言葉は記憶だ、と彼女は云った。
だから、言葉を放さないで。
文字にして残し続けて。
あなたはペンを、わたしは絵筆を、それで各々の記憶の在り処としましょう、と。
夏梅の誕生の記憶を忘れた時、彼女はそう云って手を握ってくれた。
放さないで、と何度も――そう、何度も聴いたのだ。
✣✣✣ ✣✣✣
映像は五、六秒先の未来だ。
「それを放せ、夏梅!」
呼びかけつつ、それよりも早く檸檬の形をした物体を拾う夏梅の白い五指からそれを掠め取ろうと手を伸ばす。行動を変えると、結果は変わる。その行動は、結果を変えられるものでなければならない。夏梅の動きの変化はそれより早いものだった。あと少しというところで、夏梅の手が悪戯につい、と後退して、織田作の手は空を掻いた。その間二秒。まるで大事なものをとられまいとからかうような幼気で愛らしささえ感じさせる挙動だった。
「やだよ」
我が子の微笑ましい笑顔で、こんなにもぞっとする感情を味わうことになろうとは、想像だにしていない。不意を突かれてすげなく断られ、喉に言葉が詰まった。……反抗期だろうか。
にこりと笑んで、夏梅は黄色い物体を持った手を横に避けるなり、ぴょい、とベッドの上から飛び降りて個室の端へと逃げる。小兎のように一跨ぎで移動してみせ、振り返るその顔は、どこか得意げだった。三秒。
焦りに、手足の痺れを忘れて立ち上がろうとし、がっくりと膝から力が抜けた。前のめりによろける。浅い眠りから覚めて間もない身体は、どうあっても憶えている暗殺を生業としていた若い時分とは比べ物にならない。
『寄る年波には勝てません』と内輪で福沢にそう語ったのが――こんな時だというのに、不意に思い出された。こうして閃く記憶の断片は、思考を遮る。それはまた動作にも、ほんの数瞬の後れを及ぼす。四秒。
目の前で大の大人がこけたからだろう。驚いたような顔をする夏梅の顔を通り過ぎ、地面が視界をしめる。それではいけない。どうなったのかが判らなくなる。中途半端な体勢のなかで転倒しかけながら突きだした手が、敷かれた絨毯の上につくことができた。無理な体勢から首をもたげてふり仰ぐ。中腰よりも低い体勢では、見上げるしかない。五秒。
夏梅の姿に、何かが重なった気がした。線が二重にぶれ、見たことのない表情でこちらを見下ろす夏梅の姿がおぼろげに観えて――けれども瞬きよりも早くその残像は消えうせた。
目の前の夏梅は、ここにただひとりだ。
「それは危ないものだ。こっちに渡すんだ、夏梅」
それを聞いた夏梅は、心底不思議そうにことりと小首を傾げたあと、さも可笑しなことを聞いたといった顔でわらった。
「――あぶないもの?」
見あげた先の、朗らかで――夏梅にしてはあけっぴろげな――楽しげな表情にかすかな違和感を覚えた。うっかりこけてしまった父親が、やはり無事だったと知ってまたにこにこと楽しそうな顔。反論の余地もなく、それは我が子のものだ。少々、小憎たらしい。夏梅の幼稚な悪戯っ子の振る舞いとは対照的に、ざっと全身の血の気が下がる音が耳もとで聞こえた。
間に合わないと知りながらも右手を伸ばした。爆発まであと一秒もない。
右手で黄色い物体を掴んでいた夏梅は、対面からそれを追った織田作の右手の動きに合わせて、自分の頭部を避けて大きく腕を伸ばした。
夏梅は笑いながら、明るい色合いの玩具のような凶器を、咄嗟の体勢が低く到底届かない織田作の手をさらに逃れるように高く手を掲げた。
「おとうさんてば、ねぼすけだ、」
ね、と口の形が見えた。織田作の手から逃れるように退かれた夏梅の手は、突然の光と轟音と黒煙に巻き上げられるようにしてはじけ飛ぶ。強すぎる光が網膜へと突き刺さる。織田作は神経が張り詰めるような緊張と恐怖により、反射という人の持つ機能すら排した極致に在って、瞬き一つしなかった。
見開いた目は強烈な光と黒焦げた熱風に焼かれて、一時的に視力を失う。目を開いているはずなのに、視界は黒かったり白かったり点滅したりと忙しない。眼球が失われてしまったのか、とその時本気で考えた。目は見えずとも、尋常ではない臭い――人肉の焦げた臭いがした。
把握しなければ。捉えたくない現状も、知らなければもっと恐ろしい。
人は現実において辛いことや耐えがたいことがあると、
とは云え、直視したくない現実の恐ろしさというのは理解できる。
頭では大口をたたいておきながら、現実では喉が震えるばかりだ。夏梅、と惑うような声が出た、と思った。しかし織田作は、自分の声が聞こえなかった。喉も焼かれたのか。真っ先に思ったのがそれで、暫くして暴力的な耳鳴りがして、突如音が戻ってきた。耳が聞こえなくなっていたのだ。すると、色の点滅ばかりでせわしい視界が正常に戻ってきて、織田作はその見える景色のなかから夏梅を探した。
夏梅は、指が吹っ飛んだ自分の右手の有り様に気が付いていないのか、不快なのだろう両耳をそれぞれの手で押さえていた。ぽたぽたと右手の指の欠損部分から血が耳から顔に伝い、滴っている。白い頬はいつもより蒼褪めている。
煙に反応した
生きているならばいいではないか、と云った、入ったばかりの新人がそう口にしていたが、それはその通りだと思った。
黒煙を手で払い除けて荒々しい足音を立てて近づくと、夏梅は顔をあげた。ひそめられた眉に、目は――閉じきっている。光に目を焼かれたのだろう。
「夏梅、怪我は………あるな」
見た目に反して凶悪な凶器であったそれは、夏梅の指二本を欠損させた。石膏像とは違い、蒼褪めていても血肉の通った肉体の損傷は無残なものだ。吹き飛んだ二本の指は辺りを見回しても見つからない。見つけたとして、造形品の修復のように接着剤で固めてしまうわけにもいかない。
予見したものよりは、よほど軽い怪我で済んではいるが……はたして複数の指の欠損が、軽いけがと呼んで善いものだろうか。
自然、眉間にしわが寄ってしまう。夏梅は爆砕の瞬間、手を躰から離した位置にしていたので他は無事だった。元凶となった黄色い物体は、名残を思わせる破片すら散らばっていない。
直接の威力を被ることは免れた夏梅は、鼓膜を殴打するような強い衝撃を受けた耳を押さえている。人としてごく普通の反応だった。――しかし何より、普通ではないのは、このような惨事に巻き込まれることだ。
肉の薄い肩を掴み、天井から降り注ぐ水から隔てるために、上着を脱いで夏梅の頭に被せた。しばらくすれば、水は止まるだろう。
「痛いな、なつめ」
それでも、生きている。無機質な印象を与えるような見た目のせいで、壊れやすそうに思えるが、その実、そこらの屈強な大男よりもずっとしぶといのだ。以前、水場で夏によく見かける黒光りする蟲の、神がかり的な生命力の強さになぞらえて国木田に夏梅の異能力について説明したのだが、顔を渋くして苦言を呈された。喩えが酷いということらしいかった。そうは云っても、これ以上しぶとい生物は、自分には思いつかなかったのだが。
撃たれても死にそうにない子どもだ。
死なないと、そうと判っていても、口から出たのは、みっともないほど震えた声だった。
夏梅の肩を掴んだ手は、大きな脈動が感じていた。それは織田作のものだった。
どくどくと心臓が破裂しそうなほど音を立てる。
震える手で、腕に抱えた夏梅の、欠損した右手を捕まえる。目を閉じたまま、そしておそらく間近で爆発音を聞いてしまい、聞こえなくなっているのだろう夏梅は、それでも大人しく引かれるままに手を出してきた。先ほど近づいたときに顔をあげたのは、床の振動を感じたからだろう。
表面が焼け焦げているせいか、血はそれほど流れ出てはいなかった。
「………うさん? おとうさん?」
薄青色の襟つきの、柔らかい木綿の
掠れた声で呼んでくる夏梅に、応える。
「ここにいる、ここにいるから。大丈夫だ、夏梅」
聞こえないのだろう、と先ほど推測したばかりだというのに、何度も、大丈夫だと言い続けた。それでも、その言葉が届いたのか、夏梅の欠損した手から、強張っていた力が抜けた。
夏梅が目を開ける。とっさに、右手を隠した。
痛みを感じていないのは、自分が怪我をしていると気が付いていないせいかもしれない、と思ったからだ。
しかし、それは無用というものだったらしい。
「――みえない」
静かに、室内の雨は止んだ。
修正するかもしれません。
長くて、自分でも何を書いたのか……後から見直そうと思います……。