「カチューシャ様。シラサワさんが目を覚ましたそうです」
「それで、面会は出来そうなの?」
「……それが、どうも誰とも会いたくないと、そう言っているらしいのです。病室も個室、今は安静にしているそうです。彼以外の人の出入りは三回の食事と体調検査のときのみと、独房のような状態ですね」
「そう。
……ねぇ、その時には誰が面会を申請したの?」
「私がカチューシャ様名義で出しました。本人の拒絶によって許可は出ませんでしたが」
「……そう。『カチューシャ』でダメだったの」
----------
「白沢さーん、お見舞いの花が届いてますよー……と」
そんな声と共に、マイペースそうでおっとりとした看護士が白沢の病室に入ってきた。彼女はベッドの上を見てふっと微笑んだ後、音を出来るだけ立てないよう努力して部屋を出た。
ベッドの上には、穏やかに胸を上下させる白沢がいたからだ。彼がナルコレプシーだという推測は看護士には既に伝えられており、寝ている場合は無理に起こさないほうがいいという措置が取られている。
そもそもの話として、ナルコレプシーにはいわゆる特効薬や明確に効果のある治療法というものが存在しない。まずは夜間にきちんと睡眠をとること、という非薬物的な治療法もあるが、それと並列して中枢神経刺激薬―――簡単に言えば 眠気を覚まさせる薬―――を投与する治療法もある。
日本では『モダフィニル(モディオダール)』という薬がナルコレプシーの治療薬として処方されるが、白沢の場合ナルコレプシーだと確定診断を受けていないので処方されていない。そもそも、この薬は他のナルコレプシーに効果があるとされる薬に比べ副作用や肝臓への負担が少ないことから使用されることが多いが、それでも躁鬱病、幻覚、妄想、自殺念慮などが起こる場合があるので、あまり頻繁には処方されないのだ。
そしてなにより、薬による眠気を覚まさせるだけで、根本的な治療というわけではないということもある。投薬を中止すれば元の眠気がいつ襲ってくるかわからない状態に戻ってしまう。また、投薬によって夜間の睡眠に悪影響があっては本末転倒であるのだし。
なので、彼に関しては眠ることがむしろ推奨されている。そのため、先ほどの看護士は部屋を出たのだ。昼食は既に摂った。あと三時間は、誰もこの部屋を訪れないだろう。
彼は一人、誰もいなくなった無味乾燥な部屋の中でベッドに横になってゆっくりと胸を規則正しく上下させる。
だが、そこに。思わぬ来客が姿を現した。
ドアが音も無くスライドし、その隙間から素早く部屋の中へ身を躍らせる姿が一つ。
「……呆れた。なんでそんなに、苦しそうなのよ」
寝ている貴方の雰囲気は、私が体験したことが無いほど穏やかだったのに。
貴方が描いた絵よりもなお、その光景は美しかったのに。
部屋に入ってきた少女ーーーカチューシャは、静かに彼のベッドに近づいた。暖かな日差しが差し込むはずの窓にはカーテンがかけられ、部屋は薄暗い。白沢の穏やかな呼吸音だけが聞こえてくる。
その胸の緩やかな上下運動を見て、カチューシャは白沢を見つめた。
「……狸寝入りは、もう終わりにしましょう」
その言葉に、零れるように。
「………………出来るなら、帰ってくれないか」
湿った声で、拒絶の言葉が聞こえてきた。
瞬間。カチューシャは、何も考えられなくなった。
もしかしたらさっきの声は幻聴か寝言で、彼はまだ眠っているんじゃないかと思ってしまうほどに穏やかな姿で、白沢はベッドで横になっている。
けれど、確かに彼は今、彼女を拒絶した。
「……会いたくない、ってこと……?」
知らず、声は震えていた。
たった一言。小さな小さな彼の言葉だけで、これほど動揺するとは思っていなかった。
「……なら、そのナースコールボタンでも押せば良いわ。今なら、それでおしまいにできるわよ」
無意識に口を突いて出た自分の言葉の残酷さに、カチューシャは衝撃を受けた。
こんなことを、言いに来たわけではないのに。
彼が、少し身じろぎすれば手が届くような場所にあるボタンを押せば、終わってしまう。
それで、おしまい?
こんな、終わり方で?
カチューシャは、一人困惑した。自分はどうして、これほどまでに怒っているのだろう。彼はどうして、こんなにも―――悲しそうに、自分を拒絶するのだろう。
「俺は――――――」
目をゆっくりと開いた白沢は、天井を見つめたまま何度も唾を飲み込み、喉に
震えた吐息が、その口から漏れる。
「私は、貴方に会いたかった」
一粒の雫が水面に落ちるように、カチューシャは告げた。
そのたった一言に、どれだけの勇気が必要だったか。カチューシャは俯かずに、白沢を見る。熱いものが、頬を伝って落ちた。
「俺は、俺、は……」
「私が嫌いだったなら、そう言えば良かったのに。
私が負担だったなら、そういえば良かったのに。
そうすれば、私は。
こんなにも私は、苦しまずに済んだのに……!」
「俺は……!」
白沢は、顔を覆う。それは、涙を堪えるようにも、カチューシャから目を背けるようにも見えた。
「俺は、……会いたくないわけじゃ、ない」
「…………」
「会いたいし、話したいし、一緒に寝たい」
でも、関わりたくない。
掠れた声でそう言ったかと思うと、白沢はベッドに沈み込んだ。カタプレキシーではなく、ただ緊張が解けただけ。
「……じゃあ、こうしましょう」
カチューシャはそう言うと、白沢のベッドの脇、天井を向いた白沢には見えないところに座り込んだ。服が床につくのも気にせず、カチューシャは口を開いた。
「ほら。これで、私はいない」
「……」
「それでもダメなら、私のことは自動的に返事するロボットか何かだと思いなさい。貴方は、自分のことを考えるだけで良い。それを口に出すかは貴方に任せる。それでいいでしょ?」
「…………無茶ぶり、だな」
カチューシャの無茶苦茶な言葉に反対することも無く、白沢はため息をついた。目をつぶり、深く息を吸い込む。カチューシャは、黙って頭を白沢のベッドの側面に預けた。
白沢が何か話すまで、黙っているつもりだった。
静寂が続く。チチチ、と窓の外で小鳥が鳴いた。
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「……俺は、要らない人間だ」
しばらくして、白沢が呟いた。返事をしたい気持ちをぐっと堪えて、カチューシャは次の言葉を待つ。
「昔から母さんを怒らせてばかりだった。母さんの仕事は上手く行ってないみたいで、ずっと家でタバコを吸ってた。裕福でもなかったから、父さんは母さんを置いて仕事に行くしかなかった」
その話は、聞いた。彼の母親は父親に、父親の才能に憧れて画家になろうとしたと。
だが、それほど画家という職業は甘くなかった。それだけならまだよくある話だが、彼女の場合は、さらに不幸な境遇だった。
「ある日、母さんが絵を書いているのを見た。
その時の母さんは見違えるように真剣で、まっすぐだった。部屋にはタバコの臭いがうっすら残ってたけど、不思議とそのときだけは良い匂いに思えたんだ。
だから、急いで部屋に戻って、父さんが誕生日に買ってくれた色鉛筆と画用紙を取り出した。さっき見た光景を忘れないように、夢中で描いた。
俺が描き終わったとき、母さんはまだ絵を描いていた。邪魔しないように俺は自分の絵をテーブルに置いて、部屋に戻った」
深呼吸が一つ。白沢はやや乱れた息のまま、しばらく黙り込んでいた。
カチューシャは、ただひたすらじっと待つ。その先に待っているのが幸せなものでないと知っていながら、カチューシャは黙って彼の言葉を待った。
「そうしたら、母さんは俺の部屋に突然来たかと思うと、俺を殴りつけた。お前のせいで、って何度も言いながら」
お前のせいで。
お前のせいで。
お前のせいで。
「俺が何かすると、母さんは俺を殴った。何が悪いのか、初めはわからなかった。
でも、母さんはいつも言っていた」
お前がいるせいで。
お前がいるせいで。
お前なんて、いなくなってしまえばいい。
「それはね、聞き覚えがある……いや、何度も言われた言葉だった」
同級生からも、先生からも。
母親から、さえも。
「俺が花を見て綺麗だと思えば、次の日にはその花は踏みつけられていた。俺が気に入った本は、次の日には見る影も無いほど破られていた。
俺が関わったものは、全部ボロボロになった。
違う、そうじゃない。
カチューシャは叫びたかった。それは、貴方のせいじゃない。
それは―――貴方をいじめていた人たちの仕業だろうに。
「全部全部、俺のせいだと皆が言っていた」
だから。それは貴方のせいじゃないのに。
「俺は―――皆のことも大好きだったから。関わらないようにしようと、思って」
「……好きだったの?」
「ああ、好きだった。安っぽい言葉だけれど、輝いて見えた。皆、何をしていても惚れ惚れするほど綺麗だったんだ」
……そんなわけ、ない。
彼らは、貴方をいじめていたのに。
「……憎んだりは、しなかったの?」
「……どうして、憎む必要があるんだ?あんなにも、みんなは輝いて綺麗だったのに」
「貴方を、いじめていたんでしょう?自分を痛めつける相手を、嫌わなかったはずが無いでしょう?」
「嫌う……?そもそも、理由が無い。どうして俺が皆を嫌う必要がある?」
「だから、彼らは貴方をいじめて」
「彼らにはそうするに足る理由があったんだろう。俺にはわからなかったけれど、彼らには彼らなりに理由があったはずだ。
だって、あんなにも綺麗で、輝いていたのに」
……ずれている。常識が、根底が。
価値観が、あまりに違いすぎる。
「……だからみんなを傷つけないように、汚さないように、俺は無表情でいることにした。どんなものも綺麗だって思わないように、無関心でいよう、って」
「じゃあ、どうして貴方の絵は、あんなに」
微かに震えたカチューシャの言葉に、しばし白沢は黙り込んだ。
「見たのか」
「……ええ。ごめんなさい、勝手に入り込んで」
「謝らずともいい。
……そうだな。俺は、どんなものを見ても、心を動かさないことがなかった。そんな生き方に不満は無かったし、みんなそうなんだろうと漠然と思っていた。それが間違いだと気付くまでそう時間はかからなかったし、周りから奇異の目で見られていた自覚もあった。
……いつからか、自分の気持ちを絵に描こうと思ったんだ。じいさんも母さんも、絵を描いていたから、それが一番身近だったんだ。どうしてそんなことをしようと思ったのか、そのきっかけはよく覚えていないけれど」
いつもとは違い、静かではあるがよく話す白沢。
もしかすると、本来の彼はこういう人間なのではないだろうか。なんとなく、カチューシャはそう思った。
「いつまでも、残ると思ったんだろう。俺の感じた
無関心でいようと思ってからも、絵を描くのはやめられなかった。それはもう俺の生命活動の一部みたいになっていたし、そもそも『何も感じない』って行動に無理がありすぎたんだ。その代償行動として、自分から感じなくなった感動を自身の絵に感じられるように、俺は絵を描いているんだと思う」
彼の絵は、絵ではなかった。カチューシャは、あのアトリエで見た絵の数々を思い出しながら、そう感じた。
あれは絵ではなく、彼の感情そのものだった。
何もかもを嫌うことなく。
何もかもを愛してしまった、愚か者の。
「母さんは、俺を褒めてくれなかった。抱きしめてくれたこともほとんどない。それよりも、俺を睨みつけて、殴りつけて、怒鳴りつけていたことの方が記憶に多いくらいだ」
けれど。
「でも、綺麗だったんだ。母さんが絵を描いている姿が」
それで、絵を描いて。
後で見てくれるだろうと思って、机に置いて。
「……母さんは、その絵を破き捨てた」
……白沢夜一の母親は、絵で生計を立てようとしたらしい。確かに彼女の作品は一流とされるほどのものではなかったが、それでも確かに絵を描く才能はあったはずなのだ。
だが、現実は許さなかった。
彼女の憧れた父親の、圧倒的なまでの才能。比べられるのは必然だったし、そこそこの絵を描く人間ならば、他にもいる。わざわざ有名人の娘を起用して、『父親と比べると全然だね』とマイナスイメージをつけられる必要性は無い。
結果として彼女に仕事はほとんど与えられず、彼女の家庭はほとんど夫の収入でやりくりしていたという。
絵を諦めるという選択肢も、あったはずなのだ。
それでも、彼女はそれを許さなかった。
自分は黒極崇彌の娘だと、言い張り続けた。
その気持ちは、誰も踏みにじれない。周りの環境がそのことを強要していたわけでもない。だが彼女は、自分にはその道しかないのだとでも言うようにもがき続けた。
だが、その道に。
自身の子供という存在が、突然現れた。ともすれば、彼女が憧れていた父親さえも凌駕するような才能を輝かせて。
その結果、彼女は、手を上げてしまった。
「……そのころだったかな。急に、眠くなるようになったんだ。何の予兆も無く、パッと突然耐えられない眠気が襲ってくる。
学校の図書館に行って、眠気に関する病気を調べた。どうも、ナルコレプシーって病気らしいと知った」
次の日も調べようとしたら、その本は無くなっていたんだけど。
「突然、力が抜けるような症状もあった。カタプレキシーとか言うらしい。情動によって引き起こされたりする、抗重力筋の急な弛緩だとか」
それは、俺が何かを綺麗だと、美しいと思うたびに、起こった。
「どうしようもなく、怖かった。
綺麗なモノが、消えてしまう。
俺が綺麗だと思ったばかりに、消えてしまう。
「母さんは、そういう症状が起こりはじめた頃に死んだ」
俺が、綺麗だと思ったばっかりに。
「じいさんも、俺と過ごしている最中に死んだ」
俺が―――。
「怖かった。……怖かったんだ。俺の心は、それでも綺麗だと感じることを止められなかった。それはそうだ。……自分の感情を止められる奴なんて、いないんだから」
目に入るものが全て美しいと感じて。
それでも、無関心であろうとして。
でも、そうしきれなかった。綺麗だと、思ってしまった。
だから、倒れこんだ。
その生き方は、あまりに歪んで、破綻している。
「そんな自分が、嫌いだった。……そうだ。憎むとというのなら、俺にとって世界で唯一憎むべきだったのは自分自身だ。
なんて愚かで、汚らしいんだろう。そんな
俺がいなければ、花は踏まれず咲き続けた。
俺がいなければ、本は変わらず本棚にあった。
俺がいなければ、母さんは死ななかった。
俺がいなければ、じいさんは死ななかった。
俺がいなければ、世界はこんなにも平和だった。
「おかしいか?俺の言っていること。
……おかしいんだろうな。でも、こう生まれてしまったんだ。なら、そう生きるしかないだろう?」
カチューシャは、何も答えられなかった。白沢はそれに微かに口角を緩めた。
もちろん、カチューシャには見えない。どころか、彼自身も気付いていないのかもしれない。
「高校にあがる頃……プラウダに来た頃には、俺の景色は色を失っていた。何にも感じない。目に映るモノは、ただの視覚情報として認識するようになったんだと思う。だから、カタプレキシーも起きなくなった。
そうだ。その頃から、俺の周りには何も起きなくなった。ものが壊れることも無い、誰かが死ぬこともない。
俺は、俺のしていることは間違いじゃなかったんだと思った」
違う。
それは、ただ貴方をいじめていた奴らが、貴方に嫌がらせをする人が、いなくなっただけなのに。
「……それでも、何度も倒れそうになった。綺麗だと思うことは、完全には止められなかったんだ。だから、絵を描くことは止められなかった。
……あれは、願望に近いんだ。その日目に映ったモノは、どれほど綺麗だったのか。絵に描いたソレと同じくらい綺麗だったのだろうか、もっとだろうか。思い返しながら、筆を走らせた」
淡々と、彼は語る。
……それは、どれだけ寂しい情景だろう。
自分が美しいと信じるモノ。その全てから目を背け、自身の記憶に縋り付いて絵を描き続ける。
それは、もはや道化に近い。
「絵を描いている最中、何度も吐きそうになった。
俺は、その景色に触れちゃいけないんだ。関わっては、いけないんだ」
……それは、違う。
否定したい。だが、否定すれば彼は口を閉ざすだろう。カチューシャは唇を噛んで耐えた。
「……俺の描いていたものは、なんだったんだろうな。俺の思う綺麗なものを描いているようで、実際はただの願望だった。現実を描いているようで、夢を描いていた。
けど、あのアトリエは。間違いなく、俺がモノを綺麗だと素直に感じられる世界だったんだ」
感動を残しておこう、と。『彼』は思った。
その瞬間の感情を、そのモノに感じた感動を、いつまでも残すために。どんな感動も、他のキモチに埋もれさせないために。
だから『彼』は、絵を描き始めた。
感動をしないように、と『彼』は思った。
してはならない情動を、せめて自分の絵に感じるために。世界を、自分の中で完結させるために。
だから『彼』は、絵を描き始めた。
手段は同じでも、目的がまるで違う。
「滑稽だろう?でも、俺にはそれしかなかったんだ。そうしないと、俺は俺を正当化できなかった。
そうしなければ、俺がこの世界にいることを自分で許せなかったんだ」
全てにおいて、でき得るかぎり受動的であれ。
その行動で、美しい世界を汚さぬよう。
常に、無表情であれ。
その表情で、美しい世界を汚さぬよう。
全てにおいて、感動を覚えることなかれ。
そんな資格は、自分には無いのだから。
……ならそれは、一体何のために生きているのか。
カチューシャは、胸を押さえた。
「授業中に眠るわけには行かなかった。そんなことをすれば目立ってしまう。俺は、誰とも親密な関係を作るべきじゃなかったから」
何にも干渉せず、ひたすらに『ただ生きた』。
自分の愛する世界を汚さないように。
ひたすら受動的に、無表情に、無感動に。
「オコノギは?彼とは、仲がよかったんでしょう?」
「あいつのことも知ってるのか。
……小此木は、凄い奴だよ。俺が関わりたくなくても、『興味があるから離れるわけには行かない』と言い張るような奴だ。関わろうとしてくる人間を露骨に避ければ、それはそれで不自然だから、不自然に思われない程度には周りと話した」
でも、小此木から聞いた白沢の話は、人間らしさがあった。貴方は、異常である前に人間だったから。
小此木という存在は、貴方を壊しかけていたんだ。
「変に目立つことが無いように、人目のないところでこまめに睡眠をとることにした。しばらく色んなところを探し回って、あの芝生に行き着いたんだ。
あの芝生は殆ど人も来ない。あそこなら、誰とも関わることが無いと思ったから」
「…………」
「そんな時、……ある女の子に出会った」
小さくて、愛らしくて。
眩しくて、凛然として。
なんて綺麗なんだろう、と。
「初めて見たときは、体中の力が抜けた。いつもの場所に行ったら、知らない子が寝ていたんだ。しかも、……俺がこれまで見た、何よりも綺麗だった」
「…………!」
自分の顔がこれ以上ないほど赤くなったのが、カチューシャにはわかった。
顔が見えない状態でよかった、と心からそう思う。もし今彼の顔をみていたら、まともな状態で話を聞くことなんてできなかっただろうから。
恥ずかしくは無い。恥ずかしくは、ないけれど。
見られたくは、ない。
「胸に焼き付いて離れなかった。しばらくしゃがみこんだまま、自分の見たものが信じられなかった」
そうだ。その日から。
白沢夜一という存在は、イカレてしまっていた。
「それからは、多大な自己嫌悪との戦いだった。先に俺が寝ていれば女の子は来なかったけれど、それはその子を邪魔している行為なんじゃないかって毎日気が気じゃなかった。関わらないように、なんて考えじゃない。
正直に言えば。……俺は、その子に。嫌われたくなかったんだ」
先ほどまでは何の感情もなく語られていた言葉に、仄かな感情が帯びた。染み出すように語られる言葉は、そのどれもが人間らしかった。
不意に頭の後ろで、彼の体がベッドに沈み込む感触があった。それからしばらく、白沢は何も話すことをしなかった。
次に口を開いたのは、五分は経った後。微かに感情が滲んだ声で、懸命に彼は言葉を紡いでいく。
「……家に帰って、何度も嘔吐した。あの子が世界から失われるなんて、考えたくも無かった。
だから、関わりたくなかったのに」
ある日、起きてみれば。
自分の隣に、その少女はいた。無防備に、可愛らしい寝息を立てて。
「その時、どれだけ俺が驚いたか。きっとその子は知らないんだろうけど、俺からすれば心臓が止まるかと思ったくらいだ。
その後もしばらく立てなかった。でも、どうにかその子が目を覚ます前には立ち上がって帰ることが出来た。会うわけにはいかないんだから、仕方なかったんだ。
そんな日が、いくらか続いた。相変わらず家で吐いて、自己嫌悪と戦い続けた」
あの芝生に行くべきではない。
けれど。
あの芝生に、行きたい。
彼女に、会いたい。
「まるでオデュッセイアだ、と思ったよ」
オデュッセウス。
ギリシャ神話に名高い英雄である彼は、トロイ攻略後の帰国の途中で海の神の祟りに遭う。それでもなおもがき続け、ようやく故国に帰り王としての地位を取り戻すまでの物語が、ホメロスの『オデュッセイア』だ。
その物語の中で、オデュッセウスとその仲間達はある島へ漂流する。
ロートパゴス島。
一度食べれば現世の苦悩を忘れ、憂いを忘れ、心地良い夢を見ることが出来るという甘い果実をつける木が生える島。その島に住む人々はその実を食べて生活しており、オデュッセウスの部下達はその果実をもらって食べてしまった。
彼らは、憂いや苦悩どころかオデュッセウスの命令も望郷の念も忘却し、ロートパゴス島に残りたいと欲した。オデュッセウスは泣き叫ぶ彼らを無理矢理船に乗せ、他の部下がその果実を食べないうちに出発した、という。
その果実の名は、『Lotus』。
現世の苦悩を忘れ、心地よい夢を見ることが出来る、抗いがたい魅惑の果実。
「あの場所にいるときだけは、俺は自分のことすらも忘れてその女の子に夢中になった」
それでもう、戻れなくなった。
自分には、オデュッセウスはいないのだから。
「毎日、毎日。家に帰っては何度も嘔吐して、悩み続けた。『彼女に会いたい』という気持ちと、『彼女に会ってはいけない』という意識が混ざって融けて、耐えられなかった」
そうは、見えなかった。
カチューシャは思う。それほど思い悩んでいるようには、とても見えない寝顔だった。
死んでいるかのように穏やかで、微かな寝息をたてる彼からは、とても。
「ある時、手紙を書いた。小此木に相談して、何度も手が震えて書き直した手紙だ。……綺麗に書こうなんて思ったわけじゃない。何度も吐いて、痙攣する手で書いた文字だったからだ。
手紙を書き終えた後、ふと宛名をどうしよう、と思った。名前なんて知るはずも無かったし、知ろうとも思わなかったから」
覚えている。
確か、最初の宛名は。
「『陽だまりの君』。そう、そんな名前がぴったりだと思った。ちょっと仰々しかったかもしれないけどね」
「何で、そんな名前を考えたの?」
「なんとなく……じゃあ、ないな。その子に会うときは、いつも空が晴れて太陽が明るい時刻なんだ。
……可笑しいと笑われるかもしれないけど、俺はその女の子に、蓮の花を見たんだ」
「……蓮を」
「そう、蓮。日光を浴びて育ち、太陽の下でしか咲かない花。芝生の陽だまりで輝くあの子は、まるで蓮の花のようだった」
それに、と白沢は付け加える。
「俺の見る世界は、高校に入ってからは泥のようだった。その泥を掬い上げて、綺麗なものを見つけては倒れていた。
その泥の中に、忽然と輝く君が現れた」
まるで、泥水の池から花開く、蓮の花のように。
「そのあとすぐに、返事が来た」
貴方はまるで『
「愕然としたよ。俺は女の子に、太陽の下で咲く花を見ていた。そして彼女は、その対極とも言うべき『
いや、厳密に言えば、『夜』じゃない。
『вечер』は、『晩』だ。大体、午後五時から深夜十二時ほど。
つまり、太陽が沈み、夜が訪れる時間。
昼夜の、すれ違う時間。
ならば、君は『
「その子にそんな思惑は無かったんだろうさ。これは、俺の勝手な自虐に過ぎないんだから」
そこで、俺は彼女と関わるまいとした。
そう、関わるまいと、そう思ったのに。
「手を、握られた」
崩壊した。
ああ、これ以上ないほど崩壊したとも。
「小此木も、女の子のことを『太陽みたいだ』と言った。
本来
手紙も、来た。
『話をしてみたい』と。
「どれだけ、愕然としたか。俺が自分を抑えている間にも、女の子はどんどん距離を詰めてきた」
絵すら描けぬほどに。
自分の世界に、浸る暇も無く。
他のものを綺麗だと、感じる暇さえなく。
白沢の狂った日常は、壊されていった。
「ああ、今でもはっきり覚えてる。初めて、起きて彼女と会った日のことは。
これから会うんだと思ったら寝られなかった。でも、起きて会う勇気もなかった。寝たふりなんて手段に出たのもそのせいだ。願わくば、寝たふりに気付かないでいてくれたらと思ったよ」
なのに。彼女は、一瞬で見破ってしまった。
俺は。
ただ、嬉しかった。
「けど、俺の中の矛盾はもう繕えないほど広がっていた。彼女と会った途端に、それは音を立てて崩れていった」
だからこそ、なのか。
そのとき、夢を見た。
『この生き方』を選んで以来、見ることの無かった夢。なぜ、その生き方を選んだのか、思い出せとでも言うように。
だが、既に白沢は、彼の生き方は。
「夢は、かつて毎日見ていたものと同じ内容のはずだった。だけど、そのときだけは違った」
いつまでも夢は終わらず。
母親の罵声は耳にこびりつき。
自分の握っていた、彼女の手が。
……手が。
「……その後に女の子と会っても、奇妙な嘔吐感が付きまとった。自分のしていることは間違っていると、自分自身に警告されて、それでも会わないということは出来なかった」
自分の中で壊れゆくモノを感じながら。
チリチリと、焦げる様な嫌悪感を感じながら。
彼女を汚してはならないと。
彼女を好いてはならないと。そう思いながら。
それでも、彼女に。
嫌われたく、なかった。
「しばらくして、ボロボロになって笑っている彼女を見た。夏の話だ」
「……やっぱり、バレてはいたのね」
「あまりに、ボロボロだった。小此木は『落ち込んでいる』と言ったけど、それだけじゃないんだろう、と思った」
何か言おうとして、でも深く関わることは禁じてしまっていて、でも吐き気をこらえて。
水族館に、誘った。
水族館に行こうというアイデアは小此木からのものなんだけどな、と付け加えて、白沢は続ける。
「行って、共に過ごして、自分のなかで色々なものが耐えられなくなった。俺が壊れるよりも、彼女が壊れることが許せなかったから」
言葉が、心から飛び出した。
「あのとき、彼女に何を言ったか覚えてない。無我夢中で、吐きそうで、嫌悪感に押しつぶされそうで、それでも言わなくちゃと思った」
「……あのときは、その子も何を言われたかわかってなかったと思うわ。ただ、貴方の思いを感じただけ」
嘘だ。本当は、覚えている。忘れるはずも無い。
『今の君ならわかる』と。もっともらしい事を言いながら、自分の方が泣きそうな声の彼の言葉。
その一言は、確実に彼の生き方に背いている。
誰のことも、理解してはいけなかったのに。
認めてしまった。肯定してしまった。
カチューシャの、『過去』と『現在』を。
「それからは、……言わなくても、良いか?」
「…………」
カチューシャの『過去』と『現在』を肯定し、自己の『過去』と『現在』を否定してしまった。そんな白沢が行き着いたのが、自ら命を絶つことだった。
自身の内に数多の矛盾撞着を抱え込み、自分の存在すらを肯定できなくなったが為に。
カチューシャは、自身の言葉を思い出す。
《綺麗だと思ったなら。》
《『綺麗だ』って、……そう言っても良いのよ?》
それは、止めに等しいじゃないか。
綺麗なものを、綺麗だと言えなかった彼への。
誰よりも、全てを美しいと感じていた彼への。
「一つ……いいえ、二つだけ、聞いていい?」
「……なんだ」
「貴方は、私の名前を知っている?」
カチューシャは、静かに立ち上がった。自分の体重が、三倍にも四倍にも感じられるほど怠い。だがそれでも、これだけは聞かなくてはいけない。
「…………」
ベッドに横たわった青年は、沈み込んだまま静かに目を閉じていた。ゆっくりと、その乾いた唇が開く。
「……Катюша」
その言葉を聞いた途端、落ち着いていたはずの心臓が跳ね上がった。血液が勢いよく体中を回るのがわかる。ぞくぞくと、胸がざわめく。
「じゃあ、二つ目」
声の聞こえてくる方向が違う、と気付けるほど、白沢に冷静な判断力は残されていなかった。心身ともに弱り、自殺など企てなくともこのまま死ねるのではないかと思えるほどに衰弱した彼は、聞こえてくる声の主が近くにいることに気が付かない。
「貴方が忘れていることは、何?」
すぐ目の前で声が聞こえてようやく、彼は何かおかしいと思うことができた。だが、もう遅い。
目を開ける。
だがそれよりも僅かに早く、彼の顔に豊かで柔らかな髪がかかった。同時に、同じくらい柔らかく甘い香りが彼の鼻を擽る。
そして、そのまま。
……それは、一瞬だったのだろうか。
本人達にも、それはわからなかった。
「……私の、カチューシャの気持ちを考えた?」
ふっと、顔を離してカチューシャは言った。平然とした表情を保ってはいるが、その心臓はばくばくと激しく脈打ち続けている。
脳に血液が回りすぎて、頭が真っ白だ。
「……俺、は」
「貴方が私を大事に思ってくれていた。それはとても嬉しいし、……できるなら、今すぐ抱きつきたいけれど」
後半は小声だったものの、カチューシャはまっすぐに白沢の目を見て言った。
「知っている?私が、貴方をどれだけ想っていたか」
思えば、あの日から。
あの芝生で心地よさそうに眠る彼の、穏やかな情景を目にしたその瞬間から。
そうよ。言ってやる。
この分からず屋に、
この愛しい、夜のような青年に。
「世界中、全てのヒトが貴方を不要と断じても、カチューシャは好きでいてあげるから」
違う。素直になれ、
そう思っても、口から出てくる言葉は意地でも素直に気持ちを伝えない。
「カチューシャが好きだって、言ってるんだから」
おとなしく、受け取りなさい。
「私は、貴方が大好きよ、ヤイチ。」
私たちがどうあれ、これからも頑なに夜は来る。
頑なに夜は来て、美しい蓮の花は閉じてしまうのだろうけど。
太陽が謳えば、花はまた開くのだから。
「そもそも、夜と太陽が会えないなんて誰が決めたの?」
「…………それは」
「貴方の名前に『夜』が入ってるから?それがどうしたっていうのよ。貴方は、『白沢夜一』じゃない」
白沢夜一。
その名前には、夜が確かにいるけれど。
白夜。
それは、太陽と夜が出会う、奇跡のような夜。
「貴方の世界は、他の誰でもないあなたの世界なんだから。貴方の好きに生きればいいわ」
そもそも、誰にも迷惑がかからない生き方なんて出来るはずがないのだし。
「もし貴方が何かに感動して倒れたのなら、このカチューシャが支えてあげる。何かを綺麗だと思ったのなら、好きなだけカチューシャにあれが綺麗なんだって、教えてくれればいい」
綺麗だと思うことの、何が悪いというのか。
貴方のその感情は、誰にも責められるべきものではない。
「それでも、貴方の好きになった人がみんな不幸になって、貴方によって汚されてしまうと信じるのなら。
それに、それを言うなら。
「どっちにしても。……私は、もう貴方に
だから。
「……ちゃんと責任、とってよね」
「……そのセリフは、卑怯だ」
生まれて初めて、
胸を打つ、確かな衝動。
嗚呼、いつか、こんな感情を抱いた記憶がある。
安堵したように、体の力が抜ける。不思議と、今まであった絶望的なまでの恐怖心はなかった。
むしろ、どこか心地いい。
やはり世界は美しいんだと、自信を持ってそう言えるのだから。
圧倒的なまでの眠気の奔流が白沢を襲う。恐怖はない。流されるままに、彼は安眠へ落ちていく。
だが、その前に。
彼の耳に、微かな言葉が届いた。
「いつまでも、待ってるんだから」
ああ、絶対に会いに行く。
「あの場所で」
あの場所へ。
「おやすみ、ヤイチ」
その唇に、再び柔らかいものが押し当てられた。
夢を見た。
綺麗な芝生で、彼女と話している。
俺はいつになく饒舌に、何かを話していた。何を話しているのか、自分でもわからない。
だけど、この上なく幸福だった。
ああ、願わくば、いつまでも。
味わっていたい。浸っていたい。
そうして、伝えたい。
この胸に溢れる、感情を。
陽だまりの君へ。
今日も、君を愛している。