太宰の、空気をくすぐるような窃めた笑いが聞こえて、垂れていた頭を上げた。
じゃあついてきたまえとエレベーターのボタンを押す。
下からエレベーターが上がってくるのは、分度器の輪郭に沿ったように並ぶランプに標識される数字の値が徐々に大きくなってくることからわかる。誰かいたのか、1回のところで少し止まっていたようだったが、程なくして光が次の階の数字に移っていく。
着々と値の大きくなる数字を見あげていると、同じように点灯した数字を眺めていた太宰が口をひらく。
「私はねえ……きみを嫌っているのでは決してないのだよ」
息を詰める音が聞こえた。
ここには太宰と夏梅しかいないというのに、夏梅には、その音が、自分ののどから発せられたものだったのか、それとも太宰からのものだったのか、定かには分からなかった。
「わからないよ……」
つい口から零れてしまった。それは、辺りの静けさを浮き彫りにした。唇をかみしめる。
息をするのもためらわれるような、耳の痛くなるような沈黙。授業の時間で、ときどきどうしていきなりこんなに静かになってしまったのだろうという、先生も生徒も口を開かない瞬間がある。夏梅は、その時のことを思い出して、ちょっと現実逃避をしてみた。
けれども夏梅の意識は、となりの人物に動きに気づいて引き戻される。
頭上で、開かれた口から声が辺りに響いた、
「きみのことは、むしろ――そう、たぶん、好ましく思っている」
考えをまとめるように、気持ちを整理するように、言葉に出して語っている――そんな気がした。まるで、仲の良くない相手のいいところを必死で挙げようとしている、夏梅の煮え切らない態度と似ているなあ、と感じた。それで、つまり――つまり、太宰はほんとうは、夏梅のことをどう思いながら、今の言葉を口にしたのだろう?
父は頷かなかったけれども、こんな三歳児およびじゃないって思っているのではないだろうか。父は太宰とよく話している友だちのようだったけれども、太宰のほんとうの気持ちなんて、実際尋ねなければわからないではないか。
『好ましく』とは、嫌いではないという意味に感じられる。夏梅のなかにある、好きという気持ちには、到底届かないような意味で使われているように思われた。
言葉そのままの意味を受け取ってよいものか、それとも自分が感じたことをとるべきなのか。
黙っていると、太宰は番号を見あげたまま、続ける。
夏梅はもどかしく思いながら、その横顔を見ながら耳を傾けるしかなかった。
「この気持ちを、どう表現すればいいのだろうね」
これは、独白。
夏梅は、吾が身に降りかかるだろう、何らかの形容の言葉に備えて鞄の肩紐を握りしめていたのだが、それは予期していたものではなく、拍子抜けしてしまった。だからだろうか、夏梅はうっかり訊いてしまう。
「そんなにむずかしいの?」
好きなら好き、嫌いなら嫌い。でも、夏梅は嫌いという言葉がとても冷たく感じられるから、「好きじゃない」をよく使う。それだって気持ちはちゃんとわかるのだ。夏梅は自分が話す言葉がどんな気持ちを表しているのか、分かるのだ。けれども、最近は分からないことも――たしかに、あった。
自分はこの、父の友人である人物のことを、いったいどう思っているのだろう、と。
それが知りたくて、夏梅は出ない答えを探すようにその横顔をじっと見た。
黒々とした太宰の瞳は依然として数字を見ている。そうして夏梅は気づく――どうして、さっきからずっと……太宰は『夏梅』を見ないのだろう。
「そうだねえ。私にしては、珍しく悩んでいる」
夏梅をどう思っているのか分からないのなら、夏梅を見て考えようとするのではないだろうか。まるで、これでは――そう思った時、「きみは想像したことがあるかい」と太宰が首を傾けてやっと夏梅を見てきた。
しかし、何だろう、この問いかけは。夏梅はとっさに首をそのまま横に倒した。傾いた顔をそのまま見あげる。想像……。
「なにを?」
「死んだと思った相手と再会して」
想像、というからには、今から言われることはたとえ話なのだろう。
さてさて、どんなことなのだろう、と夏梅は軽い気持ちで耳を傾けたが、それは大いに失敗だとすぐに気がつく。
「……子どもまでいて、ちゃんと、らしい父親の顔をして、いまも生きている」
生きている人を想像するのだろうか。それで、それは子どもなのか、大人なのか、女なのか男なのか……。
判定は難しいところだな、と夏梅の背中に冷たい汗が流れる。これはひょっとすると、
「本当に、意味のない夢想だと知りながらも想像したならそのまま――いやそれ以上に」
――この瞬間、夏梅は確信に近いものを抱いた。目の前のこの包帯人間がいったい何を言っているのか、理解するのは、これから学校へ行き補講を受ける問題の文章を頭に入れるよりもずっと難解なのではなかろうか、と。
「ああ『こうあったかもしれない』って姿を目にする、している」
するすると滑らかに回る太宰の舌が、言葉を紡いでいく。何度も言葉を探すように音が途切れるので、頭のなかでつながれるはずの意味もその度にぷっつんぷっつんと途切れる。そうであるから、さっき何を言ったのかその内容を忘れてしまう。するするするりと抜け出ていってしまう。
そう、これはたとえ話だ。しかし……いったい、何の話をしているのだろう。誰の話をしているのだろう。夏梅の話では、きっと……ないようだ。
解っている、たとえ話だと。そのはずで、そのように太宰がいっているのだから。
『夏梅』の話ではない。
よく分からない。なんだか物言いがふわふわとしていて、太宰という人間の言葉らしくない、ような気がする。
太宰によって口にされた単語は、文章は、難解だ。……『再会』とは、どういう単語だったろうか。国語の勉強をしないと。勉強は好きではないけれど、夏梅は、ちゃんとこの包帯だらけの人物の言葉を、理解しなくてはならないような気がした。
想像したことがあるかい、と問われたが、答えるのならは否。
夏梅は夏梅の関わりのあるごく狭い――けれども夏梅にとっては世界と等しい重要性を持つ事柄しか想像することはない。たとえば、生かすこと。けれどもそれらを口に出しはしなかった。
太宰は、夏梅の答えを待っているようには思えなかったのだ。
何も言わずに黙っていると、やはり夏梅の反応など関係なかったのか、再びエレベーターの番号を見あげて言葉を続けた。
「私が看取ったんだ。死んだと知っているんだ。でも、もしかして、生きていて、私が死んだと思っていた間もずっと生きていて……生きていたんだとすれば」
『看取った』とは、なんだろう。見ていたということだろうか。
死んだ、知っている、生きている、死んだ、思う、生きていて、生きていた。
幾度となく太宰の口から出てくる「死」という言葉と「生きている」「生きていた」という言葉。太宰はこれらのことについてとても思い入れがあるようだった。
以前、太宰が、自殺を試みているというのをふとした拍子に耳にしてしまった――そのとき以来の、夏梅の衝撃だった。
「だが、それは夢だ」
「ゆめ……?」
たとえ話なのか、夢の話なのか。それすらよくわからない。
夏梅を置いてけぼりにして、言葉は漂々と頭上の口から滑り出ている。それはどこへ行くのだろう。その言葉は、夏梅に向かってはいないのではないだろうか?
「
「こうふく……しあわせ?」
太宰はエレベーターの文字盤を見あげたまま、首を振る。
違う、のだろうか。
「それは悪夢でしかない。目覚めた後に、夢だったと悟るしかないのなら」
夢の話をしているのか、と理解する。……それで、いつから夢の話になっていたのだろうか。夏梅にはさっぱりだった。言語というのは難しい。
「つまらなく、ちっぽけで無意味な幻想だ」
「あんまり……」
楽しそうじゃないね、と言おうとして口をつぐむ。触れている話の内容ではなく、夏梅といること自体が、楽しくないものかもしれない、ともとれることに思い至って怖気づいたのだ。そんな俯き加減になる夏梅のことなど、視界にも入っていないだろう、この包帯だらけの人物は、ほんの少し抑えた声で続きを口にする。
「私はね、たった一度の死に迎えられたい………けれど」
自らの命を絶たんといつも試行錯誤している人物が、「死」を尊いものとしている。
そういった思いを、夏梅は幼いなりに理解する。
「織田作が、きみと一緒にいる姿をみるとき、ああこれは夢なんじゃないかって、いつも現実味がないんだ」
エレベーターがやって来る。扉が開き、先を促される。避けられた脇を通って、先に乗り込む。
後ろから太宰も乗り込んできた。扉の前に向き直る。太宰の口からは父と自分の話が出てきた。それに一拍か二拍か遅れて気づき、ぎょっとした夏梅は慌てて首をもたげ、夏梅より高い位置にある太宰の面を見上げた。
閉じ切ったエレベーターの扉と向かい合った父の友人は、じっとその境目を眺め――まるでこの閉ざされた狭い空間に、彼独りしか存在しないかのように、呟きを落とした。
「私はもしかしたら、この謎を永遠に解きたくはないのかもしれない――」
ボタンを押して扉が閉まる。夏梅のことがやっとこの人物の口から出てきた。けれども、先ほど感じたのとまた同じように思う。まるで、『目の前にいる夏梅のことを考えたくないようだ』と。
決して向けられない顔、交わらない視線。それなのに、その人は夏梅のすぐ傍らに佇んでいる。彼はいったい何なのだろう。何を思い、何を考えているのだろう。どうしてーー夏梅を見ないのに、側にいてくれているのだろう。分からなかった。悟れなかった。ただ、見上げるしかなかった。重苦しい空気に、夏梅は幼さ故になんとなく発言するのがためらわれるのを不思議に思っていた。
エレベーターが徐々に降下していく。もうすぐでこの閉ざされた空間が開かれ、二人っきりの重苦しい空気からも解放される。でも夏梅にはそれが少し、勿体ない気がした。
それはどうしてなのか。……父の友人と話せる機会が滅多にないから? 考え込んでいると、エレベーターが閉じてから、ただの一度も顔を向けず、視線もよこさず、語られる言葉すら独白のようだった太宰が、明確な意思を持った言葉を夏梅に向けてきた。
「でも、私はこのことを放置することなど出来ない」
その言葉は、その人の意図する意味をきちんと理解することができないものの、夏梅は厳しい響きを感じ取った。温度のない抜き身の刃のような鋭さが、どうしてだか今この瞬間に、夏梅に向けられ、宣言されているように感じられた。思わず息を飲んだ夏梅の許に、ようやっとその人物の黒い瞳が向けられる。木の幹にぽっくりと空いた洞のような黒々とした双眸が、感情のない能面のような相貌が。
目を逸らせば、夏梅を飲み込んでしまいそうだ。
それは夏梅のよく知っているもののように、感じた。
「――きみはいったい、何者なのだろう」
太宰の言葉が、いやに、夏梅の耳に染み入った。
❂❂❂ ❂❂❂
あいするあなたへ。
いまごろあなたはどこでなにをしているでしょうか。
わたしたちはここからうごけません。
でも、こころはいつもあなたをきにかけてやみません。
やみません。
ああ、いとしいあなたへ。
あなたはどこでなにをしているのでしょうか。
もし、わたしたちにあしがあり、うでがあり、くちびるがあるのなら、
あなたをそのあしでどこまでもおって、そのりょううでであなたをだきしめ、そのくちびるであなたのなをよぶでしょう。
ああ、わたしたちにあしがあり、うでがあり、くちびるがあるのなら。