既読の方はすみませんが、前の話から確認をお願いします。
――マイロ
目を開けると、見覚えのある焦げ跡が目に入った。黄色い物体が暴発した痕跡だ。つまり、この部屋は自分たちに宛がわれた客室ということだ。ここから数歩も出ていないうちに逆戻りしたわけだ。
しかし、途切れる間際の意識が曖昧だったとはいえ、自力でこの客室に戻ったとは考え難い。
自分をこの部屋に移動させたのは――何者なのか。
身じろぎしてすぐに、装備が取り外されていることに気づいた。ちらりと視線を走らせると、傍にハーネスが無造作に置かれていた。自分をここに運んだ人物には、敵意はないらしい。とすれば、夏梅くらいなものでは……。
はっとして、身を起こし目を遣った隣の寝台に――夏梅の姿は、見当たらない。脳が一気に覚醒して、躰に巻き付いていたシーツを払って靴に足を突っ込んだところで、がらりと引き戸が動いた。
ちらりとその一対の瞳が向けられる。
「ねぼすけだね、おとうさん」
警戒した体勢になったが、そこから何気なく表した人物に、ほっと力を抜いた。
「夏梅、気が付いたのか」
「――それ、おとうさんのほう……じゃないの?」
ええー、と眉間に僅かな皺を寄せて不服そうな顔をしながら、夏梅は返してきた。耳は聞こえるようになったらしい。そして動きからして視力も戻っているようだ。
「よかった」
夏梅はきょとんとした顔をしたが、「おとうさんがよかったらよかったけど」と不思議そうに呟く。その後ろ手で引き戸を閉めた。手には布がきっちりと固定して巻きつけられてあった。夏梅は手先が器用な部類ではない。負傷している片手をもう片方の手で手当てするなど、とても想像できなかった。
……そして指は欠けたままなのだろう。隙間なく巻かれた布には、うっすらと血が滲んでいた。
「自分で、したのか?」
首を傾げる夏梅に、それ、と目で負傷している方の手を示すと、夏梅は自分の顔の前にそれをあげてひらひらと眺めてから首を振った、
「ううん」
首は、横に振られた。
会話が途切れ、しばらく考えていると夏梅が、自分の寝台ではなく、織田作の隣に腰をおろしてきた。
「誰が手当てしてくれたんだ?」
尋ねると、夏梅はなんてことないように答える。それは思いもよらない人物だった。
「緑のマフラーのお兄さん」
「…………それは、」
口ごもっていると、夏梅が布の巻かれた手を庇いながら、体の横で寝台の端を掴んだ。
お礼だって、と淡々と云う夏梅の声を耳半分で聴きながら、今回の敵対する相手は梶井ではなかったのだろうか、と再考した。
あの場にいたのは、梶井だけではない。
そういえば、少女とガスマスクの人物はどうなったのか。少女については、一般客だろうから、行方が気になる。
そしてガスマスクの人物は、敵なのか。
それにしては、爆発物という殺傷能力の高い凶器を用いた件と、人を無力化するだけのガスを使用した先ほどの件とは、繋がらない気がした。もちろん、織田作が気を失う前に窓ガラスを割ったから、昏倒した程度で済んだだけで、実際は使用されたガスが致死性の猛毒だった可能性はある。
だが、その可能性はかなり低いように思えた。
何故なら、ガスマスクをしていた人物は執拗に、姿を隠す服装をしていた。初夏だというのに、体型が分からなくなるほど着ぶくれ、外套まで着込み、帽子は目深にかぶられ、さらに黒いガスマスクで顔は耳くらいしか見えなかった。手には手袋、足は着ぶくれた下衣に長靴……。見えていたのは、首と耳だけだった。
致死性の毒ガスを使用していたなら、あそこまで執拗に姿を隠す必要はない。
何故なら、同じ車両にいた、少女も梶井も、織田作も、そこで死んでいた筈なのだ。
つまり、あそこまで姿を徹底して隠していたのは、昏倒性のガスでしかなかったからではないか。
はじめから殺す気はなかった――という結論が最も妥当だ。
そして意識が途切れる間際に聞いた、引き戸の開く音は――。
「おとうさんとお兄さんを運ぶの大変だった」
ぼやく夏梅に虚を突かれて、その問題が頭の脇に行った。
「梶井もここに連れてきたのか?」
「かじい? ……顔が痛そうなお兄さんのこと? お兄さんもけがしてたから、あっちのべっどにねかせたよ」
おとうさんはこっち、とぽんぽんと手で寝台を叩く。負傷した手で大の大人ふたりを運んだのは、相当大変だっただろう。
「おとうさんより、お兄さんのほうが先に起きて、てあてしてくれたよ。血が固まってたけど、うごいたらまたちょっと出てきたから」
「――痛いか」
夏梅はちらりとこちらを見て、しばらくして「……いたくないよ?」と云った。
「そう、か」
周りはとても静かだった。
他の状況はどうなっているのか。
織田作は、夏梅に梶井と自分のほかに、制服姿の少女とガスマスクをした人物について聞いてみた。
答えた夏梅の話によると、意識を失う間際の扉の音は、やはり夏梅のものだったらしい。
夏梅は、硝子が割れる音が急に聞こえて、慌てて部屋の外に出たが、そこには織田作と梶井が倒れているだけだったという。一つ隔てた隣の車両は見ていないため、ガスマスクの人物の存在には気づかなかった。
そして、同じ車両にいたはずの少女についてだったが――。
「少女はいなかったか? 水兵服を着ていた十五、六くらいの年の。傍にいたと思うが」
夏梅は怪訝な顔で見あげてくる。妙な事を聞いた、という顔だ。
「すいへいふく……せーらー服?」
「そうだな」
水夫が着用しているという制服だ。海で活動するのに適した機能を備えたものだという、特徴的な襟は衣装の流行に疎い自分にも見分けがついた。確か、あの大きな襟を耳もとに立てて、海風に掻き消される号令を拾うもの……だった筈。
「せーらー服?」
「ああ」
尚も怪訝そうに、夏梅が繰り返して来た。頷いたが、何か違っただろうかと記憶を掘り返す。この作業は、慎重にしなくてはならないため、気づいたら眉間にしわが寄っていた。それを指で解していると、夏梅がもう一度繰り返す。
「ぼくは見てないけど……そのこが、せーらー服きてたの?」
夏梅は見ていない? ほぼノータイムで扉の音は聞こえたはずだ。あの場にいた少女を見ていないと答えた夏梅に少し引っ掛かったが、夏梅の質問に意識を向ける。
その少女は、セーラー服を着ていた。
頷いたが、この返答で満足できなかったのか、夏梅はもう一度問いかけてくる。
今度は少し考えてから答えた。
「そうだ」
夏梅は黙りこんで、なおも怪訝そうな顔で問いを重ねてくる。
口をとがらせているのが子どもらしい。
「ここって、あそびにいく電車だよね、おとうさん」
「……そうだ」
遊びに行くかどうかは人に因るだろうが、夏梅の感覚では自分たちはその部類に入るのだろう。
「ふつうは、制服きてあそびにいかないんだよ」
「そうなのか」
夏梅は深々と頷いた。
物わかりの悪い大人に呆れたように、あるいは思い通りにならないことにむくれるように、顔をしかめた。
それにしても、この子が『ふつう』と云ったのか。知らない内に常識を具えるようになったのか。物の分別がつくようになったのは、学校という環境のおかげだろうか、それとも探偵社の面々が関わってくれたからだろうか。
「ぼくだって、きがえたでしょ」
正装として制服を着て、里帰りするのも手ではあった。しかし、郷里の人々が高校の制服を着た夏梅を見て、動揺するのではないかと思った。だから、夏梅にはプライベート用の服をわざわざ買って着せていた。
「制服は学校へ行くとき以外は着ないのか」
「……だいだいそうだよ」
なるほど、夏梅がそう云うのならそうなのだろう。
「そうか」
穏やかな気持ちになり頷くと、夏梅はじと目で睨んできた。やや険しいこの視線は何を意味するのだろうか。
それでしばらく考え直してみた。そして、今までの会話から、思い至る。
「あの少女は制服を着ていた。彼女は『あそびに』来たのではないのか」
首を傾げると、夏梅もまた同じように首をかしげてきた。
夏梅は、何か酸味を口にしたような表情だったが。
「あそびに、来たのかもしれないけど……」
眉間の皺を深くして、夏梅は口ごもる。傾けたままの目許に、前髪がかかりそうになったのをどけてやると、細めた眼を普通に開いた。大きいな、と改めて思う。
「目と、耳は、大丈夫か」
「だいじょうぶだよ。……さっきまでおとうさんのほうが床で寝てたのに」
どうやら随分と信用を無くしたらしい。一度失った信頼を回復するのは大変だ。無理難題を押し付けられたとしても、二つ返事で叶えねばなるまい。子どもというのは、時に大人よりも目が厳しい。心がこもっているか、いないかの違いを見極める眼はなかなかのものだ。
「おとうさんのほうこそ、だいじょうぶなの?」
夏梅が見返して来るので、織田作なりに夏梅の云わんとするところを考えた。
躰に負傷したところはない。手足の末端はわずかに痺れるがそれだけだ。ガスはそれほど吸い込んでいないようだ。頭は先ほどまでぼうっとしていたが、それもすっかり覚めた。十分、『無事』に入るだろう。
「ああ」
「ふうーん………」
すん、と鼻を鳴らして側向いた。窓の外を向く形になっている。机に肘を預けてその横顔を眺めた。窓からは斜陽が入って来て、夏梅の顔に陰影をつくる。おかしな話かもしれないが、こうした自然の光によるものの方が、夏梅の顔に表情をつくるのが上手だと感じられた。
勝手なものだな、と反省していると、夏梅が窓の外を見たまま、肩を落とした。
「制服きててのってるおんなのこはなんか……へんだよ」
そういうものなのか、と考えていると、夏梅は眉を寄せて窓の外を睨みながら不機嫌そうに云った。
「だって、どこにいくの? この電車に乗ったままでしょ? 寝るときはねまきにきがえると思うけど。きょうはみんな、ずっとこの電車からおりないのに」
「……そうだな」
何時もより饒舌な夏梅の言葉を耳にしながら、織田作は、目も開かない頃の、むずかる夏梅の姿を思い出した。どうやって彼女はあやしただろう。……思い出せない。どういった時、夏梅はむずかっていただろう。機嫌が悪い時――もあったが、それだけではなかったように思う。
おとうさん、と夏梅が呼んだ。いつの間にかぼんやりしていた焦点を戻すと、我が子は機嫌を損ねたらしく顔をしかめた、
「おとうさん、きょうは寝てばっかりだよ」
その表情に反して、声はか細く小さかった。
俯くその頭に手を乗せた。心配をかけた、というのも違う気がした。
ただ、こうして我が子に気遣われるのが、とても不思議だった。あり得ないことで、考えたことも想像したこともない。夢に見たことさえなく、ただそれが今当たり前のように、こうして差し出される現実が、むずがゆく感じた。
「大丈夫だ」
結局のところ、この言葉が夏梅の口癖になってしまったのは、自分のせいなのかもしれない。
そう思って織田作は、口許に微笑を刻んだ。