夏の梅の子ども*   作:マイロ

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(夏梅視点)


第二幕 夜行列車に亡霊はいたか…
きれいに消えて。


 夏梅は一人でいた。

 

 そこは真っ暗で、ガタゴトと音を立てて床が揺れた。積み重ねかれた、古めかしい大きな木箱の隙間に身を潜めてひっそりと息を殺した。

 

 夏梅はそこに一人でいた。身の丈に余る長い袖のなかに指をに潜ませてもぞもぞと握る。長いこと狭いところでじっとしていると指先の末端から、びりびりと、じわじわと、痺れが上ってくる。上着は父のもので、身じろいだ時に、硬い音を立てて何かが床に滑り落ちた。

 

 それは父が肌身離さず首にかけて胸ポケットに入れている懐中時計だった。それを、五指揃ったやや小さい手で拾い上げて、辺りを見回す。うっかりものの父が落としていったのだろう。夏梅が代わりに首に下げておく。

 

 埃っぽい空気は息苦しく、喘息の気もある夏梅は、外の新鮮な空気を吸いたくてたまらない。しかし外はうだるような初夏のような暑さだ。望んだような涼やかな空気をというのはないだろう。というのに、手先、足先は冷え冷えとしている。ふう……。違う。はあ。はあああーと息を指先に吹きかける。

 

 夏梅以外の音は雑多だけれども規則的で退屈だった。一人残されて一体どうしたものか。思わずうなりかけたとき、ガタリと部屋の一部がずれる音がした。とっさに口を押さえた夏梅の目には、二メートルほど先の床に光が差すのが映る。

 

 

 

 ……はあああ、と光を遮る大きな影の主が息を吐く。

 

 

 夏梅は緊張していた。口を手で押さえたまま、瞬きもせす……いや、瞬きは普通にしていたけれども、息を殺して……いや、息をしていないということではなく、ひっそりと息をしていたのだ。

 

 そこで侵入者の溜息に思ったことといえば、

 

(おんなじことしないでよ……)

 

 頬を膨らませたい気分だった。えらく長いため息を深々と吐き出されたことに、納得がいかない。

 

 溜息を吐きたいのは夏梅の方だった。

 

 木目の荒い床を擦る硬質な音が、緩慢な足音とともに狭い貨物車両のなかに響く。

 

 夏梅は確認してはいないけれども、硬い音を立てて摩擦している一方が、火かき棒の側面に細かな溝が入ったような凶器であることを知っている。

 

 硬い音はそれでも、赤い液体で濡れていて摩擦音を多少なりとも軽減しているだろう。

 

 

 なんと、夏梅はこんな凶悪な武器を持つ人物に見つかれば、脳天をかち割られてしまうのだ。一度目は既に経験済み。

 そしてともにいたはずの肉親の姿は見えない。

 

 はてさて。見えない敵に追われるこのシチュエーションはさながらホラー映画のよう。

 

 どうしてこのような事態になってしまったのか、打ち合わせと少々(、、)異なる状況に夏梅は戸惑いを隠せない。

 

 べっとりと首周りの襟に染み込んだ血液を、気持ち悪く思いながら、首を竦める。

 つい先日のことを思う。随分と昔のことのように感じるが、たった一日前のことなのだ。

 

 

 

 

 織田君、と呼ばれた。

 

 移動教室である数学の授業は、進み具合によって組み分けられていて、二クラスずつの合同選択授業だった。体育と同じ形式だ。夏梅はそこで最も速度の遅い教室を選択していた。いつも見慣れた教室からではない空が窓から見えて、ぼうっとそれを眺めていた。

 

『織田君』

 

 

 今日の空は大きな鯨が泳いでいるように見えた。この季節は、こうした雲をよく見かける。

 

「織田、夏梅(なつめ)君」

「あ、はい」

 

 数学の先生は、「なんで君は名前を呼ばれてすぐに返事をしないのかねえ」と、真夏の太陽を受けて反射する頭頂部にしきりに流れる汗をハンカチで拭いながらため息をついた。その間も流れ続ける汗に、タオルを乗せてあげたい気分になりつつ、言葉をかけた。

 

「暑いね、先生」

 

 寒がりの夏梅はまだ、それほど暑いとは感じていなかったけれども、この先生の姿を見ているとなんだか急に暑苦しく感じてきた。

 すると、後ろの席に座っていた、安井が机の上に上半身を投げ出していた体勢から、ため息をつきながら云う。

 

「クーラーとかつけてほしいよなー」

「暑いのは否定しないけど、まだ、冷房をつけてよい期間ではないですよ、安井君」

 

 何時もなら、硬派な野球少年で、真面目に授業を受けている安井だが、らしくなく、だらしない姿をさらしている。といってもここ数日はこんな有様で、どうやら夏梅とは反対に、暑さに弱いらしい。野球や体育の時間は違うらしいのだけれど。

 

「それからね、安井君。いくら下にシャツを着ているといっても、第四ボタンまで開けちゃあだめでしょう。織田君を見てみなさい。校則通りに第一ボタンしか開けていませんよ。……私はみていて胸が熱くなってきますよ」

 

 ふきふき、ふきふき……と忙しなく動く先生の腕にも汗が出ている。

 どうやら、数学の先生も夏梅を見たら暑く感じるらしい。

 

 完全に止まってしまっている授業により、隣席では、教科書が放り出された。

 

「なのに涼しそうだよなー、織田って」

 

 夏梅と同じクラスで、唯一夏梅と張れるぐらいの学力を持つ――決して良い意味とは限らないだろう――少年が口と鼻の間に、シャープペンシルを器用に乗せながら口を出す。文字通り、口を丸めて突き出す。ちなみに名前は泉田(せんだ)だ。

 田たんぼつながりで、夏梅は新しい苗字のために、親近感を覚えている。

 

「泉田君も、そのやる気のない体裁はともかくとして、きちんと服装は整っていますねえ。……私としては意外ですが」

 

「せんっせー、ひどっ」

 

 げらげらと泉田とよくつるんでいるまた別の少年が笑う。

 泉田自身は特に気にした風もなく、

 

「おれんとこ、親が両方とも教師なんで、こういうとこ厳しく育てられたんですわ」

 

 ま、頭の出来はこの通りっすけど、と両手を肩の位置まで上げる。その拍子に、タコのように丸めていた口の上からシャープペンシルが落ちて、ノートにその軌跡が黒く引かれた。瞬間、かっと目を見開いて、鬼のような形相で消しゴムを引っ掴むと、背中を丸めて猛烈な勢いで線を消しだした。

 親の仇でも見ているかのようなぞっとする目でにらみつけ、ノートと鼻が触れ合うほど顔を近づけての行為。

 親しい友人のいきなりの凶行に、先ほどまで笑っていた泉田と仲のいい少年は、ぎょっとした顔で肩を抱き身を引いた。

 

「きちょうめんだね」

 

 夏梅は覚えたばかりの言葉を使ってみた。

 蝉が叫ぶには早い季節。ただ妙に、しんと静かになった数学の先生と安井がようやっと泉田の奇行から目をそらして動き出す。

 

「……公務員って、大変だよなあ。規則ばっかりで」

 

 どこかよそよそしい声音で安井がつぶやく。

 

「なあ、おい。規則に縛られたら、あいつみたいになるのかよ」と泉田の友人が小声で話しかけて、安井の肩をゆすっていたが、安井は暑さからか、うっとうしそうにそれを払った。

 

「ひどっ」と悲しげな声を上げて、今度はそれを眺めていた夏梅に目を向けてくる。何かすがるような視線に感じたが、よくわからず、夏梅は大叔父に受けの良い笑顔でにこりと笑っておいた。……よくわからないが、泉田の友人は机に沈没した。

 授業を進めることを半ばあきらめたような数学の先生が、生活指導のために口を開く。

 

「他人ごとではないよ、安井君。ルールを守ってこその大人です。君のお父上は素晴らしいお手本ですから見習うといいです。……お父上の職業柄、君の家もいろいろあったようだけれど、規律を正す警察官というのは、悪いことをする連中にとっては疎ましいかもしれないが、そうでない善良な市民にしてみればありがたい」

 

「……先生、ごめんだけど、今は暑すぎて何か言われるとそれと反対のことがしたくなる、無性に」

 

 堂々とした安井の自己申告を聞いた先生は「自腹で扇風機持ち込みますかねえ」と流れる汗をふきふきため息をついた。

 

 よし、消えた、と白い消しゴム片手に、同じく白い歯を見せて笑う泉田。その友人が、「そうかよ……」と若干怯えをうかがわせる声で相槌を打った。

 

 ふうと息をついて、汗のにじむ額をぬぐう姿を見て、夏梅は相手を労わった。

 

「よかったね、きれいに消えて」

 

 チャイムが鳴った。

 

「えー皆さんに、残念なお知らせです。今日の数学はこれといって進みませんでした」

 

 いぇーい、と泉田の友人が拳をやる気なさそうに頭の上に振り上げた。口の端にはかすかに喜色が広がっていた。

 それとは対照的に夏梅の隣では、泉田がやっと上げた顔をだんだんと曇らせ、「とてつもなく……嫌な、予感がする」と肩を震わせた。

 

「え?」

 

 夏梅が泉田の方を振り向くと、泉田は寒気を感じたように自分の体を抱きしめていた。

「このパターン、この流れ、この空気……! なんか、めちゃくちゃ覚えがあるような」

 

 そして良いことではないような、と不吉なことを口にする。

 つられて夏梅も安井も他の面々も、不安な顔になる。

 

「えー、教師のご両親をお持ちの泉田君はもうお察しのようですが、授業は進めなければなりません」

「でも、もう授業はおわったよ……?」

 

 時計を指さして、夏梅はそわそわとした。探偵社で助手として書類整理などをしているので、自然と時間には気を付けるようになっていた。

 

「はい。そうですね」

 

 夏梅と安井は同時に、「そうですね……?」と疑問の声を上げた。一緒にいることが多いせいか、こうして声がそろうことが、結構ある。

 

「織田君は二度目ですが。……私が開講する補講と、皆さんが家で自主学習して学校で抜き打ち小テストするのと、どちらがいいですか」

 

 泉田が頭を抱えて叫んだ、「そんなこったろうと思った!」

 

 そんな隣の学友を他所に、夏梅は手を挙げて先生に告げた。

 

「せんせ、ほかの授業も合わせたら、補講は三回目です」

 

 数学と国語……と数えていると、大きなため息を聞いて顔を上げた。――そして目を細める。

 くたびれたように首を垂れる数学の先生の頭頂部が汗でいつも以上に光を反射していた。

 

「織田君は、補講マスターになりそうですねえ……」

 

 夏梅はそのまばゆさに顔をしかめた。

 

 

 

 

 仁義なき教師と生徒とのやり取り。折衷案の、妥協案。勉強したくない、学校来たくない、遊びたいという生徒の訴えが、教師に補講という案を取り下げさせた。

 授業時間外の白熱した話し合いの末、先生の有り難い取り計らいにより、抜き打ちテストと決まり、連休休み前の宿題の山を家に持ち帰ることとなった夏梅は、その晩からすでに教本を開いてぼうっとする人形となり果てていた。

 そこへ素晴らしいタイミングでやって来た、父からの数日かけての逃避行の誘い(瀬戸への墓参り)

 

 学校を休めると聞いて、もう見飽きてしまった教本を放り出した夏梅は諸手を上げて受け入れた。それも休みは明日からだという。学校にも仕事場にもすでに連絡しているらしい。素晴らしい。夏梅が嫌ならば、と撤回しそうな気配を察知――すぐに行くと答える。

 

 夜更かしを宣言して敷いた布団の上に飛び込む。夏でも薄手の毛布をかぶって眠る夏梅の寝る場所はふかふかとしていた。

 スマホを用意して、すぐに安井を筆頭とする男友だち数名となんとなく仲良くなった(?)二谷(にたに)へメールする。

 安井らとは誰が抜き打ちの小テストで赤点をとるかでお菓子をかけていた。一番指名があつまったのは夏梅ともうひとりの男子生徒で、どっこいどっこいだった。しかし、夏梅がいなくなったことで、お流れになるだろう。抜き打ちと云いながら、とある男友だちのひとりが教師の思考と学期の残り日数から、ある授業日を小テストの日だと予想づけていた。おそらく間違いないと思われる。それまでせっせと勉強しているわけだ。ちなみに、賭けは、自分に賭けていた。

 故郷之母(カントリーマーマ)は貰った、となかなか自信があったのだが……。

 二谷は日直の後からよく気にかけてくれるのだが、ちょっと授業中で眠くなってぼうっと虚空を眺めていると、具合が悪くなったのではと心配してくるくらいに過保護だった……ので、明日いなければよけい心配をかけるだろうから連絡をしておく次第――別に、後からなんで休んだのと般若の如き微笑を向けられるのが怖いとかではない。

 

 いろいろ連絡を入れおわると同時に電源を切っておいた。理由は簡単だ、返信するのが面倒くさいから。

 

 存分に夜更かししようと意気込んでいるといつの間にか眠っていたようで、夜は明ける。

 

 目が覚めて最初にスマホを開いたとき、六件メールが来ていたが、その中に、見覚えのないメールアドレスからのメールを2通見つける。

 

「あぁ……なるほど」

 

 そっか、そっかと夏梅は頷いた。

 つまり、これも抜き打ちテストということらしかった。


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