あくる日の夕方。ノンナとカチューシャは白沢の故郷を出発し、プラウダ校学園艦に戻ってきていた。彼女達がプラウダを離れている間も白沢の容態は安定して良好で、後遺症の可能性も低くいつ目を覚ましてもおかしくないという。
「じゃあ、白沢夜一が目を覚まし次第、病院に向かえば良いのね?」
「残念ながら、即面会というわけにはいかないそうです。精神的な負担がかかる可能性があると。自殺未遂ですから、同級生である私達が原因と疑われても仕方ありません」
「……そ。面倒くさいわね、どうにも」
ノンナの言葉に独り言のように返事を返して、カチューシャは大きく伸びをする。
戦車道隊長執務室の大きな椅子。それに沈み込むように座って、カチューシャはノンナやクラーラが調べた情報をまとめたファイルを眺めた。大きなタブレットに映し出された文字列に顔を顰めつつ、カチューシャはノンナの淹れた紅茶を飲むことにする。
「いじめ、ナルコレプシー、家庭内暴力……ほんと、よくもまあここまでボロボロの人間がまともに高校に通えたわね。普通ここまでされたら学校なんて来ないんじゃないのかしら?」
「三年近くアイツを見てきたが、そンな壮絶な過去があるなンて思いもしなかったなァ」
ちょうど机を挟んでカチューシャの反対側で、小此木がプリントアウトされた資料を読みつつ呟いた。用意されているジャムではなく、砂糖を大量に投下して甘くなった紅茶を飲んでいる。意外にも甘党らしい。
その隣で、クラーラは小此木の持つ資料を横から覗き込んだ。その存在を気にも留めず読み進めていく小此木に、ノンナは小さくため息を零す。
「それで、自殺に至った最終的な要因は一体何だったのでしょうか?この資料を読む限りだと、プラウダに入ってからはいじめに遭っているようにも思えませんし……」
「もしいじめがあったンなら、まず俺が気付いてるはずなンだよなァ」
「それに、もし
「じゃア、いじめが原因って線は無いかァ……」
うーん、と四人は頭を抱えた。
彼の過去には常人では想像も出来ないほど凄惨なものがあったのは間違いないが、それからは少なくとも二年以上経っている。今更自殺に踏み切る理由がない。
「ねぇ、あと彼について調べてないことってないのかしら」
「アイツの自殺現場には行ったぞ。警察が捜査しててよく見えなかったけどなァ」
「クラーラからは『運良くすぐ下のテラスに落ちた』と聞きましたが」
「あァ、十メートルも離れてねェくらいの場所に
クラーラの話によると、もし人が学園艦から海面に落ちたとすれば、まず命は助からないという。水面にある程度の高さから落ちれば高飛び込みのプロでも助からないとか。
……笑えねェ話だ。小此木の背に嫌な汗が滲む。
「どうして下を確認しなかったのでしょうね?」
「あァ?」
突然、クラーラが口を開いた。
「まともなら……いや、自殺を考えた時点でまともな精神状態ではないんですけど、それでも飛び降りる下にテラスが無いってことを確認するでしょう」
「……そりゃア、あの日は曇りで暗かったからだろ。まして船の側面なンざ真っ暗だろうさ」
「テラスにも街灯があるんですよ。下を見ればすぐにわかったはずです」
「水面にぶつかるのが怖くて背中から落ちたって可能性はないの?」
「……飛び降り自殺は、本人の力み具合によって落ち方が違います。大抵の人は恐怖からか回転がかかって腰などから落ちることが多いそうなのですが、……彼の落ち方は、完全に脱力した状態で落ちた可能性が高い、とか。死を怖がったとしたら、もっと不自然な形で落下しているはずなのです」
どこから仕入れたンだその情報、……とは、言えなかった。残りの二人が瑣末事と気にしていないのも理由としてはあるが、それよりも『脱力』という言葉が気になったのだ。
「
「でも、昔の彼にはあったのでしょう、ノンナ?」
ええ、まあ、とノンナは珍しく曖昧に頷いた。カチューシャは少し不思議に思ったが、気にしないことにする。まさか、ノンナ本人が彼から睨まれていたとは思うまい。
「確かに、幼い頃……小学生の頃などは非常に活発な少年だったようです。スポーツテストの結果などがそう悪くないのも、基礎が出来ているからでしょう」
そういえば、あの時彼は私を睨みつけていたが、その時にはカタプレキシーらしい症状は見えなかった。
偶々だったのだろうか。それとも、感情が昂ぶっているといえるほどの怒りではなかったのか。
そもそも人の感情に数値があるわけではないのだから、『ここまで感情が昂ぶればカタプレキシーが起こる』などというはっきりとした基準が在るわけでもないのだろう。
「でもよォ、飛び降りた時のアイツは一人だったンだぞ?目撃者だっている、間違いねェ」
「自殺の恐怖、って訳じゃないのよね……」
「うーん、テラスから見えるものなんて星空か真っ暗な海面、あとは町くらいなものですから……」
「クラーラ、あの日は曇りだったはずです。満天の星どころか、星空が見えたかも定かではありません」
「ああ、そうでしたね。申し訳ありません」
その後も会話はそこそこに続くものの、依然として核心に至るものは無い。四人の紅茶はいつの間にか冷めてしまっており、誰も手を出そうとしなかった。
「そもそも、『夜一が何が好きなのか』なンざ聞いたこともねェしなァ……。
クソ、せめてアイツが普段何を見て過ごしてンのかくれェ知ってたンならなァ……!」
ノンナとクラーラが眉を顰める中、小此木が忌々しそうに零した。
その瞬間、これまでしばらく考え込んでいたカチューシャが、突然顔を上げた。
「……それよ」
立ち上がる。外出の準備を手早く済ませ、雪の降る外へ走り出した。
「カチューシャ!?」
「カチューシャ様!?」
「何だァおい、待ちやがれッ!」
その後ろに、三人が走って追いついてくる。突如走り出したカチューシャに面食らいながらも、廊下を並走する。
その光景を見た教師が、触らぬ神に祟り無しとばかりに見て見ぬ振りをした。
「急に走り出しやがって、なンか心当たりでもあったのかッ!?」
怒鳴るように聞いてきた小此木に、負けじとカチューシャは怒鳴り返す。もう既に頭は酸欠状態で息も上がってきてはいたが、その足は少しも失速しない。
「白沢夜一の、家……!昔は、絵を描いてたって、言ってた―――!」
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それは、彼女が彼の祖母から聞いた話だった。
「そういえば、あの子はまだ絵を描いているのですか?」
「絵……?いいえ、そんな話は聞いたこともないわ」
白沢の祖母の問いかけに、カチューシャは首を振った。新しい緑茶が彼女の茶碗に再び満たされた後の話である。
「そうですか。昔は親贔屓を差し引いてなお恐ろしいほどの絵を何気ない様子で描いていたものでしたが」
「……そんなに、上手かったの?」
老婆は頷いた。そうして落雁を上品な所作で口に運ぶ。あの子の祖母としても、私個人としても、あの絵は他に類を見ないほどのものだ、と。
「一度見てもらえればはっきりわかると思います。これが天才か、と。筆舌に尽くしがたい感動が、否応なしに胸に飛び込んでくるのです。
あれほど自身の感情を詰め込める絵を描く人物を、私はあの子以外に知りません」
彼女の話によると、ある時から急に絵を描くようになったらしい。細かい時期は不明だが、ある年の正月に帰ってきていたときは、大人が目を見開くような絵を描くようになっていた、と。
描いた絵にはあまり愛着は無さそうだったにも関わらず、手放そうとはしなかったとか。
「それも、あの子が母親から虐待を受ける前の話ですけれど。それでも、あの人……夫が外に連れ出して絵を描くようになってからはあの子も描くようになりましたよ」
「それ、残ってるの?」
「いいえ、高校入学と同時に彼が持っていってしまいました。キャンバスに描いたものもあれば、スケッチブックに鉛筆で描いたものもありました。それらを一つとして、私達に見せようとはしませんでしたが」
「じゃあ、なんで絵の出来を貴女は知ってるの?」
「時々、絵を描いている途中で眠っていることがあったので。気になって、こっそり見たんですよ」
ああ、でも。
老女は真剣な眼差しになってカチューシャに向き直り、言った。
これは他言無用ですよ、と。
あの子を大切に思ってくれている貴女だから。
あの子が大切に大切に思っているだろう貴女に。
「あの人の……黒極祟彌の、『公孫樹の視野』。あの銀杏の絵は、あの子が描いたものです」
……へ。
「周りの風景、あれはあの子の部屋です。あれはあの人が描きました。
……元々はですね、あの真ん中のキャンバスには、『何も描かれていない』という予定でした。白紙のまま、モノクロのままで完成だったのです」
「……ちょっと、待って。じゃあ、世の中で傑作と騒がれてる、あの銀杏の絵は」
「……あの絵を、見たことがあるのですね」
冗談じゃ、ない。
あの色彩も、あの美麗さも、あの感動も。
人々を捕えて離さない、あの
「あの絵は黒極祟彌が描いたのではなく、白沢夜一という、無名の少年が描いたものなのです」
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「はぁ、はぁ、はぁ……!」
一階部分がやけに広い一軒家の前に到着すると、カチューシャは足を止めた。息も絶え絶え、肩は大きく上下に揺れ、足はガクガクと笑っている。けれどカチューシャは一切歩みを緩めることなく、彼の、白沢夜一の家へ辿り着いた。
「ここが、そうなのですか」
「警察もいませんね。家宅捜査とかしないんでしょうか」
「いや、単にする必要がねェんだろう。目撃者はいるンだし、自殺未遂の本人ももうじき目を覚ますンだ。万一他殺の可能性があったとしても、本人の口から聞けるだろうからなァ」
後ろから、ノンナたちが遅れてやってきた。カチューシャは構わず、ドアノブに手をかける。
思ったとおりの感触がして、顔を顰めた。
「鍵がかかってる……」
もちろん、彼らが鍵を持っているはずもない。
彼らが知るはずもないことだが、その鍵はとうに本人の手から海に放り込まれている。今頃は、海底で沈んでいるだろう。
ドアの前で動きを止めたカチューシャに、小此木は声をかけた。
「鍵か?そればっかりはしょうがねェ、今日のところは諦めるしか」
「ノンナ」
「はい」
ノンナはカチューシャの声に素早くドアの前にしゃがみこむと、何か細い棒状の金属をカチャカチャと動かし始めた。
粗野な言動の割りにルールを結構気にするタイプの小此木は、たまらず口を開いた。
「おい、それってピッキン……」
「はーい、アキラは少し静かにしましょうねー」
だが、その言葉は言い終わる前に途切れた。これ以上小此木が騒がないよう、クラーラが音もなく彼の背後に忍び寄り手を回して口を塞いだのだ。
小此木の身長が高いため、クラーラの体勢は自然と背伸びをして背中に倒れ掛かることになる。
「
「何を言ってるのか大体予想はつきますけど、騒がないでくださいね。静かにしてもらえたら、このままでいてあげますから」
「…………」
「私、アキラのそういう所、嫌いじゃないですよ」
「
二人の微笑ましくも馬鹿馬鹿しいやり取りを気に留めることなく、ノンナは順調にピッキングを進めていく。
さほど時間もかからず、作業は終わりを迎えることとなった。ノンナはぐっと内部の仕掛けを押さえ、そのまま慎重にドアノブを回す。
ドアは、まるで何事もなかったかのように呆気なく開いた。
「開きました、カチューシャ」
「ありがと、ノンナ」
言うや否や、カチューシャは玄関に入った。その後にノンナ、遅れて小此木とクラーラも戸を開ける。
飾り気のない玄関。靴はほとんど置かれておらず、観葉植物なども全くない。
「この家はかつて黒極氏が住んでいたもののようです。それを、彼の入学を機に再利用したものだとか」
ノンナの説明も聞こえないかのようにカチューシャは室内を見て回る。置いてある家具は最低限。がらんとした部屋は、いるだけで空虚な気持ちになる。
それほど潔癖というわけでもないのだろうが、埃すらほとんどない。それも、この生活感のなさの要因だろう。
「二階はほとんど使われてねェみてェだ。埃はねェけど、物もほとんどねェ」
小此木が二階から声を上げる。
「トイレもお風呂も、ほとんど物が置かれてません。洗濯機には衣服がありますけど、数えるほどです。アキラ、男子生徒ってこれだけで日常生活に事足りるんですか?」
「いや、流石に少なすぎるのではないでしょうか…」
ノンナとクラーラもカチューシャに報告する。
カチューシャはそれを聞きながら、リビングルームの本棚を見た。使われているのかもわからない教科書が並んでいるが、その中に一冊だけ異質なものが混じっていた。
古ぼけているように見えて、その傷んだような表面の凹凸はよく見るとただの印刷された模様なだけの背表紙。古めかしい雰囲気を出そうとして、かえって安っぽくなってしまったカバーイラスト。
あまりにも雰囲気に似つかわしくない本。思わず手に取ってしまう。
「ギリシャ神話……?」
「あァ、そりゃア俺があげたヤツだ」
「ひゃっ!?」
突然の声に驚いて振り返ると、いつの間にか二階から降りてきていた小此木が背後にいた。変な声を上げてしまったことに少し顔を赤らめながら、思い切り睨んでみせる。
……が、小此木にはあまり効果はなかったようだ。
「一年くれェ前に、間違えて二冊同じのを買っちまってなァ……アイツ、ちゃンと読ンでンのか?」
カチューシャは手元の本をパラパラと捲る。同じように並んでいた教科書とは違い、何度かじっくりと読んでいるのがわかった。いくつかのページには広げた跡が見られる。
オルフェウス、オデュッセウス、イアソン、ヘラクレス、ペルセウス。神話などには疎いカチューシャでもわかるくらいに有名な英雄から聞いたこともない名前の女神、更にその逸話やエピソードなどが詳細に書かれていた。
「ペルセウスのメドゥサ退治、オデュッセウスの冒険、オルフェウスの最期、ヘラクレスの12の難業……」
こういうのが好きだったのかしら、とカチューシャは首を傾げた。確かに男なら一度は憧れそうな英雄譚だ。だが、どうもイメージに合わない。
そういえば、彼の部屋……彼がおぞましい少年時代を過ごした部屋には、植物に関する本がかなりたくさんあった。彼の祖母によるとそれは彼女の趣味らしく、貸せる本がそれしかなかったのだという。
だが、花や薬草にしてもギリシャ神話にしても、どうも白沢夜一という存在と結びつかない。
「カチューシャ、こっちの部屋は、間取り図によるとアトリエのようです」
「わかった、すぐ行くわ」
ノンナの声に、思考を中断して本を置いた。そうだ、今の目的を忘れてはいけない。
カチューシャは、アトリエに繋がるドアを見た。
アトリエがあるからといって、必ずしも彼が絵を描いているというわけではない。そもそもこのアトリエは彼のものではなく、黒極氏のものだ。
けれど、カチューシャには確信があった。
ドアノブを回す。鍵はかかっていなかった。
ドアを開ける。
つんとくる、絵の具の臭いがする。
カチューシャは構わず、室内に飛び込んだ。
「……な」
固まる。
「うお、こりゃア……」
続いて入ってきた小此木も、息を呑む。ノンナも、クラーラも。息をするのも忘れたかのように、部屋の様相に見入っている。
彼のアトリエには。
大小さまざまなキャンバスや画用紙、スケッチブックが、無秩序ながらも整然と散らばっていた。それは広々としていたはずのアトリエを埋め尽くすほどに多い。ここまで描き続けるのに、どれだけの絵の具や時間が要るのかも分からないほど。
だが、驚くべきはそこではなく。
その全てに描かれた、鮮烈な絵の美しさだ。
鮮烈とは書いたが、全てが鮮やかに彩られているわけではない。スケッチブックなどに目を向ければ、鉛筆や木炭で描かれたであろうものもある。
だが、それすらも『鮮烈』なのだ。色彩の話をしているのではない。
絵を見た瞬間の衝撃が、感動が。
あまりにも、凄烈に過ぎるのだ。
「…………ああ」
ため息も出ない。あまりにも
何が『彼が何を見て過ごしていたか』だろう。そんなもの、見ればわかる。
あまりにも、この絵たちは感動に溢れていた。
『この絵を見た者の感動』ではない。
『この絵を
芸術家には、様々な者がいる。陶芸家、画家、彫刻家、音楽家など、挙げていけばキリがない。
さらに、その画家の中でも様々な主義主張が存在する。それらはそれぞれの絵の特徴にも表れる。
それで言うならば、これらの白沢夜一の作品はいわゆる『印象派』に近い。
印象派とは、1870年代、色彩の視覚的効果をそのままにとらえようとした技法や態度、運動のことだ。モネ、ピサロ、ルノアールらが有名だろう。
この運動の主要な特色は『屋外での制作』『影から黒の追放』『筆触の並列』など、『色彩は光によって生まれる』という考え方に基づいている。描写されたものの輪郭がはっきりとは描かれていないのも、それ故と言えるだろう。
このように言葉で説明するならば、いくらでも説明できる。だが、敢えて『印象派』という存在を噛み砕いて言うならば、『物事から受けた感覚的主観主義的印象をそのまま作品に表現する』芸術と言えるだろう。だが、それは決して写実的なものではない。
物事の外形を丁寧に写すのではなく、瞬間的に受けた印象を直接描写するという芸術上の方法なのだ。
そういう点でのみ言うのならば、彼の絵は間違いなく印象主義的だ。
正しい印象主義ではないし、彼自身そんなことを考えて制作した絵ではないのだろうけれど。
だって、こんなにも。
こんなにも、彼の絵は世界への感動で溢れている。
カチューシャはフラフラと歩いていく。雑然と置かれているようで、大事にされているのが感じ取れる絵画たち。その隙間を縫うようにして出来た細い道を、歩いていく。
その先。
部屋の最奥に在ったのは、一基のイーゼル。
回りこんで、そのキャンバスを覗き込む。
瞬間。息が、止まる。
描かれていたのは、メイド服のような給仕服で、安楽椅子に眠りこける一人の少女。
その安楽椅子は暗くもぼんやりと明るく彩られた室内にある。
少女の胸には、仄かに光を放つが如くに満開の蓮の花が抱かれていた。
たった、それだけ。
なのに、胸を衝く感動がカチューシャに溢れ出す。
世界は、こんなにも美しい。
「う、う……ッ!」
涙が、溢れる。ポタポタと、床に零れ落ちる。
床に置かれたキャンバスや画用紙。描かれているものは様々だ。花や空、校舎や野原に川や池もある。床に落ちただけの鉛筆の絵もあれば、蟻にその身を覆われたセミの絵もある。恐ろしいことに、古ぼけたスケッチブックからは
だが、その全てに表現されているのは、彼がその全てから受けた、唯一つの『印象』だ。
世界は、こんなにも美しい。
「う、ううううう、ぐ…………ぅ!!」
抑えきれずに嗚咽を漏らす。そのあまりの残酷さゆえに、涙が止め処なく溢れる。
つまるところ。
彼はどれだけの迫害を受けても。どれだけの虐遇に遭っても。どれだけ侮辱されようとも。
その全てを、美しいと――――――。
カチューシャの暗涙に気付いたのか、ノンナたちが近寄ってきた。三人とも、思い思いの表情で彼の絵を見ていたようだ。
だが、この少女の絵ほど彼の感動が描かれた作品もない。小此木たちは部屋で唯一イーゼルに立て掛けられた作品に視線を落とし、その表情を凍らせた。
「この絵は、カチューシャ様の……」
「文化祭のとき、でしょうか……」
二人がようやく我に返り、震える口で言葉を発しているとき、既に小此木は射竦めるような目でカチューシャを見ていた。
「カチューシャ。アイツは、夜一は『異常』だ」
震える口で、告げる。
「物事の見方や反応が大多数の人間と違う。自分を痛めつけていた相手を美しいと感動するなンざ、まともじゃアねェ」
カチューシャは無言で小此木の目を見つめた。今は、身長差など構ってはいられない。
「生まれつきの価値観が違ェんだ。アイツは、目に映る全てが美しく見えてンだよ。目に入る全てが、感じられる全てが、この世界の全てが!」
悲痛に叫ぶ。
そんなわけがない、とは誰も言えなかった。この部屋が、この部屋にある全ての作品が、彼の全てを表しているのだから。全く同じ考えを彼の絵を見た全員が考えるほどに、訴えかけているモノは直情的なのだから。
芸術を解するセンスがあろうがなかろうが、無関係に無差別に人に自身の感動を叩きつける、これらの絵の全てが、彼のただ一つの感情を表現しているのだから。
「蓮の、花……」
クラーラが、ポツリと呟いた。涙でいっぱいになった目を見開いて、カチューシャが振り返る。
キャンバスの端。普通に見れば気付かないだろう場所に、刻み込むようにして書かれた文字を、クラーラは見つけてしまった。
「Lotus……」
それは、この絵の題名であり。
彼の、偽りならざる真実だった。
「蓮の花が、なんだって言うのよ」
カチューシャが溢れる涙も拭わずにクラーラに詰め寄った。クラーラは、彼女にしては珍しく毅然とした態度でカチューシャに向かい合う。
「カチューシャ。蓮の花言葉を、知っていますか」
いつもと違うクラーラに、泣き腫らして弱りきったカチューシャはたじろいだ。
「なに……?知らないわよ、そんなの……」
「そうですか。では、お教えしましょう」
いつか小此木に教えたときのように、クラーラはカチューシャに伝える。
蓮の花言葉を。
彼にとっての、『Lotus』を。
曰く、蓮の花言葉は。
『神聖』『休養』『清らかな心』『雄弁』。
『救ってください』。
「う、う、あああ……!」
カチューシャは今度こそ、声を上げて泣き出した。
『離れ行く愛』。絵の中で、あれほど穏やかに満開に咲いている蓮。彼はあの花を、散るものとして描いてはいないだろう。
彼が描いたのは、きっと。
決して散ることの無い。
カチューシャに咲く『Lotus』だ。
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カチューシャが泣き疲れて眠ってしまったため、仕方なくノンナは白沢のベッドに彼女を運ぶことにした。
その後、三人で白沢の絵を物色する。彼の自殺の要因を知るために。
……もしかすると、これらの絵には芸術的にとんでもない価値がつくかもしれないため、作業はゴム手袋を
「全ての絵に、日付と名前がついていますね」
「変に律儀だなァ、こういうとこでよォ」
まずは手前側の通路に近いもの、最近描かれたものを見ていく。常識的に考えれば、自殺の要因を探るのにもっとも可能性が高いものだからだ。
だが、作業は難航する。絵を一目見るだけで、心を奪われ放心状態になってしまうからだ。なんとか作業を行いつつ、作品に見惚れないように互いに言葉を交わし続ける。
「カチューシャ様と彼が出会ったのは……いつ頃でしたっけ、ノンナ?」
「詳しくは分かりませんが、初めて話したのは六月下旬だったと思います」
「6月……それ以降に描かれた作品は、完成するまでの間隔が短くなってますね。何のために描いていたのかはわかりませんが、この完成度をこの速度で描き上げ続けるなんてまともじゃないですよ」
そんなとき、小此木が一際大きなキャンバスを抱えて目を見開いた。
「……!おい、クラーラ。この絵、カチューシャだ!
……いけねェ、何枚見ても泣きそうになっちまう」
その絵は、一際大きく一際輝いていた。日付は6月24日。芝生に寝転がって笑うカチューシャの表情と、鮮明に描写された『彼』の喜びが心の奥底を震わせる。
「アキラ、題名は!?」
「ん?えーっと……『
その言葉を聞いた途端、二人の表情が曇った。その表情は、絵を見てさら深刻なものへと変わる。
まるで、予想だにしなかったことが起こってしまったかのように。
「……クラーラ、これは、まさか」
「……アキラ。もしかして、カチューシャ様はシラサワさんに『ソーンツェ』と呼ばれていたのですか……?」
「ん?俺ァそう聞いたが」
微かに震えた声に、なんでもないように返す。
それは、思えば知らなかったことだ。
小此木は知らない。
カチューシャは、彼のことを何と呼んでいたか。
ノンナは、クラーラは知らない。
彼は、カチューシャのことを何と呼んでいたか。
「……では、彼がカチューシャ様からは『
「……は?『
「まさかアイツ、