どうしたものかな。
波打ち際の、白い泡に足を濡らしながら海辺で見上げるそれに似た、どこまでも青く広い空。
巨大な白い鯨のように悠々と浮かぶのは、入道雲だろうか。
その日は――そう。ゴールデンウィーク四日前のこと。
天候に恵まれたこの時期、世間はゴールデンウィークというまとまった休暇に、意気揚々と遠出を計画している。斯くいう自分もまたそうなのだ。
いつもよりも少し手抜きをして、カナディアン・ベーコンとスクランブル・エッグを乗せた皿を二つと、トーストした食パン三枚を朝食の支度とした。
ぼうっと黒い一滴がコップに落ちていくのを見送って、一旦湯を傾けるのを中断した。引き立ての珈琲豆の薫りを背に、居間を離れて、子どもを夢の中から呼び起こした。子どもはもそもそと布団の中から這い出るとよたよたと顔を洗いに行った。
「終わったら朝食だ」
「………はあーい」
一拍か、二拍か遅れて聞こえる返事。まだ寝足りないらしい。
連休に入るさらに数日前である今日から、子どもに学校を休ませ、申請していた土日を挟んでの長期の休みを、妻の実家へと帰省する機会にしようと計画していた。ちなみに妻は二年前に亡くなっている。気安く戻るには敷居の高い場所だ。
だが、今回は先方からの帰郷の要望があった。
さて、居間に戻り、珈琲の続きを淹れていると、机の上に出したままだったチケットが目に入った。
前もって予約していた寝台列車の優等客チケットだ。大人二人、というのを目で追って、ゆるやかに流れていった月日に瞑目し――忽ちハッとする。我が子が、それ相応の時間を経て成長してきたかのように、その文字を目で見て錯覚したのだ。
忘れ形見であるひとり息子を思いやる者の名は、中村作之助。
今は仕事上、旧姓を使用し――織田作之助と名乗っている。不甲斐なくも、一児の父親として男手一つで子育てに試行錯誤している、現在二十七の若輩者である。
決して若いとは云えない歳ではあるものの、部分的健忘の状態にあり、社会経験には多少の支障がある、ようだ。
この横浜の地へ転居し、義理の叔父の下で、個性的で才ある同僚の助けを得ながら、何とか仕事をこなすようになった。仕事上の枠を越え、友人という間柄になれたと思う人物もいる。
振り返り、と云っては何であるけれども、今回はこうして帰郷する機会に恵まれたのだろう。
おとうさーん、と我が子の呼び声が聞こえる。
その声は、声変りしかけている、少年のものだった。
子どもが呼んでいる。
石鹸でも切らしたのかもしれない。ぼんやりと珈琲の最後の一滴がカップに落ちるのを見送りながら「どうした」と応える。
中村作之助改め、織田作之助。特に抜きんでた才能も、誇ることのできる人格もなく、未熟で取るに足らぬ、不肖の身ではあるが、異能力を持ち、同じく異能力によって翻弄される三歳児の子どもを持つ、どこにでもいる父親である。そうであるべきで、そうあるはずなのだ。
――めまいがした。慣れた感覚だ。だが、いくら慣れていても心地よいものではない。
目を閉じると、少しはましになった気がする。
すると、瞼の裏に、黄金の飛沫が散り、どこからか猫の鳴き声が聞こえた気がした。
にゃーお、と。
つられて目を開くと、我が子が扉から顔を出していた。
顔を洗った後なのか、洗う前なのか、濡れてはいない。
「もう、終わったのか」
にっこりと夏梅は目を細める笑みで悪戯気にわらった。
「まーだだよ」
✣✣✣ ✣✣✣
夏梅を残していた事務所のほうへと向かう。夏梅は他の面々に囲まれる中で宮沢賢治からそろいの麦わら帽子を一緒にかぶっているところだった。
帽子のつばに手をかけて小さく笑む姿を目にして、ふと織田作の鼻先に潮風が掠めた気がした。
「あ、織田作! 社長への挨拶は済んだのかい?」
じっと夏梅のことを見ていた太宰に間もなく見つけられて名を呼びかけられる。一拍か二拍か遅れて反応する。
不思議そうに首を傾ける太宰の仕草とは入れ違いに、夏梅がとたたたた、と駆け寄ってくる。
「おとうさん、もう行くの?」
やけに生暖かい目が複数向けられている気がして、不思議だった。
向けられる視線にたじろぐ。
「そういえば、織田作たちはどこへ行くんだい?」
「うん?……夏梅は何も言っていないのか」
太宰にそう問われ、はてと首を傾げる。夏梅を見下ろすと、麦わら帽子の奥で大きな瞳が見上げてきた。
「ねる電車にのるっていったよ」
寝台列車に乗るというのは間違いない。
「そうだな」
頷いて頭を撫でようとあげた手だったが、その頭に既に帽子が鎮座していることに気づいて手を降ろす。
織田作、と国木田が呆れたように眼鏡を直す。
「夏梅を連れて妻の実家に、顔を見せようと思っている」
「奥さんも一緒に行かれるんですか」
新人の中島敦は、織田作と夏梅が父子関係であることを既に聞かされているのだろう。
二十代後半の織田作と高校生の夏梅の組み合わせを見て、まず親子だとは思わない。
探偵社のだれかが説明したのだろう。面倒見のよい国木田だろうか。新人である中島敦の担当をしている太宰かもしれない。はたまた年の近い宮沢かもしれない。ともすれば、中島の部屋に泊まったという夏梅自身からだろうか。
ここにいる面々を順々にあげて考えていると、国木田が言い辛そうに、中島に向かって言う。
「織田作の奥方は、その……」
織田作は、国木田の言葉を引き取った。
それはただの事実だった。
「もう二年になる。今回は妻の彼岸も兼ねている」
「……? ……あ……」
「おはかまいりだよ」
「ああ~お墓参り!……え、お墓……彼岸? 妻? んんん!?」
夏梅の言葉を聞いて新人の少年はその顔を蒼白にした。
急に顔色が悪くなった中島敦を、夏梅が具合でも悪くなったのかと心配する
ばっと顔を向けて死にそうな顔をする少年に、気にするなと手をあげて振った。
「中島が入ったおかげで、休みが取れるようになったんだ。感謝している」
「さくらの花をあげたかったなあ」
夏梅は人の話を聞いてというよりは、自分の頭のなかでのつながりから話しているのだろう。
「……もう散っちゃったけど」
外の景色を思い出すように窓の外へと目を向けた夏梅は気まり悪そうに付け加える。季節外れの発言をしたのが居心地悪かったのだろう。
夏梅の言葉を受けて、その場は一部を除いて湿っぽくなった。
「――くそっなんで五月に桜は咲かない!」
「根性が足りないからかな?」
国木田が顔を歪めながら無理を叫ぶと、宮沢が顎に指を添えて首を傾げて言う。まるで今から葉だけの桜の樹木をしばきに行けば、花が咲くかもしれないと真面目に考えているような様子に見受けられたが、さすがにそれはないだろう。
場違いなのは、こんな悲愴な叫びをしたり、無邪気に口許で拳を握らせたり、顔を蒼白にしたままおろおろとしたりする面々の関心事の中心にいるはずの子は、どこかのほほんと彼らを見返していた。今にも、急に騒ぎ出してどうしたんだろう、とでも言い出しそうだ。
その場に居合わせているけれども、心情的には少し距離を置いていた織田作は、そういったある種混沌とした状況に一石が投じられようとしているのに気づくことができた、「桜は――」
実にゆったりとした足取りでその人物は、混沌とした場の中心に分け入った。体の横で腕を大きく広げ、まるで役者のように滔々と嘯く。
「根性なんてものと無縁なところがいいんじゃないか。一度きりの散り際が儚げで薄命――美しい心中に似ていると私は感じるね」
太宰が自分の両腕で体を抱きしめながら芝居がかったように言い放つ。
「私も是非そんな心中をしたいものだよ。もちろん、桜のようにたおやかな女性とね!」
太宰の言葉に、夏梅が分かりやすく鼻の頭に皺を寄せる。麦わら帽子を目深にかぶって、唇を尖らせていた。
夏梅のこの反応は仕方ないとしても、太宰の台詞のおかげで、しんみりとした場の空気が一気に霧散していた。ありがたいと太宰に目を向けると、片目をつぶって寄越してきた。気を回してくれていたのだと分かり、苦笑した。