夏の梅の子ども*   作:マイロ

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第一幕 吾輩はこういう者である。
このままがいい。


 亡くなった母は、常々言っていた。

 ――人が完全に死ぬには間あるのだと。

 

 いつごろのことにや、世間のあちこちで起きる事件に首をすくめ、「くわばら、くわばら」と唱えている閉鎖的な片田舎から、ひとりの女学生が横浜へやって来た。大きな旅行鞄ひとつを携えて。画材道具がぎっしりと入ったそれは重く、家の者はそれを他の荷物とともに送れと言ったが、女学生は頑としてそれに応じなかった。重量のある荷物を細腕の女学生が持ち運べるはずもなく、タクシーに乗り継いでの移動だった。付き添いのひとりもつけずにやって来た地には、女学生の叔父がいてその家に居候することになっていた。会ったことすらもない叔父に、気難しい時分の女学生はすっかり気がささくれだつといったらなかった。不満げに車窓を眺める女学生に何を感じたか、この先からは海が見えると世間話を始めたタクシー運転手の言葉に、女学生は少し考えて行き先を変更させた。お喋りな運転手が、旅行ガイド気分に車を走らせていると、雑木林の奥から、立ち上る煙を見つける。客に断って近くに車を止め、会社の無線で確認を取り出す運転手に、ひとこと言って荷物とともに降りた女学生は、地面に旅行鞄を引きずると、拓けた場所に立つ屋敷へたどり着いた。それは燃え崩れようとしていた。そこで女学生は、死体を見つけた。それは銃で撃たれたが、いやに綺麗なままの、男の死体だった。女学生は、持ってきていた画材道具をすべて火にくべた。代わりの物を旅行鞄に詰め込んで、道を引き返す。運転手は消防署へ連絡を済ませたところだった。女学生は何事もなく、再び、重い荷物とともにタクシーに乗り込んだ。

 

 ところで世の理と言えば、生があれば死があるということもひとつだろう。

 そしてその女学生は、世にも稀な異能という力を持っていた。

 

 それによってその死体の男は、もう一度目を開く。

 

 しかし死者が生き返ってはい終わり、といった単純な問題ではないようで、一度死んだ人間というのは、どうやらやけに死にやすいのだそう。幸運にも生き返った男は、何度も日常生活の中で不慮の事故やら不運な事件やらに巻き込まれて死に、そのたびに異能によって生き返る。ちなみに、生き返るごとに、ある特定の記憶が失われる。……当人からすれば、生き返ったのが幸か不幸かわかったものではないが。

 何も分からないことをいいことに、女学生は卒業後に、海辺の別荘へ連れて戻った。

 

 そしていつしか、死にやすい男と元女学生との間に子どもが生まれた。

 子どももまた異能力を持っていた。

 

 

 

「ゆきち大叔父さん、ゆきち大叔父さん」

 

 椅子に悠々と座す、白髪に和装姿の、武人然とした壮年の男。その男を、猫のような大きな一対の目が見上げている。

 子どもはさあやるぞと唇を舌で湿らせた。幼い子どもにとってそれは日常的な小さな小さな駆け引きのひとつに過ぎなかったが、今度のそれはまた違う大きな意味を持っていた。

 

「ね、いつも大けがすると、体が変わっちゃうでしょ」

「あまり妄りに異能力について語るものではないぞ、夏梅」

 

 書類に目を落としつつ、姪の子どもの相手をしていた男は表情のないまま返答する。

 

 意気込んでの会話のとっかかりは一刀両断。だがこういったやりとりは大叔父相手では標準だ。

 子どもはめげた様子も見せず、言葉を継ぐ。

 

「じゃあ、もう言わないから――」

 

 はやる気持ちとともに、書斎机の両手をついた子どもが身を乗り出した。

 

「ここではたらかせてよ」

 

 長身の男は目を見開いて固まる。

 子どもの手のひらが壮年の男の顔の前で振られる。

 反応がない。聞こえなかったのかもしれない。

 

「ゆきち大叔父さん、ゆきち大叔父さん」

 

 子どもはぴかぴかと、暗所にいる猫のように目を光らせる。

 父を雇う大叔父を見上げる。

 椅子に座っていてもなかなか高いのだ。

 

「ね、ぼくおおきいでしょ。せもたくさんのびたよ。もう、おとなみたいでしょ」

「……駄目だ。お前は、未だ三歳だ」

 

 子どもの周りで、そのような当たり前の事実を、今はもう誰も言わなくなってきた。子どもの父でさえ、時折三歳児であることを忘れていることだって多々あるのだから、それを理由に、希望を聞いてもらえないのは子どもにとってただただ非常に都合が悪かった。

 

「そんなのだれも、しんじないよ。ぼく何歳くらいにみえる、おねえさんは」

 

 茶を持ってやって来た女性に聞いてみる。この人とは初対面だった。ならば、子どもはこの女性が、子どもにとって都合の良い返事をしてくれるだろうと思った。その通り、女性は――

 

「ううんと……十六歳くらいかしら?」

 

 やわらかく微笑み女性は言う。

 事情を知らぬ女性からの言葉は、だからこそ意味を持つ。女性は見事に子どもの意に沿った回答を呈示してくれた。どうだと言わんばかりの目で、子どもは大叔父を振り返る。……子どもには異能力があった。見かけはそれほど幼くない。

 

 子どもの異能は、致命的な怪我を負うと、無傷に回復するというただそれだけのもの。筋力が格段に強くなるわけでも、身体的に無敵になるわけでも、不死であるわけでもない。しかしそこに全快の代償とでもいうのか、身体が恣意的に成長したものになったり、幼児に戻ったりする。そして異能力の副産物である身体年齢の変化というのは、その能力者によって制御はできない。

 

 田舎での生活は異質なもの、異端なものを兎角嫌う。

 見た目に大きな変化が表れてしまうこの異能力の発動は、閉鎖的な環境においては生きづらい。

 

「ありがとう、おねえさん」

「あら、どういたしまして。やけどしないようにね」

 

 子どもにも湯呑を置いた女性は、にこりとまた微笑む。

 そしてそのまま頭を下げてから、後を引くことなくそのまま愛想のいい印象だけを残して室内から出ていく。

 

 横浜は、人が多い。

 人の多さは、他者への関心の度合いを薄れさせる。

 

 かつて母がこの横浜の地に来たのと似たような理由からやって来たわけであるが、理由はそれだけではない。

 

 この子どもの大叔父は、同じく異能力者でもあるのだ。

 母も世話になった人物、福沢諭吉。

 そして、この大叔父のもとには異能力者が集い、探偵なるものを生業としているという。

 なんでも大叔父の下にいれば、異能力の制御が効くようになるとも聞く。

 

 とすれば、だ。

 子どもが父の所属する大叔父の探偵事務所に自分も属することにはいいことしかないと思うのだ。子どもが思いつくなかでの問題があるとすれば年齢だが、見かけ上の年齢であれば、先ほどの女性の返答通り、なんら問題はない。

 

 さて、我が意を得たり、と子どもは有頂天になる。しかし、表情筋の乏しさゆえに、内情のそれはあまり表れない。

 

「ほらね。それに学校だってちゃんといくから、ね、いいでしょ」

 

 難しい顔で悩み込む大叔父にさらにいう。

 

「このまま、また何かあって、また変わっちゃったら、たいへんだよ」

「…………」

「ねえ、だめ? ここではたらいたら、もっとだいじょうぶになるかもしれないんだよ? このままがいい。また変わったらもっとたくさんたいへんだよ」

 

 大変なことをあげていく。これは子どもの父にとっても、支援してくれている大叔父にとっても、負担なことだ。子どもは彼らの負担になっている。それを正確に理解している。その子どもの庇護者である父と大叔父からしてみれば、それは負担でもなんでもない当たり前のことに過ぎないのを、子どもは()らない。

 大叔父は、子どもの思う大変な手間についてではなく、危険性を問題視して苦言を呈す。

 

「危険なこともある」

 

 子どもは突然話題が変わったように感じられて、ぽかんと首をかしげる。

 

「きけん……?」

「危ないことだ」

 

 大叔父が易しい単語に置き換えて言いなおす。子どもは内心でもまた首を傾げた。危ないこともあるのなら、それをしなければいいだけではないだろうか。先生も言っていた。危ないことをしないように、危ないところへ行かないように、危ない人に近づかないように。危険なものからは逃げるように。

 

「じゃあ、あぶなくないしごとをする。こわいひとにはついていかない。やくそくする。ちゃんと気をつけるよ」

「…………」

「また身体がちっさくなったら、おとうさんといられなくなるかもしれない、のはいやだな……」

 

 大叔父が頷いてくれなければ、父だって頷いてはくれない。目を伏せて、がっかりして悲しそうな顔を作る。半分は本当だ。本当だった。そして長い沈黙のあと、子どもは望んだとおりの答えを得られたので、大叔父が大変好ましく思っている笑顔を浮かべてみせて感謝を伝えた。

 

 湯呑みに息をふうふう吹きかけて、傾けた。

 

「……あ、あつ……」

「気をつけなさい」

 

 子どもは舌を出してひいひいしている。

 甲斐甲斐しく大叔父が寄越してきた冷めた茶をもらい、ゆっくりと飲み下し、違う意味で舌を出す。大叔父の茶は苦いのだ。

 

「にがい」

「……そうか。やけどは平気か」

「もうだめだあ……にがくて千切れそう」

 

 打たれ弱い子どもはそうひどくない状態でも、音をあげてみせた。

 理由はない。強いて言えば、暇だったから。

 

 それに対する大叔父の返しも慣れたもので、

 

「安心しろ。苦味で舌は千切れん」

「……ちぎれちゃったらこわいよ」

 

 返された正論に、真面目に返事をする。

 そのとき、子どもは事務所の方で人がやって来た音を聞く――話し声や足音、物音。

 ああ、返って来たのだなと、父の声を耳で探す。

 

 いた、と思ったとき、大叔父が腕を下ろさせてくるので、ずっと腕をあげたままだったのだなと気づく。道理で腕がぷるぷるするわけだ。異能力の代償は、たとえば体が成長した場合では、日常生活程度の筋力が備わっているくらいに成長度合いの差がすくなければいいのだが、大幅に縮んだり伸びたりする場合は少々不自由さを感じる状態なのが多いことだ。

 腕を休めるように撫でながら、父の声に耳を傾ける。知らない人と話す、父の声だった。そのとき沸き起こった感情が、どんなものなのか、良いものなのか悪いものなのか、子どもには解らなかった。ただ、早く会って、自分の知る父の顔を見たいと思った。

 

 扉が開き、父が入ってくる。

 

「――夏梅」

「おとうさん、おかえりなさい」

 

 父にはまた後日、大叔父から説得を受けることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ――そうそう、子どもの父の名は、中村作之助。旧姓を織田という。

 父もまた異能の力を持っている。

 まあ、それもおいおい。

 

 

 まずは、子ども物語についてだ。

 

 

 子どもは大叔父によって、新たに戸籍を作ってもらい、父の旧姓を用いて織田夏梅として十六歳用の身分を得て、父も働く武装探偵社へ勤務することになる。

 




改稿済み.

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