夏の梅の子ども*   作:マイロ

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食べていこうよ。

 身支度が終わり、夏梅は廊下を出て、居間への入り口から顔をのぞかせた。電話に応対する父の声から、『そっと静かに』を心がけた。そうなのだが、父はすぐに気づいて、テーブルを指さした。そこにはすでに朝食が用意されていた。

 音を立てないように、忍び足で居間へ入ると、慎重にドアを閉めた。

 机の上には、夏梅が必要とする栄養を補うようにと高カロリーで、野菜豊富な皿たちが鎮座していた。果物や糖分は、補助食品で補いやすい部類なので、そこまではない。

二つしかない椅子の、前に珈琲がない方の椅子に座って、手を合わせる。

 それで、トマトジュースを飲みつつ待っていると、ほどなくして電話を切った父が椅子に座った。いただきます、と手を合わせた父に、夏梅はフォーク片手に尋ねた。

「電話、誰だったの?」

「瀬戸のお爺さまだ」

「ふうん。……なんて?」

 最近よく電話が掛かってくる。電話はいつも固定電話にかかってくるので、父はなるべく電話が掛かってくる時間帯には家に帰ってくるようになっていた。

「いや、ただ、今日は何時ごろに着くのかという話だった」

 夏梅は小首をかしげた。フォークでスクランブルエッグを刺したまま、手を止める。

「きょうは、でんしゃで寝るんじゃなかった?」

「ああ。少し連絡の行き違いがあってな。今日出立だと言ったから、今日中には着くだろうとお思いになったらしい。寝台列車を利用すると、伝え忘れていたんだ」

「へえ……」

 夏梅は、さらに目を落とし、ケチャップをかけて真っ赤になったスクランブルエッグをぐしゃぐしゃとかき混ぜながら、聞いていた。

「最近、また、おとうさん……」

「なんだ?」

 俯く夏梅の耳に、父の声がクリアに聞こえる。父が顔をあげたのだろう、と思った。

 皿から顔をあげて、父を見ると、「どうかしたのか」と父が不思議そうに聞いてきた。

 夏梅は、頬の内側の肉を噛んだ。

「……なんでもないよ」

 ぐしゃぐしゃになった卵を口いっぱいに入れて、鉄みたいな変な味がするなあと思いながらそれを飲み込んだ。大叔父に会いたかった。こんなときに、悩みが言えるのは、ここでは大叔父ぐらいだった。

「そうか? もしかして、戻りたくなかったか?」

 父は、強引に事を進めたのではないかと見当はずれな心配をしているようだった。

「それなら今からでも、取りやめにするが」

 夏梅は首を振った。

「――行く……がっこう、やすめるしね!」

 夏梅は大叔父が好ましく思っている笑顔を浮かべ、半熟卵の黄身がかかったサラダを食べる。さっさと食べて、さっさと出発しなければ、父が余計な気を回しそうだと思った。

 今回、瀬戸に戻るのは、何も、『母の彼岸のため』だけではないのだ。

「そうか」

 それを知らないのはきっと、それとなく緊張しながら珈琲を口にしている目の前の父だけだろう。潮風に傷んだ赤い髪を鎖編みにして首に巻き付けている父は、既に食事を終わらせたようで、こうしてのんびりと食後の珈琲を飲んでいる。ちゃんと眠っているのか、夏梅には解らない。それくらいに、目の下には不健康そうな隈ができているし、いつも珈琲を飲んでいる。

 テレビすらつけない、静かな部屋では、食事する音だけがしばらく響く。

 そうであったからか、小さな音でも夏梅の耳は敏感に拾った。

 ぱたり、と机に液体が零れる音。夏梅は音が立った方に目を向ける。

 父の前の机だった。

 コップの縁にかけた父の指が緩んで、多くもない残りの珈琲が零れるほど、縁が傾いていた。お父さん、と声をかけようとしたときだった。

 

「――ああ、またふしんしゃか」

 

 心なしか、ぼんやりとしているように見える。サラダをつつく手を止めて、夏梅は腰を浮かせて、父の顔を覗き見た。

 

「おとうさん、ねむい?」

 父はきょとんとした顔を向けて来た、「なんだ、ねむいのか、夏梅」

「………おとうさんがねむいんじゃないかって、いま、ききましたー」

 なんなんだ、と。ふいと顔をそらして、口がもごつくのを隠そうとした。一回で聞き取らない父が悪い。最近、また(、、)父の様子がおかしい。だから夏梅は――

 

「早く食べていこうよ」

 

 半眼で、ぱちぱちと瞬く父を見上げた。何もわかっていなさそうな、いや、何もわかっていない父はマグカップを片手に首をかしげていた。夏梅から見たらとても、実に呑気そうに見えて、ついつい夏梅は口を尖らせた。

 

「そんなに瀬戸に戻りたかったのか?」

「…………そうだね、とっても『行きたい』かも」

 

 夏梅はとても意地悪な気持ちになりそうだった。

 父の気持ちはなんだかんだ、まだまだずっと瀬戸にあったらしい。まあそんなの、知っているけども。

 ため息をこらえる。ちょっと頭が痛い。

 こんなことをしていると、夏梅はなんだかとっても自分が大人になっている気がする。学校では、夏梅はとてもマイペースだと言われることが多い。ただ、夏梅からしてみれば、自分の父はもっとだ、と思う。

 

「ごちそうさまー歯みがきしてくる」

 ワンフレーズで言って、立ち上がると、父が珈琲を飲みほすのが分かった。

「そうだな……」

 珈琲のコップを離して、肩に垂らしていた、腰まで届く一本の三つ編みを代わりに手に取っていた。男の人にしてはだいぶん長すぎる髪を、いつも通り首に巻き付けている。外に出るときはいつもそうしている。

 ということは、だ。

 

「それが終わったら、探偵社へあいさつに行こう」

 ――好しよし。

 夏梅は口角をあげた、「はーい」

 父のことを、大叔父に告げ口できる機会(チャンス)である。

 

 

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 はなさない。はなさない。はなさないで――。

 

 ずっといっしょにいるっていったじゃない。

 わたし(たち)だけっていったじゃない。

 

 あのもりで、あのろうかで、あのきょうしつで、あのかいだんで、あのおくじょうで、あのいけのそばで、あのなかにわで、あのうすぐらいちかのくうかんで、

 

 ちみどろになりながら、わたし(たち)は、ちかったじゃない。

 

 そばにいるってちかいあったじゃない。

 うそつき、うそつき。ゆるさない。

 

 ああでも、わたしをうらぎらないで。わたしを、わたしたちをすてないで。

 おねがいだから、おねがいだから――。

 

 まって、まってまっている。おわりじゃないわ。そのつもりでわたしは、わたしたちは、このもりで、このろうかで、このきょうしつで、このかいだんで、このおくじょうで、このいけで、このにわで、このうすぐらいちかで、さけんでいるの。おもいだしてと。 

 

 しんじて、しんじて、しんじているから。

 おねがいだから。ひとりにしないっていったでしょう。

  

 

 ――ああ、いやだ。いやなおとがきこえる。

 

 わたしの、わたしたちのらくえんをふみあらす、かたいくつおとが――。

 

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 当日の朝は父とばたばたと用意をして、正午前には挨拶するために探偵社へと向かう。

 

 そこには、一度家に泊まらせてもらったことのある中島敦もいた。江戸川と与謝野は仕事で不在とのこと。谷崎兄妹は学校だという。今日は、平日。よい子はみな、学校へ通っている時間だ。夏梅の学校とて例外ではないのだけれど(事実、夏梅の学友たちはみな平常どおり登校し、今頃は空腹と睡魔の四限目授業を受けていることだろう)、家の用事という列記とした名目があるので、教師に咎められることはない。

 

 いつもの詰襟の制服ではなく、ポロシャツと半ズボンといった涼しい装いで父とともに探偵事務所へやって来たのだが、なかなか落ち着かなかった。父の肘のところをつかんで、半身を隠すようにして昇降機に入った。扉が開いたとき、ちょうど春野が書類を抱えて横切るところだった。

 

「あら、織田作さん……に、夏梅君。おはようございます」

 

 ちらりと長身の父の傍らにいた夏梅を確認するのが見えた。

 夏梅は小さく、「おはようございます」と挨拶して、おどおどと視線を春野の足元に落とした。

 父は目礼して、そっと「社長は」と聞いた。少し硬い声だった。 

 

「社長は今ちょうど、お手が空いたところですよ」 

 

 父は口数少なく礼を言って、春野が入ろうとした扉を開いてやっていた。

 どうもありがとうございます、と春野も礼を言う。

 

 

 扉をくぐる際に春野が落とした書類を夏梅がかがんで拾う。

 夏梅に微笑みながらもちょい、と目配せされる。

 それについて事務室の中へ入り、春野の机までいくと、後ろの方で扉が閉まる音がした。 

 

「元気にしていた、夏梅君?」

 

 春野はここ数日、休みを取っていたのだ。

 夏梅はこくりと頷いた。

 

 夏梅は春野に、大叔父へ向けての伝言を預けて、事務所の部屋に入った。

 

 すこし時間がかかったので、父もいるだろうと思ったが、すぐに目についたのが、首を絞められている太宰と絞めている国木田、そして何故か椅子にあお向けて伸びている中島敦だった。

 

 父はどこだろうか。その姿を探して部屋の中を見回すと、

 

「ああー! ナツメくんだー!」

 

 ひょっこりと本棚の上から顔を見せたのは、宮沢賢治だ。右手につかんでいるのは黄金のカブトムシ。夏梅はこの少年の前回の依頼が何だったのかとても気になった。

 

「よっと!」

 

 小柄な体躯をしならせて、高い本棚の上からひとっ跳びで夏梅の目の前に降りてくる。きらきらとした金髪と水色の瞳が明るい印象を与える、事実とても朗らかな少年だ。そういえば、父はこの少年のことを牧歌的といっていた。どういう意味だろうか。 

 夏梅より少し後に大叔父によってスカウトされた少年である。探偵社では夏梅ともっとも年が近い――とはいっても十も年上ではあるけれど。

 大叔父である福沢が自ら探偵社に受け入れたのは、父のほかにはこの宮沢だけだと聞いている。

 

「ナツメくん! お出かけだそうですね! 熱中症には気をつけなきゃだめですよ! ほら、ぼくこれ持って来たんです!」

 

 差し出されたのは麦わら帽子だった。

 

「前、いっしょに買い物に気になっているようだったから、ぼくプレゼントしようと思って。どうですか、ぼくとおそろいですよ!」

 

 両手で受け取る。

 

「………ありがとう」

 

 夏梅はにっこりと笑った。

 そのままいっこうに動く気配のない夏梅に、不審がったのか、太宰の手伝いをしていた国木田が、その手を止めて問いかけてくる。

 

「――どうした、かぶらないのか?」

 

 その言葉に、夏梅は周りの視線が自分に向かっていることに改めて気づいた。

 舌が、カラカラに乾いていた。黙ったままでいることはできず、しばらくして夏梅は怪訝な視線を向けられながら口を開いた。

 

「かぶったことない……から」

 

 全員が首を傾げる。それがすこし悲しかった気がする。

 せっかくもらったのに、自分の手の中にあるのが落ち着かなかった。すると手のなかから麦わら帽子が細長い白い指に支えられてそっと離れていく。

 せっかくもらったものを取り上げられる心地で、悲しい気持ちになった。

 それでも、自分がこれを持っている資格はないように思ったので、じっとそれを見送った。

 

 誰の手であろうか。

 

「帽子はね、こうやって被るのだよ」

 

 そら似合ってる、と太宰はいった。

 その笑顔に押されるようにして、夏梅はいつの間にか竦めていた首を元に戻して周りを見回した。

 つばが少し揺れるのに、おっかなびっくりしながら、慌ててつばを両手で支えた。

 

「似合ってます、似合ってますよ、ナツメくん!」

「織田作にも見せてやりたいものだよ、いったいどこにいるんだか」

 

 太宰の言葉に、この部屋に父がいないことを把握する。

 

「おとうさんは?」

 

「社長にご挨拶しに行ったんじゃないかな」

 

 それにしては少し時間が長い気がする。

 

「なんだか、元気ない? お腹減った?」

「おにいさん……お腹は、減ってないかな」

 

 中島が顔を覗き込んくる。

 そうなれば国木田が気遣うのは当然だった。誰かが不調を抱えているのを見過ごす人間ではないのだ。一人が、ふたりに。そしてまた、人が増える。ここは、そういうところだ。その中心には、国木田がいると夏梅は勝手に思っている。

 

「そういえばそうだな。どうした、夏梅。せっかくの休みをもらったというのに、浮かない顔して」

「きっと織田作さんがいないから、元気ないんですよ! 大丈夫、すぐに戻ってきますって!」

 

「……うん、ありがとう」

 

 黙ったままの太宰の視線が、夏梅はなんだか居心地悪く感じた。

 よそよそしく視線をさまよわせていると、国木田が眼鏡の蔓を指で押し上げて言った。

 

「めったにない長期休暇だ。何処か旅行にでも行くのか?」

「ねるでんしゃのるよ……のり、ます」

 

 国木田は手帳を片手に「練る電車」とオウム返しに言う、何か違う気がする。

 

「寝る電車――寝台列車のことかな。ここからだと東西に向けて列車は出ているからねえ。だが、横浜から乗って一泊するとすれば、距離的に考えると、西かな?」

 

 太宰がにこやかに推察する。いや、合っているのだが、ぽかんとしてしまう。

 夏梅はいつのまにか完全に探偵社の面々に囲まれていることに気付いた。

 

 なんだか、ほっとした。

 これから、父とともにこの横浜を離れるのが、心細く感じさえする。

 父はまた少し違うようだが。

 

 気に欠けられていることを実感して、夏梅はこのひとときに自然と笑みをこぼした。

 餞別としてもらった麦わら帽子が、心なしか温かく感じる。

 

 つばに手をかけて、同じ麦わら帽子をかぶる宮沢と笑いあっていると、太宰が父を呼んだ。

 

「織田作、こっちこっち」

 

 やって来た父に真っ先に気付いた太宰は、そのまま父と話をするので、話しかけてはまずいだろうかと遠慮した。

 

 父は太宰と話をすると、()があるのだが、夏梅は、それが悪い影響だとは感じない。それは、こうして会話の内容が聞こえなかったとしても、少し離れたところから見た太宰の表情は、沈んでいて、けれどとても落ち着いて見えたのだ。だから、きっと父は大丈夫だと思った。

 

「行っておいでよ、親子水入らずでさ」

 

 太宰はそういった。だから、太宰は知らない。

 昔の父のことを何か知っていたとしても、今の父を知らない。

 大叔父は、太宰にまだ父のこと(、、、、)を知らせてはいないのだ。

 

 夏梅は父の傍に駆け寄って、太宰を上目でちらりと確認した。

 夏梅の視線に気づいて、目線を合わせるように僅かにかがむ。その面には、にっこりと弓なりになった眼と口許。

 

 分かっていたけれど、これは知らないな、と夏梅は再認して気落ちした。

 それから時間に余裕がないことに気付いて、どたばたと探偵社を後にする。

 

 麦わら帽子が切り取る青空には、大きな雲が泳いでいた。

 初夏を感じさせる気候はすがすがしく、世間の人々より一足先に長期休暇が入った夏梅は、このときはまだ、“抜き打ちテス”トがきちんと運行されると疑いもしていなかった。休暇が終われば、再び高校へ行き、学友にお土産を渡したり、夏梅のための抜き打ちテストを受けたり。

 

 でも、そうはならなかった。

 そうはならないのだった。


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