結論から言おう。
プラウダ高校は、全国戦車道高校生大会準決勝で敗北を喫した。
それが、彼女達の結果だった。
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「はァ…負けちまったかァ…」
「凄い試合でしたねー」
歓声に包まれる観戦会場で小此木は小さくため息をつき、その膝の上に座った少女は彼とは対照的に興奮冷めやらぬ様子で頬を高潮させていた。
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雪がしんしんと降る中、カチューシャは凍るような風を切るかのごとく歩いていた。その後ろに、いつものようにノンナが控えている。
そんな彼女に、カチューシャは振り返らずに声をかけた。
「お疲れ様、ノンナ」
「…申し訳、ありませんでした。あの時、私が相手フラッグ車を撃破出来さえすれば」
「過ぎたことよ、気にする必要はないわ。それでも叱咤が足りないって言うなら自分でやりなさい」
厳しくも聞こえるカチューシャの言葉を、ノンナは強く噛み締める。カチューシャの声は、ともすれば分からないほどに微かに震えていた。
三年生としてこの大会に出場し、敗北した。その意味を、同じ三年生であり、これまで同じ道を歩んできたノンナが理解できない筈がない。
「それよりも、これからノンナくらいの腕の砲手がいなくなることが問題ね。これから各車両の砲手の指導をしていった方が良いわ」
「…はい」
「返事が小さいわよ」
「……はい!」
カチューシャは頭を下げるノンナの方を一度も見ないまま歩いていく。
雪を踏みしめる。雪が吸収してしまっているのか、音すらない。カチューシャの耳には自分自身の乱れた呼吸の音が聞こえるだけ。カチューシャは歯を食いしばる。
試合後すぐ、チームへの言葉は既に告げた。向こうの隊長にも、言葉は託した。
何も言っていないのは、自分自身にだけだ。
「…ノンナもクラーラも、ニーナもアリーナもマリーヤも、他の誰もが、皆がよく頑張ってくれたわ。 ……今回の敗北は、カチューシャが原因ね」
「そんなことは!」
「…全員が指示通りに動いた、カチューシャの作戦に従った。戦車の数も性能も練度も、こちらのほぼ全ての要素が向こうを上回っていた!
それで敗北したのは、偏に隊長の差でしょう!」
叫ぶでもなく、怒鳴るでもなく。ただ搾り出すように、カチューシャは言った。その声は、もう震えていない。震えるはずもない。彼女は悲しんでいるのではなく、ただ自分に憤っているのだから。
ノンナは思わず立ち止まった。しかし、カチューシャは止まらない。二人の距離はどんどん広がって行く。
真っ白な雪原の中でまっすぐに学園艦へ歩くカチューシャの背中を、ノンナはただ見つめることしか出来なかった。
彼女は今夜、どこかで泣くのだろう。涙を流し、その美しく凜然とした目を腫らすのだろう。
そこに、自分はいない。慰めることは、自分には出来ないのだ。
ノンナは、ただ唇を噛み締めた。
月は彼方。
夜の暖かな闇は雪を照らし、ただ安らかに彼女達を包みこんだ。
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「……夜一よォ。お前がこれから何をすべきなのかってェことくらい、流石に分かってンだろうな?」
「何の話だ?」
「決まってンだろ、ソーンツェのことだよ」
ぐぐい、と顔を近づけて力説する小此木。距離をとろうとした拍子に白沢が座った椅子のバランスを崩しかけたが、何とか転ぶことなく持ちこたえる。焦った様子もない、いつも通りの無表情のまま。
「何かしなくちゃいけないのか?」
「だから、
「…はぁ」
理解できていない白沢の様子に痺れを切らしたのか、小此木が机をバン、と叩いた。だがその動作は白沢には何の成果も上げず、一部の生徒が何事かと白沢たちの方を向かせただけだった。
「あのなァ、落ち込ンでンだろうソーンツェを慰めてあげようだとか、励ましてあげようだとか、そういうことは考えねェのか?」
「慰め、励まし?
……俺の慰めなんて必要なのか?」
「だーッ!やっぱダメだァこいつ!」
大げさに小此木は頭を抱える。その様子を冷ややかな目で白沢は見つめた。
その瞳の真意はわからねェが、とにかく自分の言うことをほとんど理解してねェんだろうなァ、と小此木はため息をつく。そういえば最近ため息をついてばっかだ、とさらにため息をついた。
一種の永久機関である。
「…ソーンツェって女子も落ち込ンでンだろ、そういう時にお前が慰めに行かなくてどうすンだよ」
「いや、俺が行っても、だな」
「いいから!お前はそう思ってても、絶対向こうはそれを求めてるって」
そんなものか、と納得していない様子で机の上の教科書類を片付け、次の授業の準備をする。小此木も話したいことは話し終わったのか、いいからお前は試合で落ち込ンでるだろうソーンツェを慰めとけと文字通り再三言って自分の席に戻った。
ちょうどその時チャイムが鳴った。それから数分後、地理担当の教師が遅れ気味に教室に入ってくる。
次は四時間目。これが終われば、昼休みである。
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真っ暗な世界に立っていた。また夢か、と『彼』は辺りを見渡す。当然、真っ暗で何も見えない。
仕方なしに『彼』が少し歩くと、何か軽い物にぶつかった。それはぶつかった拍子に倒れてしまったらしく、バタン、と大きな音を立てた。
『彼』は何かも分からず、しゃがみこんで倒れてしまったその物体の表面に触れてみる。少しざらついた、それでいて滑らかな感触。どうやらキャンパスらしい、と『彼』は予測してみた。近くにイーゼルらしきものもある。間違いない。
キャンバスと思しき物体の表面を指先で撫でる。すると、なぜか先ほどとは違う感触がした。ぬるりとした感触。絵の具のようで、少し違う。ざらりとした感触とどこか不快な臭い。どうやら、泥のようなものであるらしい。
そこで『彼』は、妙なことに気が付いた。
自分の左手の感触が、ない。
右手で左腕に触れてみる。右腕からの神経はどうしてか泥の感触しか伝導させず、いつしか左腕はボドリと音を立てて崩れ落ちてしまった。
そうしていると変にバランスが崩れてきたので、一旦座り込んで先程と同じように右足に触れる。右腕が深く太ももに沈みこみ、床の固い感触にたどり着いた。どうやら貫通してしまったらしい、と『彼』は他人事のように考える。
その時、いつのまにか明かりがついているのに気が付いた。チカチカとする目を何とか慣らして辺りを見る。
周りは、どす黒い何かで汚されていた。いや、厳密に言えば、『彼』が歩いた道程の周辺が、そして触れたキャンバスが、どす黒く汚らしい泥で穢されていた。
ああ、と声が漏れるのを嫌って『彼』は右手で口を押さえた。だが、それでも何故か嫌悪の声は、『彼』の意思に反して零れ続けてしまう。
見ると、口を押さえているはずの手はどす黒い泥のようなものとして崩れかかっていた。よく見てみると『彼』の全身が、泥として崩れかけているらしかった。
「……るな、…くな、…るな……」
どこからか、声が聞こえる。
ああ、それは聞き飽きた、と。
『彼』は目を瞑った。
「……何も感じるな、何も見るな、何も味わうな、何も聞くな、何も触るな……」
それは、いつかの女の声か。
紛れもない、自分の声か。
「……何も感じるな、何も見るな、何も味わうな、何も聞くな、何も触るな……」
ぐるぐると反響する、声、声、声。際限なく響き続ける声を、両腕どころか全身が泥と崩れていく『彼』は耐えるように聞き続けた。
その声が、聞こえるまで。
――――ねぇヴィーチェル、起きて?――――
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……夢の中、ヴィーチェルは微かに、しかし確かに聞こえた声に縋り付くように目を覚ました。
「よかった、今日は起きたわね」
寝起きで細めた目にカチューシャの姿を捉え、ヴィーチェルは小さく深呼吸をした。見たところ、カチューシャは先ほど来たばかりらしい。昼食に少し大きめのピロシキを取り出して齧りついている。
「ヴィーチェルは?もうお昼は食べたの?」
「あ?ああ、そうだ。もう、食べたんだ」
「ええ?どうせちょっとしか食べてないんでしょ。こんなに早く食べ終わるなんて」
言ってカチューシャはまたピロシキに齧り付く。ピロシキには様々な種類があるが、今彼女が食べているのは炒めた肉をパンで包んで揚げたタイプらしく、カチューシャの小さな口は油で光ってしまっていた。
「それは、その通りだが。…ソーンツェ、口元油まみれだぞ」
ほら、とハンカチを差し出す。カチューシャは遠慮なくそのハンカチで口元を拭い、そしてまたすぐにピロシキに齧り付く。
ただ、ほんの少し上目遣いで、お礼は言う。
「…ありがと」
「どういたしまして」
ヴィーチェルは芝生に寝転がった。春ほど暖かくもないが、春より眩しい夏の緑の中に、仰向けに。
そこから会話がなくなり、二人はなんとなく目の前の芝生を眺めたり、空を眺めたりした。夏真っ盛り、木々が青々とするのに従って芝生も徐々にその色を鮮やかにしていったらしい。少し濃くなった緑色は太陽の熱を吸収し仄かに暖かくなっていた。空は雲もほとんどないような快晴。学園艦の上でありながら無事成虫になれたのか、セミの声も聞こえてきた。
風が吹く。涼しげな風。
カチューシャが昼食を終え、一服している間も二人の間に言葉はない。だが、それを苦痛とは微塵も感じない。
だって、こんなにも満たされている。
風が吹き、葉の擦れる音が鳴り、生命溢れる緑が輝く。その全てがカチューシャには愛おしかった。
「…ほんと、なんで今まで、こんなに」
世界は美しいのだと、気付けなかったのだろう。
戦車道で忙しかったからだろうか。それとも、ただ単に自分が見ようとしていなかっただけか。
何にしても、彼がいなかったら気付くのはもっと遅れていただろう。だからなのか、口に出した声は知らず拗ねたような響きを孕んでいた。
カチューシャは横のヴィーチェルを見る。今日は先に眠っていたからかいつもより幾分元気そうに空を見上げていた。
「あ」
唐突に、ヴィーチェルが口を開く。なんとなく昼寝をする気にもならずぼうっと空を見上げていたカチューシャは、仰向けのままヴィーチェルの方を向いた。対してヴィーチェルは空を向いたまま、カチューシャの顔を見ないままだ。
「また、今度。どこかに行かないか」
それは、不意打ち気味の一言だった。前置きの言葉も雰囲気もない。だからなのか、カチューシャも何気ないように言葉を返す。
「また今度って、いつ?」
「……」
「ちょっと。そこ考えてなくちゃいけないでしょ」
「…じゃあ、来週の休み、とか」
「そうね、来週は…、練習はないわね。ちょうど火曜日が空いてるわ。その日にする?」
空を見上げながら、ヴィーチェルは頷いて目を瞑った。どこへ行くつもりとカチューシャが聞いても曖昧な声で言葉を濁すばかり。
「…考えてないんでしょ」
「……」
カチューシャの言葉にヴィーチェルは押し黙る。そんな彼の左手をカチューシャは素早く掴み、抓ってみる。ヴィーチェルは為されるがままだ。やがて、眠そうな声でヴィーチェルが言った。
「…どこか、行きたい場所でもあるのか?」
「そうねぇ…じゃ、水族館っていうのは?」
「行きたいのか?」
「……」
カチューシャはヴィーチェルの手を握って肯定を表現した。…だが、上手く伝わらなかったらしくヴィーチェルは聞き返してきたので、カチューシャはまた彼の腕を抓ることにした。
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「ということで、水族館に行くことになったのだけれど」
「カチューシャ様。ノンナが状況を理解できずに真顔のまま泡を吹きかけているので詳しい説明をお願いします」
突然の宣言に、クラーラの言葉どおりノンナが真顔のまま不気味に痙攣しはじめた。勿論、クラーラも内心穏やかではない。いきなり「今度彼と結婚する」と娘に言われた父親の気持ちはこんな感じなのだろうか、などと思考が巡る。
いくら好意的に思っているからといって、それはあまりに急すぎやしないか。
「それは…、デート、ということでしょうか…?」
ノンナが、クラーラが言おうとしたことを彼女よりも一瞬はやく、一文字も違わずに質問した。多少声が震えているのは、恐らく体がまだ痙攣しているからだろう。よほどショックが大きかったらしい。
カチューシャは不思議そうに首をかしげた。
「でーと…?」
「そうです、デート」
「デート……?……で、でででで、デートォ!?」
ようやく気付いたらしく、カチューシャが顔を真っ赤にさせながら腕をぱたぱたと上下させた。普段ならノンナも鉄面皮を保つことが出来なくなるほど微笑ましい光景なのに、今回は違う。
口から本当に泡が出た。
倒れたノンナをすんでのところで受け止め、クラーラは近くの椅子に座らせた。
その間、カチューシャは耳まで顔を赤くさせながら俯いて何かぶつぶつと呟いている。ノンナが泡を吹いて倒れたことすら気付いていない。
「そんな、まだデ、デートと決まった訳じゃない、わよね?ヴィーチェルはそんなこと一言も……」
「カチューシャ様…?多分、そのヴィーチェルという方もそのつもりで誘ったんだと思いますけど…」
「え、ええええええええええええ!?」
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プラウダ高校学園艦には、トロリーバスが運行している。巨大な艦ゆえに、艦上の要所要所に移動するにも一苦労なのだ。
そんな駅のベンチに、ポツリと佇む男が一人。真夏だというのに長袖の黒い服を身に着けている。だが、暑そうな様子はない。生地が薄く、ゆったりとしているからだろう。夏というよりは秋の初めのような出で立ちだが、汗一つかいていない。
ぼんやりと街行く人々を眺めているようで、眺めていないような目。そんな様子のまま、何をするでもなくベンチに腰を下ろしている。
見上げれば、空には鳶が飛んでいた。
時刻は午後一時少し前。彼が待ち合わせをしている時刻はもうすぐだ。
「ヴィーチェルー!」
と、突如として彼を呼ぶ声が聞こえた。立ち上がって声をした方を向くと、そこには、
「待った?待ったかしら!?」
可愛らしい、妖精のような少女がぱたぱたと駆け寄ってくる姿があった。
白を基調としているので派手すぎず、しかし地味な印象も受けないように上手く調整された姿。はっきり言ってしまえば、カチューシャの持つ可愛らしさを最大限に『引き出した』服装。いわゆる『盛った』というものではなく、着ている人物の魅力を何倍にも生かせる服装だった。
「な、何…?や、やっぱり変だったかしら…?」
返事がないヴィーチェルをカチューシャはおずおずと上目遣いで見た。
その表情に、思わずヴィーチェルは顔を背けてしまう。
「ちょっと!?」
ガーン、と音が聞こえてきそうなほどにショックを受けるカチューシャ。クラーラのバカー、と内心で友人を罵倒してしまうほどに。
先日、デートに行く、と宣言したことで戦闘不能になったノンナを寝かせたまま、クラーラはカチューシャに色々世話を焼いていた。その中の一つが服装だった。普段私服については、
「可愛くて威厳があるやつ!」
という無理難題しか言わないカチューシャの言葉を出来る限り汲んだものを主にノンナが用意していたのだが、今カチューシャが着ているものはそうではない。
「
というクラーラの提案の基、ありとあらゆる店に連れられ何十着という服を着せられ、いつの間にか復活したノンナも加わって等身大着せ替え人形のようになった挙句にようやく購入した服なのだ。買う頃にはカチューシャも疲弊しきっており、感覚が麻痺していたので、
「これ…?これで、いいの…?」
と、碌に鏡も見ずに購入してしまっていた。代金は何故かクラーラとノンナが出していたし、何故かこの服以外にも服を購入していたようだったが、カチューシャには何も分からなかった。
そういう経緯で買ったものだったので本当に似合っているのか半信半疑なカチューシャは、それでもクラーラ(ノンナは朝から
「……いや、凄く似合ってる」
あと少しでも顔を背けたヴィーチェルがそう言うのが遅ければ、カチューシャは本当に泣き出してしまっていたかもしれない。それほどまでに切羽詰った状況だった。
「……ほんと?」
「ああ、本当だ」
そう言って深呼吸。深くゆっくりと息を吸い、またゆっくりと吐き出す。目を瞑る。
ヴィーチェルにはよかったぁ、と胸を撫で下ろすカチューシャの声が聞こえた気がしたが、彼は気のせいだと思うことにした。
「じゃあ、行きましょう?」
カチューシャは手を差し出す。ヴィーチェルは顔をそらしぎゅっと眉間を押さえ、掠れた声で、
「……すまない。あと二分、待ってくれ」
「二分!?」
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水族館というものは、ある意味では娯楽施設ではない。18世紀後半ごろに水産学の研究が盛んになり始めた頃、研究のために水生生物を飼育することが必要になった。このときに出来たのが臨海実験所であり、飼育・観察するための水槽や書籍なども必要になった。
その購入などの研究費を賄うために水槽や標本を展示し入場料を徴収していたという歴史もある。臨海実験所は景観の良い海辺に建設されたが故に、観光資源としても注目されたのである。
だから今でも水族館のバックヤードでは研究が行われていることも往々にしてあるし、逆に客の目を引くように観光に特化した水族館も存在する。
…まぁ。そんなことは、今日びの青春を謳歌する少年少女には関係のない話である。
「ねぇ!あそこ見て!ホラ、おっきなサメよ!」
「白いな」
「あっ、あれ!あの岩から顔出してるの、ウツボじゃない?」
「サメとかと一緒だと、ウツボも小さく見えるな」
水族館に入るや否や、カチューシャはおおはしゃぎで大水槽の魚を指差した。指差した魚をじっくりと観察することなく、次々と目の前を通る魚に興味を引かれ、翻弄されている。
対してヴィーチェルはいつも通りの無表情で、カチューシャが指差す魚を見ては一言二言感想を述べていく。興味が無いわけではないらしく、いつもよりほんの少し柔和な表情でカチューシャと魚を見守っている。
薄暗い水族館の館内は、意外にもあまり人影は見られなかった。飼育している海洋生物の種類も少ないわけではないのだが、メインと呼べるだけのものが少ないからだろうか。
見える人影もまばらで、水槽の目の前では早めの夏休みに突入した子供たちがサメを見て歓声を上げているものの、端に設置されたベンチでは暇をもてあましたようなカップルが魚も見ずに互いを見つめ合っていたりと、別段静かなものだった。
照明に照らされた大水槽には大小様々な生き物が入れられていた。照明の光をきらめかせるアジのような小魚から、カチューシャや子供達が目を輝かせる大きなサメ、底で蹲っている変に太った奇妙なシルエットのハタという魚の仲間まで。パンフレットによると奥にはこれよりもさらに大きな水槽があるらしいのだから驚きだ。
カチューシャは水槽で泳ぐどの魚にもその姿に感嘆の息を洩らす。これはあれはと指を差し、忙しなく目を輝かせる。
そんな中、ふとカチューシャが不思議そうな声を上げた。
「ねぇ、ヴィーチェル?あの魚って、なんで一匹だけなの?」
カチューシャが指し示すままに視線を向けると、水槽の右側の水面近くで群れを作っている魚と同種らしい魚が反対方向、水槽の左側の底の方に一匹だけで泳いでいた。
泳ぎ方に難があるわけでもなく、怪我をしているわけでもない。異様な見た目をしているわけでもないのに、何故かその一匹だけが群れを離れてしまっている。
「気紛れに群れから飛び出しちゃったのかしら」
カチューシャは率直に感想を漏らす。
そうして他の魚に興味が移ったカチューシャを尻目に、ヴィーチェルは独り言のように呟いた。
「そういうものなんだろう」
ヴィーチェルの前を、大きなエイが件の魚を隠すように通り過ぎていった。
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大水槽のコーナーを抜け、何をモチーフにしているのかもわからない奇妙なデザインのトンネルを潜った先は、大きな水槽が壁に埋め込まれている通路になっていた。薄暗い水族館の中で、さらに真っ暗闇になっている。足元だけが見えるようにライトが設置され、それ以外に光はほとんどない。
水槽に展示されているのは暗闇で目の下を光らせる魚やら、やたら真っ赤なライトで照らされたイソギンチャクのような生物、ダンゴムシを巨大にしたような甲殻類などの深海生物だった。水槽の横には薄暗い暗闇でもかすかに分かるような大きさで『フラッシュ撮影禁止』と書かれている。
どうやら、この水族館のコンセプトとしては深海からどんどん浅瀬に上がっていくような演出にしたいらしい。
暗闇ではぐれることを嫌ったのか、それとも深海生物の不気味な姿に怯えているのか、カチューシャは隣にいるヴィーチェルの手をぎゅっと握った。一瞬躊躇うような力の緩みがあった後、彼は彼女の小さな手を握り返す。
「わっ……」
しばらく歩いた先にあった一際大きな水槽には、やたらと足の長いカニが数匹ほど、想像しているよりもゆっくりとした足取りで歩いている。自分と同じくらい大きなカニの姿を見て、思わずカチューシャは目を瞑った。
そのまま歩いていると、不意にヴィーチェルが声をかけた。
「…ソーンツェ?」
「な!?何!?何かあったかしら!?」
急に話しかけられて声が裏返ったカチューシャだったが、目は開けようとしない。その頑なさにヴィチェルは声の調子を和らげる。
「大丈夫。もう深海生物のコーナーは終わった」
「ほんとう?」
恐る恐る、目を開ける。そこには。
「わぁ……!」
色とりどりの光に照らされた、クラゲの群れ。広い部屋の中心に置かれた円柱状の水槽や壁に埋め込まれた円状の水槽、形も大きさも様々な水槽に、文字通り月のような海月が浮かんでいた。
先ほどの様子はどこへやら、カチューシャは笑顔で水槽に駆け寄る。その元気な姿とは対照的に、ヴィーチェルは置いてあった休憩用のベンチに座って上を向き、ほう、と息をついた。疲れたようにじっと目を瞑り、腕を組む。
カチューシャは先ほどの様子はなんだったのかと思えるほど元気に大小様々なクラゲやその水槽を眺める。綺麗だなんだと言葉には出さず、目を奪われたかのようにふわふわ浮かぶクラゲをみつめる。
カチューシャとヴィーチェルはそんな調子で水族館をめぐり続けた。始終カチューシャは見るもの全てに目を輝かせ、徹頭徹尾ヴィーチェルは表情を崩さず、カチューシャと歩き続けた。
時計の針はもう午後四時半を指していた。大規模とは言わないまでも、そこそこに大きな大水槽の前のベンチに二人は腰掛ける。流石のカチューシャもはしゃぎすぎたのか、ふいー、と情けない声を上げてしまう。
「……疲れたか?」
「ううん。まだまだ大丈夫よ!体力には自信あるんだから」
「水族館というものは体力を消耗するところなのか…?」
大きなエイが水槽の壁面を舐めるように子供達の方へ向かい、わあ、と歓声が上がる。その上ではカラフルな魚の群れが崩れ気味に群れを成しており、大きなサメが近づくと道を空けるように避ける。ぐるぐるとエイや大型の魚が水槽を壁面上に廻って泳いでいる。
その様子に青い青い海の模式図を見た気がして、カチューシャは今日何度目かもわからないため息をついた。横を見ると、ヴィーチェルが目を瞑っている。
「…ヴィーチェルは、だいじょうぶなの?今日、何度も目を瞑ってるけど」
「ん、ああ」
カチューシャの言葉に返してヴィーチェルは首を横に振る。何か思案するような間があった後、ゆっくりと口を開いた。
「ソーンツェこそ、大丈夫なのか」
その言葉は今日のことだけを言っているわけではないのだろう、とカチューシャは感じ取った。
「どういう意味かしら?」
「……」
少し黙って、ヴィーチェルは何度か逡巡するように唾を呑み込む。
そうしてようやく、意を決したらしい。
「ソーンツェは、頑張った。だから、泣かなくても良い」
無表情に、無感動に放たれたその言葉は、カチューシャを的確に撃ちぬいた。ノンナや仲間たちに何度も言われた気がするのに、初めて聞いたような。
締め付けられたような胸を、抑える。
「……それ、慰めのつもりかしら」
随分ヘタクソね、と軽く笑うカチューシャにヴィーチェルは無言で、ゆっくりと頷く。
その顔を見て、カチューシャは思わず俯いた。
ああ、なんで、こんなにも。
こんなにも、胸が苦しいのか。
いつの間にか、大水槽前に少なからず人がいなくなっていた。水槽の底に休んでいたハタが、緩やかに泳ぎだした。
「気の利いた言葉なんて、俺には分からない」
そんなことを言ったことも無いし、考えたことも無かった、と続ける。それでも、と、まだ続ける。
「ソーンツェは、
「……」
「それでも、今の君のことなら分かる。君がどれだけ努力したのかはわからないけど、今の君を形作ったのは間違いなく今までの君だ」
今までの君と今の君は違っているから、と。
君は、頑張ったんだ、と。
何の疑いも無く、そう言い放つ。
「ほんと、ヘタクソな、慰めね」
「……すまない」
申し訳なさげに目を伏せるヴィーチェル。
彼は気付かない。
カチューシャが、目に僅かな涙を滲ませたことを。
その言葉は、少しの強がりだということを。
「こういう時って、抱きしめてくれたりするものじゃないの?」
カチューシャは涙を拭い、俯いて座ったヴィーチェルの背に小さく細い腕を回す。猫背ではないヴィーチェルの座高は、カチューシャが抱きしめるのにちょうど良かったらしい。
笑って、カチューシャはヴィーチェルの胸に顔を埋める。
「ヴィーチェル。…私から貴方に触れることはあっても、貴方から私に触れることは無いのね」
「……」
カチューシャは殊勝に笑う。
今にも崩れそうなその反撃の笑みを彼は見たのか。
ヴィーチェルは、哭く小さな少女を抱きしめた。
遅くなりました。すみません。
これから暫く忙しいのでこれくらい間隔が空くかもしれませんが、見捨てないでもらえると嬉しいです。
そういえば、最近ようやく評価の一言を見る方法を知りました。評価ももちろんありがたいのですが、一言や感想、メッセンジをいただけると本当にとっても嬉しいです!
一言をくれた方には返信できていませんが、全部みています。本当にありがとうございます!
今回の話のように作者自身が迷走するこんな作品ですが、これからもよろしくお願いいたします!