っているからこそ、きちんと測れることもあるんですよ」

「………体を起こすの、手伝おうか?」

 

「いえいえ、これしきのこと、坊ちゃんの御手を借りるまでもありません」

 

 初老の体で、父の体格の成人男性を移動させるのは難しいと思ったけれども、そこは医者というのか、苦も無く抱えて動かした。

 

 神西は、父の瞳孔を調べたり、どこから取り出したのか聴診器で胸の音を聞いていた。

 

「坊ちゃん、今からいう数字を覚えていただけますかな」

「いいけど……めもとかもってきてないの? かそうか?」

「いえ、形に残したくないもので。坊ちゃんの記憶にとどめておかれましたら、またあちらでお聞きできるでしょう?」

 

 チッと舌打ちが聞こえた気がした。

 夏梅はなんとなく天井を見上げた。天井から、がんがんがんと音が立ったかと思えば、それが遠ざかっていく。鴉でもいたのだろうか。

 

「さて――余計なネズミも消えましたね。いやはや、同類の考えることは清々しいほど読めますね」

「トリじゃない? ねずみはあんな大きな音たてないとおもうけど」

「確かに。あれはネズミというには派手好きですね。このままおとなしく下がってくれたらよいのですが……まあそうはならないのでしょう」

 

 腕を組んで考えてみたが、やはりわからない。

 

「……ぼくと先生、ちゃんと会話できてる? なんだか自信ないな」

「私は坊ちゃんとの会話はとても愉しくさせていただいておりますよ」

「……へえー」

 

 よくわからない人間といるのは疲れる。父を休ませてあげたい気持ちはあるのだが、こうして眠っている間に体をいじくられるのを見ていると、なんだか癪に障るのだ。

 

「あーあ。おとうさん、はやく起きないかなあ」

 

 疲労を込めてそう言ったのだが、神西は父から眼を離さないまま肩をすくめていう。

 

「あと一時間ほどは目覚めません。診察中に目が覚められたら困りますからね」

「先生、やっぱりなにかやったんだ、そうなんだ」

「まあ、仕込んだのは私ですが、こうなったのは成り行きですよ」

 

 ペンライトをもって、父の瞳孔を詳しく見ている神西が数字を告げる。

 ペンライトの光を決して胸ポケットにしまいこんで、神西は父の顔から手を離した。

 

「計画とは思った通りに行かないのを含めたものが、醍醐味だと私は思っていますので」

 

 少し父から離れて、手を握って脈を測りだすのを眺めながら、夏梅は父とは向かいにある、自分の寝台に向かって歩き、ずっと手に持っていたレモンとジュースの入ったペットボトルを置いた、「ねえ先生」

 

 思えばいろんなことがあったのだ、瀬戸の屋敷から離れて横浜へ来てから。

 

「なんです?」

「大叔父さんの探偵社ってすごいんだよ。いろんな人がいてね、ぼくはあんまり他の人とは仕事について行ったりしないんだけど」

「ほう」

 

 たくさんの人に出会った。

 この異能力のせいなのもあるけれども、会えない人に出会えたと思う。

 特異で、個性的で、びっくりするような人たちに。

 

「とくにね、江戸川乱歩さんっていう人が、とってもすごいんだよ。ちょっと見たり、聞いたりしただけで、ぜんぶわかっちゃうんだ。事件もすぐに解決させたんだよ」

「なるほど。興味深いお話ですな」

 

 夏梅は、同じ職場の人が褒められてうれしくなった。

 あ、そういえばと夏梅は思い出して、にこにこしながら神西に話した。

 

「その事件の帰りにね、乱歩さんに言われたんだー。『おとうさん、ねてることみたことないでしょ』って」

「ほう? 寝不足、というのなら、一目見てわかりますがね」

 

 父の目の下の隈は、誰が見ても不健康そうだ。

 早寝でそこそこ早起きの夏梅は、それでも早朝に起きたときに父が眠っているところはみたことがない。

 

「うん。でも、乱歩さんはぼくが早起きしてるのを知ってて、それでかしらないけど、おとうさんのことそう思ったみたい」

「いいところに目をつける方ですね」

「そうなの?」

「はい」

 

 ふうーん、と夏梅は、壁にもたれる形で寝台に座る、父の寝顔を眺めた。

 はい、終わりですといった神西は、手早く父の衣服を整えた。そして、なぜか父の腕を窓枠の桟にのせ、頬杖をつかせる。

 

「何やってるの、先生?」

「偽装ですね」

 

「ふうん……あ、能力テストは?」

「それは、またあとで行う予定です。準備は整えております。夏梅坊ちゃんはにはまた、私がここにいることは知らぬ体ッ……!?」

 

 ガンッと音がしたかと思えば、悲鳴があちこちで上がる。

 車体が大きく戦慄いた。

 神西は咄嗟に、父の体をかばうように身を乗り出した。夏梅はただその場でよろめいただけだ。

 

「作之助殿は無事ですよ」

「さすが、神西先生。ありがとう」

 

 医者ってすごいよな、と探偵社の与謝野を思い浮かべながら、あたりの喧騒に耳を傾ける。

 

「――くだんよっだれかうちの子を助けて」「乗務員はどこよっ」「血を流して倒れてる」「おいっ このパソコンには会社の重要な取引先のデータが詰まってるんだぞ、このスプリンクラーを止めろ!」「やめとくれ、じいさまがこけているんだ」「ゆうちゃん、どこー!? 戻ってきて!」「車掌はどこだ!」「お医者さまはおられませんか!?」「おい、こんなの聞いてないぞ」「どうなってるんだ」「足がいたいよ」「おねえちゃんがめをあけない」

 

 叫び声と、どたどたと走る乗客たちの混乱した足音が、部屋の外から響いてくる。

 

「なんだろう、何かあったのかな」

「大人しくするどころか、仕掛けて来たようですね。行ってみましょう」

「うん……おとうさんも起こさないと」

 

 父に近づいて肩をゆすった。

 父はゆっくりとした深い呼吸で、眠りから覚める様子はない。

 

「ねえ、おとうさん、起きて。おとうさん?」

「作之助さんはお疲れのようです。私たちだけで行きましょう」

 

 神西は父の姿勢を整えるばかりで、まったく起こそうという空気を感じられない。

 眉を吊り上げた夏梅が、神西が羽織り終えた上着の袷を引っ張って強い態度に出た。

 

「おとうさんが眠っている間になにかあったらたいへんなんだけどっ」

 

「では、内側から鍵をかけておきましょう。ちょっと細工すれば外からでも鍵を閉められますので。そうすれば、外から勝手に中へは入れないはずです」

 

 外から鍵をかけられるなら人ならここにいるみたいだけどね、と夏梅は突っ込んでも良いのかわからず、唇を震わせてから結局ため息をついて頷いた。

 

「……わかった」

「あと、これは持って行かせてもらいますね」

 

 夏梅が襟元から手を離すと、神西はそれを直して、夏梅の方の寝台に近づいた。

 そこでレモンの横においてある、開封済みの、ちょうどコップ一杯分が減ったペットボトルを手に持った。

 

「いいけど何するの?」

「コップがあったということは、口をつけていないということでしょう? けが人に水分摂取させるものは重要ですから」

 

 なんだか、腑に落ちなかったけれども、それを突き詰めている時間はないのでここは流すことにした。

 

 夏梅は、ペットボトルを持った神西とともに扉を出ようとすると、乗客があわただしく走り抜けていくところだった。人がいなくなるのを待ってから、外に出ると、何処から出したのか、糸で取っ手の鍵のところに細工をして引き戸を閉めた神西が、糸を引っ張ると、かちりと金属音を鳴らして糸を回収した。

 

 夏梅は、取っ手に手をかけて開かないのを確認する。

 

「すごいね」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 これは密室完成ってことにならないかな。それって事件で使われてたら、ややこしくなりそうだなと考えて、夏梅はそのもやもやを言葉にした。

 

「なんか、犯罪者寄りだよね、神西先生の出来ることって」

 

「ああ……なんという悲しくなるお言葉でしょう。どうか、そういったことを他の方に感じても、そのように言ってくれますな」

「え、ご、ごめんね、じゃあなんていえばいいかな」

「そうですね……『多彩なことができるのですね』と言われると、嬉しいのではないかと」

「わかった。こんどからそうするよ」

 

 廊下を走って来たほかの乗客をひとり神西が捕まえた。

 

「私は医者なのですが、みなさんどうなされたのですか」

「医者!? ほんとか!! ああ、来てくれ、うちの子が」

「お医者さまがいるの? こっちに来てちょうだい」

「医者!? どこに」

 

 人が聞きつけて集まり出した。

 神西はあちこちから手を伸ばされたが、夏梅を背中にかばった。

 

「――治療は全員します。落ち着いてください。怪我が浅いものは最後尾の大広間に集めてください。重傷者は、私が先に順番に伺いますので、まずけがをされた方の容体を再度確認してください」

 

 初老にしてなおぴんと伸びた背に、年を重ねた低く、朗々とした声は、人を落ち着かせる効果があるらしい。集まっていた人が我先にと戻っていく。

 

「重傷を知らせてくる方が戻ってくる前に、最後尾へ向かいましょう」

「ここで待たないの?」

「準備することがあるのです。それに、彼らも私が軽傷の方の治療のために大広間にいくことは知っているでしょうから。どちらにせよ、この列車内は一方通行です。すれ違いにはなりませんよ」

「たしかに……」

 

 大広間へ向かうと、乗客たちがけが人を抱えてやって来た。

 神西からペットボトルを受け取りながら、眉をひそめていった。

 

「なんだか、子どもばっかりじゃない?」

「そのようです。治療が急がれますね。坊ちゃん、怪我をした方のご家族や友人は一緒に固まるように伝えてください。心細いでしょうから」

「わかった」

 

「なあ、ここに来れば安全だって聞いたんだが」

 

 ここは治療するための人が集まってくるはずだが、そうでない人もやってきているらしかった。

「ここでお待ちください。ほかに知り合いの方がいましたら、また動けない方がいましたら、協力してここへ集まってください」

 

 おろおろして何も言えなかった代わりに、神西が答える。

 そんな神西の言葉に、乗客たちは青ざめた顔をしていたが、頷き、従っていた。

 唯諾々とした乗客たちに、少々違和感を覚えた。

 

 夏梅坊ちゃん、と神西が小声で呼んでくるので近くに行くと、傍にいる夏梅にだけ聞こえるような音声で説明した。

 

「……パニックという状況では、会社経営者や医師といった立場の者がリーダーシップをとったり、ほかの群衆はその言葉に素直に従いやすい傾向があるのですよ。その者の適性ではなく、社会的な地位によって信頼を獲得してしまったりも」

 

 周囲を横目で見まわした。

 神西一人の言葉に従ってここに来ている者たちなので、そういう人ばかりが目に付くことになる。ぎゅっとペットボトルを握りしめた。

 

「坊ちゃんの、そういう聡明なところがとっても好ましく思いますよ」

 

 神西は白い眉を下げながら、微苦笑した。

 

「そうですね。たとえば、坊ちゃんの学校が火事になったとき、そこに警察官がいたとします。その人は決して、消防士ではありません。ですが、どうでしょう」

「……たすけてっておもうかも?」

「そんな感じです。さあ、重傷者のところへ行きましょう」

「ここの準備はもういいの?」

「あとちょっとです」

 

 神西は同じ車両内にある、喫茶処の珈琲をつくる機械をいじった。珈琲の滴が落ちる部分を、そこにあったマドラーで器用に割り、珈琲豆の代わりに、何か白い粉を入れ、電源を入れる。すると、割った部分から、なにやら気体が出ている音がした。

 

「これで仕掛けは完了です。急ぎましょう」

「先生、何やったの?」

「気分を落ち着かせて、パニックを広げないための仕掛けです。つまるところ……皆さん方には眠っていてもらおうと思いましてね」

 

 後半部分は小声で言った。

 

「眠る?」

「皆さんは、眠る時間なのですよ。知らないのですか?」

 

 神西が、心底不思議といったふうに見てくるので、夏梅はうっと詰まった。

「し、知ってるよ! みんな寝る時間なんでしょ?」

 

 そういえば、幼稚園の時には、お昼寝の時間があった。

 つまり、そういうことなのだろう、と知ったかぶりを自分の中の知識で納得するために頷いた。

 すると、神西は「その通りです」というと、夏梅に退室を促した。

 

「さあ、急がないと、こちらもぐっすりです」

「あれ――でもけがの治療は?」

「あとで来ますよ。ああ、今回はこの粉が大活躍ですね」

 

 そういって、神西は夏梅が抱えていたペットボトルを取り上げた。

 それは粉ではなく、液体なのだが……。

 

 神西を前にしてその背をついて行く。

 最後尾の車両へ向かう人はほとんどみかけなくなった。

 人とすれ違うたびに、最後尾へと神西は促し、怪我をした乗務員が倒れているのを見かければ運ぶようにお願いしていた。

 

 あっという間に三つの車両は、静かになり、うめき声とすすり泣き、そして家族か友人かの声掛け以外は聞こえなくなった。この物音でも目覚めなかったら、父はほんとうにどこか体に問題があるのかもしれないと不安になった。

 

 向かった先の重傷者は数名で、神西が治療している間は、夏梅は外で待たされた。

 うめき声がやんで、静かになる。すると、やがて両手をハンカチで拭きながら出て来た神西が、なかの様子を夏梅がうかがう隙もなくその扉をぴったりと閉めた。

 

「こちらはお役御免ですね」

 

 神西は、空になったペットボトルをごみ箱に入れた。 




 大活躍したらしいペットボトルさんになんてことを、と夏梅は別れを惜しんだらしいとかそんな事実はないだとかなんとか。

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