内装は清潔で整っていて、それと相応しい造りの車内の通路だった。凝った装飾だが、それらは木目調の落ち着いた素材で揃えられていたので、品が失われることはなかった。はじめてといえば記憶にある限りではあるが、はじめての寝台列車は大きな感慨を抱かせなかったものの、高級感あるデザインがもの珍しく感じられたので、おそらくきっと本当にはじめてなのではないかと思われた。間接照明によって柔らかい色合いに照らし出されている通路を、気分が弾んでいるらしい我が子は喜び勇んで先に進んでいた。
手元の予約票にある、決められた部屋番号を探していると、前をひょこひょこと機嫌よく歩いていた夏梅が立ち止まって振り返る。足音はほとんどない。足元に敷かれた分厚い絨毯によって、音は最小限に吸収されていた。
夏梅の白い右手の人差し指は、扉の前の番号を指していた。さて、その子はこう云った、
「あったよ、おとうさん」
手に持っている部屋割りの番号と見比べて確認し終えると、一つ頷いた、「そうだな」
大きな瞳がきゅうっと細められる。
「…………そうだよ」
時々、この夏梅は平然として堂々間違えることがあるので、油断ならない。
信頼していないわけではないが、信用するには信じるに値する経験の積み重ねが足りない。くしゃりと頭を掻き交ぜて、言葉にしない思考を誤魔化す。
やってきた列車に乗り込み、宛がわれた部屋の車窓から駅のホームを眺めた。雑多な人の波の中で、別段目を引く特徴のない、片手に花を携えた青年に目を引かれた。空いた方の手に、大きめの旅行鞄を提げている。駅では珍しくもないその光景に目がひかれたのは、きっと花と黒髪の青年という組み合わせに既視感を覚えたからだろう。バスで同乗した青年と打って変わって普通のその青年は、ホームで待っていたらしい年配の夫婦の許へ足早に近づき、花を持つ手を振って笑顔を見せる。祖父母宅にでも帰省したのだろうか。もしかすると墓参りなのかもしれない。もしそうならば自分たちといっしょだな。
そんなことを考えていると、やがて
「……うさん、おとうさん」
瞬いた先に、光が飛び込んでくる。目もくらむようなそれは唐突で、ふと衣服を引っ張られる感触に視線を下げると、子どもが首をもたげていた。……これは夏梅だ。そうだ成長したのだった。我に返ると、手に荷物を持ったまま、バス停の前で案山子のように突っ立っていることに気付いた。すぐ傍らに夏梅がいる。麦わら帽子を被り、背嚢を背負っている。
どういう状況なのか思い出そうとして――その答えはあっさりと出た。なんということもない、先ほど駅前で停車した
夏梅の問うような視線が向けられたが、頭を撫でて置くに留めた。その隙に何故自分が立ち止まっていたかと考えていると、はたとその理由を思い出した。
バスで先を譲ってきた、花を抱えた青年だ。何故だかその青年のことが頭の片隅に違和感として残っていた。それが無意識の下でもずっと気がかりだったのだ。
納得すると、自分の中で何かがすっきりとした。今度は腕がひかれた。視線をやると、「時間は大丈夫?」とその大きな双眸がこちらを見上げていた。時間――時間。時間といえば、何の時間か。
視線をあたりに巡らせると、駅前の時計が、
そのことにほっと息を吐いた。ここで何かしら夏梅に何か物を食わせなければならないのだ。
「十分間に合う。何か食べていくか」
「いらない。おなかすいてない」
その言葉に、一旦閉口する。
胃の大きさにまだ慣れていない夏梅は、口の中に入れる量も、多くは受け付けない。勝手に頭が満腹であると判断してしまう。中村家の老医は、夏梅について、おそらく本当の満腹感を知らないだろうと語っていた。ただ、もう腹に入れるには不快感がするとか、食欲が失せたという感覚を、『満腹』と捉えているのだろうと。
今の夏梅が口にする『お腹が空いていない』というのは、腹に何かいれる不快さは感じないし、何かいれなくてはならない苦痛も感じないという状態だろう。腹が空いたといわないのは、積極的に口にしたいものもないということだ。
当人も気が付いていないことなので、どうしたものかと思案し――すぐにこの子が実に単純な『子ども』であることを思い出す。そうだ、まだこの子は三歳の幼児なのだ。
「そうか、せっかくそこでアイスを買ってやろうかと思ったんだが」
「れもんあいす」
即答に対して、知らぬ顔をして訊き返す。
「なんだ食べるのか? さっきはいらないと聞いた気がしたが」
「おとうさん、それは『もうろく』ってやつだね」
しっかりと見あげてきた大きな瞳を感慨深く見返した。
「――すごいな。そんな言葉も使えるようになったのか」
「すごいでしょう」
ふふんと鼻を鳴らす。生意気だなやつだ、まったくそうだ。
その語彙力の急成長に、最近は目が覚めるような思いばかりする。
声音は調子づいたものだが、夏梅は、相も変わらずこれといった表情は浮かべていない。
「もっと褒めてもいいんだよ」
「あまり調子にのるなよ」
柔らかな頬をつまむ。ときどきどれぐらい柔らかいのだろうと心配になってつい力を入れてしまう。すると大抵は、その過ぎた力の強さに、大きな瞳に決壊寸前の涙をさっと溜めたかと思うと、鼻をすすって痛いと云うのだ。
「檸檬アイスだな」
「おとうさんは?」
「そうだな……。夏蜜柑味で」
「――きかんげんていだ」
「期間限定だな。いるなら分けよう。全部は駄目だ、補助食が食べられなくなるからな」
二つ分、それぞれのアイスを買って、食べながら駅へ入っていく。
途中で食べ終わって出た塵をゴミ箱に捨てて駅のホームへと向かう。
エスカレーターの最後の四段を、歩いて降りていく夏梅が転ばないかを注意深く見ていると、無事に地面に着地した夏梅がくるりと振り返る。
そうだ、それでそのとき『夏梅』の顔が――
✣✣✣ ✣✣✣
「……うさん、おとうさん」
肩を揺さぶられ、目が覚める。見慣れない壁を背景に、顔を覗き込んでくる、目になじんだ夏梅の『今』の姿。ここはどこで、自分は誰で、何をしていたのか。覚えのありすぎる不安感を伴う混乱から、徐々に思い出していき、そして頭から波が勢いよく引いたように覚醒する。
ここは……列車のなかだ。予約していた二人部屋に入り、荷解きをしていた。暇を持て余した夏梅が外を探検してくるというので、この部屋に一人残って作業をしていた筈で――体を見下し、自分の状態を確かめる。列車の車窓近くの寝台に腰掛け、頬杖を長時間ついていたような跡がある。どうやら、先ほどまで夢を見ていたらしい。ということは、そうか。
「眠って、いたのか」
寝台に腰掛け、窓枠に突いていた頬杖の握りこぶしを解くと、指の関節やら肘の骨がバキバキと音を立てた。寝落ちたのか、時間はかなり経過していたらしい。身体の節々が硬くなっていた。反対の手でまず肘を解していると、じんわりと鈍い痺れのような感覚が広がって怯む。こういうとき、強襲などがあった場合、咄嗟に身体が動かない恐れがある。そうならないため、例え拘束されていたとしても血が通うよう、身体を少しずつ動かすものだが、どうにも気が緩んでいたらしい。
自省しながら腕を伸ばしていると、夏梅は白い頬を控えめに膨らませていた。不満を意図したものだろうが、その顔は割と無表情だった。
少々尖った口調で夏梅は云う。
「そうだよ。ぼくが戻ってきたとき、マフラーのお兄さんが来てたのに、おとうさんが寝てるからどうしようっておもったよ」
「マフラー? この時期に?」
夏梅は上から下まで初夏仕様の涼しげな装いである。夏の初めとはいえ、年々暑さがいや増すばかりのこの国で、この季節にマフラーとはずいぶんと寒がりがいたものだ。――いや、それ以前に、その人物がこの部屋にいったい何の用なのか。
「おとうさん、忘れたの? 駅に来る前に乗ったバスにいっしょだったよ」
至極、当たり前のように夏梅はそう云う。
「ああ……」
ただ乗り合わせただけの赤の他人の顔を覚えている。普段の言動から、薄々察してはいたが、この子は本当に、記憶力がいい。全体的にみれば、記憶力だけはいい。他はすべてが延びしろだと思う。
「……すまないな。乗り合わせた顔を覚えていなくて」
言いかけて、口をつぐむ。バスの乗客の一人ひとりを覚えているわけではない。しかし、途中からバスに乗り込んできた花を抱えた青年のことは記憶に残っている。無意識下では相当気になっていたらしい、と改めて実感した。
その青年は駅で一緒に下車した。混んでいる出口で、夏梅に先を譲っていた。夏梅に手を引かれて先に降りてしまった。それで、その青年は織田作たちの後の続いてバスを降りた。目を離したつもりはなかったのだが、いつの間にか青年の姿を見失ってしまい、それが気がかりだったのだろう。
――夢にまで出てくるほどに。
「……そういえば、何で檸檬なんだ」
ふいに気になった。夏梅に、列車に乗る前に、何か冷たいものでも食べさせようと思っていたのだが、探偵社で時間を食い、太宰に云われてギリギリに飛びだして、何とか時間に間に合ったくらいなので、そうする余裕がなかった。
暑い日は子どもは熱中症に注意しなくてはならない。
だから、それも自分の気がかりだったのだろう。
しかし、何故、夢のなかで夏梅は檸檬味と云ったのだろう。
期間限定の夏蜜柑味は、付き添っていた江戸川がご当地名物ということで買って食べていたのが頭に残っていたのだろう。それは解る。
けれども、夏梅は特に檸檬が好きというわけではないのに。
不思議に思っていたのが、口に出た。
すると、夏梅は首を傾げて云った。
「あれ、おとうさん起きてたの?」
夏梅はとことこと自分の寝台に戻って行く。
さっきねえ、緑のマフラーに眼鏡をかけてた、お兄さんがね、と夏梅が自分の寝台の端に乗せていたものを手に取った。
織田作の目はそれに向かう。
それはまず、黄色かった。
丸い形が印象的で、とても黄色かった。
それは夏梅の五本の白い指によって掴まれて、ゆっくりと白い寝台のシーツから浮く。
「これ、」
くれたんだよ、と云いかけた夏梅を遮るように、光が目に飛び込み、鼓膜が震え、血煙が上がる。そして織田作の顔に焦げた赤いものが飛び散る。煙が途絶えると、見えた先には夏梅の指が半分に欠けていた。白かったそれは焼け焦げた断面を覗かせてなお鮮血を滴らせている。そしてぐらりと少年の体が傾ぐ。夏梅は――。
改稿中