夏の梅の子ども*   作:マイロ

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 不可解な現象がその身に起きた我が子を抱え、成す術もないのにすべてに手を伸ばそうとした自分に、逆に多くの手が差し伸べられた。

 そのときのことは、一生忘れられないだろう。


「わるい人さん」*

 思えば、妻という存在、そして我が子の誕生とは、自分にはあまりに過ぎた幸福だった。

 片方を喪った今でさえ――生きて傍にいる我が子が、この世のすべてだと言えるくらいに。

 

 

 

 

✣✣✣ ✣✣✣

 

 

 妻と夏梅の三人で暮らしていた、海の近くの別荘は、夏梅と同じとある凄惨な事件の被害に巻き込まれた子どもたちのための施設として――妻の家である中村の名義ではあるが――運営されることになった。

 

 地元住民たちの協力のもと、必要な人員と寄付金が集められ、そこは一種の共同体のようになった。

 

 

――一人息子を海難で亡くした漁師は、獲れたての新鮮な魚を子どもたちに提供し、施設の子どもが成長したあとには、働き口としての受け入れまで申し出てくれた。

 

 

――農家の老夫婦は、耕さなくなった畑をいずれ手放す場所だったからと子どもたちに譲り、昼間の農業を手伝ったときには駄賃として収穫した野菜を多めに分けてくれるようになった。

 

 

――里親を見繕うため、街の重役だった人物たちが(こぞ)って後見人に名乗りを上げてくれた。

 

 

――必要最低限の筋肉しか持たない、二歳になるはずの成長した我が子を、中村家お抱えの主治医は何も言わずに診察してくれた。

 

 

 

 あれは平凡で、平穏な、いつまでも続くかと思われた穏やかな日々のこと。

 半分透ける白いカーテンが揺れる別荘の窓から眺めていた。

 

 

 

――漁師は夜も明けない時間帯から海へ出ていき、命がけで漁をして港へ戻ってくる。ほとんど何も獲れないときもある。潮風に髪や肌は痛み、荒い波に反射する太陽の光に焼かれながら、汗水たらして生活の糧を大海原から得てくるのだ。

 

 潮風にたなびくカーテンを背に感じ、白紙にペンを走らせながら、土の匂いがして顔をあげると、妻が階下で応対しているのが聞こえてきた。

 

――年を取り、農業が難しくなってきたので、田畑を完全に放棄したり別の作物に移行したりすることで過剰生産されていた農作物の補償金が、十分に国から降りる。その補償金で、都会に行った孫に祝い金を遣り、残った金で老後を健やかに過ごしたいと話す声が。

 

 刻一刻と様を変える波に、風に、感性が鋭敏になっていく。人の心はそれより変化するものではない。

 

――何処の馬の骨とも知れぬ身。出自を自分でも正確に示すことができない不詳な男。地域社会の枠組みを乱す異物。そんな自分が、警戒されていたのは知っていた。ただ甘受という名の諦観だったのかもしれない。昔からその地に根ざし、その地での役割を担っていた功労者たちは、有事となったとき、すぐに行動を起こした。こんな不確かな男を、受け入れた。

 

 小さな変化はやがて大きな様相となる。さまざまな些事が遠ざかり、圧倒的なものに自分という矮小な人間は飲み込まれる。

 

――分不相応な家に入った者を謗る様々な言葉を耳にしているはずの侍医は、泰然としたまま誰に対しても態度を崩さなかった。

 

 

 文字を、綴る。

 

 傍らに日常を。

 傍らに、どこまでも続く大海原を。

 

 文字を、綴る。

 

 潮風に手元から離れた紙片が室内の乾いた床に落ちる。一枚、また一枚。そうして床に散らばった紙片が一面を埋め尽くす――そうなる前に、いつの間にか空いたままの扉から部屋に入って来た妻が、一枚、また一枚と拾い上げて、何の説明もしていないというのに、書かれた順番通りに並べ替える。

 真向かいの壁際に置かれた日陰の椅子に座って静かにそれに目を落とす。そうして読み終わると、朝の海で拾ってきた大きな貝殻を文鎮代わりに、机の端の上に重ねておかれる。それらの行動の途中に気が付くこともあれば、いつの間にか重ねられた紙片に見覚えのある貝殻が乗っていることに気が付くだけの時もある。

 知らぬうちに傍にいる。

 その存在に気づくも気づかぬも、関係はない。……関係は、なかった。

 

 

 一方に、かけがえのない存在の気配を。

 一方に、何の思惑にも捕われない大自然の揺るがなさを。

 

 ともすれば人間よりも移ろいやすい海の様相。けれども人間よりも繊細で、広大で、寛容で、厳しい。恨みや憎しみといった人の感情さえ置き去りに、ただそこにあり続ける。

 ああ――いつの間にか傍らにいた彼女はいったいどんな姿だったろうか。今や、彼女の気配も声も仕草も遠い。刻々と変化してゆく自然の有り様よりも、自分の記憶の不確かさの方がよほど頼りにならない。

 

 されど、綴ろう。物語を綴ろう。

 文字は変わらずそこに残るのだから。

 

 そして物語は――。

 書き綴っていると、知らず落涙が紙片を濡らし、文字を滲ませた。

 

 

 こんなことができるのは奇跡だと、きっと記憶のない穴の部分が知っていたのではないだろうか。自分には、こうした恵まれた時間が与えられる資格は本当はないのではないか。――そう思うと、ペンを持つ手が止まった。

 

 そう、あの時にペンを置いたのだ。

 

 

 

――今は遠い、島々の浮く海。

 

 

 異能力者である自分の周りは、平穏ではいられない。

 それは、年端も行かぬ、この小さな我が子でさえ変わらなかった。

 骨身にしみて思い知らされた。目の前が真っ赤に染まるほど、焦りと絶望と行き場のない激情が全身を駆け抜けた。そうだ、留まってはいられない。行動しろ。すべての清算をつけるために――

 

 もう何も失う者などなく、手に入れることもしない。すべての未来を諦め、ただ一つにこの身を遂げさせる。

 いらぬ。いらぬ。すべては燃え尽きたのだ。燃え残った灰が自分だ。この身はもう死んだのだ。

 

 

 

 死んだが、動く屍なのだ。

 

 

 

 

 

「おきゃくさん、そのままでいいんですか」

 

 我が子の声に思考を引き戻される。

 そうか、今は入社試験中だったか。

 

 強盗犯を「お客さん」と勘違いしている夏梅に、太宰がにこにことしながら「あれはねえ、悪い人なんだ」と説明する。

 このやりとりをかたわらで聞いていると気が抜ける。

 マイペースという点では、我が子とこの同僚は似ているかもしれない。

 

 強盗犯役の国木田が、拳銃を振り回しているというのに、緊迫した空気はこのふたりの間にはない――というより、これが試験だと夏梅以外のみなが知っているので無理からぬことかもしれない。

 

 太宰とは、一年違いにこの探偵社に入った。妻の叔父である福沢諭吉の異能力に頼り、夏梅を連れて横浜へとやってきた。その当時、夏梅は二歳になって間もなかったが、外見は異能力によって十二歳ほどの姿に成長していた。

 決定打といえるとある事件のあとも、致命傷を受けた夏梅は何度か体が退行したり成長したりしていたが、今のところ数か月ほどは十五、六ほどの少年の姿のままだ。

 横浜の地で十六歳の高校生「織田(おだ) 夏梅(なつめ)」として学校にやるのは最後まで悩んだものだ。

 こうして心臓を鷲掴みにされるような心配の極致にある親の心など知りもしないという風に、呑気に同僚と話に興じている姿を見ると…………世界は平和だとつくづく思う。

 

「……わるい人のいうことをきくんですか」

 

 笑顔のまま、太宰の顔が固まるのが分かる。微妙に空を泳ぐ目とかち合い、何かを訴えかけるそれからそっと視線を反らした。

 言葉はなくとも言いたいことはなんとなく解るような気がした。

 それなりの年をした見掛けだが、中身は三歳の子どもなので、どうにも物言いが直接的に過ぎる。ともすれば、的を射た言葉が、ストレートに胸に突き刺さるという事態も……まあ。

 

「銃を突きつけられている。私たちは動くことができない」

 

 助け舟といえるのか、与謝野が両手を上げたまま状況を端的に夏梅に説明した。

 役に立たない男ども、といった視線に流し見られる羽目になったが。

 

 太宰とともに視線を避ける。

 ここは女が強い。……いや、どこでも、女は強いのかもしれない。

 

 現実逃避をしていると、自分に似ているのか似ていないのか、我が子は、強盗犯に銃を向けられているという状況下で(疑問に応えてくれる相手と見た――か?)与謝野に親しく話しかけ始めた。

 

「銃を向けると、みんなはうごけない?」

「時と場合による」

 

 ケースバイケースという返答を受けた夏梅が、肩をすくめる。

 あ、今面倒くさがったな、と父親の目で分かった。

 

「てがつかれた……下げてもいいですか、わるい人さん」

 

 十中八九、強盗犯がどういったものか分からないのだろう。直接、許可を得にいく姿勢に、予定と違うぞという視線をいくつも向けられるが、正直なところ、分かるはずないではないか。

 ちょっと前まで、言葉も話せない幼児に退行したり、成長したかと思えば舌がうまく回らなかったりで、碌に意思を伝達できたのは三年という時間のなかでここ数か月のことなのだ。成長目覚ましいとはいえ、夏梅は思っていることすべてを言語化できているわけでもないのだろうし――

 

「う、動くな! 動けば、他の奴らを撃つぞ」

 

 慌てた国木田の声。

 完全にアドリブだ。ちょっと予定を早めた方がいいかもしれない、と太宰に合図すると、心得たという頷きが返ってきた。……大丈夫だろうか。

 大人たちがそうしている間にも、夏梅の腕は限界のようだった。筋力のない腕がもう既にぷるぷると痙攣していた。大きな瞳にも薄く膜がはっていた。

 

 ぎょっとし出したのは周りだ。

 

 当の自分といえば、くいしばる白い歯を見て、あれは永久歯なのかそれともぜんぶ親不知という括りでいいのかと疑問に思っていた。

 

「よし、じゃあ、そこの女……ではなく、ええと、そこの赤い髪の男、こっちにこい」

 

 銃口が与謝野を向きかけて、こちらへ向けられるや否や、夏梅はいった、

 

「おーい」

 

 緊張感のない平坦な声。聞きようによっては、やる気がないとも取られてしまいかねない。

 光に反射して表情のみえない国木田の眼鏡が、ぴくりとして夏梅の方を向くのが分かった。

 

 我が子は、夏梅は、淡々と言った。

 

「ぼくがひとじちになるよ」

 

 

 

 

 

 手を挙げたまま、何の(てら)いなく、てくてくと国木田の方へと向かう。

 ここまでは予想しえた。

 

 断っておけば、この子は普段はこうした能動的な行動は億劫がる方だ。

 いつも受け身で、あまりにも動かないので、周りが色々と手を出してしまう。

 そうして自分から何も行動(アクション)を起こさなくとも、結果をみればなんとかなってしまっているので、ますます自分では動かない。

 

 生来の気質が、周りの環境によって助長される――悪循環だ。

 とはいえ、手を出すのをを辞めようとは思えないほどに、この子は不器用で不摂生な子どもだった。

 

 まったく誰に似たのだか……と考えて、はたとまだ我が子が三歳児であることを思い出す。

 まだまだ、親の手が離れない時期なのだ、本来ならば。

 

 

 

 ……大丈夫と理解していても手を伸ばしたくなる後姿をそれでも耐えて見送っていると、横から声がした。

 

「人質って言葉、よく知ってるね、きみの子ども」

「まあ……場数、踏んでるからな」

 

 ひそひそと太宰が話しかけてくるのに、短く返す。

 首を傾げる太宰が視界の端に映る。

 

 

 話を戻そう。

 

 あの子が、人質を申し出ることまでは予想済みだった。

 

 その後、予定を早めてやってきた変化。

 

 手はず通り、事態に動きをもたらすため、強盗犯の背後の扉から新聞配達人がやって来る。実際は、新聞配達人という第三者に扮している探偵社の人物なのだが。

 

 麦わら帽子が普段通りの宮沢賢治が現われた。

 この時点で、予定にはないほど豪快にドアが開け放たれてはいたものだが……。

 配役がおかしい。

 ここは谷崎潤一郎が無難だと、太宰が推したはず。

 

 ちらりと目を向けると、「演技力に差を設けないために急遽変更したのさ」とくすくすわらう。

 楽しそうで、なによりだ。

 

 目の前の寸劇はなかなかのものだった。

 

 新聞配達でーす! おやや、銃で撃たれてしまいます、あーれーと見事な役者ぶりを披露し、皆の気が緩んだ、その時だった。

 

 宮沢賢治に向けられようと動きかけていた銃口が、国木田の手元から吹っ飛んでいた。

 そして、夏梅の緩く指を丸めた手のひらが国木田の顎の下を垂直に押し上げ――その状態で静止。それは瞬く間もなく、速やかな動きで、無防備な国木田の喉が周りにいたそれぞれ者の眼前に晒される。

 国木田の長身が床から軽く浮いた。

 

 

 

 

 

 まるで時間が止まったかのよう――いや、周りが動きを止めたのだ。

 

 

 

 声が、息が、その瞬間止まった。

 

 夏梅がいつの間にか数歩あったはずの距離を一息で詰め、蹴りで銃を飛ばし、手のひらの突き上げで相手を無力化した――その一連の動作をきちんと捉えた者は何人いるのだろうか。太宰が目を丸くするのが目に入り、おかしくて噴き出しそうになった。

 国木田が完全に意識のない状態でふらりと崩れるのを両手で支えようとして共倒れしかけるのを、手伝うと、大きな瞳が見上げてきた。

 

 

「だいじょうぶ、おとうさん?」

 

 

 

 我が子の、もはや口癖のようになっているこの言葉。

 

 親として、不甲斐ないとはこういう時のことを、言うのだろう。

 苦笑して、その柔らかな頭をかき混ぜた。

 

 指に触れる髪は、幼児らしい、さらさらと繊細な髪質だった。

 

 

 

 

 ああ、大丈夫だ。お前がいる限り。

 

――子は、己の死と再生の象徴だった。

 


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